熱帯夜

9

「ええとその、初めてじゃない」
「だろうね」
「えっ、気付いてたの」
「気付いてたっていうか、まあほら、この間のキスで色々察した」

帰宅後、再度部屋を冷やし、シャワーを浴びたふたりは細長いベッドの上に座って戯れていた。時間はたっぷりあるし、寮はほとんど人がいなくて静まり返っているし、透の方にも焦る気持ちはなかった。に唇を寄せて肌に触れるだけでも気持ちがいい。

「寮に入って、のいない環境で別の女を見てたら忘れられると思ったんだよ」
「逆効果っていうんじゃないの、そういうの」
「返す言葉もありません」
「もう、私の方がいいに決まってるのに。そうやって体だけ浮気するから余計に苦しむんだよ」
「ストレスで何度も吐いた」

は笑いながら透の頭を抱え込み、ふんと鼻で笑う。誰と何度寝たか知らないが、彼の心が変わらなかったことは容易に想像がつく。そういうことが出来る性分ではないからだ。無情にも体は勝手に反応するので行為自体は成立するし、だからこそ余計に心が傷ついた。

「もう他の女の子とこういうことしたらダメだよ。透は私のものだからね」
「しないしない。ももう他の男と遊ぶとか、ダメだからな」
「私は体育館の脇で告られただけで、誰とも一度も遊んだことないんですけどね」

透はまたがっくりと頭を落としての首筋に吸い付く。耳たぶを唇で挟むと、濃厚なの匂いがして下っ腹が疼いた。なんていい匂いなんだろう。昔はこんな匂いしなかったはずだけど、よく知ってるような気もする。気持ちが落ち着くのに心が疼く香りだ。

透のゆったりとした優しい愛撫に、はうっとりとため息を漏らす。

「絶対こんなこと無理だと思ってた。私一生キスもエッチもしないと思ってた」
「他の男と付き合ってみようかなとか、考えたこともなかったのか」
「その辺は男の子とは違うよ。少なくとも私は無理だった。なんかちょっと、気持ち悪い気がするから」

シャワーのあとは巨大なTシャツを借りて着ているの胸に、透の手が伸びる。なにぶんその手も巨大なので、すっかり膨らんだの胸でも包み込めないのではあるが、指先でするりと撫でさするとふにゃりと形を変え、はまた切ない吐息を漏らした。

……去年授業で、近親交配がなんでダメなのかって話になったの」
「聞くと納得できるよな」
「そこで、思春期を過ぎた女の子が父親に嫌悪感を抱くのは普通のことだって聞いて」

ごくごく近親の異性に不快感を感じるのは、近親交配を防ぐための本能による防御反応である。だからお父さんはクサい。それで正しいのである。

「だけどその理屈で言ったら、同じように近い異性の兄弟も同じことなんじゃないのかなって思って、だけど今もそうだけど、透にはそういうの全然なくて、むしろくっついてるの好きだったし、嫌な匂いもしないし、それってやっぱり私たちが血が繋がってないってことなんだろうなって」

心は迷ってばかりでも、五感はいつも透を求めていた。

「小学校の時さ、巨大なマンション住みの子がいっぱいいたでしょ。その中の子と今でも仲いいんだけど、最近同じマンション住みの幼馴染と付き合い始めたの。マンションの中にあるキッズルームで2歳の時に知り合って以来、幼稚園から中学までずーっと一緒。私たち、その子たちと同じなのにね」

彼らは誰にも咎められない。自分たちは白い目で見られる。理不尽だ。透はTシャツの裾から手を差し込み、の肌に直接触れる。こんなことも、同じマンションの幼馴染なら誰にも文句を言われなかっただろうに。

……探し始めようと思う」
「えっ、何を?」
「オレの親がどうなったのかを」

はデスクの上に置いてある戸籍謄本にちらりと目をやる。確かに名前は判明しているが、しかし養子を取るという事態は現代では稀な例になりつつあるだろうし、つまりそれだけ複雑な事情も絡んでくるのでは。そう簡単に見つかるかどうか……

