トイ・ソルジャーズ

01

自分ではそんなことを微塵も思っていなくても、人は育った環境でその感性や価値観を育まれていくものだ。どんなに違うと思ったとしても、子は親の影響を受けて育つ。同じ家に暮らしている以上、これはどうしても避けられない。

――なんていうことを、神は春から延々思い知らされ続けている。

その傾向は小学生の頃からあったけれど、既にバスケットに夢中だったし、周りもそんなことは気にしなかったし、中学生までは特に問題はなかった。だから高校生になって初めて、ささやかなひずみとして彼に「家庭環境の違い」というものを強制的に実感させる羽目になった。

「神くん今日も部活? 大会終わったとか言ってなかったっけ」
「終わったよ。でも練習は大会に関係なくあるから」
「こんな寒いのに大変だ……頑張ってね」
「ありがとう。さんも風邪ひかないようにね」

こんなことをにっこり微笑んで平然と会話できる神の場合、これはかっこつけているわけでもなんでもなく、ごくごく普通のことだった。そしてこれも、小学生くらいならそれほど注視されなかったのだけれど、高校1年生でこのレベルだと、平均値からはどうしてもはみ出る。

神くんて優しい、という程度で済んでるうちはまだよかった。

それが神の「デフォルト」であり、対象が「全て」であることが浸透してくると、彼の評価は二極化して、まあそれでも好意的な見方の方が圧倒的ではあったのだけど、彼は少々出来のよすぎる、しかしその反面近寄りがたさもある人間味のない人というキャラクターになりつつあった。

いつでも誰にでもにこやかに応対しているのに、なぜか相手が激しく動揺して逃げたり、悲しそうな顔をして逃げたり、あとは稀に苦々しい顔をされたりもして、本人はそれが少し悩みの種だった。

なぜといえば、そんな彼でも人並みに恋をしたからだ。

「神くんて……口が上手いよね」
「そういうつもりじゃないんだけどな。寒いし、風邪が流行ってるから」

今彼の目の前で苦笑いをしている、彼女に。

「じゃあねー」
「うん、気をつけて帰ってね」

また困ったような顔をしているの後姿に手を振りながら、神は小さくため息をついた。

神はよく女子から「神て可愛い顔してるよね」なんて言われるのだが、その顔は母親譲り。ついでに「背が高くて小顔でスタイルいいよね」とも言われるが、これは父親譲り。バスケットをやっているせいで、父親よりだいぶ高くなってしまったけれど、おそらくバスケットをやっていなくても180センチくらいにはなっていただろう。

神の父親というのが、背が高く顔が小さく造作がよく、息子である神から見ても大変なイケメンであった。しかも見た目が良いだけではなく、何にでも秀でて欠点らしい欠点がないという超人タイプの人間であった。対する母親はそんな父にベタ惚れで、ひとり息子より夫を優先しがち。

「ただいま」
「おかえり。鼻真っ赤だな、ちゃんと体暖めてから寝ろよ」

この日も練習を終えて帰宅した神に親らしい言葉をかけたのは父だった。母は鼻歌交じりで入浴中、部活で疲れて帰ってきた神は父親に食事の用意をしてもらって黙々と食べる。

「もう3年生引退したのか」
「うん。選抜終わったしね」
「なんだっけ、お前のひとつ上の、あのすごい上手い子」
「牧さん?」
「そうそう、あの子が新しいキャプテンか?」
「そう。2年だけど既に一番上手かったし」

こうして部活の話を聞いてくれたり、休みの日なら試合も見に来てくれたりするのは父親だった。小さい頃から父親がこうして穏やかにじっくりと話をしてくれることが多くて、自然と神もそういう風に人と話せるようになっていった。だから、誰とでもにこやかに話せるのは父のおかげ。

「今年はもうクリスマスとか年末年始は無理か?」
「クリスマスはバスケ部の集まりがあるけど、年末年始は普通に休みだよ」
「まあでも、無理はしなくていいからな。家族より彼女の方を優先しろよ」
「彼女いないんだけどね」
「それもおかしな話だな、お母さんに育てられたのに……

優しい神くん形成に大きく関わる「女の子を大事に扱う」ということを徹底して刷り込んだのは彼の母親。それ自体悪いことではないのだが、父親譲りのソフトな対人技術に母親による女性観がセットになって神に備わってしまい、おかげで神は今困っている。

