至上のヴィア・クルキス

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と神の「対立」を1番問題視していたのはやはり会長を始めとした執行部だった。

「言い方悪いけど、学校側が反応なしってことは、既に限界なんじゃないの」

主に予算の点ではもちろんそのはずだ。男子バスケットボール部は既にかなりの予算を消費している。

「また言い方悪いけど、オレから見たら、たかが高校の部活だよ」

執行部の役員である男子はそう言って腕を組んだ。

「優勝がどうとか言うけど、それってバスケ部と学校だけの栄誉だろ。その結果進学とか変わってくるのかもしれないけど、それこそ部外者には何の得もないことで、同じ学校の生徒たちが応援してるっていうのはそういう意味じゃないし、予算内で結果出せなかったのは生徒会のシステムのせいじゃない」

執行部役員たちと一緒にも頷いた。彼の言い分もわかる。

「もちろん生徒会が神の要望を検討しないということは変わらないけど……
「会長、神の考えに思うところがある?」
「というより、あの神がそこまで食い下がる方が引っかかるよ。何があったんだろう」
「男バスってそれこそ部外者お断りだから、内情よくわからないんだよな」

会長も腕を組み、首を傾げた。執行部の男子の言葉には神の言葉を思い出していた。はオレの何を知ってるの――

この日は神の件で延々と喋っていたら遅くなってしまい、しかし結局結論など出ないまま、生徒会は本部を出た。細く吐く息ですら真っ白になる2月の宵の口はしかし、ひと月前頃に比べるとずいぶんと明るくなっていて、身を切るような寒さの向こうに暖かい春が近付いてきていることを感じさせた。

昇降口を一緒に出た会長はと並んで歩きながら、白い息をもうもうと吐く。

「困ったねえ。この問題、3年生に持ち越したくないなあ」
「神もそう言ってた」
「えー?」
「新学期が始まるまでに通したいらしいよ、要望」
「何をそんなに焦ってんだよ……

会長は2月の冷たい空気に身を震わせながらまたハーッと大きなため息をつき、そして隣のの肩をそっと抱いた。自転車通学のはダウンを羽織っていてモコモコしている。

「でもが1番しんどいよね、ごめん」
「会長が謝ることじゃなくない?」
「あんた何言ってんの!? って言えないのがもどかしくて」

今年度の会長はこの正義感を買われての就任だったという噂だ。一見して生徒会会長という権力のありそうな役職についているとは思えないような、穏やかそうな女子なので、彼女が会長だということは例年以上に勘付かれにくい。は会長の肩を抱き返す。

「執行部が同じ気持ちでいてくれるから平気。大丈夫だよ」
「期末終わったらスイパラ行こうな! 男抜きで食いまくろうね」

これを生徒会男子たちは差別だ、と渋い顔をするが、各学期末考査後の「女子会」はもう30年くらいの歴史を持つ生徒会の伝統なので、男子禁制。近年はスイーツ食べ放題に赴いて貪り食う行事になっている。は笑いながら何度も頷いてバス通学の会長と別れた。

徐々に明るくなってきているとはいえ、未だ駐輪場の辺りは真っ暗だ。自転車も数台しか残っていない。は自分の自転車を引っ張り出すと、ゆっくりと漕ぎ出す。あまり速度を上げると寒いので、そっと静かに帰りたい。

2月も半ばをとっくに過ぎているので、不安ならそろそろ期末の準備を……という頃だが、生憎気楽な内部進学志望、良くも悪くもない成績の維持で充分なのでやる気は出にくいし、得意教科なら授業だけでもそれほど困らない。

そういう意味では暇な時期なのだが、神の件は面倒くさいなと思っていた。生徒会には生徒会の意志があるのだし、それを曲げて聞き入れてくれないとへそを曲げられても困る。通すつもりのない要望なのだし、出来れば執行部を巻き込まずに終わらせたい。

は学校を出て5分ほどで遊歩道に入った。本来なら自転車は押して通行せねばならない歩行者のための道だが、横幅がかなり広いので朝晩は自転車が大量に通り過ぎる。しかもここを抜けると信号をふたつキャンセルできるので、車道を通るより時間を短縮できる。

そんな通い慣れた道をノロノロと走っていたはしかし、進行方向の光に気付いて思わずよろけ、慌てて足をついた。すっかり日が落ちて暗い遊歩道に煌々と光る携帯のモニタの明かり、それが照らしていたのは神の顔だった。