「もし見つかったらどうするの?」
……生きてはいないと思うんだ」
「だから養子に出された?」
「両親とも名前があっただろ。母親の名前だけなら父親が認知もせずに生きてる可能性はあるけど」

戸籍謄本の透の欄には、花形という名字の男女の名があった。つまり、両親は結婚をして息子を授かった夫婦であったはずなのだ。しかし現在のところ透はなんの説明もなく養子になっているし、それはつまり、花形の両親は透を養育できない状態になってしまったから……と考えるのが自然だろう。

事務的な話になってしまって気が逸れたふたりは顔を上げて手を繋いだ。透の出自を明らかにすることは、ふたりにとって希望でもある。他人であることが証明され、戸籍上の兄妹関係が解消できれば、いつか幼い頃に夢見た結婚も不可能ではない。

「そしたら、ふたりにそれを話すの?」
……ああ。お前と他人になりたいんだ、どうしても」
……怒るかな」
「それはどうだろうな。嫌な思いをさせることには違いないと思うけど」

ふたりが愛し合い、そしてそれを「合法」な関係にするためには、「両親」との関係を壊さねばならない。実はふたりが透のことを血を分けた息子ではないとして内心疎んじていたとか、そんな風にうまく事が運べばいいが、もし心の底から本当の子供のように思って慈しんできたとしたら――

これから幸せな気持ちで愛し合おうと思っていたのに、すっかりどんよりと気持ちが落ち込んでしまった。は背筋を伸ばすと、透の頬を両手で包み込んで引き寄せ、ニヤリと笑ってみせる。長い前髪の隙間からメガネのない目が見え隠れしている。

「じゃあ駆け落ちしよっか?」
「それもいいな。オレたちのことを誰も知らないところに逃避行」
「ドラマみたい。お互いのことしか見えなくて、夢中になって」
……今でもそうだよ。のことしか見えない」

軌道修正したくて冗談を挟んだつもりのは、透の真剣な眼差しにウッと詰まり、勢い照れた。こんな至近距離でそんな甘ったるいこと真顔で言わないでよ。

「嘘じゃない、わかってるだろ。本気で、好きなんだよ」

今にも唇が触れそうな距離で、透は訴えかけるように囁く。もそれは疑ってない。

……よく言われるよな。お前らは将来のことなんか何も考えてなくて、目の前のことにすぐ夢中になって、本当に大事なことを見極めようとしないって。だけど本当に大事なことって何だよ。何が大事かってことを決めるのは自分自身だろ。自分の気持ちを押し込めて世間様に遠慮して生きていけば必ず幸せになれるのか? そんなの嘘だ」

だが、どういうわけか大人という生き物は「若い君たちに教えておいてあげよう」と親切な言葉で自身が残した至極個人的な後悔を一般論のように言うものなのである。透にはそういう「善意の助言」がどうしても信じられなかった。

誰でも言うだろう。君たちはまだ10代、そういう頃の恋愛は頭に血が上りやすいんだよ。学生で暇な時はいいけど、社会に出て大人になったらまた考え方は変わるもの。あとで後悔しても取り返しがつかないんだから、年寄りの言うことは聞いておくものだよ。

決まってもいないオレたちの未来を人質に勝手なことを言うな!

