熱帯夜

12

「あんたがに執着し始めたのは保育園の頃からだもの」
が他の男の子と遊ぶと引き離すんだって、よく言われたよ」
「保育士さんたちは微笑ましく思ってたみたいだけど、私たちは笑うに笑えない」

保育園時代からを可愛く思ってきたことは記憶にある。だが、それが大人の目から見てどの程度だったのかということはもちろん記憶にない。透は今更ながらふたりの言葉に照れの恥ずかしさと不安で気分が悪くなってきた。目眩がしそうだ。

「だけど……ああこの子はのことが好きなんだなと気付いたのはもっと後だ」
「かと思えばの方もお兄ちゃんに対して兄以上の感情を持ってる、ってね」
……嫌だなって思わなかったの?」
……順を追って説明するよ」

どうやら頭ごなしに怒られるわけではなさそうだが、それはそれで一体どう転ぶのかわからなくて怖くなってしまったは、テーブルの下で透の手をギュッと握り締め、震えた声を出した。それにも答えてくれるようだが、さて……

「透が養子だってことは隠しようがないから、身内には隠さなかった。だからツネ子おばさんも知ってたんだけど、引き取った以上はふたりを分け隔てなく育てたかったから、透とには何も言わないでほしいって頼んだんだ。そしたら今度は『人の子と自分の子を本当に区別せずに愛せるの?』って何度もしかめっ面で言われ始めて」

しかもそれは答えの出ない詰問だ。「愛せるの?」と言ったところで、透を引き取ることになってしまった以上はやるしかないのだし、結果は遠い未来にしか存在しないし、自信たっぷりに「愛せます」と言えば「口だけならいくらでも言える」と返されたろうし、自信なさげに「わからない」と言えば「そんな覚悟で子育てなんか出来ると思ってるのか」と叱責されるだけだ。

「それ、なんて答えたの」
「手探りで24時間努力してる、って答えるしかなかった」
「実際そうだったしね。もうのんびり悩んでる暇もなかったわよ」

そこで母親は長く息を吐くと、また肩を落として疲れた顔で微笑んだ。

「先に言っとくわね。透、養子縁組の解消、していいからね」
「えっ」
「こんなこと知られたらまた色々言われそうだけど、どうせみんな老い先短いんだからいいわよ」

ということは、父と母にあれこれ心ない言葉を浴びせかけてきたのは祖母から上の代の人々なのだろうか。透は結論が先に出てきてしまったので咄嗟に返事ができなかった。

……初めての妊娠と並行して1歳にもならない子供の子育てなんて、そりゃもう大変なんてもんじゃなかった。年子は大変、てのはまあ想像がつくけど、でもそれって最初の妊娠のときにはまだ子供いないじゃない? 私たちはいきなり乳児抱えて出産、正直言って、何度も心が折れたわよ。どうせ不妊体質だと思ったから引き取ったのに、こんなことになるなら引き取らなきゃよかったって、何度も思った。それは事実。何度も何度も思った。思いたくなくても、思ってた」

それも、想像に難くない。透とは何も言わずに繋いだ手に力を込めた。

「それに、そうやって身内が『ちゃんと育てられるのか』ってプレッシャーかけてくるだろ。正直、オレたちは『うるさい、出来る、絶対やってやるからな』っていう、まあ言わば負けず嫌いに気持ちが転化していっちゃったんだな。今お母さんが言ったみたいに『引き取らなきゃよかった』と思ってしまっては後悔して、余計にふたりに対してきっちり平等でなければいけない、どちらかだけに何かが偏ることがあってはならない、って、そればかり考えるようになっちゃってな」

確かに……と透とは記憶を辿る。例えば透がミニバスに入団することになればは英会話教室に通わせてもらえたし、生活や教育に関することは特に「公平」だった。お兄ちゃんだけ、だけ、という偏りを感じたことはなかった。

「そういう不安定さは、ずっと抱えてきたのよ、私たちも。ずっと何が正しいのかわからなかった。だから、正直、あんたたちふたりに対しては平等でなければと思うあまり、本当に心で接して愛してこれたのかと言われると、自信がないのが正直なところなの。私たちがあんたたちにかけてきた思いが愛情だったかどうか、自分ではよくわからない」

まして「愛情」に定義はなく、欧米のように家族間で「愛してる」を連呼するような文化でもなく、言葉だけが仮面のように張り付いていた。

「だから、あんたが花形に戻りたいと思うなら、それでいいと思う。あんたが家族じゃなくなることに対して悲しむ気持ちはないのか、やっぱり愛情はなかったのか、って言われそうだけど、だけど、ねえ、関係がギスギスしてうまく行かなくなって、一緒にいるのが嫌だからこんな話になってるのと違うでしょう? あんたたちが兄妹の枠に収まりきらない気持ちを抱えて我慢してるのも知ってたし」

