至上のヴィア・クルキス

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秋の行事の準備は忙しいが、執行部まで現場に出て立ち働く機会はそれほど多くない。スポーツ交流会も関わるのは準備だけで、選抜されて送り出されていく運動部員たちを見送るだけ、あとは結果を待つだけだ。他にも色々仕事は多いので観戦もしない。

規模の大きい行事はスポーツ交流会の次が国体、その次が修学旅行、続いて文化祭、そして各学年の遠足……くらいだろうか。この中で生徒会が一切関わらないのは国体だけ、遠足ですら準備に関わる。

そしてとにかく生徒会が中心になって行われるのが文化祭である。

そもそも附属高校は敷地がとても大きいので、勢い文化祭の規模も大きくなりがち。毎年30人前後で組織されている生徒会はその全てをカバーしないとならないので、とにかく忙しい。そして文化祭の片付け日を最後に3年生は引退となる。

そのため外部進学を希望する生徒は向かないのが生徒会でもある。あるいは監査部でなら在籍は出来るが、3年の文化祭を待たずに離れるとクラブで言うところの退部扱いになる。

なので3年間勤め上げた有終の美を飾る文化祭は恙無く成功させたい。3年生の文化祭準備は2学期に入った途端始まり、そういうわけで受験もない内部進学の集まりなので本番当日が近付くと毎日遅くまで校内に居残っている。

……誰かに見られるかもとか、思わないわけね」
「他に残ってるのなんて先生くらいだし」

10月の上旬、早くも文化祭の準備で遅くなってしまったは駐輪場に佇む人影に肩を落とした。個人練習を終えたらしい神が待っていたからだ。確かに神の言う通り、こんな時間まで校内に残っているのは通常であれば神くらいなものだし、先生も数人しか残っていない。

「国体、すごかったね」
「なんとなく納得行かないけど」
「なんでよ、主将だったんでしょ」
「面倒を押し付けられただけって気がする」
「嬉しくないの?」
「嬉しいけど、でも……
「嬉しかったんなら嬉しかったってちゃんと言いなよ!」

暗いのでよく見えないけれど、照れているらしかった。誰もいないことを信じて、は手を伸ばして神の頭を撫でる。かなり高いところにあるのでつま先立ちにならないと届かないが、察した神が屈んだのでわしゃわしゃと撫でてやる。

神が照れているのは、国体で神奈川が準優勝になったからだ。昨年はインターハイで準優勝だったものの、国体ではベスト4に終わったため、それだけで比較すれば成績を上げたことになる。本人は謙遜してるのかもしれないが、神はその主将、少しくらい喜んでも問題あるまい。

「でも選抜だったし、ベンチに下がってた時間も長いし」
「でも頑張ってきたから私に褒めてほしくて残ってたんでしょ?」

そう言われた神は言い返せなくてに抱きついた。

「面倒くさい選手に囲まれて1ヶ月以上、頑張ったね」
「ほんと面倒くさかった。清田は役に立たないし」
「その役に立たない清田くんが『神さんマジすごかったんすよ』て監査部にまで」
「あのバカ」

何を思ったか清田は監査部のアドレスに国体の写真と簡単なメッセージを添えたメールを送ってきた。確かに監査部のアドレスを日々チェックするのは査長であるの役目だが、それを窓口のパソコンで目にしたは心臓が止まるかと思った。誰かに見られたらどうするんだ! 即転送したけど!

に褒めてもらって気が済んだか、神は顔を上げて今度はの頭を撫でた。

「そっちは大丈夫? まだ文句言ってるのがいるみたいだけど」
「でももう残ってる仕事って文化祭だけだし」

そういう事情もあるし、世代交代は近付いているし、例外的にではあるが会長は監査部の2年生に窓口を任せることが多くなり、3年生は執行部も含め全員で文化祭の準備に取り掛かっている。なのでへの燻る不満は依然残るが、この頃は平穏な状態が続いている。

「人に『ちゃんと言え』って言ったんだから、自分でも言おうかな」
「何?」
「夏休み以来、よく話を聞いてもらってるでしょ。それがどれだけ支えになってるかわからない」

毎回深刻なストレスが発生するわけではないけれど、それでも監査部3年目、問題だらけのこの秋に神という理解者がいたことは、自身が思った以上に力強かった。褒めてくれなくていい、認める必要もない、ただ同じように日々を戦う同士がいることは心を強くしてくれた。