……のいない将来なんかいらない」

若くて血の気の多い10代の気の迷い? バカを言うな、オレがを愛し始めたのはもう10年以上前のことだ。良いところも悪いところも誰よりよく知ってる。そういうもの全部ひっくるめて好きなんだよ。何年も消そうとしたのに、この気持ちを殺そうとしたのに、なくならなかったんだ。

透の声は落ち着いている。しかしその表情は苦しみに歪んでいて、は彼の頭をそっと撫でた。

「ねえ透、そういう、世間が言うような『正しい道』を選んでも、将来のことなんか何も考えないで目の前のことに夢中になっても、私たちの選んだことって、結局どっちも苦しいよね。だったら、同じ苦しいなら、自分たちの心に従った方が傷つかなくて済むと、私は思う」

もう既に境界線は越えてしまっている。部屋に帰り、ドアの鍵は閉めてしまった。何度も唇を重ね、好きだと囁き、もうふたりの間にはTシャツ1枚と下着くらいしか残されていない。は透の肩を押して身を引くと、そのままTシャツを脱いだ。スタンドライトの明かりだけの部屋に、の肌がぼんやりと白く浮かび上がる。

「だから、もう考えるのやめよ。透、きて」

透はが伸ばした手を取ると、一度引き寄せて抱え込んでからベッドに押し倒した。

エアコンで冷やされた部屋の窓の向こう、8月の熱帯夜にオレンジ色の月が浮かんでいた。

真夏の夜は短い。ふたりが疲れ果てて眠りに落ちたのは深夜のことだったが、それから間もなく空は白み始め、5時を過ぎると雲の隙間は青く染まり始める。それを追いかけるようにして燃え盛る太陽が登ると、また厳しい暑さの夏の1日が始まる。

だが、透もも、エアコンで適度に冷やされた部屋の狭いベッドでぐっすりと眠り込んでおり、昼頃まで目覚めなかった。寮は帰省で人が少なく、そのせいもあってか透の携帯は静まり返っていて、は電源を落としていた。

先に目が覚めたのは透で、妙な息苦しさを感じて目を開くと、腹の上に生白い足が1本乗っていた。

一瞬、もう誰も連れ込まないと決めたのに誰だ……と思ったが、その足の主がであることを思い出すと、すぐに寝返りを打って、その隣で半裸で寝ている女の体に絡みついた。エアコンを付けっぱなしにしているというのに、昨晩の汗の名残が肌をしっとりと潤わせていて、優しい香りを放っている。

……何時?」
「たぶん、昼頃」
「喉乾いた」
「待ってな、今水持って来る」

透はベッドを出て冷蔵庫からよく冷えたペットボトルを取ってくる。キャップをひねってに手渡すと、彼女は肩を起こしただけの姿勢でごくごくと水を飲んだ。

……今日は何か予定、あるの?」
「いや、特に何も。出来るだけ課題片付けようと思ってただけ」
「そっか。じゃあ今日も泊まってっていい?」

差し出されたペットボトルを受け取り、一気に飲み干した透は頷いて、体を起こしたを横からゆったりと抱き締めた。むしろ泊まっていってほしい。

「じゃあ、ひとまず一緒にシャワー入ろうか。10年ぶりに」
「じゃシャワー入ったら私は二度寝、透は課題ね」
……オレも寝る」
「休み短いんだから有効に使わなきゃダメだよ」
「だったらが寝なきゃいいだろ。せっかくふたりっきりなのに」
「運動部の体力に一晩付き合った一般人の身にもなりなさい」

透は渋ったが、は取り合わない。ふたりで狭いシャワーに入ってまたいちゃついたけれど、は宣言通りコロッと二度寝。透は仕方なく課題に手を付けたのだが、頭が働かない。手も動かない。要するに、やる気が出ない。こんなことは初めてだった。

だが、10年も思い続けた相手と初めて枕を交わした翌日である。そのくらいいいじゃないか、と結局の隣に無理矢理潜り込み、寝た。

「あのねえ、私はいいけど透は昼夜逆転したら休み明けつらいでしょ?」
「いいよそのくらい……なんとか調整するから」
「もう、小学生の頃はそういうだらしないことしない子だったのに」
に関することは別」

結局ふたりが目覚めたのは昨日同様日が暮れてしまったあとで、課題もやらずに一緒に寝ていた透はに怒られた。そしてまた手を繋いで街に繰り出してきたところである。部屋の中にこもっていてもいいのだが、長く抑圧されてきたふたりにとって、自分たちが兄妹だと知る人のない街を歩けるということは、何しろ嬉しいことなのである。

