トイ・ソルジャーズ

06

「なんかちゃんと付き合えることになったらしい」
「時間かかったねえ」

このところ、部活が終わってからと会っているので、神の帰りは遅い。それを口うるさく言うような母ではないのだが、父は本人がいないので報告しておくことにした。母は案の定軽く受け止めている。

「宗、嬉しそうだった。バスケももちろんいいんだけど、僕は嬉しいな、こういうの」
「これで部活が忙しくなかったらねえ。私たちもちゃんと仲良くなれるんだけど」

母は気楽なものだが、父は息子に彼女出来ました報告を受けたあと、思わず涙ぐんだ。息子がいい子なのはありがたいことなのだが、なんだか対面的にはいい子すぎて逆に人間味のない子に育っているんじゃないかという不安があった。それが人を好きになり、その気持ちを受け入れてくれる相手を選び出せた。それが嬉しかった。

しかもその相手が好感が持てる子ときている。そうは言っても人様の家のお嬢さんだと臆する気持ちもあるが、それこそ息子は先様の気分を害するような付き合い方ができるようなタイプではない。そこのところは徹底して「女の子に優しく」を刷り込んだ母の教育の賜だ。

「そっかあ、宗ちゃんも大人になり始めてるんだねえ」
「僕達も同じように通り過ぎてきた道だ。干渉するのはやめようね」
「まあ私は元からそーいうの面倒だから」
「子離れしなきゃいけないのは僕だけかあ。寂しいので構ってください」

母は声を上げて笑い、父の頭をくしゃくしゃとかきまぜた。

と付き合うようになってからというもの、神の日常から消えたものがある。「ToySoldiers」である。

朝練、学校、部活、帰って勉強という中学の頃からずっと変わらなかったルーティーンの中にが入ってきて、そのバランスが一変した。最初は戸惑ったけれど、春休みだったことが幸いして、学校があることを想定しながら徐々に慣らしていくことが出来た。

また神の予想通り、は部活で忙しいことには何も不満を言ってくることはなく、むしろ試合を見てみたいと言い出した。さらに、クリスマス以前から神がよくイヤフォンを差し込んで部活に向かう姿を見ていたは、何を聞いているのか気になっていたと言って、神の好きな70〜80年代の洋楽に興味を示し始めた。

それが高じてか、今度は古い洋画にも興味を持ち始め、なんだか神の影響で趣味が伝染し始めた。本人曰く、自分は個性がなくて興味の入り口がよくわからないし、だけどそのぶんこだわりがないから神の好きなものにも満遍なく興味があるという。

そんな生活の中で、気持ちをリセットするために「ToySoldiers」を聞くという習慣が、どこかに置き忘れてきたようになくなってしまった。勉強もと一緒するようになったからだ。春休みの間であれば、昼間でも夜でも神家がを歓迎しているので、好きな時に一緒に勉強ができた。

母はそれほど変化がないのだが、が来ると父がとにかく喜んで、ふたりで過ごしなさいと母を連れて出かけてしまうこともしばしば。そんな気の遣われ方をすると逆にが緊張すると言ってみた神だが、父は意に介さない。信用されているという無言の圧力だと神は思った。

「奨励されてるみたいで嫌なんだけどなあ」
「って言うけど、するんでしょ」

キスのことだ。海南の春休みというのは校内のメンテナンスシーズンであり、毎年春休みの間は練習時間がバラバラになる。早く終わってしまったり、開始が遅くなったり。それは越境入学者が入寮して来る4月頭まで続く。そんなわけで久々に午後から休みになった神は自宅のリビングでを膝に抱いていた。

勉強と言っても、春休み。予習しようにも独学では出来ることに限りがある。は外部受験を考えているというが、まだ2年にもにもなっていないし、それほど高望みをするつもりもないらしい。予備校はどんなに早くても2年の秋からでいいと言っている。そんなわけでふたりはDVDをかけながら、のんびり過ごしているというわけだ。

「マンマ・ミーア!」も見たと言っていたし、はミュージカル映画が好みのようで、今も「マイ・フェア・レディ」を流している。その前は「サウンド・オブ・ミュージック」に「オズの魔法使い」など、神には少し甘ったるいが、がいれば気にならない。

