至上のヴィア・クルキス

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が査長に就任して以降、監査部も執行部もトラブルのない日々が続いていた。年が明けて3年生が自由登校で姿を見せなくなっても附属高校は部活に熱心な生徒たちが毎日汗を流しているという、何も変わらない光景が見られていた。

それが突然破られたのは、校内からすっかり3年生が消えてしまった1月も末のことだった。

いつものように本部の監査部室で窓口係をやっていたは、応接室払い下げで20年もののソファに並ぶ男子バスケットボール部主将の神、監督、顧問の先生という3人を前にして固まっていた。

「ちょっと性急かなと思ったけど、春の予算会議までに通したいんだ」
「はあ」
「本当は執行部に直接話したいんだけど、ダメなんだよな?」

は神の差し出す手書きのレポート用紙数枚に目を落としつつ、何から話せばいいものやら、と口元を覆った。自分が査長の時にこんな問題が持ち上がってくるなんて。しかも、神から。

レポート用紙の一番上には、「要望書」。見出しには「生徒会から各クラブの独立を提案」とある。

ツッコミどころが多すぎるが、ひとまずここからだ。は顔を上げる。

「すみません、生徒会は生徒のみで組織運営されているので、先生はご退室ください」
「いや、それを変えたいと思って要望書を持ってきたから、同席してもらいたい」

神を通り過ぎて監督と顧問の先生に声をかけただったが、すぐに神がそれを遮った。監督と顧問の先生はじっと腕を組んだまま身じろぎひとつしない。それ以前に監督は元々神のようなバスケット選手だったし、顧問の先生も大柄な男性。それが威圧的に感じては背筋を伸ばした。

「だったら生徒会は要望を受け取れない。監査部は受理しません」
「だけど要望書の内容はオレがひとりで書いたものだよ」
「だったら神ひとりで来て」
「監督と顧問の先生もバスケ部の代表に当たるんだよ」
「バスケ部は生徒会の下位組織だから、生徒じゃない先生は代表に当たらないよ」
「それって生徒会のルールだろ」
「違うよ、校則。生徒会の下に生徒のためのクラブがあるだけ」
「校則は顧問がいて初めて部として認可ってなってるだろ」
「それも違う。うちの場合、部長と副部長を決めなきゃいけないのと同じ程度」

静かな言い合いだった。も神も大きな声ではない。は机の引き出しから校則の写しを取り出してクラブ活動に関する項を探し出す。よく使うのでコピー用紙を閉じた冊子はすぐに開く。

「各クラブは部長・副部長と顧問をそれぞれ1名置くものとする。部長・副部長が何らかの理由によりその役目を負えなくなった場合は速やかに交代を立て、その旨を申請すること。ね? クラブ活動は顧問ありきじゃないでしょ。すごく昔の話だけど顧問が先生じゃなかったこともあるんだよ」

は冊子を置くと机の上で手を組み、小さくため息をついた。

……それに、例え全運動部が署名をしてきても、生徒会はクラブの離脱を認めません」
「生徒会が認めなくても、例えば学校側がそれを認めたら?」
「だったら神は要望書を校長室に持っていくべきでしょ。バスケ部だけ特別扱いしてください、って」
「そういう意味じゃないよ、生徒会の支配から外れたいという――
「まだ要望書見てないけど、生徒会がいつバスケ部を支配したの?」

神の言葉に引っかかったは身を乗り出して語気を強めた。「支配」は聞き捨てならない。生徒会は第一に「生徒の自治」を重んじている組織だ。優劣を作るための序列ではない。

……バスケ部だけじゃないだろ。全ての部は生徒会の許可なしに何も出来ない」
「生徒会から離脱したところで、今度は学校の許可がなければ何も出来ないのは同じじゃないの?」
「だからそれでいいんだよ。生徒会の管理から外れて、学校の管理下に置かれたい」
「ほら、特別扱いでしょ」

