至上のヴィア・クルキス

9

声を上げて笑い合ったのは初めてだった。手を繋いだまま渋谷を後にしたふたりはの最寄り駅へ到着する頃にはすっかり気が楽になってしまい、ためらうことなく駅ビルをうろつき、日が傾き始めるとファミレスで食事をし、また駅周辺をふらつき、20時くらいになってようやくの家に戻った。

午前中から誰もいなかった家の中は屋外より温度が高く、ただでさえ汗をかいていたふたりはまたドッと汗が出てきて、あちこちの窓を開けて換気をしつつ、の部屋をエアコンで冷やした。

普段生徒会の活動で忙しいの部屋はシンプルにまとまっていて散らかってはおらず、神はそれを「オレもこんな感じ」と言ってニヤリと笑った。疲れて寝てしまい、洗濯物が散らばっていることはあっても、その他に部屋を散らかす時間がない。

部屋を冷やしている間に交代でシャワーを使い、着替え、水分を補給すると今度は途端に話すことがなくなってしまった。家族が不在で家の中は静まり返っているし、6畳ほどのの部屋にふたりきり、手を繋いで外にいるときよりもお互いを近くに感じた。

「それ、今日買ったの?」
「そう。変なところで役に立った」
「練習着?」
「消耗品だから」

は部屋の隅に置かれているファストファッションのビニールバッグをちらりと見た。今日ずっと神がぶら下げていたものだ。本人曰く「同じものが3セット」入っているらしい。どちらも黒のハーフパンツとTシャツが見慣れなくて、はまた目を逸らす。

「黒っぽいイメージ、なかった」
「どういう意味?」
「白っぽい人だと、思ってた。勝手に」
「よく言われる」

もうずっと手を繋いではしゃぎながら歩いていたのに、静かな部屋に落ち着いてしまったら触れてはいけないような気がしてきた。も神も、ほんの少しの距離を開けて並んでベッドに寄りかかり、ラグの上に座っていた。テーブルの上には冷えたペットボトルが汗をかいていて、その両脇には携帯がひとつずつ置いてある。

今日は査長とか主将とか関係ない、確かにそういう前提だった。そして神の一言で今日は付き合っていることになってしまった。さらにの一言で部屋でのんびりすることになってしまった。それは分かっているのだが、妙な緊張がふたりを包んでいる。

親のいない家、部屋でふたりきり、陳腐な真夏の恋の物語そのものじゃないか。

かといってどちらもシャワーを済ませるなりベッドに飛び込むほど手慣れているわけではなかった。何しろ暇がないので。なので沈黙しがちな空気に耐えかねた神は上を向いて勢いよく息を吐き、距離を詰めるとそっとの体に腕を回した。

「ふえっ!?」
「何。もうそんなに暑くないだろ」
「いやその、ちょっとびっくりしたから、ごめん」
「押し倒されると思った?」

は正直に頷いて神に寄りかかった。

「よくそんな落ち着いていられるね」
「落ち着いてないよ、緊張してる。涼しい部屋でのんびりとか幻想だった」
「顔に全く出てないのずるい」
「おかげさまで試合では役に立つけど、もそんなに顔に出てないよ」
「えっそう? 気まずい通り越してちょっと怖くなってきたんだけど」

言いながらふたりは少しだけ笑った。緊張すればするほど饒舌にもなってしまう。どちらもお互いは余裕たっぷりに見えていたけれど、そうでもなかったらしい。

……主将交代したんだって来たのが、何年も前みたい」
「オレは昨日のことみたいに思い出せるけど」
「忘れてたわけじゃないよ。ただ、今までのことを考えるとこの状況はいいんだろうかと」

清田のおかげで炎上は鎮火したらしいとは言うが、それでも未だと神は敵対関係にあるというのが一般的な認識のはずだ。絶対的なの味方であり仲間である生徒会ですら、ふたりがキスした仲であるなんてことは知らない。

むしろ会長始めが神とのやり取りで疲弊していたことを案じていた人々は神を良く思っていない。インターハイから戻った神が炎上に対して積極的に対応しなかったことも快く思っていない可能性は高い。結局その役割を担ったのは後輩の清田だ。