同様自転車通学らしい神は、いわゆるママチャリタイプの自転車に大きなスポーツバッグを詰め込み、サドルに跨ったまま片足をついて携帯を操作していた。帰宅途中に大事な連絡でも入ってしまったか。というかこの遊歩道が通学路だったのか、一度も見かけたことないぞ。

出来れば今1番会いたくない人物なので、は迷った。遊歩道の両側は低木と桜が交互に植わっており、車道側は高いフェンス、反対側は住宅で、住宅街と車道をつなぐ路地と交わるのは50メートルくらいの間隔を置いている。今はちょうどその真ん中あたり。

1番確実な方法は、そっとUターンしてその場を去ってしまうことだ。だがそうすると自転車専用レーンのない交通量の多い車道を通らねばならず、ちょっと危ない。しかも今の時間帯は帰宅や帰社を急ぐ車、特に大型車がスピードを上げて走行しているので出来れば車道には出たくない。

だとすると、何食わぬ顔をして速い速度で横をすり抜けてしまうか。神は携帯に気を取られているだろうし、横を通り過ぎる自転車一台をわざわざ確かめたりはすまい。

は直進を選び、首元に巻き込んでいたマフラーを緩めると、フェイスガードのように引き上げて口元を覆った。既に暗いし、通り過ぎるだけなら絶対に気付かれない! 大丈夫! 音を立てないようにペダルを踏み込み、静かに滑り出し、速度を上げて一気に。

すると、が心の中で「平常心、平常心」と繰り返していたその目の前で、神は携帯を下ろして顔を上げ、後ろを振り返った。何もかもすべて意味なかった!

げんなりしたはまたよろけて左足の爪先で地面を蹴った。右前方にいる神はほんのりと携帯の明かりに照らされていたけれど、それでも充分わかるくらい無表情だった。かなり気まずいことになっているけれど、もうここは学校の外なのだし、無視でもいいのでは……が思い直していると、

「生徒会ってこんな時間まで何やってんの?」

無表情の神は漕ぎ出そうとしたにそう声をかけた。

……生徒会も遅くなる時はあるから」
「てかってチャリ通だったのか。中学どこ?」
「えっ、C中だけど」
「なんだ、近いな。オレA中」
「えっ、そうなん」

他愛のない会話のようだが、神は能面のような無表情だし、も神の顔は見ずに俯いていた。こんな時に限って通行人も自転車も通りかからない。2月の冷たい風がひたひたと足元に這い寄る。

……バスケ部って毎日こんな遅いの」
「遅いのはオレだけ。終わった後にひとりで練習してるから」
「ひとりで……?」
「努力してるんだよ」

淡々とした、表情のない声だった。だが、はそれについカチンと来てしまい、顔を上げた。

「そういう言い方しなくてもいいんじゃない?」
「だって本当のことだから」
「神たちが努力してることは何ひとつ否定してないでしょ」
「でも足りないんだろ」
「そういう意味じゃなくて!」

動いているのは唇だけ、というほど表情の変わらない神に焦れたはつい大きな声を上げたが、いつ誰が通りかかるかもわからない路上の上だと思い出し、大きく息を吸い込んで咳払いをする。

……言い合いはしたくない。神はそう言うけど、私は神のことすごいと思ってるし、でも生徒会の意思と私の感情は別の物だから、それが伝わらないのは残念だけど。お疲れ様。気をつけてね」

たくさんの感情を飲み込んだの精一杯の本音だった。神もそうであるように、にも査長としての立場があり、それは生徒会というひとつの意思を持った組織に沿い従うのが本質。神の主張と交わらないことは覆らないのだし、不毛な言い合いは何も生まない。

もう神がどれだけ嫌味をふっかけてきても反応せずに通り過ぎよう。そう考えて地面を蹴って自転車を押し出す。すると、そのの隣に神の自転車が滑り込んできた。がまたつい顔を上げると、神の冷たい横顔が見えた。

……送ってくよ」
……はい?」
「遅いし、暗いから」

そんなものいらない、じゃあねと言って漕ぎ出してしまえばいいということは分かっていた。だがは返事をせずにペダルを押し込む。何を思ったか神は送っていくという、それに対してまた拒絶をすると言い合いになる気がしたのだ。

まだ神が口喧嘩を売ってきているのだとしても反応しなければいい。どれだけ神が圧をかけてきてもは揺るがない自信があった。高みに上り詰めることを宿命付けられているのがバスケット部なら、生徒会の宿命は岩のように動かないこと。は無言で漕いでいく。

だが、神がの自宅を知っているわけでなし、次の信号で早くもふたりは足を止め、神は「どっち?」と声をかけてきた。

の自宅はこの信号から左方面。神がA中出身なら、その場合は直進であるはずだ。近い地域内ではあるが、隣町というほどでもない。おそらく最寄り駅は異なるくらいの距離があるはずだ。