は身を起こして肩を落とし、椅子を少し引く。

「神は聞いたことないかな、各クラブ活動が生徒会の管理下に置かれたのは、各部が職員室に直結してた頃に問題があったからなんだよ。ていうか監督と先生はそれご存知でしょう? なんで神に乗っかってるんですか。それもわかってて生徒会の傘下から外れたいというなら、校長先生か理事会に直接かけあってください。私たちはあくまでも全生徒の学校生活を自治管理する組織です。どこかの部だけを特別扱いするような要望は執行部に通すまでもなく、認められません」

そして立ち上がったは本部のドアを開けて傍らに立つ。

「執行部は監査部が通した案件しか扱いません。私は通しません。持って帰ってください」

これも監査部の仕事のうちだ。執行部は監査部が受けて調査をした申請をさらに精査するが、校則に反しているものや生徒会の性質上管轄外に当たるものなどはそもそも議題に上がらない。監査部がその前に弾くからだ。

を振り返った監督は無言のまま部屋を出ていき、続く顧問の先生は疲れた顔をして足を止めた。

……、去年、バスケ部惜しかったろ。今年は優勝させてやりたいと思わんか」
「生徒会は全てのクラブの活躍を応援してます」
「でもインターハイだぞ。地区予選とは話が――
「生徒会は友達を成績で区別しません。優勝は自分の手で掴み取ってください」

にぴしゃりと返された顧問の先生もため息とともに出ていった。するとの視界に影が差し、顔を上げると神がすぐ近くに迫ってきていた。

「どうしてそこまで生徒会がトップにいることにこだわるんだ?」
「逆。生徒会の下に全部の生徒が公平であることが大事なだけ」
「公平とか平等って規格の中に無理矢理押し込めることじゃないのかな」
「それがルールでしょ。神はボール蹴ってバスケするの?」

かなり身長差のある自分を睨みあげているの毅然とした声に一瞬怯んだ神だったが、また一歩足を進めて詰め寄りって壁に片手をついた。いわゆる壁ドン状態である。

「そういうルールを決める権限があるのが生徒会だけっていうのも、おかしくないか」
「生徒会にそんな権限ないよ。この序列は何十年も前に出来たもので、それから変わってない」
「だけどこの要望書はの一存で執行部にすら回さないんだろ?」
「その序列を外れるものだからね。執行部に回しても同じだよ。その場で却下、それだけ」
「てかなんで執行部に直接話ができないの? 監査部を通す必要ある?」

壁ドン状態で上から迫ってくる神から少し顔を背けつつ、は深呼吸する。

「執行部は個人的な恨みを買わないようにしてるから」
「だけど、そしたら窓口であるがそれを被ることにならない?」
「普段こんな無茶な要望書持ってくる人いないから、恨まれることもないよ」
「だったら執行部に直談判してもいいはずじゃないの?」
「執行部は会議をして上がってきた議題の可否を決めて、可なら執行するだけの役目だから」

そういうシステムなので、実際に執行部の構成員は公表されていない。生徒会長や副会長の就任の挨拶もなし、それぞれに親しい友人はもちろん把握しているだろうが、執行部の構成員全員を把握しているのは内部の生徒だけだ。

なのでここでも査長の方が広く知られた存在ということになってしまう。特に同学年ならなおさらだ。

壁に手をついたままの神は背中を丸め、の額に息がかかりそうな距離で声を落とす。

、オレ、どうしても優勝したいんだよ」
「頑張ってね」
「オレたちは毎日限界まで頑張ってる。それ以上のものが必要なんだよ」
「そういうのは大学とか、プロとか、そういうところがやることだと思うよ」
「平行線だね」
「そうだね」

が怯まないので、神はやっと壁から手を離した。

「前の主将たちとは違うから、オレはオレらしくやった方がいいって、言ったよな」
「今でもそう思ってるけど」
……だからオレもこれは譲らない。来学期までに通してみせるよ」
……どうぞ。生徒会はその件には関わらないから、そのつもりで」