の私室でくっついて緊張し合ってるなんてことは、途中で誰かに目撃されていない限り、今日出会った本年度MVPの彼しか知らないことだ。

神もその違和感がわからないわけじゃない。彼女だとかつい言ってしまったけれど、

「休みが終わって、しれっとオレたち付き合うことになりました〜なんて言ったら」
「今度こそ査長辞めることになるね。会長怒りそう」
「オレも部員に怒られそう」

自虐的に笑ったふたりだったが、敵対関係にあるはずのふたりが突然交際宣言などして、それを騒がずに受け止めてくれる人が多いとは思えなかった。査長としても、主将としても、相応しい振る舞いではないと思われる方が多いだろう。

それを「ふーん、そう」で済ませてくれるとしたら、そもそも年明けからの騒動にも春の騒動にも関係なく、インターハイの件でも無関心、という生徒くらいではなかろうか。クラブ活動が盛んで多くの運動部員を抱える附属高校においては、これに当てはまる生徒は少数派だ。

のみならず、の絶対的味方の生徒会も不快に感じるかもしれない。ふたりがこのまま恋人同士になることはリスクしかない。いや、状況は悪化するかもしれない。特に神はチーム内の信頼関係に関わる。あまりに高いリスクだ。

……それもそうだけど、神は、ええと、私と付き合いたい、の?」
「付き合ってるとか付き合ってないはどうでもいいけど、近くにいたいとは思う」
「なんか卑怯な言い方だね」
……しょうがないだろ」
「何がしょうがないの。都合のいいときだけ甘やかして欲しいっていうなら今すぐ帰って」

ふたりを取り巻く環境はともかく神の気持ちはどうなんだろうと思って聞いてみたは腕を突っ張って顔を上げた。今年はじめの勢いはどうした。何だその逃げ腰な言い方は。

「だって、無理だろ、今のままじゃ」
「それはひとまず措いて、神はどう思ってるのって聞きたかっただけなんだけど」
「それは、ほら、はどうなんだよ……ってそんな盛大にため息つくなよ」
「怖い顔で壁ドンしてきた人とは思えないんだけど……

は言いづらそうに唇を尖らせている神の耳を引っ張って真正面を向かせる。分かりづらいけれど照れているのかもしれない。ぱっちりとした目が少し泳いでいる。

「宗一郎っていつもそう。自分で思ってること考えてることあるくせに、ちゃんと言葉にしないの良くないよ。それでわかって欲しい助けて欲しいって、神てただでさえポーカーフェイスなこと多いのにわかんないよ。ていうかもう全部話してよ、どうしてあんな改革しようと思ったの」

宗一郎と呼ぶことも忘れたの真剣な眼差しに、神はまたじわじわと俯いていく。かといってあまり強く詰問するとまた心を閉ざしてしまうかもしれない。はその俯いた神の頭を抱き寄せて撫でた。まったくこの主将はほんとに……

「次は……優勝しかないって、それは自分たちでも思ってたし、そう言われることはわかってたけど、状況はもっと悪くて、OBとか、関係者とかは、そのうち『神で大丈夫か』って言い出した」

は撫でる手を止めて絶句した。なんてことを言い出すんだ。

も言ってたけど、去年の主将とか、清田とか、ああいうタイプが多いんだ、海南のキャプテンて。オレみたいなタイプは珍しいらしい。地元出身だし、特待生じゃない主将は21年振りだって言うし、とにかく今年はイレギュラーだって、去年牧がいて優勝できなかったのに今年の神でチームを優勝に導けるのかって、そういう……、痛い」

憤るあまり神の頭をギリギリと締め上げていたは慌てて両腕を開く。

「今年いち頭に来てるかもしれない」
……監督とオレの考えはちょっと違くて、先代がやっぱりちょっと特殊だったから」

自主的にに擦り寄った神は細く息を吐きながら続けた。

先代が長い海南の歴史の中でも傑出した選手だったことは共通認識だったらしい。関係者はそれを欠いたことによる戦力低下を案じたが、監督と主将である神はむしろ「先代を欠いたことによるチーム内の士気の低下」を心配していた。

「オレがあんまり迫力あるタイプじゃないてのは分かってたし」
「でも清田くん、神は主将になってから怖くなったって言ってたよ」
「それはと揉めてたから」
「ちょ、私のせい」
「先代がいなくても、戦力なんか落ちてなかったんだよ。それは間違いない」

