トイ・ソルジャーズ

11

牧と三井に話をしてもらった神は、また清田が混乱するほど沈静化した。牧の言うようにダークサイドを隠そうとしなくなったのはそのまま残ったけれど、夏休みの間に神を覆っていた刺々しさはすっかりなくなってしまい、少なくとも表面的な付き合いしかない人にはいつもの優しい神くんにしか見えなかった。

国体もいつも通りいつもの正確なシューターとして出場、結果的に優勝はしなかったのでそこは悔恨が残るところだが、特にトラブルもなく終わったし、やけにはりきっていた三井にスカウトの声がかかるというイベントまで発生し、選抜チームの結果は上々、面白かった。

国体が終わると、今度は冬の選抜が目標になる。今年神は2年生なので秋に修学旅行で5日間ほど抜けなければならないけれど、また練習の日々が繰り返される。

ただし、冬の選抜までで3年生は引退となるので、その後は神が主将に就く。それが迫っているので、部内の雰囲気は変わりつつあった。3年生の引退は名残惜しいが、新体制になった時に戸惑いたくない。なんとなくではあっても、1・2年生は神をリーダーとして意識しだした。

「湘北は宮城さんっしょ」
「湘北はもう体制変わってるから宮城になってるね」
「陵南は仙道、翔陽はえーっと誰だっけ」
「確か伊藤とかいう……あそこは3年生が強烈だし引退してないから、ちょっと影薄いけどな」

国体と前後して、なぜか清田が神のシュート練習に一緒に居残るようになった。週に2回程度のことだが、それでも理由もなく居残ってはボール拾いをしたりしながらぼそぼそと喋っている。この時はうるさく騒いだりしないので、神も好きにさせている。

「修学旅行ってどこ行くんすか」
「北海道」
「オレ、カニがいいっす」
「誰が買ってくるなんて言ったよ」
「えー、ないんですか」
「2年全員でなんかまとめて買ってくるけどカニはないだろ」

海南の修学旅行は北海道か沖縄と決まっていて、生徒の投票で決まる。今年は北海道になったらしい。昨年は沖縄だったらしく、牧の馴染みっぷりがハンパなかったと大変な話題になった。

「神さん最近フラットっすね」
「そうかもな」
「なんか急に老けたって評判すけど」
「失礼な」

清田は茶化しているが、要するに神は自分のバスケットのことものことも、前ほど焦って思い詰めなくなった。本人の感覚から言えば、だからといって余裕があるわけではなかったのだが、それでも以前のように気持ちが落ち込んだりしなくなった。

相変わらず「ToySoldiers」を隙間に挟む生活をしているけれど、それだけで、に襲いかかってしまった時のような激しい感情は湧いてこなかった。それが1年生には急に大人びて見えたのだろう。

改めて思い返すと、やっぱり牧と三井の話を聞いたせいだった。ただでさえ貫禄のある部長に、バスケット以外のことで人生経験の豊富な三井の言葉は自分で思っていたよりも簡単に頭の中に入ってきてしまい、よく効く薬のように神の不貞腐れた心を宥めてくれた。

「信長」
「はい?」
「心配しなくても、オレまだのこと好きだよ」

ボールを構えながら神がさらりと言うので、清田は激しくむせた。

「だけどそれをどうにかしようとは思ってない。言い方は悪いけど、好きでいるのは勝手だからな」
……なんでオレがそれ気にしてるってわかったんですか」
「お前が居残る理由なんてそれしかないだろ。腹減ってんのに」

清田は言い当てられてショックだったのか、ボールかごの中に倒れこんだ。

「夏休みのことはー悪かったとー思ってるんすよー」
「そうだな」
「だけどー先輩も可哀想でーなんかほっとけなくてー」
のこと好きなの?」
「それはねーっす、まさかと思って夏休みの間によく考えたけどかなり違ったっす」
「そりゃよかった」
……怒らないんですか」
「怒る立場にないよ」
「そーいうのがダメなんじゃないんすか?」
「どういうこと?」

ボールかごに頭を突っ込んでいた清田は、むくりと体を起こすと天井を見上げた。

「一応付き合ってたんだし、今でも両思いなんだし、だったら、怒ってくれなかったら先輩悲しむと思いますけど」
「そうかなあ、今は一応付き合ってないのに?」
「そんなのただの言葉でしょ」