そうして神も一歩下がると部屋を出ていった。

腕を伸ばしてドアをぴったりと閉めたはその場にずるずると崩れ落ちて大きく息を吐いた。

混乱はしていなかった。神や顧問の先生の主張には生徒会として正しい対応が出来た。けれど、壁ドンで威圧してきた神がクラウンワッペンを手にはにかんでいた神と同じ人とは思えなくて、頭が処理を拒否しているような気がした。怖くはなかったけれど、腹立たしかった。

神てこんなこと言う人だった? 生徒会が揺るがないことは知ってるはずじゃないの?

しかしもこの年の秋の文化祭まで監査部を預かる身だ。譲れないのは同じ。

校則で生徒会が廃止でもされない限り、神の要望が通ることはない。

「なんでまた急にそんな無茶なことを……
「ちょっと様子が変だった。監督と顧問従えて、すごく威圧的で」
「気に入らないな。神てそういうタイプの人じゃないと思ってたけど」

しかしさすがに自分のところだけで止めておけず、はこの年の会長にすべて報告した。執行部の会長とはいえ、数ヶ月前までは一緒に監査部をやっていた馴染みの女の子なので話は早いし気楽。

「要望書自体は読んでないの?」
「一考の余地があるように思われても困るかと思ったから見なかった」
「生徒会から外れたいことの意味は、色々考えつくけど……
「まず予算だろうねえ……
「だよねえ……

この日は監査部の窓口担当がちゃんと来ているので、は執行部室の片隅で会長と肩を寄せ合ってコソコソ話していた。窓口のある監査部室と中で繋がっている執行部は生徒会の人間しか入室できない決まりになっているので内緒話をするのにもちょうどいい。

「でもの言う通り、このシステムは昔やらかしたクラブがあって、その再発防止の意味も込めて当時の学校側が決定したことなんだから、神の主張は通らないよ」

その事件は80年台の初頭にまで遡る。当時各クラブの予算は春に職員会議で分配されるものだった。生徒の保護者やOBなどからの寄付金に制限はなく、その上部員たちから毎月好きなだけ部費を徴収することが出来ていた。さらに予期せぬ遠征の必要が発生すると、特別追加予算も下りた。

それが長く続いた結果、好景気の折になんと格闘技系の部で八百長が発覚、慌てて内部調査をしたところ、部の活動費に関する収支の記録すら付けられていなかった。これには無関係なクラブ活動をしている生徒の保護者が激怒、あまりに不健全な体質ではないのかと大問題になった。

そんなわけで構造改革に乗り出した附属高校はしかし、どうしても「スポーツ強豪校」という看板を下ろしたくないので、まとまった予算を各クラブの規模に合わせて分配するという点は譲れず、問題発覚の翌年には全クラブを生徒会お預かりとすることに決定。

以来、各クラブによる活動費の奪い合いが続いている。

「でも男バスなんか全クラブ中1番多く持っていくじゃん。そこは私たちも納得してるし」
「インターハイ連続5年目からは遠征補助金も最初から込みで出てるしね」
「あれは普通、予期せぬ遠方の大会に出場が決まった時のものなんだけどね……
「かと言って例えインターハイが神奈川で行われても減額はされないし」

特に男子バスケットボール部は年間通して遠方での校外試合が多い。中でも夏のインターハイは部員全員と関係者が1週間以上現地に滞在する費用を学校が持たねばならない。それはもちろん当然の予算として春に承認されているのだが、それ以上は認められていないのが現状だ。

件の事件をきっかけに、春に下りる予算以上の活動費の使用は全面的に禁止された。そしてが古生物同好会の発起人に説明したように、生徒ひとりあたりが所属するクラブに払える部費にも制限がある。それでも月5000円までは認められているのだが、そこまで。寄付や保護者の寄進も禁止。