そして父親はホールドアップのように両手を上げると、言った。

「すまんな透、正直、肩の荷が下りたよ。オレたち親子3人との関わり方、そういうものをお前は自分で選び取ってくれた。オレたちが試行錯誤しながら結論の出ない不安定さを抱え続けてきたことを、今ここで断ち切ってくれたんだ。これ、厄介払いで突き放しているように聞こえるか?」

透は首を振った。まさかそんなわけはない。望んでいた結末なのだし、「育ててもらった恩も忘れてをたぶらかすなんて親不孝者め」と罵られる方が確率が高いと思っていたのだ。

「花形さんと話してきたということは、話がついてるんだろう?」
……ああ、大学4年間も、引き受けてくれるって」
「花形さんとこは代々医者で裕福だしなあ」
「どっちにしろもうこの家には戻らないんだしね」
「そうなんだよな。高校で家を出たときから、そうなるだろうとは思ってたんだけど」

なんだか拍子抜けしてしまいそうなほど話がスムーズに進む。なので逆に不安になってきた。こんなに簡単に片付いていいのだろうか。何年も苦しんできたことの答えがこんなサラッと出てしまっていいんだろうか。そんな透の表情を読み取ったか、父親はまたホールドアップのように両手を上げた。

「いいか透、オレたちは何もお前がこの家を出たいと思ってくれたら……なんてことを考えてたわけじゃない。ただ、オレたちがお前らふたりの思いに確信を持ったのは透が家を出ると決めたときのことだ。それから何度も話した。正直、つい先週も話したばかりだ」

透の卒業と進学が迫っていたので、余計に子供ふたりの将来についてをつらつら語り合う回数は増えていた。だから急にこんな話を持ち出されてもすぐに答えられた。

「それが他人から見ておかしなものであっても、オレとお母さんにはお前への愛情がある。後悔もしたし心も折れたし苦労もしたけど、お前のことを嫌だなと思ったことは一度もない。だけどお前がを思ってる以上は、この家族という繋がりがお前を苦しめるんだ。だからそれを解消したいと望む気持ちはわかるし、汲んでやりたい。それがまずひとつだ」

すると今度は母親の方が後を引き取って口を開いた。

「それから……こんなこと考え過ぎなのかもしれないけど、もしあんたたちがね、もうあんな小さい頃からずっとお互いのことしか見えてないあんたたちがこのまま大人になったら、その時こそ私たちは本当の家族になれるんじゃないかなって、思うのよ」

優しげに微笑んでいた母親の左目から、ひとしずく涙がこぼれた。

「不安定なのはもう終わりにしたい。透とも、とも、もっとずっと気楽に、心に重いものがない状態で向き合いたいの。それに、戸籍から名前が消えるくらい、何だって言うの。戸籍が同じじゃなくたって、私たちが十数年一緒に暮らしてきた過去は消えないでしょ」

そして彼女は手を伸ばし、透の手をぎゅっと握り締めた。

「いってらっしゃい、透。花形さんともいい時間を過ごして。あんたの場合は心配ないと思うけど、勉強もしっかりやって、かっこいい大人になりなさいね。そしてちゃんとを貰いに来るのよ。その時は、その時になったら、もう一度、私たちをお父さんとお母さんて、呼んで……!」

透と、と、父と母。不安定でいびつで迷うばかりの家族だったかもしれない。だが、本当の「家族」になるために、今は殻を破り、その家族を壊そう。透は母の手を握り返すとしっかり頷き、涙の伝う頬を歪めて笑った。

「ありがとう。いってきます」

それから春までの間に透は養子縁組を解消し、花形家に戻った。退寮してからは祖父のいる白バラ邸に暮らし、そこからまた大学の寮に入った。

祖父である征夫氏は、祖父とは言うものの、26歳で息子を授かり、50歳で孫を授かった人なので、まだ68歳。ガンを患った年齢がだいぶ若かったので、そこは危ない橋を渡ったそうだが、地道に養生を続けたことで無事に生き永らえ、現在は特に悪いところもなく、仕事もしているとのこと。

なのでずっと離れて暮らしてきた孫との時間が何より楽しみになり、一旦は学生寮に入れたものの、それでは好きな時に会えないと思ったか、途中でアパートを借りて寮を出ろと言い出し、透は夏頃には大学から2駅ほどの町に居を構えることになった。

以来征夫氏は週に一度は透の住む町までやってきては、アパートでじっくり語り、その後食事をして帰る、という休日を過ごすようになった。

そこにが交じることになったのは、やはり夏の頃だった。

透からすっかり事情を聞いた征夫氏は、最初こそ面食らって反応が鈍かったのだが、それを一旦持ち帰り一週間、それならおじいちゃんもその家族の中に混ぜてほしいと照れくさそうに言い出した。そんなわけでまずはからである。

引き合わされてすぐは緊張で戸惑っていたと征夫氏だったが、一緒に透の試合観戦をするようになって以後はすっかり仲良くなってしまった。しかも、やれ今日の試合はイマイチだの気を抜くなだの、ちょっと小うるさくなった。本人たちは「小言を言いたくなるファン心理」だと言い張る。