神が食事を終える頃、バスルームの方からよく響く母親の歌声が聞こえてきた。

「またHeartか、好きだなお母さんも」
「昨日はCuttingCrewだったよ。ごちそうさま〜」

神は食器をキッチンに運ぶと、手早く洗って水切りカゴの中に入れていく。奔放な母親の信条が「自分のことは自分でやる」であり、それが当たり前の神は自分の使った食器を洗うことに疑問を感じたこともなく、これがまた日常のことは母親にやってもらって当たり前というのが圧倒的に多い同世代の中では特殊な方に入る。

さらに特殊なのはこういう神のちょっと出来すぎたような振る舞いだけではなかった。

「お、宗ちゃんお帰り。ご飯食べた?」
「ただいま。食べたよ、ごちそうさま」

風呂上りの母親と晩酌を始めた父親はリビングで揃ってテレビを見始めた。テレビというかDVDだが、母親の大好きな古い洋楽のPV集だ。神家ではこれが流れているのが普通のことで、映像がなくとも常に70年代から80年代の洋楽が流れているという状態だった。

そんな環境で育てられてしまった神は、結果としてリアルタイムで流行している芸能情報やアニメにものすごく疎い男の子になってしまった。しかもバスケットを始めてからはテレビ自体を見る時間がなくなってしまい、ますます同世代にとって常識の範囲のカルチャーから遠ざかる。

そういう環境の影響をモロに受けた神は、小学生の頃、母親が流しっぱなしにしているDVDの映像の中の女性に恋をした。どうやら恋らしいと自覚した最初のケースで、名前をMartika、マルティカと言った。

今も昔も母親はHeartのナンシー・ウィルソンが大好きで、それというのが派手な金髪に大きな胸、くびれたウエストに長い足、ピンヒールというわかりやすいルックスのアメリカ人女性。対するマルティカは短いストレートの黒髪で、服装も地味、ただ唇だけが薔薇色で、神はその唇に恋をした。

マルティカ最大のヒット曲である「ToySoldiers」のPVを見た神は、あの唇にキスしてみたいと思った。

母親が好きだというナンシーも確かにきれいなのだが、迫力がありすぎて、幼い神には魅力を感じなかった。それよりはマルティカの物憂げな眼差しと薔薇色の唇、白っぽい肌が妙に色っぽく見えて、背中がぞくりとしたのを覚えている。

万事この調子なので、もし神がバスケットをやっていなくて、だらだらと学校と家を往復するだけの10代だったとしたら、まるで友人と話が出来ない悲惨な状態になっていただろう。背が高くて可愛い顔をしているから、すぐに彼女も出来ただろうけれど、おそらく話が通じない。

ちょっとマニアックだったり専門的な知識や趣味は、そうでない知識を人並みに持っていて初めてオシャレに見えたりするものだ。そんなわけで、それら全てひっくるめて神は困っている。

マルティカのように、派手さはないけれど肌がとてもきれいなに恋をした。

だけど、それをどうしたらいいかわからない。まずだいたい部活で忙しい。時間が作れたとしても、古い洋楽や映画の話くらいしか話題がない。適当な話題があったとしても、神特有の誰にでも優しくにこやかな対応だと思われる。結果、神は身の程知らずにも劣等感を抱くようになってしまった。

見た目よし、運動よし、成績もよし、性格もよし。だけど好きな女の子の特別になれない。

さらに言うと、母親似の可愛い顔は嫌いだった。父のような精悍な顔がよかった。勉強は出来るのではなくて、必死で維持している。バスケットをするための両親との約束だから。父のように教科書だけで定期考査1位を取る頭脳はない。バスケットも、生まれつきの才能ではなくて、努力の結果だと思っている。

性格というか、特に女の子への対応が優しいことに関しては刷り込みが激しいせいで、逆に女の子に対して失礼な言動を取りがちな同級生や先輩たちの方がおかしいと思っている。

つまり、そこそこ人から羨まれる要素をたくさん持ちながら、それらのせいでに好きだと言い出せないという悩みを抱えたまま、1年生の2学期も終えようとしていた。

その上、現実問題として部活が生活の中心である以上、例えと付き合えることになったとしても、彼女のために割いてやれる時間がどれだけあるのかと言われれば、これがほとんどない。と付き合えるようにしてやるけれどバスケットをやめろと言われたら、迷わずバスケットを取る。

バスケット中心の生活を譲るつもりはない。だけど、のことが好きだ。好きになんてなりたくなかった。好きだと気付かなければよかった。バスケットだけやっていられればそれでよかった。

眠いけれど成績を落とさないためには少し勉強しなくてはならない。自分の部屋に戻った神は頭をリセットするためにヘッドホンをして、少し音量を上げて「Toy Soldiers」を3回だけ聞く。耳に聞こえるマルティカの声に、の顔が浮かんできて、この数分間だけは、バスケットも勉強も共通の話題に乏しい同級生たちも忘れた。