腰に手を当て、ふうと息を吐くと、清田はニタリと笑う。

「もう一回、口説いてみたらどーすか」
「はあ?」
さん、元気ないっすよ。ちょっとやつれてる」

神は本日の500本目を投げ、それがきちんとリングに吸い込まれていくのを見届けると、清田と同じようにふうと息を吐き、ボールを取りに行く。ボールを戻して、カゴに手を掛ける。

「別にさんと会ったりとかはしてないっすよ。何度か見かけただけっす。だけど、ちょっと可哀想なくらいショボンとしてて、ぶっちゃけオレでも見るのつらいっす。治してやれるのって、神さんだけだと思いますよ」

神は返事をせずにカゴを戻し、片付けを済ませると清田を置いて部室に戻る。黙々と帰り支度をして、慌てて追いかけてきた清田には適当な返事をして、さっさと学校を出る。秋の夜空はさわやかな風が吹き抜けていて、少しだけ心が浮き立つ。

もう一回? そんなこと、許されるんだろうか――

清田が言うように、精神状態がフラットなのは変わらなかった。もうキレるのは嫌だったし、不貞腐れ続けるのも疲れる。いい人にも程があるが、その逆もだ。あまりダークサイドばかり出していると自分の周囲が軋んで動きが鈍くなる。それはそれでけっこう面倒だ。

移動日合わせて5日間の修学旅行に出た神は、練習がないせいで重く感じる体を抱えて北海道にやってきた。連れて行かれるまま、見ろと言われるまま、神は予定された行程をぼんやりとこなしていた。何しろ24時間バスケットから完全に切り離されることは滅多になくて、そのせいでだるい。

自由行動も特にやりたいことがなくて、バスケット部でまとめて土産を買うのに付き合うと、神はひとりでふらふらと歩き出した。自由行動と言っても、それほど長い時間じゃない。ランニングはできないけれど、歩いてるだけなら怪しまれることもない。神はイヤフォンを差し込むと、できるだけ人の少ない方へと歩き出した。

だが、少し歩いてすぐに神は足を止め、イヤフォンも外した。時間が早いせいか、まだ客の殆どいないカフェのテラス席の片隅にがひとりで座っていた。その姿に神は驚いて棒立ちになった。清田の言うように、は沈んだ顔をしていて、ずいぶん痩せたように見えた。

オレがあんなことをしたから――

罪悪感より先に恐怖が襲ってきた。夏にキレてしまった時以来のだったが、まさかはあれがきっかけで何か精神的に傷を追ってしまったんじゃないだろうか。だとしたら、オレはどうすればいいんだろう。そんな風にを傷つけてしまった償いを、どうやってしたらいいんだろう。

そんなことを考えて全身が冷たくなっていた神の視界で、は足元に纏わりついてきた猫に気がついて下を向いた。店の猫だろうか、に抱き上げられると膝の上に丸くなった。はちょっと驚いていたが、すぐに笑み崩れて猫の背を撫で始めた。

なんて――可愛いんだろう。

無意識にそう感じた自分が恥ずかしくなる。だが、神は少し開き直っていた。清田に言ったように、好きでいるのは勝手じゃないか、と。それに、もし清田の言うことが本当なら、許されないのだとしても、もし本当なら。三井は欲張りだというけれど、だからなんだというんだ。欲張りで何が悪い。

外したイヤフォンからEurythmicsの「Thorn in my side」が流れてくる。刺はもう、どこにもない。

「ちょっといいかな」
――うん」

目の前にさした影に顔を上げたは、神の言葉に頷く。膝の上の猫もちらりと顔を上げ、一声鳴いて挨拶をするとまた丸くなった。はまたその背をゆっくりと撫でる。

、痩せたね。体調、大丈夫?」
「今はもう、平気。夏休みちょっとしんどかった」
「そっか。ごめん」
「ううん、宗が悪いわけじゃないよ」
「いや、オレのせいだよ。だからオレもあの日の夜、熱が出て吐いて、病院送りになった」

客がいないので気を利かせてくれたのか、セルフオーダーなのに店の従業員が声をかけてくれた。神は自分が行きますと立ち上がりかけたが、持ってきてあげると言ってくれたので、甘えることにした。

「最近ね、購買とか、食堂とかで清田くんとすれ違うと、なんか悲しそうな顔して逃げられる」
……あのバカ」
「心配してくれてるんだっていうのはわかるんだけどね、それもなんか申し訳なくて」

神のオーダーしたミルクコーヒーが来たので、は言葉を切って、猫を褒める。従業員に「営業部長なの」と言われた猫がまたニャアと鳴いて、の手に顔をすり寄せた。神は、それを見てゆったりと微笑むが可愛くて、愛しくてならなかった。

