トイ・ソルジャーズ

09

土手を挟んだ背後からはひび割れた音の祭り囃子が響いてくる。まだ時間が早いので、土手を行き来しているのは親子連れや中高生ばかりで、みんな一様に楽しそうに笑っている。それを見上げることもなく、神とは俯いて落ち込んでいる。

神は祭に誘われたわけでもなく、ただやっとこの近くに夜でも練習できるバスケットゴールを見つけたので、下見に来ていた。そこを去年同じクラスだった女子たちに捕まったというわけだ。しかも聞けばこの辺りではあまり評判のよろしくない高校と祭コンで、そこにを呼んだという。

残ってどうなるわけじゃないし、会っても何も話せないのに、神はつい誘いに乗ってしまった。そして今、後悔している。がひとりで祭コンごとき、やって来るわけがないじゃないか。案の定は清田を隠れ蓑にして逃げるつもりでいたらしいし、神の取り越し苦労だった。

ともあれ、いくら気まずかろうが、女の子が何かアクションを起こしてくれるのを待つのは信条に反する。神はガードレールから離れると、を威圧しないように半分だけ振り返った。

「帰るなら、送っていくよ」
「えっ、いいよ、大丈夫だって」
「こんな早い時間にひとりで祭から帰ろうとしてたら、誘ってくれって言ってるようなものだろ」

今日のはわざとらしいまでの普段着で、神が言うほどには危険はないだろうし、駅までは遠くない。時間も早くて人も多い。だから、どうしても送って帰らないとならないというわけではなかった。それでも神はをひとりで帰したくなかったし、せめての最寄り駅までは送って帰りたかった。

……そんなに警戒しなくても、何もしないよ」
「そっ、そんなこと思ってないよ」
「駅までしか行かないから、送らせてよ」
……ごめん」

が立ち上がったのを確かめると、神は少し離れて歩き出した。きゃあきゃあと歓声を上げて走って行く浴衣の女の子、それを追いかける声変わりで掠れた声の男の子、その中を神とは俯いてとぼとぼと駅に向かう。もう少しすれば花火が始まるはずなので、人の波は引き潮のようにふたりを通り過ぎて行く。

「あの、インターハイ、惜しかったね」
「うん、あと少しだったんだけど」

あんまり黙っているのもつらいので、はぼそりと言う。神も低い声で返した。

「清田くん相当悔しがってたね。宿題全然進まなかった」
「ああ、大変だったね。後輩がバカでごめん」
「でもなんかいっぱいおごってもらっちゃって……

どこで宿題の面倒を見るほど親しくなったのか気になって仕方ない神だったが、そこは我慢してぐっと飲み込む。本人たちが言うように付き合ってるわけでも付き合いだす寸前というわけでもないようだし、勘繰り過ぎだ。

「清田くんて変な子だよね、勉強なんかちっともしてないみたいなのに、心を読まれてる気がしちゃって」
「バスケ部では清田は野生動物ってことになってる」
「あー、なるほどね。鼻がいいんだね」

神もも、正直、清田のことなどどうでもいい。だけど、今に限っては清田というネタがあることがありがたい。一番どうでもいいネタだからこそ、今この場では最適な話題といえる。

「日本で2番目だなんて、それが海南だなんて、なんだか変な感じ」
「日本一になれたはずだったんだけどね」
「来年なればいいよ」
「そんな簡単な話じゃないんだよ」

神は苦笑いで首筋を掻いた。部長は既に推薦が決まっているのでまだ引退しない。そのぶん新体制への移行にはまだ時間があるが、どうあがいてもいずれは自分が主将になる時が来る。牧のようにチームのキャプテンを務められるかどうか、今は少し自信がない。

「牧さんの次だからね、キツイよ」
「牧さん……ああ、あのすごく上手いっていう部長さん」
「少なくともオレたち後輩は牧さんが日本一だと思ってるし、人望もあるし、ほんと普通にいい人だし」
「へえ、すごいね、完璧だ」

