熱帯夜

10

例の曾祖母宅に一泊、そこからさらに奥多摩まで足を伸ばして2泊してくるという親たちのスケジュールに合わせては3泊して帰っていった。その間透は一切課題に手を付けず、の要望通り24時間一緒に過ごした。

幸い部屋に引き入れていることは寮生の誰にも目撃されることなく、はなんの痕跡も残さずに帰っていった。おそらくふたりを目撃したのはあの自転車男子だけのはずだ。

なので透は何食わぬ顔をして残りの休みを過ごし、数日後にはしれっと部活に復帰した。あの自転車男子から話が広がって彼女がいることがバレている、なんていうこともなく、何もかも特に変化なし。

それに安堵した透は8月下旬のある日、机に向かって戸籍謄本を眺めていた。

傍らにはノートパソコン。進学を機に新しいパソコンを買ってもらうことになった先輩から2万で譲り受けたものだ。寮内はブロードバンド環境が整っていて、寮生であれば無料で使える。

そこで両親の名を検索してみようと思ったのだ。

もちろんただ名前を検索してみたところで、透という名の男の子を残してどうなりました、なんていう直球な説明が出てくるとは思っていない。ただもし父でも母でも存命でいたなら、引っかかる可能性はゼロではない。

恐る恐る父親のフルネームを入れてみる。ヒットなし。母親も入れてみる。なし。

まあわかってたことだけど……と気が抜けたその時だった。検索エンジンは検索ワードを姓名と判断、適切なところで分断し、名字に当たる部分だけ拾ってヒットしたページを並べていた。それをスクロールしていた透の目に、見慣れた文字が並んで飛び込んできた。

「花形征夫」という名前のあとにカッコが括られていて、その中には透が育った街の住所があった。

見ればどうやら医療系の学会の資料のようだ。透は素早くタイトルをクリックしてpdf文書を開いてみる。書いてある内容はよくわからないが、察するに記載されている氏名は全て医師のものであり、カッコの中身はそれぞれが勤務ないしは開業している病院の所在地らしい。

うちの近所に花形なんていう病院はなかったはずだし、大きな総合病院はオレが中学に入った時に移転で駅の向こうに出来たはずだ。それまでは隣の駅にしかなかった。そこはもう住所が違う。

どういう意味なのかわからないが、とにかく花形という名字を持つ人が、自分の育った町と関わりがある。それだけは確かなようなので、今度はその「花形征夫」という名で検索をかけてみた。すると似たようなpdf文書が引っかかる中、ひとつだけ通常のウェブページが引っかかった。

「A市病院情報」と銘打たれたそのページは、何年も前に個人の手で作成されて放置の状態らしく、古臭い原色のデザインが目に痛い。クリニックから総合病院まで診療科目別にセクション分けがされており、内科、外科、などと紹介が続いた後に「産婦人科」というセクションが出てきた。

その中に「さくらやま産婦人科」という医院があり、診療科目や駅からの所要時間などと共に、院長の名が記してあった。それが「花形征夫」だった。透の喉が鳴り、体が冷たく感じる。

「さくらやま」といえば透が育った町の古い地名だ。近所の高齢者は揃って「ここは昔きれいな名前の町だったのに、昭和の中頃に隣町と合併させられて変わってしまった」と文句を言っていた。だから覚えている。古くはもう少し起伏のある土地柄で、その斜面に山桜がたくさん生えていたのだとか。

それ自体、ごくごくローカルな話である。そこに決してポピュラーではない名字の院長が開業していて、自分の戸籍にはその名がある。これは偶然なんだろうか。偶然だとしたらかなりの確率のはずだ。

もし直接関係のある人でなかったとしても、例えば透が知らないだけでどこかに花形という家がとても多い地域があるとか、そこの出身だとか、そんなわずかな手がかりになる可能性もやっぱりゼロではないはずだ。今度は「さくらやま産婦人科」を検索してみる。

いくつか同名の医院が引っかかったが、なかなか目的の「さくらやま産婦人科」が引っかからない。上位に出てくるのは先程の古いページだけだ。透は仕方なくそのページにある住所をコピーし、携帯の方へ記録する。ネットだけで検索を繰り返していても埒が明かない。行ってみるしかない。

