至上のヴィア・クルキス

5

翌日、は執行部の部屋でしょんぼりと肩を落としていた。

ひとりでつらかったよな、よく頑張ったね」
は確かに災難だったけど、神はちょっとやりすぎだろ」
「ボドゲ部に神の友達がいたのは運が悪かったな。確か将棋班の班長だったはずだ」

一方、会長含む女子2名と男子1名の執行部員はを労い慰めつつ、神に対して憤慨していた。

は一応、感情的になって余計なことを言い、神の言い分にも冷静に対処できず、その上神にしがみついて泣くという失態を演じたことは反省していた。友達同士の諍いやカップルの痴話喧嘩じゃないのだから、査長としての立場を優先するなら相手にしてはいけなかった。

「いや待てそれはが真摯に査長の仕事に取り組んでるからだろ。それにしつこくちょっかいを出して追い詰めて泣かせたのは神の方だ。が神を困らせてるみたいなのはおかしい。しかもあんなデカい男に詰め寄られたらビビるのも当たり前だ」

この執行部の男子は女子に対する紳士的な性格を買われて執行部入りを果たした。彼には4歳年下の妹がいて、彼女が長くいじめの被害にあっていたとかで、女子が暴力的に圧力をかけられるとすぐ頭に血が上る。だが、悲しいかな執行部は名乗りを上げて直接抗議できる立場にない。

もしこの男子が神に対して「にひどいことをしやがって」と言うためには、普段からとても親しい友人であるか、彼氏であるか、何かしら生徒会での関わり以外に立場が必要にになってくる。生徒会執行部が生徒会執行部として名乗りを上げて個人的に生徒に抗議するのは越権行為だ。

……査長って、こんなにキツい役職だったかなあ」
「そんなわけないだろ、去年の査長なんかここで漫画読みすぎて三国志とエジプト史に異様に詳しくなっただけじゃないか。ていうかそもそもあんな要望持ってきたやつなんか今までいなかったはずだぞ」

彼のツッコミ通り、前任の査長は生徒会室に昔から置きっぱなしにされている漫画を繰り返し読んでは疑問に思ったことを調べているうちに深入りし、ちょっとした三国志とエジプト史の専門家のようになってしまった。読んでいたのは横山光輝の三国志と王家の紋章。

会長はため息とともにこれ以上神がを追い詰めるなら、それはそれで「という生徒を守る」という点から仲裁に入るべきかどうか検討した方がいいと思うと言い出した。

だが、その傍らで肩を落とすは自分の方が神を追い詰めているのではないかという不安に囚われたままだった。昨夜の神の言い分に対して以前ほどきっぱりと反論できる気がしなくなってしまった。

改めて月イチの定例報告をさらってみたが、確かに神の言うように、全クラブ中予算が最低のボードゲーム部は毎回「囲碁・将棋・チェスなどのボードゲームで楽しみながら戦術を学び、仲間たちと腕を競い合っています」という一文を使い回し続けている。低予算による問題はない模様。

活動中に何らかの問題があれば皆遠慮なく報告してくるし、例えば資料によると、演劇部などはかれこれ20年以上「予算不足で地区内の私立に勝てない」と陳情を綴っているが、神のように改革を訴えてきたことはないし、春の予算会議では同程度の部と1万円の差で大喧嘩をしているけれど、それを生徒会に食って掛かってきたりはしない。

そして先月「vs神」で沸いていた頃も、少なくとも部長は「うちは生徒会から外れたくない。外れたらもっと予算が減るに決まってるし、実績なくても演劇部には予算が必要って生徒会が考えてくれてるから活動できてる」としてを全面支持していた。

それらをざっとひとまとめにすると、海南のクラブ活動はそこそこ潤沢な予算と生徒会や学校のサポートで充実していると考えられるような気がした。

生徒会の傘下から外れたい、などという突飛な要望だったから惑わされて、しかも昨夜は感情的になって泣いてしまったから記憶が定かでないが、神は「助けを求めてる」と言ったのではなかったか。

