トイ・ソルジャーズ

08

この年の夏、海南大附属高校バスケット部はインターハイにて準優勝、全国2位という成績を残して帰ってきた。またも2年1年は「部長は完璧だった、自分たちが足りなかった」とがっくりして帰ってきた。何しろ今年向かうところ敵なしの部長初の黒星だった。

特に今年1年生ながら決勝までの7試合全てにスタメンで出場した清田は地団駄を踏んで悔しがった。基本的に静かな選手の多い海南にあって、この清田のやかましさは特に異質だ。

いつまで経ってもその悔しさを引きずっている清田をいなしながら、神は神奈川に帰ってきた。新幹線のホームの無機質な熱風がなんだか白々しく感じて、さっさと帰りたかった。海南はインターハイで引退という3年生が少ないので、準優勝だろうが何だろうが、1日休んだらまた部活である。

「神さんはお盆休みの間どーすんすか。どっか遊びに行ったりするんすか」
「特に予定はないよ。親がどっちもほぼ地元だから田舎もないし。お前はちゃんと宿題やれよ」
「ちゃんとやりますって。休みの間に片付けますよ」

期末では心を入れ替えたのか赤点も出さずにいたらしい清田だが、一学期の中間は悲惨で、監督にまで怒られていた。あまり成績がひどいようだと部活動を制限されてしまうからだ。ちゃんとやるというが、正直言って、信用できない。疑わしい目をしていた神だが、清田はずっとへらへらと笑っていた。

そんなことがあってから数日後、お盆時期で学校が閉鎖になった。丸々5日間、校内施設は一切使えない。年末年始と併せて練習漬けのバスケット部が完全停止する5日間でもある。

とは言え、その間でも神は練習を欠かさない。清田と違って宿題は休みの間でなくともちゃんとやるし、合宿とインターハイの間に挟まる1日か2日の間にも少し片付けてある。全て片付けるのには夏休みが終わる頃までかかるけれど、間に合わないということはないし、漏れもない。

インターハイを準優勝で終えて帰ってきた神を、両親は暖かく迎えてくれたけれど、あれ以来父親がどうにもぎこちなくて、なんだかやりづらかった。つらいのは自分の方なのに、気を使わなきゃいけないような空気が重い。しかもお盆休みで家にいる。こんな時に限って母親が夏バテで外出もしない。

神は朝に練習をして帰ってくると、夕方まで宿題やらを片付けにかかって、日が落ち始めると練習に出かけるようにしていた。だが、それもほんの2日で予定が狂う。お盆休みで市営体育館まで閉鎖になってしまった。昨年も同じだったはずなのに、すっかり忘れていた。さて去年はどうしたっけ――

この辺りで一番大きな駅から延びるメインストリートの途中にバッティングセンターがあって、そこに1on1用のコートがあることを思い出した神は、汗をかきながら自転車を漕いでいた。自転車に乗っていて身長は189センチもあるのに、照り返しが肌に痛い。

お盆休みで人出が多いので、神は車道を走っていた。このメインストリートは交通量が多くてバスもひっきりなしに走っているし、いくら基本的には車道走行が望ましいとはいえ、自転車で走るのは危なっかしい通りだ。今も目の前に配送のトラックが停車していて、神はやむなく自転車を手で押して歩道に乗り上げた。

歩道の方も人が多くて自転車を押して歩くのは骨が折れる。本当にのろのろと、だけど360度全方向に目を光らせていないと子供を轢きそうになる。他に場所を探さないと、公園の代わりにはならないなと考えていた神は、ベビーカーとすれ違うために足を止めて顔を上げ、そしてそのまま固まった。

目の前にあるカフェのガラスの向こうに、がいた。DEANでそうだったように、ふたりでいる時にそうだったように、はにこにこと微笑んでいた。彼女失格だと悲しげに微笑んでいたあの日が嘘のように、は楽しそうに笑っている。その向かいにいる、清田に笑いかけていた。

は私服で、いつものように可愛かった。清田の方も私服で、仲の良い楽しそうなカップルにしか見えない。神は額から頬を伝う汗に身震いをして、慌ててその場を離れた。真夏の暑さが遠のいて、体が冷たくなっていく。怒りとか悲しみとか、そういうわかりやすい感情はまだなかった。

、なんで信長と一緒にいるんだろう。オレ、紹介したっけ。いや、してないよ。まさかとは思うけど、付き合ってるんだろうか。いや、そんな暇なかったよな。なんでだ、どうしてだ、なんで信長なんだ、どうして、そんな楽しそうに笑ってるんだ――