「宗はもう体調なんともない? もうすぐ部長さん引退でしょ」
「平気。国体も行かれたし、冬の選抜の予選も始まるから」
「そっか、相変わらずすごいね、バスケ部」

神もも、お互い言葉を選んで話しているのをわかっていた。それだけに、一言一言の間が長くて、テラス席の片隅だけ時間の速度が遅くなったような錯覚を覚える。神はミルクコーヒーを半分ほど飲み干したところで、椅子の背にもたれかかり、まばらに行き過ぎる人の波の向こうを見つめた。

さん」
――え?」
「ごめん、やっぱり忘れられなかった。無理だった」

の膝の上の猫が神の言葉に返事をするようにまたニャアと鳴いた。

「今でも、あの頃と変わらずに、好きです。大好きです」

が顔を見上げているのに気付いたけれど、神はの方を向かずに淡々と言う。

「一緒にいたいです。彼氏になりたいです。彼女になって欲しいです。1年前からずっと、ずっとそう思ってます」
「宗――
「修学旅行から帰った、次の日、土曜日の夜、DEANで、待ってる」

さすがにその日は練習が休みなので、時間の都合はいくらでもつく。DEANで待っているというのは今思いついたことだけれど、後で店主に連絡を入れて事情をすっかり話してしまおうと神は考えていた。もう恥ずかしいとかそんな気にもならなかった。

「もし、もう一回チャンスがあったら、また一緒にカップケーキ、食べてください」

膝に両手をついて神はぺこっと頭を下げると、一呼吸置いて立ち上がり、そのままカフェを離れた。振り返ることなく早足で歩き、が見えなくなる所まで来て、ようやく速度を緩めた。

もっと気の利いた台詞を言えたらよかった。ロケーションもシチュエーションもよかったのに、自分の言葉のセレクトだけが面白くなくてつまらなくて、貧相な感じがした。ちょっとだけ丁寧に言いたいことをブチ撒けただけじゃないかという気がして、今更恥ずかしくなってくる。

だけど、その通り言いたいことは全て言えた。に淡々と言ったことが想いの全てだった。

もしにチャンスをもらえなくて、土曜の夜にDEANで待ちぼうけを食らっても、後悔はしないと思った。だから、、DEANで待ってる。最初は横に親とかいたけど、ふたりで楽しかった記憶しかないDEANで待ってるから――

修学旅行から帰った神をそわそわした目で待ち構えていたのは父である。神が土曜の夜に斯く斯く然々のために店に行くと言い出したので、DEANのオーナーは慌てて父に電話をかけてきたというわけだ。土曜の夜はそれなりに人が多いから、そんなところで元カノ待つって宗ちゃん大丈夫なの? と彼女は心配していた。

「勝手なことしてごめん、どうしてもDEANがよかったんだ」
「いや、そんなことはいいんだけど、平気なのか、お前もちゃんも」
「オレは平気。はどうかな、たくさん傷つけちゃったからね」
「傷つけたって、だけど――

ピュアで無垢なジェントル天使だった息子の言葉とは思えなくて、父は戸惑った。あの母に育てられておいて、まさか息子が女の子を傷つけたりするんだろうか。

「詳しいことは勘弁してよ、恥ずかしいから」
「うん、それはもちろんだけど、その、やっぱりちゃんじゃないとダメなのか」
「今は、そう。ダメだった。だけど、これでまたダメでも、後悔しないよ、大丈夫」

父はたまらなくなって、息子の頭を引き寄せてぐりぐりと撫でた。

「母さんや他の人がなんて言うかわからないけど、父さんは、お前もちゃんも、どっちも悪くなかったって思ってるから。宗もちゃんもいい子すぎて、だから相手のことを大事にしすぎて、それでちょっと疲れちゃっただけだって、父さんはわかってるからな」

神はそんな父の言葉に微笑んで、そして深呼吸をする。そう、きっと父の言うように自分もも適当になんてできなくて、一生懸命お互いのことが好きだっただけなんだろうと思った。だからどんどん苦しくなっていって、はそれに耐えられなくなっちゃっただけなんだ。

「ねえ、父さん、母さんと付き合おうと思った時って、どんな風に思った?」
「えっ、言ったろ、連れて歩いたら――
「それはきっかけでしょ。実際に母さんのこと好きだなって思ったのって、どんな時だったの」

