トイ・ソルジャーズ

02

「なんだ、また練習していくのか。クリスマスだっていうのに」
「そういうの、あんまり関係なくないですか。牧さんだって予定何もないって言ってたじゃないですか」
「そうだけど、改めて言われると心に刺さるな」

クリスマスイヴだというのに、居残りの個人練習に行こうとしていた神に1年先輩の牧が声をかけた。3年生が引退して主将となったばかりの牧は、もうずっと主将をやっているように錯覚するほど貫禄があるが、部活を離れると割と天然の穏やかな人物である。牧は神の言葉に眉を下げた。

「なんかクラスの集まりとかにも誘われましたけど、明日も遅いし、正直面倒ですよ」
「明日なあ〜オレもあんまり遅くなりたくないんだけど、去年店出られたの22時だったしな」
「帰ると23時近くなりますねえ。次の日は昼からとはいえ……
「慣れないことで疲れるから、ぼけっとしてないでさっさと寝ないと次の日つらいぞ」
「ですよねえ……

朝から練習して一度着替えに帰り、22時まで先輩や先生たちに気を遣いながら飲み食いし、それで次の日も練習では心身ともに疲れる。特にもう部活のない3年生は羽目を外しがちだという話だ。それに付き合わされればもっと疲れる。

ハードな練習の生活には慣れているけれど、アルコールが出ないだけでそこらの忘年会と大差ない席に出なければならないとなると、精神力が大いに削られる。特に1年生は気を付けないと目が回る。

ついでに去年の監督は翌日まで酒臭くて、ひどい二日酔いだったと牧は言う。

「そこまでしなくたって」
「そんなに飲みたいんなら次の日休めばいいのにな」

ぼろぼろと部員が脱落していく海南のバスケット部に残れる牧や神の場合は、言われなくても練習しているタイプの典型である。例え監督が二日酔いでくたばっていたとしても、それほど影響はないはずなのだが、監督はクリスマスの夜に深酒をするし、次の日の練習も休みにはしない。その辺り、高校生には理解できない。

予定がないのはともかく、今日は家族のクリスマスに付き合わなきゃならないと言ってげんなりしている牧と別れ、神はひとり体育館に戻った。今日がクリスマスだろうが何だろうが、ひとりで黙々とシュートの練習をしていると、今日が特別な日なのだと言われてもピンと来ない。

何も変わらない、昨日と同じ。部活が終わったらひとりでシュート練習をして、帰って、勉強して寝るだけ。

そういう肌で感じる空気の中にいると、どんどん外の世界のことを忘れられる気がした。今頃はカラオケで遊んでいるのだろうけれど、それも遠い別の世界のことだと思える。自分はこれでいい。これが自分の選択なのだから。なにひとつ後悔する要素はない。だから、これでいい。

――という少々陶酔気味な気分で個人練習を終えた神は、陽気な母親の声で現実に引き戻され、なおかついつもと変わらない日になるはずの今日をブチ壊された。

「いやオレ、ジャージだって」
「いいわよ別にそんなこと。今更気にするようなことでもないでしょ。メガ盛り頼んでいいから早くおいで」

クリスマスイヴだというのに部活の後は予定がない息子に電話をかけてきた母親は、行きつけの店にいるから来いと言ってきた。両親が結婚前から通っているダイナーで、横須賀はもう少し向こうだと言いたくなるような店構えの、しかも店名が「DEAN」。オーナーがジェームス・ディーン・マニアなのだという話だ。

しかし、神は自転車通学なのに、DEANに行くには駅まで出て2駅電車に乗らなければならない。きっと両親は車で来ているだろうから、帰りは楽だけれど、翌朝がまた面倒くさい。

平日だから父親の送りは当てにできないし、母親は運転免許を持っていない。歩くと1時間近くかかるし、バスはちょうどいい路線がないからもっと時間がかかるし、その上、部のクリスマスパーティがある。神は電話を父親に代わってもらい、そういう事情があるから行きたくないと言った。

