熱帯夜

5

母の情報通り、歩いて20分ほどの距離にあるゲームセンターはまだ19時だというのに閑散としていて、客層も30代くらいの男性客がちらほらと、そして小さな子供連れの家族が2組ほどいるだけで、ゲーム機が大音量を出していてなお、どこかうつろな空間になっていた。

は女の子だけでプリクラを撮り、それが終わるとクレーンゲームにチャレンジしている男の子の後ろからちょっかいを出し、やがて楽しくなってきたのか、最年長がアイスをおごってやると言い出したので全員でコンビニに移動し、店の外でしゃがみ込むことになってしまった。

の母親は女性向け商売の仕事をしていることもあって、日常の所作礼儀やマナー、女性としての振る舞いにはちょっとうるさい人だった。なのでもコンビニの前で車止めに座り込んでパンツ丸出し、なんていうことはやったこともないし、やりたくもなかった。

だが本日と透以外は全員そういった行為は「余裕っしょ!」な手合であった。兄はなんだか貝のように口を閉ざして何も言わないし、お行儀が悪いと文句を言ったところで笑われるだけな気がした。それならひとりで戻っても構わないわけだが、大人たちの宴会に混ざりたいとは思わないし、何も喋らなくても兄と離れるのは嫌だった。

すると、アイスを食べ終わった男の子たちが肝試しがしたいと言い出した。

「肝試しって……
「この通りに出る途中に神社があっただろ」
「そうだっけ?」
「暗くて見えなかったんだろ。すげえ長い参道があるんだよ」

本日の曾孫世代8人の中で、1番多く曾祖母宅に遊びに来たことがあるのは、の祖母の兄、ツネ子おばさんの弟の筋のハトコたちだった。の祖母は女3人男ひとりのきょうだいで、本来ならその男ひとりがこの家の跡取りだったのだが、養蚕もやめてしまったことだし、と独立して都市部で家庭を持っていた。とはいえ一応長男、里帰りの回数は他家に嫁した姉妹より多かった。

「昔は夏祭りとかもやってたらしいんだけど、最近じゃ初詣に来る人も少ないんだってさ」
「あー、ウチも近所には行かないなー。いつも川崎大師行ってる」
「オレんとこは鶴岡八幡宮だなあ。言われてみれば近所の神社には行かねえな」

そんなことを話しながらは両腕にギャルふたりを絡ませて神社まで連れて行かれてしまった。梅林の少し手前、雑木林の隙間に確かに門柱のように石がふたつ置かれていて、20段ほどの石段がある。それを登ってもまだ鳥居は見えなかった。

「ここから入るんだけど、鳥居はもっと奥で、神社はさらに奥」
「肝試しってどーやんの? 男女ペア? 男の方が多いけど」
「何言ってんだ、ひとりずつだよ!」

これにはさしものもギャルふたりと一緒に抗議の悲鳴を上げた。それは無理!

「度胸試しなんだからひとりずつだろ」
「別に度胸なんかなくていいっつーの」
「男だけでやってれば? あたし行かない」

も正直行きたくはなかった。それが兄とペアだったとしても、なんとかして行かない方法はないかと兄に助けを求めただろう。と、女の子3人がゴネたので、女子は3人で行ってよいことになり、男はひとりずつ、ということになった。

「ルールは簡単、神社の前まで行って、神社を入れて自撮りしてくること」
「やだー! 何か写ってたらどうすんの!?」
「神社は神様のいるところなんだから写ってたらラッキーじゃん」
「そうなの!?」

しかし、怖い思いをするなら早いうちに済ませたい。最後はもっと怖い。女子3人は走って行って戻ってくることにして、最初に駆け出していった。だが、思った以上に参道は暗く、しばらくすると3人は絡まり合うようにしてくっつき、とぼとぼと歩き出した。

「度胸があったからって何になるんだよ、もうやだまじ怖い」
「マサトちょっと好みだったけどあんな男絶対無理だし」
「えー、あんなんがいいのー!?」
「見た目は悪くないじゃん!」

はやっぱりギャルふたりに挟まれていて、怖いので大声になっているそんな会話を聞いていた。ちなみにマサトくんは例の最年長。サイドが刈り上げでもみあげとヒゲが繋がっていて、極細の眉をしていた。昔は目がぱっちりとしていてかわいらしい顔だったのではないか……と思われる。

「てかなに、彼氏は?」
「いなーい、もう半年男なしー」
「あたしもいないんだよねー。ちゃんは?」
「えっ!?」

ただふたりの甲高い声に恐怖を紛らわせていたは、突然恋バナを吹っかけられたので素っ頓狂な声を上げた。てかよくもまあこんな真っ暗で怖い中を恋愛の話なんか出来るねふたりとも!

