トイ・ソルジャーズ

07

隣とはいえ、クラスが違ったのは幸いだった。その上、校内でイチャついたりはしなかったので、わざわざ別れたと言って回らなければ、誰もそのことには気付かなかった。はどうだったのだろう、わからない。けれど神は別れたことを誰にも話さなかった。認めたくない気持ちもあったし、万が一にも「優しい神くん」を振ったとしてが悪者にされては困るからだ。

神の生活は元に戻った。朝練、授業、部活、帰宅して勉強。その合間合間に「ToySoldiers」を挟んで、頭をリセットする。決勝リーグが間近なので、練習も詰めていたし、余計なことを考える時間がなかったのは助かった。にも関わらず、やはりどこか緩んでいたのか、牧に勘付かれてしまった。

体調が悪いのかと厳しい顔をしたので、牧には正直に話した。顔は曇っていても、他は問題ないはずです。

「別れたあ!?」
「ちょ、牧さん声が大きいです」
「す、すまん、というか、うまくいってたのにどうしたんだよ」
「ええとその、喧嘩とかではなくて、やはり無理をさせてしまっていたみたいで」

これまた誰にも彼女がであることなど話したりはしていなかったのだが、牧には一応あれです、と教えておいた。当時、牧はちらりと一瞥して「お前らしいな」と言うにとどめておいてくれたのだが、今はなんだかショックを受けている。それほど神とは安定したカップルだったというわけだ。

……そうか。さすがのお前でも無理だったか」
「オレなんか別に……彼女が苦しんでいるなんて全然気付かなくて」
「みんなそう言うんだよ。女の子の方も一応覚悟して付き合ってたわけだからな」

牧は眉を下げてため息をつきつつ、静かに微笑む。彼も海南3年目、部活と彼女を両立出来なかった部員をたくさん見てきた。中には彼女を取ったのもいたし、自分から彼女を捨ててバスケットに賭けたのもいた。どちらもちゃんと両立できたケースは本当に稀だ。

「わかってて付き合ってたんだから、ってずっと我慢してるんだよな。それで急に爆発する」
「まさにそれでした。わけがわかりませんでしたよ」
「大丈夫なのか、決勝リーグ」
「あはは、いやだなあ牧さん、大丈夫に決まってるでしょう。オレは信長とは違います」

いつもと変わらない「優しい神くん」の可愛い笑顔だった。確かにこれは愚問だった。けれど、牧はその笑顔の下に氷のようにつめたく冷えた神を見た気がした。喜怒哀楽があまり顔に出ない神だが、その中には人より激しく燃えさかる激情が秘められている。

無理矢理抑え込んだか――

きっととのことがあろうとなかろうと、部活中の神には一切の変化はなかったに違いない。だが、その中に隠れている本当の神はつめたくつめたく冷えて、氷の下で眠りについてしまったかのようだ。

「神、必要ない時にはバスケのことも忘れられるようにしておけよ」
「えっ、どういう意味ですか」
「集中して夢中になるのと囚われるのとは別だってことだよ」

牧はもうそれ以上は何も言わなかった。だが、神は牧が何を言いたいのかはわかっている。

と別れたことで、また部活に集中するのは構わないが、のことを振り切ろうとするあまり周りが見えなくなっては困る。適度なところでリフレッシュをしたり、牧の言うように、必要ない時にはバスケットを忘れられるセルフコントロールを体得しておいた方がいいと言いたいのだろう。

牧の場合は波乗りが趣味だというから、例えとしてはそういうことを言いたかったのだろうとは思う。

だが、神は牧とは違う。例えば定期考査の前に一切の部活が停止になっても、それはそれと割り切って練習をゼロにしてしまうのは体質に合わない。よく考えて時間配分をして、せめて走るくらいのことをしておかないと、どうしても後で後悔する。可能な限りは出来ることを全てやっておきたい。