「大丈夫、明日父さん朝時間あるから。送っていけるから大丈夫」
「だけど……
「ご飯食べるだけだよ。宗、おいで」

欠点らしい欠点のない父親の、その中でも特に人より優れているのはその声だ。優しく力強く、どんな人の心にも簡単に響いてしまう声と喋り方は、血の繋がった息子にも大変有効で、神は素直にはいと返事をして、通話を切った。気が乗らないのに返事をしてしまった。自分の父親ながら、怖い人だと思う。

それでも自転車置き場に後ろ髪を引かれる思いで、神は駅に向かった。あちこちから聞こえてくるクリスマス・ソングはバリエーションが貧弱で、しかも12月に入るとすぐに流れ始めて、もう既に耳障りになってきている。神はまたイヤフォンをねじ込むと、肩をすくめて歩き出した。

クリスマスイヴのせいかどうか、とにかく駅は大変な混雑だった。その中をすり抜けて、神はホームに入る。気乗りはしなかったけれど、DEAN自体は嫌いじゃない。ガッツリ系メニューが豊富だし、音楽も心地いいし、店主も小さな頃から知っているし、ジャージは少し恥ずかしいけれど気取らなくていい。

正直、腹も減っている。DEANのメニューを思い出しながら、神はキュルキュルと音を立てる腹を擦っていた。

その時だった。突然背中をポンと叩かれた神は、イヤフォンをしていたせいで人の気配に気付かず、しかも頭の中はDEANのメニューでいっぱいになっていたので、文字通り飛び上がって驚いた。慌ててイヤフォンを引き抜き、きょろきょろと辺りを見回した。そして、ぴたりと動きを止めた。

「ご、ごめん、そんなに驚くとは……

だった。神を見つけて気軽に声をかけて背中を叩いたら、190センチに届きそうな身長がぴょんと跳ねたので、彼女も驚いたのだろう。バッグを胸に抱き締めて及び腰になっている。ヒールの高い靴を履いているようで、いつもより目線が近い。

「いや、こっちこそごめん、イヤフォンしてたからびっくりしちゃって。大丈夫?」
「平気平気、私は何も。今部活終わったの?」

神は驚いたのと相手がだというので、心臓が早鐘を打っている。それを悟られまいとして、努めて平静を装う。はクリスマスだからなのか、ふわふわと柔らかそうな白のニットで全身を纏めていて、それがまたたまらなく可愛かった。顔に出さないようにするのは至難の技だ。

「部活はもうちょっと早く終わってたんだけど、個人的に居残りしてたから」
「イヴなのに、神くん本当にバスケ好きなんだね」

とりあえずそんなことはともかく、白くてふわふわで可愛いを直視できない神は、楽になりたいので言ってしまうことにした。

「カラオケ楽しかった? ていうか私服、可愛いね」
「え!? いやそんな、神くん本当に口上手いよね……
「お世辞じゃないよー。雪うさぎみたい」

こんな時は正直に言ってしまうのが一番いい。私服を褒めているだけだし、だけどそれは事実を述べているに過ぎませんという顔をしていれば、もう恥ずかしくない。口に出して言ってしまうことで気も楽になる。もう顔には出ないはずだ。

「今から帰るの?」
「うん……オールになるみたいで。私はそういうのちょっと無理だから」

その言葉に、神はをいいなと思った最初のきっかけを思い出す。

小学生から始めたバスケット、中学は当然バスケット部で部活一筋、ワルイことからは一番遠い場所でずっと過ごしてきた。そのせいで、ルールを破って楽しいというような感情は持ち合わせたことがない。真面目に努力して何が悪い。ゲームはルールが守られて初めて成立する。だから楽しい。ルールがないのはただの無法地帯。