「い、いないけど」
「えっまじか。いそうに見えたー」
「あたしもいると思ってた。意外〜」
「そ、そう? 全然、そういうの、モテないし……
「あっはー、それは嘘ー!」

何も考えずに言っただけだったは、左隣のハトコに肩を揺すられて息を呑んだ。しまった、ハトコなんて遠いと思って高をくくっていたけれど、私たち全員、あのツネ子おばさんとはしっかり血が繋がっているのだ。あの人のような目を持った子が現れてもおかしくない。

身構えるに彼女はちょっと声を低くする。

「彼氏はいなくても気になる人はいるし、告られたことも何度もあるよね!」

ツネ子おばさんの遺伝め……は暗いので遠慮なく苦笑いの上、気になるってほどでもない、だとか、話したこともない人に付き合わないかって言われたくらいだけど、と誤魔化した。

「気になる人がいるなら告っちゃえばいいのに。遠慮してても男は手に入んないよ?」

そうだね〜、などと気軽な声で返事をしたけれど、途端に気が重くなっては俯いた。

だけど、手に入れてはいけない人、だから――

自撮りを済ませたことで気が楽になった3人はまたダッシュで逃げ帰り、今度は男の子たちがひとりずつ往復するのを待った。度胸試しと言いつつ、透と最年長のマサトくん以外はやっぱりダッシュ。結果的に全員往復をクリアしたので、逆に気持ちが萎えてしまって、ガキかよと文句を言っていた花火でもするか……と全員とぼとぼと歩き出した。

そんな中、兄と久々の再会になるから……とヒールのあるサンダルを履いてきていたは、神社の石畳を猛ダッシュしたせいでつま先に痛みを感じていた。あまり早く歩けない。すると今日はずっと無口だった兄が寄ってきて声をかけてきた。

「どうした」
「このサンダルヒールが細くて……つま先が痛い」
「歩けないほど痛むか?」
「そこまでじゃないけど、みんなみたいにスタスタ歩くのはちょっと。階段も怖い」

マサトくんを先頭にハトコたちはさっさと石段を降りていく。

「あれ、ちゃんどした?」
「ヒールがあるサンダルで走ったから足が〜」
「ヒール慣れてないんか〜! ゆっくり降りといでー」

見ればギャルふたりはどころではない高さのヒールで、共に猛ダッシュしたというのに、余裕の石段駆け下りである。てっぺんに透と残されたは、差し出された手に手を重ねると、ゆったりと包み込まれたその温かさに痛みを一瞬忘れた。

早く歩くと余計に痛むので、は兄の手に掴まりながらゆっくりと降りていく。

「ごめんね」
「気にすんな、そんなこと」
……大人ぶってこんなサンダル履くからだね」
「まさか石畳をダッシュで往復するとは思わないだろ」

一段降りるごとにつま先が痺れるように痛む。無数の針を刺されているみたいだ。

……おんぶするか?」
「いっ、いいよ、そこまでしなくて。でも一段ごとに休ませて」
「そんなんで歩けるか?」
「踏みしめなければ平気。すり足で帰るから大丈夫だよ」

兄の背中にしがみついておんぶなど、感情のコントロールが利かなくなってしまうかもしれない。それが怖かったは痛みに耐える方を選んだ。だが、ハトコたちはさっさと歩いていってしまっているし、暗い石段で兄と手を繋いでふたりきり、それは少し嬉しくもあった。

……お兄ちゃん全然帰ってこないから、久しぶりすぎるよ」
「ごめん。部活忙しくて」
「私、音羽東入ったよ」
「親父に聞いてたよ。またずいぶん進学校を選んだもんだな」
「えへへ、頑張りました」

一瞬で昔のように戻れる。無邪気に兄に抱きついていた頃のように、全力で甘えていた頃のように、は繋いだ手を揺らしてにんまりと笑った。だが、兄は頑張ったと言うの頭を撫でなかった。小学生の頃なんか、テストで80点を取っただけでもいっぱい撫でて褒めてくれたのに……

……進学校に入れば、高校の先も、また上を目指そうって思えるかなって」
「向上心があるのはいいことだけど、無理するなよ」
「お兄ちゃんはどうするの。高校はバスケだったけど、大学は?」
……このままいけば大学もバスケだな」

ここに来てやっと透が鼻で笑った。はホッとして一緒に笑ってみせる。

「もったいないねえ、その頭。勉強もしっかりできる大学にすれば?」
「実は、まだ雑談レベルなんだけど、スカウトも来てるんだ」
「スカウト?」
「大学の監督さんが、うちのチームに来るかい? っていう」
「えっ、なにそれすごいじゃん!」

会場に着いていくだけだの、ベンチにいるだけだの、何を考えているのか兄はインターハイにも県予選にも家族を呼んでくれたりはしないのだが、やっぱり期待の選手なんじゃないか! はまたつま先の痛みを忘れた。お兄ちゃんすごい! やっぱりお兄ちゃんてすごい人なんだな。

「それってさ、もしスポーツ特待とかになったら、学費免除とかあるの?」
「それだけの実績があれば、ないこともないだろうけど……どうかな」
「そしたらお父さんとお母さん喜んじゃうね」
……どうだろうな。また寮か、アパートとかになるかもしれないし」
「えっ、また寮?」

ぼそぼそと話す兄の声に被せて、またはひっくり返った声を出した。今も寮に入っているのに、大学でも寮に入るの? そんな遠い大学に行くつもりなの?