だが、昨夜夜風に吹かれながら決意を共にした橋に差し掛かったところで、声をかけられた。

「よー、花形! お前また帰省しなかったの?」
「えっ!?」

透が顔を上げると、翔陽に通う同学年の男子生徒が自転車を押していた。焦った透はつい繋いでいた手を離し、を背中に隠そうとしたのだが、既にしっかりと見られていて、その男子は「おっ」と目を丸くした。

「わ、すまん。彼女と一緒だったのか。彼女さん、ごめんね」
「い、いいえ、そんな」
「てかなに、彼女作らない主義撤回したの?」
「ま、まあそんなところ」
「翔陽の子……じゃないよな?」

人懐っこくて明るい性格らしい彼は、悪意のない目でにこにこと話しかけてくる。どうしたものかと冷や汗をかく思いのだったが、また透に手を繋がれたので、彼を見上げた。透は今まで十数年一緒に暮らしてきて初めて見るような、穏やかで優しげな、しかし強い意志を感じる表情をしていた。

「ああ、違うよ。音羽東」
「うっわ、まじか! ふたりで平均偏差値いくつよ。分けてほしい〜」

どうやら彼は予備校の帰りだったらしい。透といえば、部活ばっかりやってたくせに予選で負けたらサラッと学年1位とかいう頭脳の持ち主。一方の通う音羽東は超難関校ではないものの、翔陽よりは10近く偏差値が高い進学校。受験生である彼は本気で羨ましがっていた。

そして少し自転車を進めて立ち去ろうとしつつ、にんまりと目を細めた。

「ふぅん、でもなんか雰囲気変わったな、お前。彼女さんのおかげか?」
……そういうことにしとく」
「彼女さん、こいつほんとずっと刺々しかったんだよ。でも今そういうのなくなったな」
……そうですね」

もついニタリと笑った。じゃあな、とすれ違っていく彼を見送ったふたりは、ちょっと顔を見合わせて笑うと、また手を繋いで歩き出した。川面を滑る風が肌を撫でていく。

「どうしよう、大声で叫びたいくらい、嬉しい」
「いいよ、叫んでも」
「なんて言えばいいのかわからない」
「それもそうだな」

自転車の彼は「彼女さん」をどう思っただろう。音羽東に通う彼女、という透の説明以上のことを考えただろうか。よしんば考えたとしても、いつから付き合ってるんだろうとか、これからどこ行くんだろうとか、またはもうキスしたのかな、その先は、程度のことしか考えないのではなかろうか。

あの子、もしかして妹だったりして――などということを、考えるだろうか。

やたらと背が高いのですぐに分かる同級生を見かけたので声をかけた。そうしたら傍らに女の子がいて、手を繋いでいた。あ、彼女と一緒だったのか、悪いことしちゃったな。だけど彼女作らない主義のはずのお前がどうしたよ! それしか考えていなかったはずだ。

「私が透を好きなことは、世界中のほとんどの人にとって、どうでもいいこと」

は透の腕に寄り添い、繋いだ手にもう片方の手を重ねた。

「私は翔陽バスケ部副部長の彼女で、音羽東の2年。ただそれだけ」
「それだけが、遠かったな」
「だから嬉しい。死ぬほど幸せ。私この夏のこと、一生忘れない」

例えいつかこの日のことを後悔したのだとしても、この先の未来が永遠に苦痛が伴うものであろうと、幸せの記憶は消えない。ふたりに刻みつけられた至福の時はどんな苦しみが隣にあろうと、ずっと変わらず幸せなものであり続けるだろう。

このまま時が止まればいいのに、なんていう陳腐な言葉が今は胸を締め付ける。

「透、やっぱり課題やらなくていいよ。そんなことより今は私と24時間一緒にいて」

目覚めていても、夢の中でも。