それで失敗したなら、後悔はない。何もせずにしくじってしまったら、もう変えられない過去を悔やむことになる。そっちの方が耐えられない。バスケットをするために海南に入ったんだ。学校の外での楽しいことは全て放棄したんだ。それを間違いだったとは思いたくない。だから、出来ることは全てやるのだ。

縦に長く伸びたけれど、牧のような力強い身体があるわけじゃない、清田のような体力と俊敏性があるわけでもない、そんな自分が海南のスタメンの座を勝ち取り、次期キャプテン候補にまでなったのは、ただひたすら何も持たざる自分を鍛えてきたからだ。神は神宗一郎として正しい選択をした。

のことも同じだ。母親の刷り込みがあったとはいえ、「優しい神くん」であることを今更否定したくない。それはも言っていたじゃないか。そういう神が好きなのだと。だから、それを捻じ曲げてまでを手元に置いておきたいというのは、エゴなんじゃないだろうか。

と別れたくないばっかりに、本来の自分とは違う、と付き合うのに都合のいい「神宗一郎」を演じなきゃならないなんて、それはのためでもなんでもなく、ちゃんと折り合いを付けられないくせにとの関係を続けたいと願うエゴなんじゃないだろうか。

の何もかもが好きだった。彼女の芯の強さ、柔らかな心、柔軟な感性、しなやかな体、素直な唇――

だから、そんな風にを思う自分は自分の中の奥深くに隠しておくのだ。簡単に飛び出してこられないように、眠りを妨げないように音を立てたりせずに、そんな自分を思い出したりせずに済むように、出来る限りのことを全てやり続ける。

遡ること数週間前、急に強くなった県立高校の試合を清田と見に行った。清田を新しい自転車の後ろに乗らせて、軽く覗きに行くつもりで見に行った。話には聞いていたがなんだか変なチームで、けれど神は、主力と思われるメンバーの中に自分と同じようなシューターがいるのを見つけた。

1年先輩だったが、やけにきれいなフォームでボールを放つその姿に自分を重ねた。自分は毎日500本打ってるけど、あの人はどういう練習であのフォームとボールコントロールを身につけたんだろうかと少し気になった。

だがその後、人づてにその3年生はほぼ丸2年のブランク明けで、高校での試合経験は片手にも満たないと聞かされた神は、目の前が真っ暗になった。それだけ放置していてなぜあのシュートが打てるんだ。どうして入る。2年だぞ2年。

並べて比較し、成功率を数字で示せば神の方が正確で安定したシューターかもしれない。だが、明日から一切の練習を止めて2年後、今と全く同じシュートが放てる自信はなかった。それどころか、2ヶ月休んだって腕が落ちる気がしてならない。

あの3年生はそれでもいいんだろう。そういう恵まれた資質を持って生まれてきたんだろう。だけど、自分は現状維持そして向上のために無駄にできる時間はないと思った。牧に何と言われようとも、持たざる自分のためにしてやれることは、継続、それだけだ。

神はのことを心の奥底にしまい込み、より寡黙な練習の鬼となった。

いわゆる何の関係もない第三者から見ると「例年通り」に、海南大附属高校はインターハイへの出場権を手に入れた。これで神奈川県の予選としては17年連続優勝、しかも全勝優勝。今季向かうところ敵なしの部長はMVPを獲得、神もベスト5に入って監督は上機嫌、部内はとてもいい状態にあった。

インターハイ出場が決まり、正門の脇に「男子バスケットボール部 高校総体 17年連続出場」という横断幕がかかる頃、海南でも期末のテスト期間に突入、バスケット部員も補習などで練習が出来なくなっては困るので、おとなしく机に向かう時期だ。

だが、常に落ち着きがなくスイッチのオンオフも下手くそという1年の清田は、急に練習がなくなってしまい、かといってすぐに勉強する気にもならなくて、普段なら体育館で走り回っている時間にぶらぶらと駅前をうろついていた。何か目的があるわけではないが、自然とスイッチが切り替わるのを待つつもりだった。