そこは神の言葉が足りなかったとか、説明が悪かったとか様々な理由があるだろうが、それを断固拒否し続けてきたのでは……は不安になってきた。生徒を守ってやるのが生徒会の役目なのに、これでいいんだろうか。

昨夜思わずを抱き締めた神は5秒ほどで我に返ると、の自転車のハンドルを引いてゆっくりと歩き出し、C中の正門の前で足を止めると、ここで帰ると言ってそのまま立ち去った。その表情は固く、2月の風に頬を真っ白にしていた。「じゃあ」とか「またな」なんてことも言わなかった。

そうした神の不安定さもの肩に重くのしかかっていた。

戸惑いを残しつつも主将の座を受け継いだと報告しに来た神がにとっては見慣れた姿だったけれど、以後2ヶ月の間に神は強く主張を繰り返し、時には嫌味を言いながら威圧してきた。昨夜、の信念には別の側面もあると言い出した時には笑ってしまいそうな口元を堪えていたように見えた。

だというのに、思わず泣いてしまったに狼狽え、優しく抱き寄せてきた。

あれは一体――

「でも生徒会は神の要望を却下し続けるよ。あれが通るときは、学校側が『はい、生徒会の仕組みを変えることになったので、昨日までの活動は一切中止してください』と言い出したときだけ。そうならない限り、バスケ部の予算は今のまま、各クラブに外部が干渉していい範囲が広がることもない」

会長は改めてそう宣言した。

が1番大変な思いしてるのはわかってる。査長ってそういうものだけど、本当に無理だと思ったら辞める自由もあるし、執行部も出来る範囲で協力はするけど、が査長である以上は、可能な限り立ち向かって欲しい。きっと……がそれに値すると思ったから、先代の執行部と査長はを選んだんだと思うから」

昨夜、神の腕に抱かれながら言ったように、が査長である限りは、神の言う「助け」の手にはなれない。不安は未だを苛むけれど、生徒会を辞める気はなかった。査長であることはのプライドであり、意思であり、道だったから。

私はもうその道を歩き出している。どれだけ苦しくても他の道を行くつもりはない。

神の主張と動かぬ生徒会という問題は学年末考査が近付いてきたことで一旦有耶無耶になり、年度修了と春休みが近付いて来たことでクラブ活動に熱心ではない生徒にとってはピークを過ぎたトレンドトピックになっていた。雑談にも上らない。

なおかつ男子バスケット部は春休みの間に海外遠征を控えていたため主将が生徒会に突撃している暇もなく、生徒会の方も来る新学期への準備を休暇の前に済ませておきたくて忙しく、と神の対立は自然鎮火したかのように見えていた。

ところが、テスト休みに入り男子バスケット部が練習試合に出かけて不在の土曜、またひとりで窓口担当をしていたは女子バレーボール部の1年生を追いかけて校内を駆け抜けていた。

いわく、先輩と男子バレーボール部が喧嘩になり、とうとう手が出てしまったというのだ。近年の海南の運動部にしては珍しいトラブルだった。しかも男女間。

はひとりで監査部室にいたが、この日は監査部の数人がクラブ棟の点検で登校していた。なのでバレー部の1年生にはそれらを呼びに行ってもらい、は先に体育館に向かったわけなのだが――

「1回戦負けで満足してるこいつらと一緒にしないで!!!」
「満足なんかしてない! 去年ベスト8だったからって威張ってんじゃねえ!!!」

先に到着したは喧嘩の当事者から話を聞いて目を剥いた。なんと先に手を出したのは女子バレー部の部長だった。グーで殴られたのは男子バレー部の2年の部員。しかも腹に1発、顔に1発の計2発。出血はないようだが頬から顎にかけて赤くなっている。