そんなわけで、ちょっとワルイことも平気な自分が気持ちいいような人種からはどうしても敬遠されがちになる。だけどやっぱり押し並べてスペックの高い神に何を言っても負け犬の遠吠えにしかならないから、つまらないとか面白くないとか人間的な魅力がどうのとかいう方向から突付かれたりもする。

それを、おかしな話だと言い返したのがだった。

「ルール守ってたらつまらない人間になるの? 犯罪者みたいな考え方だね」

ワルイことの程度問題ではなくて、根底にある意識の問題だ。そう言われた方はぐうの音も出ない。それを聞いていた神は、ちょっと感動したものだった。話の流れは自分が楽しくないキャラという方にまとまろうとしていたのに、の一言でひっくり返った。

だけでなく、神が自分で主張できなかったことをきっぱりと言い放ったその勇気を素直に尊敬したし、ワルイことできなくたっていい、それのどこがいけないんだという考えを持っていて、言葉にして言えるをすごいなと思った。至極当たり前のことなのにおかしいなという顔をしていたのも、またかっこよく見えた。

それが最初だった。

それをきっかけに、神はをつい目で追うようになり、とうとう恋心を自覚するにいたる。

「それでひとりで抜けてきたの? 偉いね」
「うーん、実はオールでも構わないんだけど、メンバーがちょっとね」
「あはは、わかる気がする」
「クリスマスにオールするんだったら、ちゃんと仲がいい子の方がいいよね」

あまりはっきり言わないけれど、今日の集まりの言いだしっぺは特に「ワルイことが平気な自分が気持ちいい」タイプだったし、そんな面子と楽しく騒いでいたんだろうに、ひとりでオールを断って帰ってこられる彼女を強い人なんだなと思う。そんな風には見えないのに、には真っ直ぐな強い芯がある。

だが、を好きなんだなと気付いた時は少し後悔した。ただでさえ自覚したくなかった思いなのに、外見より中身を先に好きだなと思ってしまったのは、さらに不幸だと思った。外見を可愛いと思って始まった恋心なら、中身を知るほど思い違いに冷めていく部分もあっただろう。中身が先だとそれは永遠に巡ってこない。

中身を先にいいなと思った割には、は化粧っ気のないきれいな肌と血色のいい唇をしていて、子供の頃に恋をしたマルティカを想起させた。中身もいいけど外見も可愛いと思ってしまうのに、そう時間はかからなかった。これも神にとっては運が悪かった。

隣で柔らかく微笑んでいるの髪を通過列車が舞い上げる。白いふわふわに肌が映えて、それを可愛いなあと思って見ていた神は、ハッと気付いて背筋をビシッと伸ばした。これは、これはいいんだろうか、言ってしまっても。断られたらどうしようと思うが、言ってしまいたい。

「てか、これからひとりで帰るの?」
「うん。ずっとカラオケにいたから何にも食べてなくて、おなか減ったし」

その言葉に神の思考は暴風雨のように荒れ狂った。イエスとノーが入り乱れて、神にとっての正しい判断が出来ない。全ての要素がぐちゃぐちゃに混ざり合って、神は珍しく少し上ずった声を上げた。

「送っていこうか? てか、オレこれからメシなんだけど、さんも行く?」
「えっ!?」

言ってから神も血の気が引いた。いや、送っていくだけでいいだろ。行く? って行き先はDEANじゃないか! 何言ってるんだよオレは! ああどうか断ってくれ、せめて送っていくだけでいいって言ってくれ。付き合ってるわけでもない片思いの女の子、それを親の前に連れて行くなんて絶対無理!