よりにもよって、どうして信長なんだよ。あいつだって毎日部活で忙しくて、ずっと一緒になんかいてくれないだろ。オレと同じように、よりバスケットを優先するんだぞ。オレよりよっぽど愛想がいいから、たくさんの人に好かれるし、だけのものになんか、ならないのに――

よろよろしつつもたどり着いたバッティングセンターは、割高な上にずいぶん混んでいて、1on1をやる人優先だと言われてしまった。幸いバスケット目的の客はいなかったので、なんとか目的を果たした神だったが、もうここは使いたくなかった。動揺をなんとか飲み込んで練習をした神は、すっかり暗くなった空の下を走り出した。

こわごわ通り過ぎた例のカフェをちらりと見ると、もうふたりはいなかった。ふたりのいた席には、文庫本を手にした女性がひとりで座っていて、真夏だというのに湯気の立つカップを傾けていた。

そういえば、DEAN以外にふたりで出かけたこと、なかったな。こんなカフェだって、ファストフードだって、入ったことはなかった。はそういうことがしたかったんだろうか。ああやって小さいテーブルを挟んで何か飲んだり食べたりしながら笑って、そういう時間がないことが辛かったんだろうか。

だけど、だからって信長だなんて。付き合っていると決まったわけでもないのに、神は楽しそうに笑っているふたりの横顔が頭から離れなくて、次第にイライラしてきた。だったら言えばよかったのに。外でお茶したいって、そのくらいだったら時間作れたかもしれないのに。あてつけかよ。オレと出来なかったことを信長とやってるのかよ。

信長はに触れたんだろうか。キスしたんだろうか。ああだけどオレはもう、そんなこと言える立場じゃない。

神は夏の重苦しい空気の中を、力なく自転車を漕いで帰っていった。

お盆休み明け、いつも通り部活にやって来た神は、後ろから清田に声をかけられて一瞬、息が止まった。だけど、部活は部活、。それにもう自分には何も関係ないんだと強く言い聞かせて振り返った。

「おう、おはよー。ちゃんと宿題やったんだろうな」

おそらく休みが明けてこうして部活が始まれば、例え授業がなくたって清田は勉強なんかしやしないだろう。それはたぶん来年も同じことだろうから、神は今からちくちくと突っついておきたかった。自分は牧のように鉄拳制裁は出来ないから、その代わりしつこくしてみようと思っていた。

「いやあ、夏の小遣い全部飛んだっすわー」
「小遣い? お前、金払って人にやらせたのか?」
「まさかあ。いくらオレでもそこまでは。短期カテキョ頼みました」
「自分の金でか?」
「カテキョっても、先輩に頭下げて頼んだだけなんで。飯おごったりとか交通費とか、そーいうのっす」

清田の話を聞きながら、神は頬がじわりと熱くなるのを感じて顔を背けた。清田のカテキョ、それはおそらくだ。あの日見かけた楽しそうなふたり、あれは清田の宿題をやっていたんだ。ふたりは付き合ってない、楽しそうなのもたぶん清田が人懐っこくてバカだからだ。

もう何も言えた立場じゃないけど、ホッとした神は気持ちが丸くなっていくのを感じていた。どこで宿題のカテキョを頼むほど親しくなったかは知らないけど、それならいい。ふたりでいるだけで付き合ってるんじゃないかと思いこむほどに、まだのことが好きなんだなあと実感した神は、それも少し幸せなような気がしていた。

だが、ふんわりとした気持ちで部室から出ようとしていた神は、背中に鋭利な刃物を刺されたような衝撃で、目の前が一瞬真っ暗になった。

「しかも宿題全部片付いちゃったもんだから、またお礼で夏祭りっすわ。もう小遣い前借りしかない」

夏祭り? 行くの? とふたりで? 付き合ってないのに、そんなことするんだろうか、普通。

けれど神は体育館から聞こえてくるボールの弾む音にモヤモヤした気持ちを払い落とし、少しだけ振り返ってニヤリと笑ってみせる。神から清田の顔は見えない。どんな顔をしているのか、それはわからないけれど、神は努めて静かな声で言う。