まだおさまりがつかずに息の荒い双方に割って入ったが言い分を聞くと、「コートひとつ占領しておきながら練習もせずに喋ってるだけ」の男子バレー部に苛立った女子バレー部の部長は「遊んでるならコートを譲ってくれ」と声をかけた。すると男子バレー部は「ベスト8くらいで調子に乗るな」と返し、その言い合いの末に「必死だな。まあデカい女はスポーツくらいしか需要がねえしな」と言った部員が殴られた、ということらしい。

「天候の心配がない体育館で練習したい部は他にもある。男バスみたいに第一体育館を専有出来るならともかく、去年ベスト8だったからこそちゃんと練習したいのに、床に座って喋ってるだけなら教室でやればいいでしょ。それを容姿の話にすり替えるのも卑怯だ」

怒りのあまり冷静に話すことも出来ない女子バレー部の部長に代わり副部長がきちんと意見を述べてくれたが、男子バレー部の方も殴られた部員を数人が抱き寄せながら言い返してくる。

「バスケ部が遠征に出てても勝手に使えない第一はともかく、この第二の半分を今日うちが使うことになってるのは決まってることだし、去年の成績がどうでも活動日にコートで何をしようが自由のはずだ。それに、容姿の話にすり替えたくらい、殴りかかるのに比べたら大した問題じゃない。需要がないのが図星だから逆ギレしたくせに」

という男子バレー部副部長のご高説により女子バレー部が爆発、再び全員でどつき合いを始めてしまった。間にいたは慌てて逃げたが、殴り合いの喧嘩の仲裁はとてもじゃないが出来ない。そこにやっと監査部の仲間が来たので、今度は急いで格闘技部の部員を借りてきてくれと頼んだ。

近年躍進が目覚ましい女子バレー部は去年からかなり高さがあるので、男子の一方的な暴力というよりは普通に大乱闘だった。それがひとまず収まったのは数分後のことで、監査部がかき集めてきた重量級の運動部員が十数人割って入ってようやく止まった。

しかしこのまま置いていけばまた殴り合いになる危険があるため、はその場で執行部に確認を取り、バレー部を男女ともに3日間活動停止にした。そして監査部は改めて双方に事情聴取を行い、それらは全て録音されて執行部へ回された。

結果、女子バレー部は2週間の活動停止、最初に男子部員を殴った女子は部長退任と大乱闘の日を起点に1ヶ月の部活謹慎を命じられた。以降引退までの部長復帰も認めない。一方男子バレー部の方は個人に対するお咎めはなし、女子同様2週間の活動停止処分となった。

この結果が出た時、海南はまだ春休みの真っ最中であり、毎日のように学校に来ているのは運動部の生徒がほとんどだった。そのせいかどうか、クラブ棟の掲示板に処分が貼り出された当日は女子が怒り狂って大騒ぎしていた。ひどい侮辱をしてきた男子が無罪放免で、侮辱された女子が謹慎だなんて!

だがこれが広く知れ渡るようになると一転、生徒会のジャッジは冷静で公平なのでは、という評価が上回ってきた。そもそも生徒会による「自治」は「生徒の安全」が第一に掲げられることが多い。どんな事情があれ暴力は許さないという生徒会にブレはないということをアピールする形になってしまった。

しかもこの問題はこれだけでは終わらなかった。

春休みが明け、部活解禁の前日になると、男子バレー部は活動場所変更を言い渡された。新たな活動場所は第三体育館の隣の、中庭。一応簡単な屋根はある。活動内容に合わせた変更だという生徒会に、春休み中呪詛を送っていた運動部女子は快哉を叫んだ。生徒会やるじゃん! 最高のサプライズだよ!