だが実はこの時、インターハイを逃して推薦までゴタついていた透は国体出場選抜代表チームに選出されており、正直暇がなかった。お盆休みが明けても通常練習だけならまたを呼ぼうと思っていたのに、それも飛んだ。合同練習で湘南の方まで通うことになったからだ。遠い。

そういうわけで、透の「花形探し」はそのまま2学期に持ち越された。

国体は概ね9月末から10月初旬の開催であり、その都合で透はお盆休み明けの夏休みから9月いっぱいの週末全てを湘南通いで潰した。国体が選抜になるなど思ってもいなかったし、ということは11月の予選までひたすら練習の日々なので、週末にを呼んでふたりで過ごそうと思っていたのに。

の方は「彼氏彼女」の関係になったことで気が楽になったのか、国体見に行きた〜い! などとはしゃいでいて、むしろ透の方が寂しがっていた。

だが、その国体があったおかげで、大会の翌週末の練習が休みになった。ちょうど中間テスト期間の直前にあたるし、冬の選抜の予選に向けて練習時間を削られたくなければ今のうちに勉強しておこうぜ、という判断でもあった。

なおかつ、正規の監督もおらず、生徒と専門外の顧問の先生だけで踏ん張っていたバスケット部の惨状に対して夏休みの間に保護者が学校にクレームを入れるということがあったらしく、そもそも予選敗退の時点で嫌というほど後悔していた理事会までもが動いてスタメン全員の進学先がほぼ決まった。

透はスカウトと紹介で混乱した末に、一番最初に声をかけてくれたチームと話がついた。前年までインターハイへの出場を続けていながら、3年生の夏に予選落ちということで迷っていた監督が国体を観戦、行き先が決まらずに他に取られるくらいなら、と腹を決めたという話だ。

なので透は国体の翌週、にも報せずにひとり地元に帰った。なにぶん身長のせいで目立つので、日曜の朝から捜索に出て、昼頃には撤退のつもりでいた。というか件の「さくらやま産婦人科」の住所を訪ねてみるだけなので、昼までもかからないかもしれない。

このところ実家へ帰るというと毎回父親の車だったので、実に入寮以来の地元駅に透は一気に色んな感情に襲われて目眩がした。懐かしさから来る切ない気持ち、郷愁、そして自然と馴染む安堵感。それと同時に、戻りたくなかった、誰にも見られたくない、この地から遠ざかりたいという複雑な思い。

この町は「の兄」として生きてきた記憶そのものであり、それは今透にとっては「早く消してしまいたいもの」でもある。この町にいる以上、透はの兄という呪縛から逃れられない。そんな重い気分で駅を出た透は、メモしてきた住所にまっすぐ向かった。

おおまかに括れば「同じ地域」に相当するだろうが、決して近所ではなかった。それにどこかホッとしつつも、透は早足で歩いていく。小学校と中学校の学区から離れた地域は高校で越境してしまうと途端に馴染みがなくなる。ほとんど足を踏み入れたことのない路地は少しだけ不安を煽る。

駅から充分に離れ、交通量の多い通りを少し入ったあたりがメモしてきた住所になりそうだ。もう一歩入ったら住宅街、そんな場所。透は少し速度を落として、慎重に左右の建物を確認しながら進んでゆく。果たして、「さくらやま産婦人科」はあった。

ただし、看板は朽ち果てていて、門には鎖が差し渡してあった。ほとんど廃墟だ。

そして、ボロボロに壊れている看板に、診療時間の案内とともに「院長 花形征夫」という文字を見つけた透は思わず背筋が震えた。ここが自分の生まれ落ちた場所なのではないか――そんな気がしたからだ。

実家からは歩けば遠いし車では近いし、自転車くらいならちょうどいい距離。そんな位置にある。駅に向かうバスも系統が異なるし、大型商業施設の配置から考えても地域は同じだが生活パターンは同じにならない。そんなところだ。

だが、それにしてもこう廃墟では何の情報も得られない。医院は手前に診察室があり、奥が病棟になっているようだった。2階建てでこじんまりしていて、狭い駐車場は2台ほどしか入らない。

すると立ち尽くす透の背後から女性の声がした。

「あらー、先生のご親戚の方?」

驚いて振り返ると、向かいの住宅に住民らしき老婦人が箒を手にして立っていた。向かいのお宅も医院に負けじと朽ちかけた古いもので、この医院が診察を行っていた頃を確実に知っていると思われる。こうした高齢の方と話すのは久しぶりだったが、透は小学生時代を思い出して腹に力を入れる。