正直に言われた神はまた照れたのか、何も言わずにの頭を撫でた。

「私が自分自身のために戦ってるってこと、それを宗一郎がわかってくれてる、それを思い出すたびに頑張ろうって気になる。私は誰かの評価を気にして自分を曲げたりしてない、やってもいないことで褒められようともしてない、ちゃんと自分のために努力出来てるんだって再確認出来るのも、宗一郎のおかげだと思ってる。きっと宗一郎も同じだって思うと、勇気が湧いてくるよ」

も神も、ただ自分を高めたいという強い意思のもとに努力を続けてきた。全国大会出場チームと監査部を比較して「程度が違う」と言う人はいるかもしれない。しかしそれは「他人の価値」でしかない。苦しくてもそれに価値を見いださない道をふたりは選んだ。それも、自分自身のために。

には神がいたから、神にはがいたから、光指す高い場所だけを目指して歩いてくることが出来た。迷いそうになっても、止まりたくなっても、息が切れそうになっても。

「ありがとう」

そう言うを神はことさらぎゅっと抱き締めた。

文化祭、というくらいなので、いかに運動部が強い附属高校でもこのときだけは文化部が中心であり、基本的に運動部が単独で展示やアトラクションを開くことはない。強い部であればそんなものに時間をかける意味もない。

しかし今年は生徒会への反発からか、無許可のゲリラ行為が例年に比べて多く発生し、かといって現場の責任者であるは出動させられないとして会長は男子バスケット部を召喚、主に清田にこれの捕獲を依頼し、そこに次期査長候補を同行させた。

最後の仕事だというのに、本部に籠もって現場に出られないことを悔しがっただったが、清田とともに捕獲に奔走している後輩たちを見ていると、改めて査長というものは次に受け渡していくもので、自分だけの肩書ではなかったのだと思えてきた。

過去にない特殊な事情のせいで締めの活動は地味な裏方仕事だったかもしれない。けれど、監査部の3年間を振り返ると充分に働いてきた気がする。普段の学校生活以外の時間の中には、監査部の一員として自分に恥じない日々があった。それだけで充分なのではないだろうか。

「そういう心境を望んでた気もするし、でもまだやれそうな気もするし」
「だけど会長もう1年やって、って言われたら?」
「やだ」

と会長は片付け日の夕方、ほぼすべての後始末を終えたところで本部の窓辺に寄りかかってヘラヘラと笑っていた。文化祭2週間前くらいから激動の日々だったというのに、この片付け日を最後に生徒会から離れなければならない。受験もないし、今度は燃え尽きて白い日々が待っている。

この日は日没を待って展示で使った木材を使用したキャンプファイアが待っている。その最初の火入れを行うのが生徒会長の最後の仕事だ。ごく親しい人にしか明かされていない生徒会長の正体を全校生徒が知ることになるが、その瞬間から生徒会長ではなくなる。

「てかもう無理、隠しておけない」
「えっ、なに、どうしたの急に」
「副会長に引退したら付き合ってくれって言われてる」
「え!? ほんとに!?」

見かけは目立たなくても強く賢い女子が今年の生徒会長だったわけだが、反面副会長はいかにも「会長っぽい」雰囲気の、しかし生徒会長のサポートに徹した男子が務めていた。というか割と人気のある生徒なのだが、それが向こうから。そもそもはどちらも2年間監査部として肩を並べた仲である。は歓声を上げて飛び上がった。

「いつの間に」
「言われたのは夏休み」
「けっこう前」
「引退した途端他人になるのはやだって言われた」
「それはわかる」
「正直まだ迷ってる」
「なんで」
「執行部で何やってたんだよって言われそうで」
「終わってから付き合うんだからいいじゃん」
「てあいつにも言われた」

副会長は、この1年間をパートナーとして過ごしてきた会長と一瞬で関係解消しなければならないと思ったら矢も盾もたまらず、最悪付き合わなくてもいいから相棒でいてくれと言ってきたそうだ。とにかく会長と離れたくない、生徒会で一緒だっただけの過去の人物になりたくない。

「なるほどね、甘さが足りないんだな、それ」
「甘さ……そうなんかな」
「関係がどうとかじゃなくて、会長のことが大好きなんだって気持ちが足りないよ」
「そう、かもしれない、相棒長すぎて現実味もないし」

だが、は純粋に仲間であるふたりのそんな急展開に心が躍る。そうさ、今日でみんな生徒会の人間じゃなくなるのだから、何をやったっていいじゃないか。誰に恥じることもなく3年間生徒会を務め上げたのだから、引退した後までとやかく言われる筋合いはない。