清田の次は牧だ。しかも部長の場合、清田よりもエピソードにこと欠かない。神は大袈裟にならないように気を付けながら、駅に到着するまでの間、部長武勇伝を喋り倒した。ちょっとだけならネタっぽく喋って、おかげで改札に着く頃には気まずさがなくなってきた。神は止められない内にさっさと改札を抜ける。

「ふうん、だから清田くんは湘北が嫌いなんだね」
「嫌いっていうか、まあ、負けず嫌いだからね」

そして話はまた清田と、そして今年のインターハイ県予選に遡っていく。ちょうどふたりが別れた頃の話だが、そのことには触れない。下り方面の電車は空いていて、ふたりはまた距離を置いたまま揺られていく。

……降りなくていいからね。そしたらこのまま帰れるでしょ」

俯いたままそう言うに、神は返事をしなかった。そして、気まずそうな顔をしているに構わずに一緒に降りた。今度こそしっかり嫌われてしまうかもしれないと思ったけれど、できればマンションのエントランスまで送って行きたかった。が、駅舎を出た神はピタッと立ち止まってを見下ろした。

「これ、どうすんの」
「ど、どうするって、その」

祭の夜で羽目を外したか、駅前には素行のよろしくない少年が大量に溢れていて、パトカーが何台も集まっていて、なんだか昭和の学生運動みたいな状態になっていた。善良なる一般市民はこそこそとその騒ぎを避けていくが、少年たちの量に対して警察の人員が明らかに足りていない。

「あのさ、嫌だろうけど、身の安全だと思って――
「さっきからなんでそんな風に言うの。いじめてるみたいに言わないでよ」

にきっと睨まれて、神は喉を詰まらせた。そんなようなもんじゃないか。オレは今だってあの頃と変わらずに君が好きなのに、君だってオレが好きだって言っていたのに、訳のわからない理由で一緒にいられなくなった、それはオレのせいじゃない。

「部活で疲れてるのに悪いなって思っただけで、他には何も――
「っても学校ないからね。言うほど疲れてないよ。行こっか」

ざわざわと胸が騒いだけれど、神は平静を装う。襲いかかる感情の波に乗ってしまったら、行き場のない想いが爆発してを傷つけてしまいそうだ。は辛そうな顔をしていたけれど、神は構わずに歩き出す。警察の多い場所を選んで駅前をやり過ごし、騒ぎから逃げる人たちに紛れて駅を離れる。

神の自宅から自転車などで来ようと思うと距離があるのマンションだが、最寄り駅からは遠くない。だらだら歩きでも20分もすれば着いてしまう。付き合っていた頃はよく送って帰った道のりだ。手を繋いでくっつきながら歩いて、マンションの手前の木陰で何度もキスした。

何も喋らずに歩いていると、深く押し込めて眠らせていたはずの想いがのろのろと起き上がってくるような気がして、神は怖くなってきた。を送り届けるだけ、そう念仏のように繰り返し言い聞かせているけれど、ポケットの中の手はきつく力を入れておかないと、と手を繋ぎたくてうずうずしている。

別れを切り出したが言っていた。

なんでキスだけなの、宗は私に触りたいって思わないの、ずっと一緒にいたいって思わないの――

思わないわけないじゃないか。24時間一緒にいたいって思ってるよ、24時間に触れていたいって思ってるよ、キスだけなのは我慢してたからだよ。学校もなくて部活もなくてバスケットもなくて、だけどへの気持ちがあったら、そんなこと言わせなかったよ絶対。

しかし神はそう思うたびに頭がすっと冷える。

だけどさ、学校もどーでもいい、部活とかスポーツとかダルい興味ない、彼女とはイチャコラするけど、他の人間には冷酷で乱暴で挨拶すら出来ないような、そんなオレだったら付き合ってくれた? 好きになってくれた? そんなのに触れて欲しい、もっと一緒にいたいって思ってくれた?