その清田の真正面を、見覚えのある顔がとぼとぼと歩いていた。ちょっと首を傾げた清田だったが、すぐにピンと来ると、人混みの中をひょいひょいと飛び跳ねて追いかけた。それは誰であろう、だったからだ。

「先輩! ちわっす!」

清田が急に横から顔を出したので、は短く悲鳴を上げて飛び上がった。の方は当然清田を知っているし、清田の方もしつこく神に纏わりついたせいで、どれが神の彼女なのかということだけは教えてもらっていた。人懐っこい清田はにこにこと笑顔を作り、の前に立ちはだかった。

「先輩も急にテストモードに入れないタイプっすか?」
「えっ、ちょっと必要な物があったから買いに行ってただけだよ。清田くんこそ――
「オレは牧さんたちみたいに一瞬でおべんきょーモードに入れないタイプなんすよ」

だからといってもう用はないはずなのに、清田はまだの前に突っ立っている。

「ねえねえ先輩、先輩って古典得意っすか?」
「は?」
「オレ、ニガテなんすよねーああいうの。教えてくれません?」
「な、なん――
「あっ、先輩アイス食べます? オレ奢るんで行きましょー!」
「はあ!? ちょっと清田くん」

神ほどではないけれど、平均サイズのから見ると背の高い清田は、人当たりのよさそうな笑顔を近付けてきてそんなことを言い出し、驚いて反応が遅れているの手首を掴むと、ぐいぐいと引っ張った。

押しに弱いわけではないが、も神に別れを告げてからというもの、だいぶ精神的に疲れていて、毅然とした態度が取れなかった。それに、部の中では神に一番近い清田に対してどんな風に振る舞ったらいいか、咄嗟に判断ができなかった。そんなわけでは清田に引き摺られるまま、カフェの扉をくぐった。

清田は妙な迫力を持った子で、にこにことくだけた敬語で話しているというのに、そもそもがぶれない芯を持っているですら少し怯んでしまう。ドリンクは何がいいかと言うので、自分で買うからいいと反論しかけたにまたにっこりと笑顔を見せ、買ってくるから先に席を確保しておいてくださいと釘を差した。

数分後、外から見てすぐにわからないような奥まった席で縮こまっていたは、目の前のテーブルをびっしりと埋め尽くすドリンクやアイスやホットミールに目を白黒させていた。その上、ドリンクはなんとエノルメサイズ。もはや飲み物を入れる大きさに見えない。ちょっとした花瓶に見える。

「こ、こんなにどうするの」
「どーぞ遠慮なく食べてくださいっす!」

そう言いながら、清田は自分でも手を伸ばしてパクパクと食べている。は清田が何をしたいのかわからなくて、その人懐っこそうな笑顔の奥に何か暗いものが潜んでいるような気がして、何も喉を通らない。

「清田くん、私に何か言いたいことでもあるの?」
「さっきまでそのつもりっした」

俯いていた顔を上げたは、向かいの席でチョコラテをズルズルとすすり上げている清田がにこにこと微笑んでいるのを見て、余計に怖くなった。さっきまでそのつもりだった、それなら今はなんなんだ。

「なんで神さんを捨てたんすかって問い詰めたいと思ってました。神さんなんも言わないけど、先輩とうまくいかなくなっちゃったんだろーってことはすぐにわかったし、それ以来まるで機械みたいになっちゃって、パッと見は前と変わらないけど、なんだか生きてる感じがしなくて。先輩のせいだって思ってたんすよね」

手を休めずにあれこれ口に詰め込みながら、清田はぺらぺらと喋る。直球で来られたは何も言い返せない。神のそんな様子は聞きたくなかったし、清田の言うようにそれは全てのせいだからだ。

「だけど、先輩もなんかよれよれしてるし、顔色悪いし、あれ、これなんか違うわと思って」
「違うって――
「まー、海南のバスケ部はしゃーないっすよ、先輩。ほらほら、少し甘いの食べて元気出してくださいっす」