「ご、ご飯て、神くんいつもひとりで食べていくの?」
「えっ、いやそんなことはないけど、今日はたまたま親に呼ばれて」

また頭が混乱しているせいで、バカ正直に言ってしまった。だけど、これは言ってよかったかもしれない。まさか親のいるところに行くとは言わないだろう。これで送っていくのもだめになるだろうけれど、まあそれは仕方ない。

「へえ、すっごいイケメンて噂のお父さん!」
「噂!?」

予想外の方向に話が流れたので、神はついひっくり返った声を上げた。神と同じ中学の出身者からそう聞いたらしい。確かに授業参観なんてものがあった中学の時のクラスメイトは、神の両親を見て騒いだものだった。

「それはちょっと見てみたいなと思うけど、ご家族でクリスマスなんだし、お邪魔はしないよ」
「え、別にそんな仲良し家族みたいなのじゃないんだけど」

ああバカ、それでいいじゃないか。なんで食い下がってんだよ、何やってんだオレ。

自分の言っている言葉に冷や汗をかきながら、しかし神は自分の本音に気付いていた。本当はを連れてDEANに行きたい。母親はともかく、父親にを見せて、オレの彼女可愛いだろ、って言ってみたい。この子、可愛いだけじゃなくて中身も素晴らしいんだって自慢したい。それが今の神の偽らざる本音だった。

それにもうひとつ、は否定してくれたけれど、面白くない男認定寸前の自分はDEANのような店に出入りがあるんだと知らしめてみたかった。オールディーズの流れるダイナーに連れて行ってくれる男なんて、海南にいないだろ。ファストフードとかカラオケが精一杯だろ。

とはいえそんな本音に気付けば気付くほど、神は自分で傷つく。

そんな浮ついたことでどうするんだよ。3年が引退して牧さんが主将になって、もしかしたらオレ、スタメンに入れるかもってところなのに。毎日毎日努力してきた結果が実を結んで、ちゃんと形になってるって言うのに、どうしてバスケットと関係ないことでこんなにてんぱってんだよ。

好きな女の子と一緒にいたい自分と、それは二の次だと主張する自分が分裂して、もうどうにもならない。

……神くんは気にしないの? そういうの」
「そういうのって?」
「同じクラスの女子をご両親のいるところに連れて行くとか、そういうの」

そりゃあ気にする。気にするけど、たぶん一般的な家庭の数倍はそういうことを気にしない親なので、神が感じるほどには大袈裟なことにはならない。気にしないといっても、それは寛容だというだけじゃない。あとで突付いたり興味を持ったりもしないのだ。その辺は特に母親が顕著だ。

思春期のひとり息子の女性関係が気にならない母親はいないと言われそうなところだが、彼女にとって大事なのはとにかく自身の夫であり、その夫がきちんと男としての教育は担ってくれているので、何も心配していないというのが正しい。

「うん、からかったりするような親じゃないから。……それに、さんなら心配ないからね」

自分にはバスケットが全てなんだと言い聞かせているつもりの神は、そう言ってにっこりと微笑んだ。ついでに、自分の母親は可愛い女の子が好きだから、きっとおいしいものをおごってくれるよ、なんて余計なことまで口走った。自分を戒めようとすればするほど口が滑る。

「い、いいのかなあ」
さんがいいならおいでよ。帰りはちゃんと送っていきます」

ふたりの前に電車が滑り込んでくる。

「じゃ、じゃあ行ってみようかな!」
「了解しましたー」

途端に全身が緩んでホッとした神は、いつものように柔らかい笑顔を作る。それに安心したのか、も強張っていた頬が緩む。到着した電車から溢れ出てくる人を避けつつ、は神を見上げて微笑む。

「神くん、今日ね、男子も女子も、みんなで名前で呼び合おうってことになってさ。だから私のことも苗字じゃなくて名前――って呼んでくれないかな。どう?」

それはもちろん歓迎です。神はまたにっこり笑って「いいよ」とだけ返した。もう心臓が破れそうだった。

「あれ、神くんて下の名前――
「宗一郎。長いよね。家族にも縮められてるくらいだから」
「へえ、なんかもったいないね」

電車に乗り込んだは楽しそうに笑っている。神はさりげなく片腕でを囲いながら、少し首を落とし、声も落として、精一杯の落ち着いた顔を作りながら囁いた。

「オレのことは、宗でいいよ」