そうやって親の計らいでふたりきりになっていることが面白くない気持ちはあっても、可愛い彼女が膝の上にいればキスくらいはしたくなっても仕方あるまい。今も神を見上げたの頬を引き寄せてキスしたところだ。

「あ、わかった」
「えっ、何?」
「宗、小さい頃から洋画見てたって言ってたから、そのせいだね」
「何の話?」
「キスの話」

は面白そうにくつくつと笑っているが、神は何の話なのやらわからずに首を傾げた。

「ええとね、それが悪いとかじゃないんだけど、なんていうか、映画の中のキスみたいだよね」
「え、そ、そう、かな?」
「最初はちょっと驚いたもん」

そこで神の記憶がまたバチンと音を立てて蘇る。確かあれはマルティカにキスしてみたいと思った頃のことだ。たまたまテレビをつけたら、ドラマの再放送をしていて、ちょうどキスシーンに出くわしてしまった。洋画で慣れているので、キスシーン自体は問題ではなかったのだけれど、神は慌ててチャンネルを変えた。

なんだこの汚いキス。

それが子供の頃の神の正直な感想だった。唇を真横に結んだままぐりぐりと押し付けているようにしか見えなくて、ぞわりと鳥肌が立った。だが、その後は基本的にテレビを見ない生活だったし、家で流れているのは洋画のDVDだし、つまり神は日本人のキスを1度しか見たことがなかったのだ。

懐かしい記憶であり、久々に出てきた「育った環境による刷り込み」であったので、神はそれを正直に話した。

「別に嫌じゃないから、大丈夫だよ。……私、他に知らないんだし」

キスした途端気持ち悪いと言ってビンタしてくるような子でなくて神は運が良かった。別に嫌じゃないなら、遠慮なく。するりと腕を絡ませてくるを抱き寄せ、神は「映画の中」みたいなキスをした。

しかし、どこに出しても安心な神さんちの宗一郎くんは、それ以上はに手を出していない。親が気を利かせて家を開けていても、くっついてキスするくらいで、ももちろんせがんだりはしないので、進展はない。

神とて興味がないわけじゃないし、欲求もゼロではない。けれど、それを思うさま外に出すものだという感覚は限りなくゼロに近い。表に出してはいけないのだというよりは、ガツガツするものじゃないと思っている。時間をかけて到達するものだという意識の方が強かった。

そんな距離感のまま、ふたりは2年生になった。クラスは分かれてしまったけれど、C組とD組で、隣だった。特に触れ回ったわけでもないし、だけど聞かれれば正直に答えていたので、みんなの癒やし「優しい神くん」がと付き合いだしたということは、思っていたよりも穏やかに狭い範囲で認知されつつあった。

むしろこのことで騒いだのは3年生になったバスケット部の先輩たちだ。ただでさえ実績があり見栄えがするのでバスケット部員はモテる。モテるが、だいたいが長続きしない。海南で1年の壁を乗り越え、それでも部に残っているような部員の場合、最優先事項はバスケットであって、彼女は二の次だからだ。

「お前なら長続きしそうだから面白がって冷やかしてるんだろうが……
「いえ、別に構いません。彼女に何か害があるわけではないので」
「そーいうところが余計に突っつかれるんだろうなあ」

牧はまた苦笑いだ。部活が忙しいことに理解がある彼女、なんて羨ましい。だけどそれは神だから勝ち得た結果だということもわかっている。それを僻んだりはしないけれど、突付いてみたくなってしまうのは仕方あるまい。あまりしつこいようなら口を挟むかと牧は考えていたのだが、どうやら心配いらないようだ。

「先輩方はまだいいんですよ。清田の方が面倒くさいです」
「あれはもう鉄拳制裁しとけ。いくら殴ってもあの頭は割れないように出来てる」

新入生ながら驚異的な身体能力でスタメン入りが噂される清田、そのお目付け役が今のところ神である。活発で単純で闘争心がある清田は、神のように淡々と落ち着いたタイプの前だと勢いを挫かれやすく、御するのが簡単になる。そんなわけでこのところ神は清田にものことを突かれている。