「C中ってこっち……だよね」
「そうだけど、疲れてないの」
「疲れてるけど、オレ――いや、別に普段と変わらないから」
「疲れてるなら早く帰って休んだ方が……

ふたりとも大きな声をあげないようにしているが、少しでも擦れ違ったらまた喧嘩になりそうだ。それを察したか、信号が青に変わると神はの自転車のカゴに手をかけて押し出すように力を入れた。

「神、送っていってくれるのは嬉しいけど、私は――
は?」
「えっ?」
がもし生徒会でも査長でもなかったら、どう考えたと思う?」

慣れた道を自転車で走りながら、は思わず前方から意識をそらして考え込んだ。私が生徒会じゃなかったら――そんなこと考えたことなかった。束の間自転車を漕いでいることを忘れたの体はぐらりと揺れ、神の手がまたカゴを掴む。

「そんなこと……私も1年の時から生徒会だし、生徒会じゃない自分の考えなんて持ったことないよ」
「さっき言ってただろ。生徒会との感情は別物だって。あれの意味が気になって」
「それはほら、神と同じように私も任期が終わるまではちゃんと査長を務めたいから」
自身の考えと生徒会の考え方が違うことがあっても?」

はまた黙った。生徒会に入ってそろそろ2年、生徒会と自分の感情がずれたことなんかなかった。というより、生徒会の方針に疑いを持ったことなんかなかった。生徒会は何をおいても生徒の安全で公平な学校生活を守るというところにあったから。

それに、おそらく海南の生徒会という組織が今の形に落ち着いて以来、神のような改革を持ち込んでくる生徒はいなかったはずだ。それに思い至ると、は改めて今前例のない問題に直面しているのだと気付いた。過去の例に頼ることはできない、自分で答えを探さなければならないのか。

だが、神のように特別に秀でたもののない、いち生徒であるは生徒会の意思には疑問の余地がないと思っている。すべての生徒には公平なチャンス、公平な選択の自由が保証されているべきで、特別扱いはその均衡を崩す危険がある。

生徒会という鉄壁が存在しなかったら、その均衡が崩れてしまったら、その時には神の主張通り秀でた生徒には有り余るほどの支援の手が差し伸べられ、そうではない生徒には目もかけられないという海南大附属高校が誕生するはずだ。

それは公平ではない気がしたし、公平でないことが正しいと思わなかった。

「私は……生徒会の方針を、信じてるから」
……そっか」
「私は、ボドゲ部の子も、神も、どっちも、同じように応援したいから」

例え部活をやっていない生徒でも、同好会でも、生徒会にとっては全て全力で守るべき仲間。これは80年代校内暴力時代に芽生えた生徒会なりの「正義」であり、そのためなら学校側と戦うことも辞さなかった。いじめも許さない。スクールカーストも部活縦社会も認めない。実現できているかどうかはともかく、生徒会はそれを貫いてきた。

すると神はちらりと視線を寄越し、かすかに微笑んだ。

「ボドゲ部は全国大会に行かないし、だから予算も少ないし、放課後に北棟の空き教室で地味にゲームしてるような地味な部で、その分バスケ部みたいに称賛を浴びたり進学が有利になったりしない、そういう子たちにも手を差し伸べてやりたいから――てこと?」

優しげな神の表情にたじろいだは言葉もなく頷いた。

はそれが公平だと思ってると思うんだけど……オレにはちょっと違って見えるよ」
「違う?」
「ボドゲ部には、全国大会、ないから」

何を当たり前のこと言ってるんだろう……は首を傾げた。海南のボードゲーム部は、歴史だけは長い囲碁部将棋部チェス部が廃部の危機に瀕した際、当時の部長が手を組んで新たにボードゲーム部として部員数や活動を確保し誕生した部である。なのでボードゲーム部として何かの大会に出場することはない。最近は将棋目的の入部が増えているそうだが、趣味性が強く、校外活動の意思がない。

「ボドゲ部で将棋やってるやつで仲いいのがいるんだけど、身近に将棋打てる人がいないんだって。オンラインでも出来るけど、対戦相手の表情なんかを読むのも楽しみのひとつだとかで、週2回放課後に仲間たちと将棋打つの楽しいって言ってた」