「普段からちゃんとやっとけばそんなことにならないのに、バカだな」

まるで自分が叱られているような気がした。

「先輩はホント、マジなんなんすか。ナメてんすか」
「そんなに怒ることないでしょ」
「いやコレどう考えてもおかしいでしょ、むしろオレが恥ずかしいっすわ」

夏祭りの夜、浴衣で現れた清田は、洋服姿のを見て不機嫌になった。例えばカップルで彼氏の方が洋服、彼女が浴衣という組み合わせならよくある。だが、その逆は珍しい。ちゃんと打ち合わせもせずに現地集合でぶらぶらやってきたふたりはとんでもなく気まずい。

「私、浴衣持ってないんだけど」
「まあ、確認しなかったのも悪いんだし……今日はかえってよかったかもっすけど」
……ごめんね、こんなこと」
「いやいや、乗りかかった船だし、宿題全部終わったお礼と思えば」

神は不安のどん底にいるが、もちろんこのふたりは付き合ってるとかいうことはない。しかし、清田が神に言ったような、短期家庭教師の追加謝礼というだけでもない。

「先輩と神さんが超めんどくせーのは、もうよーくわかりましたから」
「うう……ほんとにごめん」

去年のクリスマス、クラスでも騒がしいグループと一緒にカラオケに出かけただったが、その騒がしい子たちとは今年はクラスが離れていた。そのため、が神と付き合って別れたことなどまったく知らない彼女たちは、男いないんなら紹介するから夏祭りおいでと強引にを誘った。

それをずっと断っていただったが、何しろ彼女たちにとっては、彼氏がいることがベストの状態なのであって、そうでないなら早く何とかしないとという、いわば気遣い心遣い。友人としては何の問題もない女の子たちなので、関係を悪くしてまで固辞したくなかったは、清田を隠れ蓑にすることを思いついたというわけだ。

もちろん付き合ってますなどと嘘をついたりはしない。偶然会ったとでもしてくれればいいと言うに対して、清田は「オレが一方的に追いかけてることにしときましょう」と言い出した。つまり、男を紹介してくれるという友人のところへ向かう途中、なんだか懐かれた後輩に偶然バッタリと行こうというわけだ。

そして、超めんどくせーのは、も未だに神が好きで、誰とも付き合う気がないからだ。

「じゃーなんで別れたんだっつー話ですよ、ほんとに」
「だから言ったじゃん……
「いやもうマジで理解不能。先輩、気を付けないと将来こじらせますよ」
「し、失礼な! 気をつけるからいいもん!」

清田は優しいけれど、基本的には神の味方だ。なので、にどんな事情があっても、今からでも遅くないから神に謝ってよりを戻した方がいいと主張している。清田に言わせると、は神にとって「唯一の支え」だったのだという。はあまり信じていない。自分がいなかった時はどうしていたというんだ。

そう言ってはみたが、清田はニヤニヤ笑いながら「先輩って意外とお子ちゃまっすね」と言うだけだった。

「つか男紹介するって誰っすかねえ。海南のやつならわざわざ夏祭りにしなくてもよさそうだし」
「清田くんの嫌いな湘北だったりしてね」
「いや別に嫌いってわけじゃ……あんなん海南の相手じゃないっすから」

複雑な顔をしている清田と並んで歩き、待ち合わせの場所までやってきたは、手を振る友人たちから少し距離を置いたところでぴたりと足を止めた。清田も一歩遅れて止まる。

「あー……ほら言わんこっちゃない」

集団の中に神がいたのだ。固い顔をして、少し顔を背けている。

「あれっ、彼氏いないって言ってたじゃん」
「彼氏じゃないよー。うちの1年の子なんだけど、偶然そこでばったりと」
「バンワっすー、って神さんじゃないですかあ!」
「えっ、なに神くん知り合い?」
「知り合いって言うかバスケ部っすけど。全国にその名を轟かすスーパールーキーっすけど」

もちろんそれは誇張だ。だが、の友人たちはこのスーパーライト・トークに簡単に乗ってくれた。何をどう言えばいいのか少々混乱していると神は助かる。

「ねーねー神さん聞きました? 国体の話ー」
「えっ、国体?」

そんな話、部活の中でもまだ出ていない。何やら混成の噂があるということは聞いていたけれど、それだってまだ確定ではないはずだ。神はそんなことを考えつつ、清田が何を言いたいのかわからなくて少しだけ苛ついた。

海南でバスケット部といえば全部活中一番の格上であり金もかかっていて、もはやクラブ活動の域を超えている感がある。それが国体の話など始めてしまうと、だいたいが帰宅部のの友人たちは少し引き気味になる。そのせいで神が集団の中からふらりと外れた。