神が堂々巡りになるように、も同じようにその間で苦悩して、だけど神と一緒に過ごせる時間が短いのを寂しいと思ってしまうことを抑えられなくて、別れを選んだ。神にはそれが理解できない。

我慢の量は同じだと思っていた。自分もに会えないのは寂しい、だから同じ。同じなのに別れたいなんてわがままを言ったのはの方。今でも好きなのに、それを受け入れるしかなかった自分の方がつらかったはずだ。望んだ通りに別れられたは、自分よりつらくないはずだ。

「今日はチャリじゃなかったんだね」
「えっ、ああうん、もしかして走っても行けるんじゃないかと思って」
「結構距離あるのに……すごいなー、ほんとバスケのためならなんでも、って感じだね」

体を動かすのは嫌いじゃないけど長距離走は普通に苦しいであるから、ただ感心しただけだった。けれど、その一言が当てこすりに聞こえて、神は生まれて初めてキレた。こめかみのあたりでドクンとひとつ大きく脈が打った気がして、直後にの手首を掴むと、目の前にあったアパートの塀の影に引きずり込んだ。

「なにするの、やめ――

手を上げて抵抗しようとしたの両手首を掴みなおすと、乱暴に唇にかじりついた。何しろ力では叶わないし、突然豹変されたので、は為す術もなく震えている。神はの頬から耳、首筋へとキスを繰り返し、怯えて固まっているの胸を片手で掴んだ。

あまりに頭に血が上っていて、何の感慨もなかった。の胸に触れているのだという意識はなかった。夢中でキスして手を動かしていた。しかし、自分の荒い呼吸に混じって涙声が聞こえてきた瞬間、神はぴたりと手を止めた。貪り食らっていた唇も止まる。

「やめて、お願い、怖い、やめて――

はらはらと涙を零しながら、は震えていた。真夏だというのに真っ青な顔をして、全身で震えていた。

我に返った神は、の頬に手を伸ばして、ゆっくりと撫でる。

「なんでキスしかしないのって、触りたいと思わないのって、言ったじゃないか」
「ごめん、許して、お願い」
「オレが部活辞めたらよかったの? 以外の女の子とは一切口も利かなかったらよかったの?」

神は震えるの体を優しく抱き締めて、髪を撫でる。

「ごめん、やっぱりどうして別れなきゃいけなかったのか、わからないよオレ。今でものこと好きだよ、キスしたい一緒にいたい触りたいって思うよ。オレだって普通の男だもん、彼女いたら、好きな子いたら、そう思うよ、当たり前じゃんそんなの。だけど、はほんとにそんなの望んでたの?」

そして突然を解放して一歩下がった。

はオレに何を望んでたの? 何をして欲しかったの?」

神の豹変に怯えて震えるばかりだっただが、押し殺した神の声に目が泳いでいる。

「やり直せるチャンスはあるって、思ってた。今でも両思いなんだって思ってた」

好きだけど、もう無理なの。それがの主張だったはずだ。だから、の心が落ち着いて、余裕が生まれて、県下最強の海南バスケット部次期キャプテンと折り合いを付けられるようになったら、また手を取り合えるんじゃないか。ずっとそう思ってた。

「だけどもう、そういうの、何も残ってないんだね。なんかほんとごめん、もう構わないから、のこと忘れるように努力するから、こんな、乱暴なことしてごめん、本当にごめん、だけど、、これが本当のオレだよ」

俯いて両手を体の両脇で固く握りしめている神は、そう言うと振り返り、逃げるように走り去った。の顔も見ず、振り返りもせず、あたりに誰がいるかも確かめずに、を置いて走り去った。

優しい神くん、どこに出しても恥ずかしくない神さんちの息子さん、どれもこれも、もううんざりだった。

生まれて初めてキレてしまった神は、その日の深夜に体調が急変、激しい嘔吐と頭痛に発熱と、慣れないことをした体が悲鳴を上げた。の件があって以来なんとなく息子とどう接したらいいかわからなくなっていた父は涙目になりながら車で救急病院まですっ飛んでいった。

そんなわけで、神は海南に入学して以来初めて病欠で部活を休んだ。と言っても、夜中に救急で処置をしてもらい、頭痛と熱を残して自宅に帰ってからの記憶はなく、気付いたら昼過ぎで部活は休んだことになっていた。

中学までのポジションを外されて以来1日も欠かさずシュートの練習をしてきたというのに、こんなことで丸一日休むことになろうとは。神はベッドで天井を見上げながらげんなりしていた。あんなに簡単に自分がキレてしまうとは思っていなくて、それもショックだった。