「現物支給はいいんだっけ?」
「それも限度がある。ジュースの差し入れくらいならいいけど……ええと」

会長は身体を捻って棚の中を漁り、「クラブ活動」と書かれた分厚いバインダーを取り出す。

「えーと、ほらここ、保護者または卒業生の寄贈は上限を年間1万円までとする」
「年1万? じゃああの筋トレの機械とかってどうなってんの?」
「この規則ができる前のものか、予算が余った時に買ったか」

通常であれば1万円までの範囲でも充分な支援になるはずだが、もはや男子バスケットボール部はその規模を大きくはみ出してしまっている。も会長もそれは理解できる。しかし神の主張を認めてしまったら、附属高校におけるクラブ活動のあり方そのものがひっくり返ってしまいかねない。

「ま、確かに強い部が大量に予算かけてもらって、ってのが普通だよね」
「職員室で予算が決まってた頃はそういう状態だったんだろうし」
「会計もいい加減だっただろうしなあ……

会長がパラリとめくったバインダーには、各クラブが活動以外にやらねばならないことが記されている。世代交代の際の報告もそのひとつだし、各クラブは最低ひとり会計係を置いて収支の記録を付けることが義務付けられている。これは生徒でも顧問でも誰がやっても構わない。

さらに、例えばそれが文化部で、文化祭などで売上が出てしまったとする。その場合の「儲け」は生徒会に返納するのが決まりだ。これは文化祭後に回収され、基本的に予算ゼロの委員会の備品などに充てられている。これを粉飾決算したことがバレたら良くて活動停止、最悪廃部である。

そして、部長か副部長は毎月生徒会の「定例会議」に出席せねばならず、そこで活動内容の報告もしなければならない。各クラブが生徒会の傘下に入って以降、活動の実体もないのに予算だけ取っていく部が現れたからである。会長はため息とともにバインダーを閉じる。

「そういう風に遡ると、だいたい自業自得なんだよね」
「だけど自分たちがやったわけでもないのに、って言われがち」
「ルールとか決まりってのは最悪のケースを防ぐためにあるものなんだけどね」

腕を組んだもため息をついた。だけど神ならそのくらいわかってるだろうに――

「どうにも神の心が読めないよね」
「元々ポーカーフェイスだしな」
……主将になったって報告してきた時は、笑ってたのにな」

それから1ヶ月ほどしか経っていないというのに、一体どうしたんだろう。首を傾げたの隣で、会長は少し俯いた。

……でも最近、神、笑わなくなったよね」
「えっ、そう?」
「私クラス隣だからよく見かけるけど、なんかいつも厳しい顔してて」

一年生の頃から表情に乏しく感情が表に出にくい人物ではあったけれど、それでもが回想するように、神は朗らかで柔和な笑顔の持ち主だったはずなのだ。

あんな風に威圧的に改革を迫ってくるような人ではなかった。

「運が悪かったね
「しょうがないよ、査長引き受けた時に先輩にも言われてたし」
「えっ、神のこと?」
「ううん、生徒会の顔は実質査長だから、つらいこともあるかもしれないよって」

査長であるを通過せずに生徒会まで何かが運ばれることはない。つまり、神のような「要望」を持つ生徒にとって、は最初にして最大の壁なのである。そしては生徒会の意志として壁であることを放棄するつもりはない。

「こっちは執行部だから協力できることにも限度があるけど……
「平気。やれるところまでやってみるよ」

そりゃあ神とは個人的に親しいというほどではない。しかしはあの日、にっこり微笑んで「ありがとう」と言った神が本当の彼なのでは、と思えて仕方なかった。バスケ部だけ生徒会から外れて特別扱いされたいと言い出すなんて、どうにも疑問が残る。

だからも引くつもりはなかった。神が何を考えているのかわからないけれど、先代の主将の真似をしても仕方ないよな、と微笑んでいた神の方を信じたかった。

それでなくとも仮にも生徒会、監査部員だとしても生徒を区別差別するつもりはない。

「一応、査長だからね」