「会長、決める時は、自分に嘘つかないようにね」

キャンプファイアの時間が近付いてきている。と会長は何も言わずそっと抱き合った。

附属高校の広大なグラウンドに5基のキャンプファイアが組まれ、それを囲むように全生徒がひしめいている。火に近い中心に3年生が集まるのが恒例だが、特にクラスなどで固まっている必要はなく、友達や部活や、それぞれと好きに過ごしている。

そんな中を、初めてその姿を現した会長が松明を手に進み出る。驚きの声や拍手に迎えられて、生徒会長という任務をやり遂げた彼女は副会長を伴って木組みに火を差し入れた。これをもって生徒会の3年生は引退となる。この瞬間からも査長ではなくなるのだ。

これで終わったのだという感慨に目頭が熱くなって……いたのだが、ここで確か扇情的な音楽がかかる予定だったのに、聞こえてこない。振り返ると放送部がテントの下でパニックを起こしている。トラブルがあったらしい。「おい、台無しだな」という会長の声に、引退したばかりの3年生はつい笑った。

会長が火入れをしたキャンプファイアはどんどん火が上っていくし、音楽がかからないことには残りの4基への火入れが出来ない。放送部へのツッコミと笑い声で満たされるグラウンド、ひとり顔を戻したは、中央のキャンプファイアに向かって隣に神がいたことに気付いた。

決まりごとではないのだが、どうしてもこんなときにも「強い部」が前に出てくることが多いのが附属高校で、目立たない部ほど火から離れて小さく固まっていたりする。なので校内いちの実力を持つ男子バスケット部は生徒会の反対隣というベスポジに陣取っていた。

神もの方を見つめていて、ふたりは燃え盛る炎を挟んで対峙しているかのようだった。

の脳裏にこの1年のことが蘇ってくる。苦しんで悩んで歩く足は痛むばかりだったけれど、査長をやりきったことは何より自分で誇れる記憶になった。そんな心境へ導いてくれたのは他ならぬ神だと思った。神への感謝は言葉では言い尽くせない。そんなことを考えていた。

すると、神はの方に一歩足を進めると、片手を差し出してきた。

その神の姿に驚いて、近くにいた生徒たちは言葉を飲み込んだ。神の差し出した手の方を追えば、今しがた査長という肩書を失ったばかりの。それは一体どんな意味の手なのだろうか。何も知らない人々は固唾を呑んで見守る。

そして神は目を細めてにっこりと笑った。それはあの日、主将になったばかりの神と同じ笑顔だった。

決める時は自分に嘘をつかないように――会長に贈ったばかりの自分の言葉が蘇る。

はただまっすぐに神を見つめて歩み寄り、その手を取った。

すると神はその手を強く引き、たたらを踏んだを両腕で受け止めるとそのまま抱き上げ、超展開にただ黙って見ているしか出来ない生徒たちの前で迷わずキスした。

悲鳴とも歓声ともつかない声に重なって、放送部の用意した扇情的な音楽が溢れ出す。

先輩のキスシーンに狼狽えた監査部はしかし、それが仕事なので慌てて残りの4基に火を入れる。会長は笑っているし、バスケット部の仲間たちもずっとニヤニヤしている。扇情的な音楽のおかげでもう何も聞こえない。

……いいの、まだ引退まで時間あるのに、こんなこと」
「いいんだよ。もうオレが対立してた査長はいないんだから」

今朝方、来期の執行部と査長が発表になり、生徒会の世代交代は終わった。過去にない対立と絶賛と反発を一身に受けていたという査長はもう存在しない。過去のものになったのだ。

そしてはまた新しい日々を歩き始める。その道には神がいる。だから怖いものはない。

は目を閉じ、もう一度キスした。

12月、生徒会の活動がないので途端に暇になったは、神いわく「部外マネージャー」だとか「部外ケアスタッフ」だとかになったのだという。要するにまだ主将として最後の戦いに邁進する神を支えているということなのだが、それもはや終わろうとしている。

予選から冬の大会を戦い抜き、最終的には本戦ベスト4で終わった神は夏の挽回を果たして「海南の主将」としての役割を全うした。国体で弾みがついたか、秋以降の神はまさに誰もが思い描くような「海南の主将」であり、文化祭で目立つパフォーマンスをしてしまってからはそれが加速し、しかもプライベートではとすっかり甘い関係になり、あのストレスで刺々しかった神はきれいさっぱり消滅してしまった。清田の苦笑いが消えない。