というわけで女子バレー部は週に3回は第二体育館をフルで使用できることになり、部長は交代になったけれど4月の2週目にはすっかり元通りの練習が再開することになった。活動停止を食らったせいで意気消沈していたけれど、むしろ結果オーライ。

これが新学期早々のことだったので、在校生にはもちろん、新入生にも「生徒会は生徒の公平な日常のために尽力してくれる組織」という刷り込みが行われ、春の遠征続きで不在がちだった神は気付けば生徒会万歳の空気の中にひとり残されていた。

そして1年生のオリエンテーション期間が明け、校内が「日常」に戻った4月の半ば、生徒会執行部と神が直接校長室に呼び出され、校長本人から直に「少なくとも私が在任中の間は、生徒会のシステムを変えることはありません」と宣告された。

2ヶ月半に渡って推進してきた神の改革が潰えた瞬間だった。

しかも折よく生徒会の株が高騰している最中のことだ。全クラブ活動が生徒会の傘下から外れるべきだという神の主張が通らなかったことは、その意義に関係なく「生徒会が守られてよかった」という形で歓迎されることになった。

女子バレー部は士気が高まり、その中で前部長は長かった髪をばっさりと切り落とし、殴ってしまった男子に謝罪もした。だが、男子バレー部は中庭で不貞腐れているだけ、生まれ変わろうという意欲もない。謝罪を受けた部員はまた容姿を侮辱した上に肩を強く押して逃げただけだった。

男子バレー部が不貞腐れてしまったのは残念だが、殴り合いの喧嘩の結果としては十二分なのでは。それは生徒会がきちんと機能していたからではないのか。現場に真っ先に駆けつけた査長・の判断も的確だった。男子バスケット部とは揉めてたみたいだけど、やっぱり海南は生徒会がいないと。

が正しかったんだよ。てかそもそもバスケ部は予算数百万もあるんだから我慢しとけよ。インターハイの優勝が金で買えるなら誰も苦労しないじゃん。公立でインターハイ優勝してる高校だっているけど、それはどう説明するんだ。

そんなのわかってたことじゃん。バカだよな。

生徒会執行部と神が直接校長室に呼び出されて宣告を食らった異例の件は、監査部には事後報告だった。狭い執行部室に全員集まって会長から報告を受けた際はしばしざわめきがおさまらなかった。宣告の件ではなく、執行部全員の正体が神にバレたからだ。

だが、今年の執行部6人の中の男子ふたりが校長室を出るなり神を捕まえて「執行部が誰なのか言いふらしても無駄だからな。特例として再度監査部の中から新しく執行役員を選ぶだけだ」と釘を差し、さらに「を追い詰めて泣かせた件は忘れてないぞ」とも付け加えてきたという。

神は無反応だったそうだ。「わかった」とだけ言い、そのままスタスタと立ち去った。

それを聞いていたは、監査部の仲間たちの「よかったね」という歓喜の声の中で息苦しさを感じて喉を詰まらせた。生徒間のことは生徒同士でよく話し合いましょうねが常套句の学校側が一体どうして急にそんな裁きを下して来たんだ。しかも当事者は私の方なのに、執行部だけを呼び出すなんて。

校長の真意が分からなくての喉はますます詰まる。

これじゃあまりにも神が可哀想なんじゃない……

確かに神とは意見の相違から何度も言い合いをしてきたし、それは戦いだったし、生徒会は誠実に規則に準じているのだということを理解してくれない神を不愉快に感じたことは1度や2度ではなかった。

だが、と神が自分たちで答えに辿り着く前に校長の宣言で話は終わってしまった。しかも執行部全員に対して神はひとり。フェアじゃない気がした。

どちらの主張が正しいかどうかはさておき、気付いたらデウス・エクス・マキナで実は戦ってもいなかったという終わり方には胸のモヤモヤが取れなくなってしまった。

私は査長としてこの問題にちゃんと立ち向かおうとしていたのに――

その傍ら女子バレー部の元部長が髪を切り謝罪に赴く様子を見ていたら、余計に自分が卑怯者のような気がしてきた。私が、生徒会が正しかったとしても、結局職員室にすら持ち込まれなかった問題をいきなり校長室で片付けられるのはやっぱりフェアじゃないよ。