懐かれているのはいいのだが、物怖じしない性格の清田は一歩間違えるとプライベートに踏み込み過ぎる傾向があるので、それをあしらうのが面倒だった。お目付け役の先輩の彼女見てみたいっす、ということらしい。

だが、部活は部活、。神は一切の例外も許さず、部活とをゴッチャにしたりはしなかった。が練習試合などを見学しに来るのは構わない。だけどあれが彼女ですなんて教えたりはしないし、にも部活の最中に相手は出来ないと言ってある。

それに拗ねたりするようなではなかったから、神とというカップルは、とにかくきれいに噛み合って少しのずれもないような関係だった。神は次期キャプテンほぼ確定の2年、正確無比なシューターとしてますます活躍しているし、ふたりとも他に何の問題もなく、とにかく全てが順調だった。

それから2ヶ月ほど経ったある夜のことだった。例年通り海南はインターハイ県予選ブロックトーナメントを勝ち抜き、決勝リーグ戦を控えていた。まだまだムラがあるものの、清田はスタメンとして頑張っているし、何しろ今年も部長無双で海南は負けなし。神も一部では非常に有名な選手となりつつあった。

この日、神はいつものように部活が終わってからの地元駅で待ち合わせていた。だが、は浮かない顔をしていて、少し歩いたところで神の袖を引いて足を止めた。

「どした?」
……宗、別れよ」
………………は?」

の言葉の意味がまったくわからない神は、首を傾げた。ふたりの関係はあまりに順風満帆で、そんな言葉が入り込む余地などないはずだ。また、はこんなことを言って神を試すようなことはしない女の子だったし、冗談にしては内容が重すぎる。というか何の話だ。

大丈夫?」

なぜか具合でも悪いのかと考えた神は、の背に手をかけてそっと引き寄せた。だが、は神の腕に手を添えて、やんわりと押し留める。の顔は真剣だった。

「え? 何言ってんの? なんで?」
「ごめんなさい、別れてください」
「ちょっと待って、急にどうした?」

別れる理由なんかないじゃないか。距離を置こうとするに神は寄り添う。

……他に好きな男できたの?」
「ううん」
「じゃあ、オレ、何かした?」

はずっと静かに首を振っている。だったら何でそんなこと言い出すんだよ。

……もう、無理なの」
、ちゃんと話してよ。オレ、別れたくない。のことまだ好きなんだけど」
「私も宗のこと、好きだよ。大好きだよ」
「は?」

また路上だったので、神は道の端にを寄せて、少し屈む。好きなら別れる必要ないじゃないか、、熱でもあるんじゃないのか。顔を寄せた神に気付いたは、また一歩下がって距離を取った。

「宗は、優しいしかっこいいし何か私にはもったいないくらいで、だけど私も宗が好きだし宗も好きだって言ってくれるし、それでいいと思ってた。でも、やっぱり私、宗の彼女でいられる自信がない」

俯いたは両手を胸の前で握り合わせている。力を入れているせいで、指が真っ白だ。

「宗が彼氏なんて、夢みたいだった。宗の好きなもの、何でも知りたいと思った。でもそうしてるうちにどんどん好きになっちゃって、宗のことばっかり考えちゃって、それだけならまだよかったのに、もう、だめなの、私、嫉妬してばっかりで、どんどんひどい人間になってる」

神はまたわけがわからなくなって首を傾げる。それは別れる理由にならないんじゃ……

「宗がいつものようにクラスの子におはよって言ってるだけで、私以外の女の子の荷物持ってあげたりとかしてるの見るだけで、頭に血が上って、どうにもならないの。この間もそう、体育館で清田くんと一緒に1年生の女の子に囲まれてるの見ただけで、頭に来て、宗のバカって、思っ……

の右目からぽたりと涙がこぼれ落ちる。それを目にした神は、全身が凍りついたかと思うほど血の気が引いて、気が遠くなった。好きな女の子の涙はこんなにも胸を抉るのか。だけど、だけどそれはおかしい。それほど思われているのは嬉しいけれど、それで別れたいと思う意味がわからない。