ともあれ冬の大会を終えた神もようやく引退である。

それが終わるのを駐輪場で待っていたは、12月の冷たい風に鼻を赤くしていた。冬至を目前に控えた空は、まだ午後ナカだというのに薄暗くなり始めている。

前々日に冬の大会を終えた男子バスケット部は翌日にミーティング日を挟み、今日が3年生の引退と新体制への世代交代である。年によっては花束を手にそのまま打ち上げ、ということもあるそうだが、今年は神を始め3年生が消極的だったので見送られた。どちらにせよ納会はある。

それにしても暗くなるのが早い。は足を組み替え組み替え、携帯を眺めながら神を待っていた。その神が花束を持って現れた時には駐輪場の外灯が点灯し、日は沈みきっていなかったけれど、すっかり暗くなっていた。

……お疲れ様」
「遅くなってごめん」

神が口を開くと真っ白な息がふわりと広がった。急いで来たらしい。

「ほんとに、お疲れ様」
……ありがとう。なんとか終わったよ」
「そんなサラッとでいいの。大丈夫?」

なんなら感無量で号泣してもいいんだよ、とは両腕を広げ、神は笑いながら抱きついた。

「泣きたい感じはなかったな。本戦の準決勝で負けた時は頭が真っ白で、だけど自分に対する怒りとか、敗北の悔しさとかそういうものよりも、自分の高校のゴールはここなんだ、これが3年間の結果だったんだ、それをちゃんと受け止めよう、今の気持ちを忘れないようにしようって……思ってた」

試合の当日も昨日も、は多くメッセージを送ったりすることは控え、労いの言葉とともに、引退したら駐輪場で待ってるよと伝えただけだった。その間に神は自分の3年間の結果を抱えて噛み締め、飲み下した。

「優勝できなかったことはもちろん悔しいけど、不思議と絶望はしてなくて、なぜか今はずっと苦しかった道のりが、それでよかったって思えるようになって」

自分と同じゴールに到達した神の背中をはゆっくりと撫でる。そんな君を誇りに思うよ、我が校が、今年の同期が誇る男子バスケット部の主将だった。

「宗一郎の頭の上に、王冠が見えるよ」
……

君を誇りに思うということをなんと伝えたものか迷ったが呟くと、神は身を引いてポケットに手を突っ込み、何やら引っ張り出した。

……これ、もらってくれないかな」

神の手のひらに乗っていたのは、1年前に1度見たきりのクラウンワッペンだった。王者海南のその頂点に立つものの証、栄光のクラウン。は慌てた。

「な、何言ってるの、こんな大事なもの、自分で持ってなきゃだめだよ!」
「いいんだよ、に持っててもらいたいの」
「私が持っててもしょうがないでしょ、これは宗一郎が勝ち取った主将の証で」

何をバカなことを、とまくし立てるの手を取り、神はワッペンを握らせて指を閉じた。

「自分を誇る気持ちはちゃんと持ってるよ。だけどこれは役目を終えたものだし、最初にに見せて以来、誰にも見せてないし触らせてないし、オレはあの時にに勇気をもらったから戦って来られたんだよ。だからこれを持っててほしいんだ」

見上げると、神はまた目を細めて微笑んでいた。あの日、もらったばかりのクラウンワッペンを手にはにかんでいた彼を思い出しての目頭が疼く。

「それに、のやって来たことは賞状とかトロフィーで表せるようなことじゃないけど、オレはと一緒に戦ってきたと思ってるし、その印が欲しかったから」

は赤く染まった目で鼻をすすり、ワッペンを胸に押し当てる。

「会長ですら何もないのに、査長なのに、いいのかな」
「オレは査長じゃなくてにもらってほしいんだよ」

神はの目尻を親指で拭うと、顔を近付けてニヤリと笑った。

「それに、春から進路分かれるんだぞ。変な虫がつかないように、魔除け」

もニヤリと笑ってやり、爪先立って神の頭をぐいっと引き寄せると勢いよく唇を押し付ける。

「それは宗一郎の方でしょ、あとで別の子にワッペンあげたくなっても返さないからね」
「オレそんなことしないよ」
「私だってしないもん」
「誘惑に負けやすいのはの方だと思う」
「都会に出ていくやつはみんなそう言うんだ」
「電車で1時間しか離れてないのに何が都会だよ」

クラウンワッペンを抱くの手に手を重ね、神は囁く。

「ありがとう、

の目に涙が溢れる。遠い日の記憶に心が帰っていく。

それはあの日の神がにかけた言葉と同じだった。