そんな風に透たちが新たな生活を送っていた、8月のことである。

征夫氏の意向で都内の小奇麗なアパート住まいとなった透は、夏休みに入ってしょっちゅう遊びにやってくるとふたりで過ごしていた。透は日中基本部活でいないわけだが、その間は課題に手を付けたりして過ごしつつ、夜になるといつかのようにくっついていた。

そんなある日、透がアパートに帰ると、遠慮なく薄着で床に転がるが携帯で誰かと話をしていた。長くなりそうなのでそのままシャワーを浴びてきた透は、すっかり汗を流して水分補給をすると、ベッドに転がるを後ろからゆるりと抱き締めて目を閉じた。

「あ、透帰ってきたよ。話す?」
「え?」
「お父さん」

首を捻って後ろを向いたは、ひょいと携帯を差し出した。養子縁組を解消したと言っても、それをきっかけに疎遠になったわけではない。征夫氏も交えてみんなで食事をしたこともあるし、父親が仕事で近くまで来たからと泊まっていったこともある。

なので透は何のためらいもなく携帯に手を伸ばしたのだが、

「ツネ子おばさん、具合悪いんだって」

という言葉に一瞬息を止めた。

……もしもし」
「おお、おかえり。そうなんだよ、あんまり良くないみたいだな」
「病気?」
「あちこちガタが来てるみたいだな。ま、不摂生してきただろうし」
「具合悪いって、死にそうなのか?」
「そこまではっきり余命宣告受けるような状態じゃないらしいけど、年だからな」

しかも盛夏の折、独り身のツネ子おばさんは体が弱ってしまっているので、先週から入院しているという。彼女はの祖母の姉にあたり、祖母に比べるとだいぶ年上だ。大病はしなかったというが、厳しい季節が堪えているのかもしれない。

「今週末にオレだけ見舞いに行ってこようかと思っててさ」
……嫌な思い、しないか? オレのことも知られてるだろ」
「まあもう聞き納めだと思えば、何を言われてもという気はするよ」

透が養子縁組を解消した際は、父方母方どちらからも「ほら見なさい、結局破綻したじゃないの。自分の子がいてさらに養子なんてうまくいくわけないって散々言ったじゃないの」という説教がいくつも届いた。その上さらにツネ子おばさんに直接会いに行くとなると、何を言われることやら。

しかし父親はそれを鼻で笑っている。平気なんだろうか。

「ていうかその見舞いの帰りに寄っていいか? 暑いから休憩して帰りたい」
「わかった。にいてもらうから、鍵開けてもらって」
「すまんな。夜は飯食いに行こう」

そんなやり取りで通話を終えた透は、に携帯を返すとそのままぎゅっと抱きついた。真新しいエアコンが吐き出す冷風に冷やされたの肌が気持ちいい。そしていい匂い。

……ツネ子おばさんと話したいんじゃないの」
「でも、何を話すって言うんだよ」
「言いたいこと、あるんじゃないの?」
……たぶん」

ツネ子おばさんの一言がきっかけとなって透はと血縁がないことを知り、子供ながらにそれが「兄妹じゃないから結婚できる」ことでもあると考えるあまり、妹への恋心を加速させるに至る。

ツネ子おばさんは意地悪で嘘つきで嫌味な嫌われ者だが、その悪意しかない一言が透と家族の間に楔を打って壊し、結果的には透にとって良い結末となった。学校もプライベートも多忙ながら充実していて、何よりと公然とカップルになれたことは今でも天に昇るほどの幸福でもある。

しかしだからといって、彼女に礼を言いたいわけでもない。ツネ子おばさんが内緒にしていなければならないはずの秘密を透に教えてしまったことは、純粋な悪意から来るものだ。透やや、その両親や、そういう人々を困らせてやろうと考えてやったことでしかない。礼を言うことではない。

だから、どうしても話したい何かの話題があるわけじゃない。透が養子縁組を解消したことは当然知っているわけだし、父でなくとも何を言われるかわかったものではない。けれど、どうしてだろう。自分が養子を経て花形に戻り、いつかと一緒になることで家族に戻るためには、ツネ子おばさんと話しておかなければならないと思った。

彼女と一対一で話して初めて、透の「花形透」としての人生は再出発できる。そんな気がした。

「一緒に行ってあげようか?」
「腹が立つこと言われるぞ」
「でも私、一昨年の夏休みに会ったきりだよ」
「それでも一番心に刺さる嫌味を思いつくのがあの人なんだよ」

頭を撫でてくれるの優しい香りに鼻腔をくすぐられながら透は笑った。

「ただ……オレの転機になったことは間違いがないから」

人生の転機となった、その存在が消えてしまう前に。

父親が見舞いに行って散々な言われ方をして帰った、その翌週。平日の見舞い時間は19時までだと言うので、透は練習を早退させてもらい、ツネ子おばさんが入院しているという病院へと向かった。