「おはようございます。こちらに来たことはないのですが、病院、随分前に廃業なさったのですか」
「そうねえ、何年前かしらねえ、私もその頃は忙しくてねえ、息子が単身赴任だっていうからね」

何も肯定せずに知りたいことだけを引き出したいと思ったのだが、彼女は自分の話を始めてしまった。しまった、自分の体験談だけしか喋れないタイプだったか。しかしそれを嫌がって逃げてしまったら、もうこの「さくらやま産婦人科」と「花形征夫」の情報には手が届かない。そう思った花形は彼女の話をなんとか聞きつつ、合間合間に医院とその院長のことを問いかけてみる。

「息子さんはこちらで生まれたんですか」
「うちの? ううん、うちのお兄ちゃんは私の実家で生んだのよ、産婆さんでね」
「でも院長さんとは面識がおありだったんですよね?」
「そりゃそうよ、私更年期障害がひどかったから、先生にはお世話になったもの」
「先生はこちらで開業して長いんですか?」
「長いなんてもんじゃないわよ、うちがここに引っ越してきたときからあるもの」

またご婦人の家がここに越してきた時の話になってしまい、透は焦れた。

「じゃあここに名前のある院長さんは2代目なんですね?」
「そうそう。先代の先生はあんまし評判よくなかったけど、この人はいい先生だったのよ」
「でも廃業しちゃったんですよね? 亡くなられたとか……
「いやいや、生きてる生きてる。先生のお宅はこの辺じゃないからね」

透の心臓が跳ねた。生きてる。しかも自宅は別にある。

「こんな立派な病院があるんだから誰か跡を継げばいいのに、いつの間にかこんなになっちゃって」
「いつ頃やめられたんですか?」
「うーん、だからええと、あれはお兄ちゃんが単身赴任になった頃だから」

老婦人はぼんやりした目で宙を凝視しながら唸ると、ちょいと首を傾げた。

「もう17〜18年くらいになるかしらね。気付いたらやってなかったのよ」

また透の背中にぞくりと怖気のようなものが走った。彼女の記憶が確かなら、ちょうど自分が生まれた頃じゃないか。そして散々診療で面識のある向かいの家の住民をして「気付いたらやってなかった」という突然の廃業。この「花形征夫」なる人物が透とどんな関係があるかはわからないが、開業医が突然医院を畳むのは、乳飲み子ひとり手放すのと同じくらいの大変な事情が隠れていてもおかしくはない。

すると老婦人は懐かしそうに目を細めて、とんでもないことを言い出した。

「それにしてもあなた、先生によく似てるわねえ。先生も背が高くてね」

爽やかな秋風の吹く日だったけれど、透の背中は冷や汗でびっしょりだった。しかしこれはチャンスだ。慎重に、けれど素早く嘘をつかなくては。知りたいことを出来るだけ引き出さねば。

「実はお会いしたことがないんです。最近海外から戻ったので」
「あらあ、そりゃあご苦労さまだったわね。単身赴任? お宅より先にこっちに来ちゃったの?」
「親から先生のことは聞いていたのですが、最近他界しまして、ここの住所しかわからず」
「んまー、それは大変だったわねえ。先生のお宅は遠くないわよ」
「どのあたりかご存知ですか?」
「知ってる知ってる、大きい消防署の方よ。昔あの辺りは地価が高くて良いお宅が多かったからね」
「今でもお住まいでしょうか」
「そうだと思うけど……菊田さんまだ通ってるみたいだから」
「菊田さん?」
「ほらそこの、隣の。奥さんが病院でパートしてたのよ。今でも先生のところ行ってるって話よ」

透は息苦しくなってきた。くそっ、その菊田さんがいれば全て解決するのに、菊田さんを紹介してもらう理由がない! あとは直接その「先生のお宅」に行ってみるしかない。

「すみません、先生のお宅の場所、わかります?」
「ええとね、だから消防署の裏の方で、でも私は行ったことないのよ」
「そうですか。ではまた家族にあたってみますね」

ちくしょう、なんで菊田さん出てこないんだ! 透はせめて顔だけはにこやかに保ちつつ、心の中で地団駄を踏んだ。あと少し、あと少しなのに! しかしやっぱり菊田さんを召喚する方法が思いつかない。もうこのご婦人の個人的な話を聞くのも疲れた。仕方ない、虱潰しにあたってみるか。

透がそんな風に諦めたその時、

「先生のお宅なんかすぐにわかるわよ、菊田さんの話じゃお宅の柵は白いバラがびっしり生えてて、なんだとかっていうでっかい犬を飼ってるって話だからね」

おばあちゃんありがとう!!!