清田はこっそりとの服を掴むと、神との距離を縮めた。

「国体、選抜かもって話じゃないすか。したら、沢北帰ってくるらしいって言うんすよ」
「さ、沢北? 山王の?」

話がポーンと遠くに飛ぶので、神は困惑している。

「アメリカ行ったくせに未練たらしいっすよねー。まあでもしょうがないか、冬も海南が行くんだから、湘北とは再戦しようったって出来ないっすもんねえ、かかかかか」

神と清田の間に挟まれているも、何の話かわからないけれど、他にどうしようもないので愛想笑いをしている。神がいるのは気まずいが、ここで清田に放り出されて男を紹介されるのも嫌だった。そうしている内に、の友人たちは少しずつ離れてゆく。

「んじゃー、またねえ。暇な時あったら遊ぼー」
「あっ、うん、ごめん、ありがとう。またねー」

国体がどうのと話をしている神と清田の隙間から顔を伸ばしたは、困った顔をしている友人たちに、同じく困った顔で手を振った。これは僻まれてしまうかもしれないが、もうどうしようもない。清田に姑息なカモフラージュを頼んだことを後悔したけれど、清田もいない状態で神と出くわすよりはまだマシだったかもしれない。

の友人たちが行ってしまうと、清田は急に真顔になって、と神の背中を押して歩き出した。

「おい、なんだよ」
「なんだよじゃねーっすよ。ちょっと人の少ないとこまで行きますからちゃんと歩いて下さい」

清田の声は真剣で、ふたりは背中を押されるまま黙って俯いた。

河川敷を埋め尽くす露店の隙間から祭のメインストリートを外れた3人は土手に上がり、反対側に降りた。昼間は交通量の多い通りがあるが、今日は夏祭りのために全面封鎖されていて、ひと気がない。その通りのガードレールまでやってきた清田はようやくふたりの背中から手を離した。

「先に言っときますね、神さん、オレ、さんにちょっかいとか出してないっすからね」
……そんなこと思ってないし、オレに断る必要もないだろ」
…………あーめんどくせー。てかもうむしろウザいわー」
「何?」

腰に手を当ててガックリと項垂れた清田は、心から呆れてため息とともにそう言った。だが、仮にも運動部の先輩後輩である。神は寄りかかっていたガードレールから腰を浮かせて清田を睨んだ。だが、清田は怯まない。むしろそんな神を見上げてまたため息をつく。

「もういい加減、ふたりとも素直になりましょうよ。直すとこは直す、妥協も少ししましょう、ね?」
「ね、ってお前な」
「そうしないとつらくなるばっかりですよ。さんも、ほらそんな顔してないで」

清田の言うことももっともなのかもしれないが、そんなこと言われてもも神もどうにもできない。どちらもまだ想い合っている状態には違いないけれど、その想いの間には深く刻まれた溝があるからだ。が辛そうな顔をしているので、神は浮かせた腰を戻して、はーっとため息をついた。

「信長、気持ちはありがたいけど、それはオレたちの問題だから、放っといてくれ」
「そりゃそうっすけどね。だったら神さんはもう部室とかで辛気くさい顔しないでくださいね」
「そんな顔してな――

神は牧の言葉を思い出して息を呑んだ。自分は、好意的に思っている相手の前だと気が緩んで本音が顔に出る。そうか、清田もそんな風に思ってたのかオレは――

「それは、ごめん。気持ちは切り離してるつもりだったんだけど」
「オレ、思うんですけど――あっ、やべちょっ、すんません」

先輩ふたりをガードレールに座らせて正面に仁王立ちだった清田は、携帯の着信に気付いてぴょんと飛び上がった。くるりと背を向けて、しかしふたりにも丸聞こえの大声で話しだした。どうやら地元の友人のようだ。土手の向こうまで響きそうな声でべらべら喋った清田は、通話を終えるとまたくるりと振り返った。

「どーします、おふたりとも」
「どうします、って何が。オレは帰るよ、祭に来るつもりもなかったんだし」
「んじゃあ、後よろしくっす。オレは同中のヤツと合流するんで!」
「は!?」

にかっと笑った清田は最悪に気まずい状態の神とを残して走り去って行ってしまった。神との血の気が引く。こんなところにこんな状態で置いていかれて、どうしたらいいというんだ。はもちろんのこと、神も珍しく真っ青な顔をしていて、ふたりは清田の後ろ姿を呆然と見送った。