「だけどそれは――
「矛盾してるの。私、そういう宗が好きなの。誰にでも別け隔てなく優しくて、誰にでも好かれて、真面目で」
「いや、、ちょっと待って」
「だけどそういう宗を見るのがつらい。宗を独り占めしたいって思うたびに自分が嫌いになる」

こんなにお互いを好きだと思っているのに、なんで別れ話になっているのかわからない神は、珍しく思考停止してしまって、力任せにを引き寄せてぎゅっと抱き締めた。こうして捕まえておかなかったら、どこか遠くへ行ってしまうような気がして。

……もっとずっとこうしてたいって思うの。なんで宗はずっと部活なんだろうって思っちゃうの」

冷ややかなの声に、神は思わず身を引いた。

「ね? 宗の彼女、失格でしょ」

悲しげに微笑んでいるは、眉尻を下げて絶句している神の胸に頬をすり寄せた。

「バスケやめて欲しいなんて思ったことない、もっともっと頑張って欲しいって思ってる。みんなの優しい神くんが私の彼氏なんだって思ったら、本当に嬉しかった。だけど、そんなの上辺だけだったんだよ、心の底では宗の一番になりたいって思ってる。我慢しようとしても、私だけの宗でいて欲しいって、思っちゃうんだもん」

の両腕が神の体を締め上げる。

「なんでキスだけなの、宗は私に触りたいって思わないの、ずっと一緒にいたいって思わないの――。そんなこと考えちゃうんだよ。だから、ああ、私は宗の彼女にはなれないんだって、思って」

腕を緩めたが静かに離れる。

「そんな身勝手なこと言って、宗に嫌われたくない。付き合ってみたけど、やっぱりわがままでつまんない女だって思われるの、嫌だった。……って、全部言っちゃったから、同じだよね。こんな人間で、ごめん」

何も言葉が出てこない神からまた一歩離れたは、鼻をグズグズ言わせながらぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい、付き合ってくれてありがとう、嬉しかった。だけど、私こんなにひどいから、わす、忘れて!」

ワッと泣き出したは、そのまま神の横をすり抜けて、走り去って行ってしまった。

その日のうちに、神の元に「ToySoldiers」が戻ってきた。が走り去ってからたっぷり数分はその場を動けなかった神だが、清田からのメールの着信音に我に返り、とぼとぼと歩いて帰ってきた。まだ自分でも何が起こったのかよくわかっていなかったので、普段通りに帰宅し、食事をして、部屋に戻って机に向かったところで、ヘッドホンに手が伸びた。

今年初めて同じクラスになった隣の席の男子は、何が原因か最近彼女と別れたと言っていたが、好きで付き合っていたはずの彼女のことをボロクソに言っていた。それをふと思い出した神だったが、彼と同じようにを罵倒したいとは思わなかった。

マルティカのあどけない声を耳にして脳裏に浮かぶのは、笑顔のだけ。クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、自宅のリビングで。いつでもはにこにこと笑っていた。何かしてほしいとか、何かが嫌だとか、そんなことは一度たりとも言わなかった。

には、幸せな記憶しかない。と一緒に過ごしていて、彼女を不満に思うことなどなかった。むしろも言っていたように、一緒にいればいるだけ好きになってしまって、この気持ちがいつか落ち着くことなどあるのか疑問に思うくらいだった。

「優しい神くん」は誇りのはずだった。そんな神でいいんだとも言ってくれていた。

それがを苦しませて、悩ませて、神の元を去らせた。

どうしたらいいかわからないけれど、どうにかするようなことでもない気がする。神は3回目の「ToySoldiers」がフェイドアウトしていく中で、ぼんやりとバスケットコートを思い描く。牧が3年の今年は、海南史上最もインターハイ優勝に近いチームのはずだ。自分はその一角を担っている。自分の代わりなど他にいない。

のことは好きだ。今でも胸が苦しくなるくらい好きだ。だけど、彼女を苦しめたくない。

ヘッドホンを静かに外し、目を閉じて大きく深呼吸する。さあ、忘れよう。スイッチを切り替えよう。