わけがわからなすぎて眉間にシワの寄るに清田はまたにっこりと笑顔を見せる。

「先輩も別れたくなかったんですよねー。辛かったっすよねえ。神さんも同じだったと思いますけど、まあこればっかりはねえ。今年は海南史上最強の布陣だし、オレはスーパールーキーだし、だけど女の子はやっぱ彼氏がそばにいてくんなかったら寂しいっすもんね」

はまた俯いて、巨大なドリンクカップに添えた手に力を込めた。

「清田くんだったら、どうする? 部活と彼女があったら、どういう風にするの?」
「そんなの聞いてどうすんすか。オレは神さんとは違いますよ」
「そうだけど――
「まーオレだったら彼女がいるのに他の女の子に愛想よくしたりしないっすわ。それは神さんもちょっとアレっす」

急に真面目くさった顔で言うものだから、ついは吹き出した。神がとのことをこの後輩にベラベラと喋るわけはないので、ここまで先輩の恋愛事情を看破している清田におののきつつ、結局のところ勢いだけでをとっ捕まえてここまで引きずってきたのかと思うと、可笑しい。

……清田くん、ありがと」
「いやいや、気にしないで食べてください。んで元気出しましょ。神さんに余計なことは言わないんで」

そう言いつつも、テーブル上の食べ物はあらかた清田の腹に収まりつつある。はまた吹き出し、固く丸めていた背を緩めて背もたれに寄りかかった。

「じゃあ、食べ終わったら古典、やろっか」
「えっ、マジすか!? そこは本気にしないでいいっすよ……

泣きそうな顔をした清田には声を上げて笑った。そんな風に笑ったのは、神と別れて以来初めてだった。

と清田が楽しく過ごしていたちょうど同じ頃、神は自宅を通り過ぎて市営体育館へ向かっていた。基本的な競技場がひとまとめになっている敷地内の公園にバスケットゴールがひとつぽつんと立っている。部活が出来ない時の練習場所だった。

体育館からは距離があるし、周囲はランニングコースとマレットゴルフのコースになっていて、夕方は基本的に無人。しかも、おあつらえ向きにゴールポストの両サイドあたりに照明があって、少しくらいなら暗くなっても練習ができる。その上、神が知る限り午後以降にここを利用している人がいるのを見たことがない。

地面が細かい砂利なのが難点だけれど、もう慣れた。神は海南バスケット部のジャージで、黙々とボールを弾ませている。試しに「Toy Soldiers」を挟まずに練習してみようかという気になったのだが、やはりどうにも落ち着かない。と一緒にいられた時はまったく気にならなかったのに。

荷物を置いたベンチに戻って「Toy Soldiers」を3回。カチリと音を立ててスイッチが切り替わる。

スイッチの切り替わった神がいつも通りに練習を終えて帰宅すると、玄関に父親がいて、腕組みをして険しい顔をしていた。だいたい常に温和でにこやかな父の厳しい顔に、神は少したじろいだ。何か不穏なことでも起こったと言うんだろうか。

「どうしたの、そんな顔して」
「宗、ちゃんと喧嘩したの?」

神は細くため息をつく。両親がを気に入っているのはわかっていたけれど、高校生同士の付き合いなのだし、こんなこと親が口出しすることじゃない。それに、神が別れたくて別れたんじゃない。厳重に心の底にしまい込んでいるだけで、今でも神はが好きなのだから。

「喧嘩したっていうか……
「何があったんだ。謝るのは勇気がいるだろうけど――
「父さん、違うよ。オレが、振られたんだ。だから、もういいんだよ」

神が淡々と言うその正面で父は絶句している。言いたいことはあるのに声が出ない、そんな顔をしている。

「風呂、空いてるよね。入ってからご飯食べるよ。あと期末前だからしばらく部活ないからね」

呆然としている父の横をすり抜けて、神はバスルームに飛び込んだ。

もういいんだ。終わったことなんだから――