今度は頭の中がエレクトリカルパレードだ。透は浮かれてしまいそうな足をしっかりと踏みしめ、では失礼しますと愛想よく挨拶をしてその場を立ち去った。そして路地を出て老婦人の視界から外れると、走り出した。走らずにいられなかった。

先生はオレに似てるらしい。名字も同じ、医院が廃業したのはオレが生まれた頃。これで何の関わりもない他人なんていうことがあるだろうか。そっちの方が不自然だ。

白バラ、犬。白バラ、犬。

透は走りながら、脳内に浮かんでは消えていく白いバラと大型犬のイメージが可笑しくて、緩みそうになる頬をぐっと引き締めた。イメージが可笑しいだけではあるまい。もしこれで「花形征夫」が遠くとも血縁だったりしたら、と他人になれる。その可能性が生まれる。

涼やかな秋の風を体に受けながら、透は熱帯夜を思い出していた。真っ暗な神社の階段で、ふたりが兄妹だと知る人のいない街で、息苦しいほどの熱帯夜にを抱き締めながら、どうにかして彼女と他人になる方法はないのだろうかと苦悶した。

その糸口が目の前にぶら下がっているような気がした。

消防署の場所ならわかっている。小学生の時に見学に来たことがある。自宅からは少し距離があるが、「さくらやま産婦人科」からなら普段走り込みで慣れている透には遠い距離ではなかった。また、日曜の午前中ということかが幸いして、消防署への道のりは人も少なく、透は速度を上げる。

そして走ること30分ほどで透は「大きい消防署」にやってきた。この地域には数箇所消防署があるが、透が社会科見学にやってきたのは中でも一番新しく一番大きい。それを横目に見ながら、急いで裏手の住宅街へと足を進める。

老婦人の言うように、一見して古く大きな「邸宅」という雰囲気の住宅が多い。ただ、それが裕福な豪邸に見える家は少なく、かつてはずいぶん立派なお宅だったんだろうな……と思える程度。手入れが行き届かず植物が伸び放題で門扉が錆だらけ、という家も少なくない。

何しろ身長が大きくて目立つので、透は不審人物に見えないように目だけをキョロキョロと忙しなく動かしながら一軒一軒確認していく。

すると、かなり奥まった場所にある家を見つけた。煉瓦に鉄柵、柵には無数のプランターがかかっていて、それらが全て真っ白なバラだった。まるでバラの外壁。透は思わず足を止め、そしてふらふらと歩き出した。やはり古い家だが、空き家ではなさそうだ。

そして門柱に「花形」とあった。

心臓が飛び出してきそうだった。しかも家の方から大型犬と思われる低い吠え声が聞こえてくる。

そこにきて緊張が強いストレスになったか、透は息苦しさと目眩に襲われて門柱を離れた。深呼吸をして、意識を緩めるために周囲を見渡してみる。無我夢中でやってきてしまったが、もと来た道の記憶が怪しい。帰る時は地図アプリで確認しないとな――そんなことを考えていた時だった。

透は深い場所にある記憶が突き上げるように現れて思わず口元を手で覆った。そして小走りに白バラ邸を離れた。ほんの数十メートル先には、こじんまりとした児童公園があった。これも古く、遊具は錆びて朽ちかけ、雑草だらけ。しかし透はその中にあるペンギンの形をした水飲み場に釘付けになった。

ここ、知ってる。これ、ペンギン公園じゃないか。

覚えてる、ここは、このペンギン公園は、オレが小さい頃にと一緒にしょっちゅう遊びに来ていた公園に間違いない。現在の実家はオレが4歳になる前に購入して越してきた。つまり、それまでは、このあたりに住んでた……

解けそうで解けない謎に翻弄され、ペンギン公園の植え込みにがっくりと座り込んでしまった透はしかし、頭上から降ってきた声に顔を跳ね上げた。

「もしかして、透、なのか」

全ての五感が麻痺したみたいだった。

そこには自分と面差しのよく似た男性が立っていた。