そして生徒会が別件で称賛されている余波でバスケット部が、神が批判されるのもおかしいと思った。

海南が特殊なだけで、きっと世間的には「強い部に大量の予算をかけて優勝を目指す」方が一般的だっただろうに、校内では最高の予算だったとしてもその範囲内で模索するしかなかった神が改革を訴えた、そのこと自体は責められることではないはずだ。

だがにも査長としての責務があり、それとは交わらなかっただけだ。

予算の話とは無関係の委員会の中には神の改革に賛成という生徒も一定数いて、そこからはやはり嫌味ったらしく「は保守。権力者と同じ」と言われたけれど、勘違いも甚だしい。言葉のイメージだけでこの対立を勝手に解釈してほしくなかった。

はあくまでも査長として対話での解決を望んでいた。生徒会として出来ることは協力したかったし、執行部だってそれは同じだった。それが突然、天の声で片付けられてしまったなんて。

4月も半ばになると男子バスケット部は早くも新入生から退部が相次ぎ、それは毎年のことなので主力選手を中心に県予選とインターハイを見据えた練習が本格的に開始されている頃だ。再び3学年揃ったバスケット部を神が中心になって率いているはずだ。

神、大丈夫かな――

は神のメンタルが心配になりつつも、4月はとにかく各部から申請が相次ぐ時期だし、連休が近付いてくると予算会議もあるし、執行部は執行部で本年度の基本的な方針や予定を決めなければならないしで暇がなかった。

そんな慌ただしさの中で足踏みをしていたらあっという間に連休に入ってしまい、バスケット部はまた遠方へ練習試合に出かけていたりで突撃出来ないまま、しかし連休が過ぎると今度は県予選が迫ってくる。なので連休明けの放課後、は窓口を仲間に任せるとひとりクラブ棟に向かった。

海南のクラブ棟は基本的には運動部のもので、2階建ての長方形の建物である。バスケット部の部室はその1階の最奥にあり、最初から男子バスケット部が使う前提で特別に大きく作られていた。他の部室よりも遥かに大きく、向かいにあるシャワールームはもはや専用、ランドリー設備やキッチンなども付いているという、この時点でも「派」が神の言い分を「わがまま」と感じるには充分な造りだ。

なので関係者でなければ近寄ろうともしない、附属高校のちょっとした「聖域」のようでもあった。

しかし生徒会はその男子バスケット部を管理する立場にある。上下で言えば上だ。緊張で喉が乾いているはノックをすると背筋を伸ばして咳払いをする。ビビるな私、廊下に出てもらってほんの少し、様子を尋ねるだけ。早ければ1分で終わる。

すると、真っ黒な髪を長く伸ばした男子が出てきた。

「あ、っと……確か生徒会の」
「査長のです。神……部長はいますか」
「えーと今ちょっといなくて……18時くらいには戻る予定なんすけど」
「2年生ですか?」
「うぃす、清田っていいます」

言いながらその清田と名乗った2年生はドアの隙間に体をねじ込むようにして廊下に出てきた。神よりはやや小柄だが充分に背が高くて、長い髪がフワフワと跳ねていて、それに少し威圧的な感じを受けたは一歩二歩後ろに下がる。この子ちょっとクドいオーラ持ってるなあ……

「先輩あれですよね、例の神さんの要望の……
「そう。その件で神の様子が気になったから来てみたんだけど」
「あのー、マジすんません、ちょっと中はやめといた方がいいと思います」

雰囲気はクドいが腰は低い。後頭部をボリボリ掻きながらペコペコと頭を下げる清田だったが、もそれは想定済みだ。無論バスケット部は全員神の味方のはずだ。生徒会や、その最初の関門であるに良い感情があるわけがない。