神の優しい微笑みは、少し笑いを堪えているような表情になってきた。

「ボドゲ部が地味で称賛されもしない、手を差し伸べてあげなきゃいけないような弱小部だと思ってるのは、たちだけじゃないのかなあ。あいつら、楽しそうだよ。お前らそんなえげつない練習量の部活なんかよく続けていかれるよな、ちょっとMなんじゃねえの、とかよく言われるよ」

C中が遠くに見える歩道の上、は自転車を止めて閉じていられない唇から真っ白な息を吐き出した。自分の中の揺るぎない正義が、生徒会という信念が鋭利な刃物で傷付けられようとしている気がして、動悸が激しくなってきたからだ。

「ボドゲ部は満足してるよ。不満なことって言ったら、女子の部員が入らないことくらいらしいし」

何でもいいから反論しなきゃ。生徒会は神の要望には答えられない。それは絶対に変わらない。生徒会は友達を、同じ学び舎で過ごす仲間を成績で区別しない、その崇高な精神は揺らいではならない。だからもう聞きたくない。は冷えて真っ白な手を持ち上げて耳を塞ごうとした。

その手を神は掴み、同じように冷たく長い指で包み込んだ。

のいう公平って、オレには軽い怪我と重症の怪我の人に同じ処置しかしないような意味に聞こえる。手を差し伸べて欲しいのはボドゲ部じゃなくて、オレ、オレたちのような、助けを求めてる部、なんじゃ、ないのかな」

やがて神の声は低く途切れがちになり、白い息すら糸のように細く漏れ出るだけになった。そっとの手を包む神の指は冷たく、白く、2月の風に少しだけ震えていた。

の脳内には生徒会に入って以来何度も目にしてきた「記録」の文字が洪水のように溢れていた。

生徒会が「自治」のための組織として再編されて以降、生徒会としての活動を行った際につけられる記録は今やB5サイズのノートで数十冊になっていた。最近ではそれをデジタル化する作業も行われているが、内容は常に生徒の立場で生徒の学校生活をより良くしていこうという範囲から出たことはない。

生徒会の手助けにより問題が解決したという例ならいくらでもある。生徒会の介入により海南の生徒たちの学校生活はいつでも守られてきた。不登校が出にくいなどの実績もある。だから学校側は生徒会の「自治」を認めてきた。撤回するつもりもない。

だというのに今、は「助けを求める生徒」を無視しようとしている、らしい。

全幅の信頼を寄せていた生徒会という大樹はいつまでも枯れることがないと思っていた。永遠にその枝葉で生徒たちを守っていける絶対的な存在だと信じていた。それを疑うこともなかった。

違うの……

査長という、ある意味では生徒会長よりも困難で重要な責務を引き受ける時、覚悟したはずだった。この査長という肩書きは特に秀でたもののない圧倒的大多数の生徒のためのもの、自分はその代表なのだと、次の査長にその任を譲り渡すまで大事に守っていこうと思っていた。

自分の覚悟や生徒会の方針では、公平という名のもとに充分満喫しているボードゲーム部より苦しみ続けているバスケット部に手を差し伸べられないということになってしまうのか。

神の言葉にはどこかに破綻があるはずだ、どこかに矛盾があるはずだと粗を探す気力を失ったは、凍りつきそうなほどに冷えた頬に一筋の涙をこぼした。

覚悟して引き受けたはずの査長という役割を全うすることが、こんなにも苦しい思いを伴うものだったなんて。誠心誠意真面目に努めていれば、約1年の任期は恙無く終えられると思っていたのに。

海南大附属高校生徒会始まって以来の問題にたったひとりで直面し続けてきたも限界だった。査長はその役割上、執行部とは密に連絡を取り合い統一された意思を持たねばならない一方で、監査部の中ではたったひとりで「責任者」にならなければならなかった。

助けてくれる人がいないのはも同じだ。

……えっ、?」

だが、神はの頬に伝う涙に驚いて狼狽え、掴んでいた手をギュッと握りしめた。

「ま、待って、そんな、泣かなくても」
「わかんないよ、もうわかんない。私が神を追い詰めてるの? そんなに苦しいの?」
「え、違、

まさかを泣かせるつもりではなかった神はおろおろしていたが、長く息を吐いたが頭をがっくりと落とすと、何も言わずに抱き寄せて撫でた。白い息がふたりを掠めて消えていく。

は洟をすすり上げるとこわばる手で神の制服を掴み、上ずった声を上げた。

「私じゃ無理だよ、私じゃ神を助けられない。私のままじゃ、何もできない」

が生徒会監査部の査長である限りは。

神が息を呑むのがわかった。そしては神の長い腕に抱きすくめられた。

冷たくて冷たくて、神の体にはまるで人のぬくもりがなかった。