「いや、たぶん都内」
「うーん、通うとなると微妙に遠いか……
「移動時間がもったいないからな。学校に近ければそれだけ練習時間が増える」

その理屈はわからないでもないのだが、また4年間別居とは思っていなかったので、は肩を落とした。それじゃまるで二度と帰ってこないみたいじゃん。ただ進学してるだけなのに、完全に独立しちゃったみたいじゃん。

「で、でも高校と違って大学の方が時間に余裕があるんじゃない?」
「そうなんかな? よく知らないけど」
「高校の間はいいけどさ、たまには、帰って、おいでよ……

の声は弱々しく、夏の風にさらわれた語尾が木々のざわめきの中に吸い込まれていってしまう。

「そうだ、ほら、引退したら、帰ってくるよね?」
「自宅に引っ越してまた引っ越しだと手間も金もかかるから、直接移動するよ」
「そ、そうか、でもバスケは大学までなんでしょ? そしたら――

茶化したような声で畳み掛けていた手がぎゅっと握り締められる。は驚いて言葉を切り、一段下にいる兄の顔をまじまじと見つめた。一段の段差があってなお見上げる高さにある顔だが、夏の暗闇にぼんやり浮かび上がる白っぽい肌は無表情なせいで冷たく見えた。

「それはまだ決まってないけど、実家には戻らないよ」
「えっ……
「就職だとしても、そのまま都内で職を探すし、そしたらわざわざ実家から通うこともない」
……もう、帰ってこないの」
「だろうな。帰る、意味がないだろ、用もないし」

その言葉を聞いた瞬間、はカッと頭に血が上ってしまい、繋いだ手を放り投げた。

……
「意味がない、用もないってどういうこと!? 実家でしょ、家族でしょ!? それを――

私が1番だったはずなのに、お兄ちゃんの1番は私のはずだったのに、どうして「意味がない」とか「用もない」になっちゃうの。帰省もしない、進学や就職の合間にも帰らない、もう、実家には帰らない。そんなことってある!? そんなに私たちが嫌いなの!? 邪魔なの!?

お兄ちゃんにとって、家族って、私ってなんなの!

そういう憤りをぶつけていただったが、直後に息を呑んで固まった。

石段一段の差を置いたまま、兄にきつく抱き締められたからだ。

それでもなお兄の方が背が高い。日々バスケットばかりやっている兄は腕が長く、肩幅も広く、反面筋肉質でも扁平な体をしていて、はその腕の中にしっかりとくるみ込まれていた。ハグなんていうゆったりしたものではなかった。体と体がぴったりとくっつくように強くかき合わせた、抱擁だった。

真夏の熱気がこもった風がそよぎ、の髪を揺らす。その頭のてっぺんに頬を擦り寄せた透の低い声がの耳を直撃する。瞬間、ぞくぞくとの背中に痺れが走った。

「いつまたこうしてしまうかもわからない。だから、帰りたくないんだよ」

細いため息とともに透の腕はの体に絡みつき、手のひらが肩と背中を撫でるように這い回る。

「そういう感情が完全になくなるまでは、一緒にいられない」

そう言うと、透はまた突然腕を解いてを解放し、半ば抱えるようにして石段を降りきってしまうと、つま先が痛むを残して歩き出した。は強く踏みしめると痛む足を引きずり、透の数歩後を追いかけていく。

透は速度を上げずに、手の届かない距離を保ちながら先を行く。と透の間をまた真夏の風が吹き抜けていく。住宅街から離れた田舎道は真っ暗で、アスファルトが薄ぼんやりと見えるだけ。月は細く明かりもなく、ただふたりは無言のまま歩いた。

そしては、汗が滴る喉元に手のひらを添えて大きく息を吸い込んだ。

そうだったのか。

私と、兄は、同じ気持ちを心に秘めて、隠して、忘れようとしていたのか。

私は兄を、いや、透を好きだったんだな。もうずっと昔から、好きだったんだな。

そして透も、私のことが好きだったんだ。ずっと昔から、私のことが好きだったんだ。

体の中が熱い。もう太陽は沈んでしまったのに、あんな細い糸のような月しかないのに、まるで真夏の炎天下にぼんやりと立ち尽くしているみたい。じりじりと焼かれて、焦げて、取れなくなってしまった、恋心。それが恋だなんて、恋という言葉を当てはめてはいけないはずだったのに。

熱帯夜の暗闇の中を、ふたりは無言で歩く。

はやがて痛む足を引きずりながら空を仰いだ。

だけどそんなこと、許されるはずがないじゃないか。

許されるはずがないじゃないか!