「中に入る気はないよ。少し話をしたかっただけだから」
「あ、そうすか。なんかすんません、余計な仕事増やしたみたいで」
「仕事?」
……よくわかんねえんすよ、なんでいきなり神さんがあんなこと言い出したのか」

は思わず「えっ」と甲高い声を出した。清田が渋い顔をしているのは自分が「神の敵」のせいだと思っていたのだが、神の要望に後輩が戸惑っているとは。は辺りを見回すと清田の袖を引いて部室のドアの前から離れた。

「わかんないって……あの要望書ってバスケ部の総意なんじゃないの?」
……事後報告だったんす」

とふたり、壁に向かって声を潜めた清田は腕を組み、ため息をついた。

「確かにオレたちにも神さんの言いたいことというか、あの要望は分からないでもないす。一理あると思います。だけどそれを突然生徒会に持ち込んでたった2ヶ月くらいでシステムをひっくり返そうというのは無理があるって、そう思ってる部員も多いんです」

もつられて腕を組む。それじゃ今男子バスケット部はふたつに割れちゃってるんじゃないのか。

「ふたつっていうか、4つくらいですかね」
「そんなに?」
「ざっくりと神さんに賛成派と反対派、さらにその中で強硬派と穏健派に割れてる感じです」
「大丈夫なの、予選目の前なのに」
「あ、そーいうのは大丈夫す。みんな神さんに意見したいとかじゃ、ないんで」

清田は腕を組んだまま肩をすくめ、ちょっと笑った。主将になって以来いつも厳しい顔をしたままの神と比べると軽やかな余裕を感じさせる笑顔だった。

「去年の主将がちょっと桁外れな人だったから、それに比べたら神さんは優しくて気軽に声かけられるタイプの主将になると思ってたんですけど、去年なんか比べ物にならないくらい怖くなっちゃった。今年の1年はそういう神さんしか知らないからいいけど、オレら2年は神さんの変化に戸惑ったまま戻れないんすよね。力になりたくても寄せ付けないオーラが強すぎて」

彼が新入生だった頃に神がお目付け役だったそうで、その頃も厳しい指導はあったけれど今のような怖さはなかったという。事情を知る監督は何も言わないし、競技の面で厳しい分には問題もなく、新学期に入ってからの校外試合の成績はもちろん悪くない。というか今のところ全勝だそうだ。

「清田くんには心当たりとか、ないの?」
「これというきっかけみたいなものは知らないっす。事後報告だったし」
「清田くんは神の要望、あれ、どう思う?」
「んー、オレは縛りがある方が燃えるタイプなんで、そんなに……
「縛り……
「いや、ちょ、変な意味じゃないすよ!?」

バスケット部にとって、クラブ活動が生徒会の管理下にあるということは「制約」だったのか? は清田が隣にいることも忘れて首を傾げ、ため息をついた。だけど部員ひとりの一存で予算も人材も使い放題の高校のクラブ活動なんてもの、存在するの?

が考え込んでしまったので、清田は腕を解くと背をポンポンと撫でてきた。

「神さんはめちゃめちゃ頑張ってますよ。ていうかちょっと頑張り過ぎだし、完璧を求め過ぎじゃないのかなって思うこともあります。常に上を目指して努力を怠らないことと、やりすぎは別だと思うんすよね。神さんみたいなのが当たり前だったらオレ来年どうしたらいいのかわかんねえすもん」

この子、去年の神のような、主将候補になるほどの選手だったのか――

一瞬意外に感じただったが、彼のゆったりした表情を見上げながら思った。

神にはこういう、余裕が見えない――

桁外れだったという去年の主将にも、この清田にもその「余裕」は感じられるけれど、神からはその余裕や「余白」が感じられない。清田の言うように、インターハイの優勝という目標を掴むために完璧を求め過ぎてしまっているのではと思えてきた。

一体何が神から「余白」を奪ってしまったというんだ。

この清田のようにゆったりと優しく微笑むような人だったのに――