閉じた瞼の裏のは少し困ったような顔をして笑っていた。

終業式の日、ホームルームを終えた神は同じクラスの割と騒がしいグループに声をかけられた。クリスマスの日に遊ばないかという誘いだった。だが、海南大附属のバスケット部には引退した3年生への労いも込みで毎年12月25日に宴席が設けられる伝統があり、これは抜けられない。

「何言ってんの、クリスマスって、イヴの方だよ」
「ああ、そっかごめん。だけど2日続けて遅くなるのはさすがに……

はっきり言いはしないけれど、24日は普段どおりに練習があるし、25日が遅くなるのは確実なので出来れば行きたくない。26日も昼から練習があるので、24日も遊んでしまうとさすがに疲れる。父親は家族より友人関係を大事にして欲しいようだが、それほど親しいわけでもないのだし、惹かれるものがない。

だが、どんな風に遠慮しようかと考えていた神の視界にが飛び込んできた。

「神くんも来るの?」
「いや……ちょっと無理そう……なんだけど……
「やっぱり部活? まあでもそのために海南に入ったんだもんね」
「う、うん、まあね……

どうやらこのクラスのクリスマスの集まりにも行くらしい。それがわかると、神は言葉に詰まり始めた。いくら練習が大事と言っても予定では練習納めは28日、29日から3日までは学校自体が閉まる。そこまで何とか持たせれば、2日連続で遅くなったって、いいんじゃないかという気がしてくる。

まだまだ体力に自信があるというほどではないけれど、休みが控えているのだから、勉強を少し先送りすれば?

「バスケ部の集まりは知らないけど、こっちはそんなに遅くならないよ」
「そ、そうなんだ」
「集合14時だし」
「その時間まだ部活だよ」

クラスの中でも目立って騒がしい女子の言葉に、神はスッと肩の緊張が抜けるのを感じた。14時ならまだまだ練習の真っ最中。そこから彼女たちがどれだけ遊ぶのかはわからないけれど、おそらく完全に間に合わない。いい口実が見つかった神はまた元通りのゆったりとした笑顔に戻る。

「じゃあ、間に合いそうだったらおいでよ。たぶん19時くらいまではカラオケにいるし」

行かれなくてよかった。神はにこやかな笑顔の裏で冷や汗をかく思いだ。カラオケなどとんでもない。きっと彼女たちの歌う曲はなにひとつ知らないし、神が知っている曲を彼女たちは知らないに違いない。気を遣おうにも知らないものは知らない。こういうところから「種類の違う人間」なのだという認識は広がっていく。

「どうかな、部活18時までだし、ジャージだよ」

神は安心したので、自分でもそれとわかるほどにっこりと微笑んで、努めて冗談っぽく返す。

「一応頭数には入れないでおいてくれると助かるな。行かれなかったら悪いから」
「律儀だなあ、もう。でも、場所は一応連絡するからね」
「ありがとう」

もさっと手を挙げて、じゃあね、と言って去っていく。彼女とクリスマスの夜を過ごせたらどんなにいいだろう。外を歩いているだけだって、楽しいに違いない。きっともっと彼女に夢中になってしまって、もっともっと好きになってしまう。それは、あまりよくないことのような気がした。

そんなもの、まるで毒のようにオレを蝕んで、何もかもを壊してしまう。だから、そんな幸せな時間なんかない方がいい。なんて、できるだけ早く忘れた方がいい。海南を受験すると決めた時から、恋愛とかバイトとか学校の外での高校生の楽しいことは全部捨てたんだ。それは、オレの高校生活の中には存在しない。

だいたい、バスケ部の先輩たちだって、彼女いるって人の方が少ない。中にはすごくモテる人もいるけど、付き合って長続きした試しがないって言ってた。女の子はみんな、第一に自分のことだけを見てくれる男じゃなきゃだめだから。バスケットが一番で、たまに君、なんていうのは許せないのだから。

神は荷物を纏めると、こっそりため息をついて教室を出た。教室から部室までの間にまた頭をリセットしなくては。片耳にだけイヤフォンをねじ込み、「Toy Soldiers」を流す。だけど、それでは余計にのことを思い出すので、途中で曲を変えた。

だけど、シャッフルで出てきたのはグレン・メディロスの「Nothing's Gonna Change My Love for You」だった。これでもかというほどコテコテのラヴソングだ。神はイヤフォンを引き抜き、無理矢理海南大附属の校歌を頭の中で慣らしながら部室に向かっていった。