携帯には部の仲間から大量にメッセージが届いていて、昼過ぎに目覚めてから全部に返信するのに30分近くかかった。中でも清田からは心配してるけどまさかなんかあったんすか的な内容が何度も繰り返し届いていて、正直これにもうんざりした。

それよりは3年の先輩たちの、なんでも完璧にこなそうと思うな、少し休めというメッセージに心が暖かくなる。

この急激な体調不良を境に、神は少し荒んだ。寸暇を惜しんで隙間なく全て詰め込み、出来る限りのことをやり尽くすのに疲れた。そして、人を気遣い空気を読み、いい人でいることにも疲れた。それが自然な自分だという反面、に言い残したように、まったくいい人ではない自分もいるからだ。

だが、それまでの神がだいぶ平均値からずれていたのであって、荒んだ神はつまり、よくいるありふれた男子高校生だった。それに驚いたのは父親と清田である。ピュアで無垢なジェントル天使のはずの神がただの不貞腐れた高校生になってしまった。そんなのいやだ!

「お前の好み関係ないだろ」
「オレの知ってる神さんじゃねえ〜」
「そりゃ、知り合って半年も経ってないんだから当たり前だろ」
「神さん、性格曲がるとシュートも曲がりますよ」

真剣にそんなことを清田が言うので、後ろから牧の拳骨がとんできた。

「神、体調戻っても急激に元に戻すなよ。すぐぶり返すぞ」
「はい。監督にも言われました。500本はしばらくやめておけって」
「やるなとは言われなかっただろ。少しずつ増やして戻していけばいいんだからな」
「てか牧さんどーしたんすか」

夏休みの練習は基本的に夕方には終わる。少しでもいいからシュート練習したいと神が言うので清田がつきまとっていただけで、全員帰ったはずだった。

「それがどうも、今年の国体、やっぱり選抜チームになるみたいでな」
「うおお、あの噂マジだったんすか」
「監督とミーティングでしたか」
「というほどでもないんだけど、オレがキャプテンだろうから、一応話をな」

ロッカーから私物を取り出している牧の言葉に、神と清田は浮き立った。海南はインターハイで準優勝なのだから、国体も海南だけで充分のはずなのだが、今年の神奈川はバケモノ揃いなので、混成は面白そうだ。

「陵南の監督とある程度協議してあるみたいだけど、誰かいいなと思う選手はいるかってな」
「なんて答えたんですか」
「秘密」
「えええー!」

身を乗り出した神の隣で清田が大声を上げた。神はもう躊躇なく清田の頭をひっぱたいた。うるさい。

「でも、メンバーはだいたい想像つくだろ」
「まあそうですね。ちょっともったいない人がいましたからね、今年は」
「えっ、てかオレ入れますよね? 3年優先とかないっすよね?」
「どうだかな、今年の1年で候補に上がるのはお前と流川と桜木てなところだろうけど」

清田は途端にぶすっと面白くなさそうな顔をした。学年が同じなので仕方ないが、どちらとも並べられたくない。

「それだってまだ1ヶ月以上あるんだし、神、時間かけてピークまで持って行けよ」
「はい、そうします。ありがとうございました」

国体は概ね9月末から10月初旬。そこに合わせて体調を万全にしろということだ。つまり、当然といえば当然ながら、神は既に代表メンバーに決定しているということだ。改めてそれが嬉しかった。牧が引退してしまえば、今度は自分が主将にならなければいけないこともわかっているが、それでも嬉しい。

プライベートではなんだかトラブル続きだけれど、自分のバスケット人生は努力の量と比例していて、頑張った分だけちゃんと報われている。とてもいい流れの中にいる。まるで自分のシュートと同じ。それを途切れさせてはならない。体調不良は誤算だったけれど、それもいい教訓になった。

練習、学校、部活で練習、練習、勉強して、体調管理もしっかり。そういう生活ができて初めて、神奈川最強の海南の主将という未来が待っている。気持ちを柔らかくするのには、「ToySoldiers」があればいい。

がいなくても、「ToySoldiers」さえあれば。