突然自分の話になってしまった父はむず痒そうな顔をしたが、咳払いをして口を開いた。

「見た目が可愛いなと思ったのは好きになってからだったよ。それよりも、母さんの裏表の全くないところが好きだった。よくわかると思うけど、母さんには嘘をつくって機能が備わってないんだよ。たぶん生まれてから一度も嘘をついたことがないんじゃないかな」

だから困ることもあるし誤解もされやすいけどねと父は笑った。それは神もよくわかっている。

「だけど、だからどんなことがあっても信頼できる人だと思ったんだ。母さんのああいうブレなさすぎるようなところでなにか困っても、そんなのはオレがなんとかすればいいじゃないかって思った。誰かがそれで怒っていたらオレが頭下げて謝ればいいじゃん、て。だから側にいてくれないかなと思って」

父親が自分の前で「オレ」と言い出したのは久しぶりだった。神はそれが嬉しくて、頬が緩む。

――宗、勘違いしないで聞いて欲しいんだけど、最初、母さんは子供はいらないって考えてたんだ」
「大丈夫、聞いたことあるよ」
「えっ、そうなの!? ほんとに母さんは正直だな」
「でもショックとかなかったよ。この人ならそうだろうなって思ったから」

ブレない母親は中学生の息子にもそんな話を躊躇しない女で、息子の方もそれをよく理解していた。

「最初、母さんは結婚したら海外で暮らしたいと考えていたんだ」
「だろうね、あれじゃ」
「だけど、子供がほしいと言って日本にとどまらせたのはオレなんだ」

離婚されるかもしれないギリギリのところだったと父は言う。

「完全にオレのわがままだった。子供はいらない、日本での生活も興味ない、そんな母さんをここに縛り付けたのはオレだ。結婚して、母さんと家族になったら、どうしても子供が欲しくなったんだ。その子供を、旅行くらいでしか行ったことがないような場所で育てたくなかった、ただそれだけで」

幸い、母は非常に割り切りのよい性格をしているので、妊娠した時点で父にそう説き伏せられると「まいっか」と海外移住をあっさり諦めた。しかも父が妊娠を大層喜んだので、産み育てる気になったという。ただし、出産を終えた母は父に「これっきりで二度と産まない」と言ったそうだ。あんまり辛かったので。

「オレは兄弟も作ってやりたかった。だけど、もう母さんに無理をさせたくなかった。それもオレのわがままだ。それは本当に申し訳ないと思ってる。――って話がそれたな」
「ううん、いいよ。話してくれてありがとう。あと、別にひとりっ子で嫌だと思ったことないよ」

それも本当だった。神にとってこの欧米かぶれしたこの家は至極当たり前で何も違和感を感じなくて、今でもそれを厭わしく感じたりはしない。母がちょっとエキセントリックでも、父が完全超人じみていても、それが彼にとっての普通だったから。兄弟がいないことも、不満になんて思ったことはない。自分の世界に満足してたから。

を好きになってしまい、ちょっと困ったなとは思った。ただそれだけで、のために自分の育った環境を憎いと思っていたわけじゃない。優しい神くんもどこに出しても恥ずかしくない神さんちの宗一郎くんも、が好きでにも好きになってもらうためには、少し不便だったというだけだ。

「宗、せっかくだから聞いてくれるか。お前が生まれて、オレはお前が可愛くてしょうがなかった。それは親としては普通のことと思うけど、父さんの場合はちょっと違くて、お前には本当に申し訳ないんだけど、お前はちっちゃい頃、今よりもっと母さんにそっくりだったろ。おんなじ顔がふたつあるみたいで、まるで母さんがもうひとり増えたみたいだった。もうほんとに、オレはこのふたりに人生を捧げようって、思ったんだよ」

父は真っ赤な顔をしていた。神は笑ってしまいそうになって、それは必死で我慢したけれど、なんだか嬉しかった。父も母もなんだか平均値からははみ出ていて、迂闊にそんなこと喋ろうものなら怒られそうな育て方をしてきたかもしれない。だけど、神は親の愛情を感じながら育ってきたし、それは今も変わらない。

むしろ、だからこそをこんな風に好きになれたんじゃないかと思った。

「だから、明日のこと、うまくいくように祈ってるよ」
「ありがとう」

修学旅行の土産に歓喜する母と父を置いて神は部屋に戻った。そして、ヘッドホンを取り出し、「ToySoldiers」を何度も聞いた。いつもなら3回だけと決めているけれど、今夜だけは特別。そして、マルティカの可愛い声にを思い浮かべながら、眠りに落ちた。