は今になって予選を観戦しておくべきだったと後悔した。生徒会の本部に籠もって神の主張を却下し続ける前に、男子バスケット部の現状を自分の目で確かめておけばよかった。そうしたらもっと違う道もあったかもしれないのに――

しかし戦力的には問題なくても、先代を欠いたことで対戦校の士気が異様に高いことも問題だった。先代の主将が引退していなくなった今のうちに海南を王座から引きずり下ろしたい、神奈川の勢力図を自分の代で書き換えてやるという意気込みに溢れたチームがほとんどだった。

以前なら海南大附属に挑むということは「あの大きな壁を越えたい」という「挑戦」であることが多かった。何しろその壁の高さときたら、十数年も挑戦者を払い落としてきた実績がある。だというのに、ひとり選手を欠いただけのことで「挑戦」はいとも容易く「強襲」に変わった。

「あの頃はオレも自分が舐められているからだと思ったんだけど、オレが主将だからっていうより、『先代がいないから怖くない』だったんだよな、対戦してきたチームって」

それだけ先代が化け物じみていたということなのだが、その脅威の不在は敵に安心感を、味方に不安感をもたらす。神と監督が危惧したのはそこだった。先代がいなくたってやれるという自信、それが例年よりも育ちにくかった。

「だから……ありとあらゆる可能性を試したかった。自分たちはやれる、今年の海南も最強だって思えるだけの自信をつけたい、だけど出来ることは限られてて、予選の時期を考えると春休みの間に、新入生が入ってくる前に準備を始めたかった」

しかし神の主張は認められることはなく、新たに新入部員を迎えたバスケット部はどこかで「先代のいない今年」を不安に思う気持ちを抱えたまま、それを隠しながら予選に立ち向かわなければならなかった。神は厳しい主将としてチームを牽引してきたけれど、不安に苛まれていたのは監督も同じで、予選期間中、ふたりはずっと苛々していた。

「今年に入ってから、どこと対戦しても『牧のいない今がチャンス、勝たせてもらいますよ』なんていう人が多くて。それが今の2年にどれだけプレッシャーだったかと思うと、あいつらもつらかったはずだ。清田がああいうタイプでなかったらもっとグズグズだったかもしれない」

だが、それも神にとっては運が悪かった。清田は誰もが納得の「海南の主将」タイプだった。

「比較されたんだね」
「尊敬してる先輩だし頼れる後輩なのに、ふたりに対して腹に黒いものが溜まるのも嫌だった」
「まあ確かに……清田くんて男の子に好かれそうだよね」
「とどめにMVPまで逃して、いよいよ四面楚歌、監督はともかく、顧問はもう諦めてたと思う」
「早すぎない……?」

しかし顧問は、予選で辛勝してインターハイ出場を手に入れたというのに、1・2年生に向かって「こんな年もあるということをよく覚えておいて、敗北も次の勝利の糧にしよう」というようなことを言って回っていたそうだ。勝ったからインターハイの出場権を手にしているのに。

、顔怖い」
「しょうがないでしょ……? なんなのそれ、神にも2年の子たちにも失礼すぎるよ」
「名前で呼んでって言ったじゃん」
「宗一郎はもっと怒りなよ」
「怒ってる暇がなかったんだよ」
「私には怒ってたじゃん」
「怒ってないよ、どうしてわかってくれないんだろうって思ってただけ」
「それは宗一郎がちゃんと本当のことを言わなかったのが悪い」
「言ったら助けてくれた?」
「えっ、いやその、ええと」

神は鼻でふふんと笑うと、また大きく長く息を吐いた。

「顧問とか、ああいう人たちにとって、今年1年ていうのは『毎年の中の1年』なんだよな」
「毎年の……どういう意味?」
「毎年必ず巡ってくる同じことの繰り返しのうちの、ひとつ」

は首を傾げた。それは普通のことなのでは。

「だけど、オレにとって『3年生の年』は1度しかない」
「あ……
「優勝への道程は長いけど、高校は3年間しかない。オレたちには3回しかチャンスがない」

海南大附属にとって、全国大会での優勝を目指す戦いは何十年と続いてきた。けれどそれは1度きりの戦いを散らせていった3年生の積み重ねの上にあり、いつかその目標にたどり着いたとしても、それは多くの先人たちの栄光ではない。1度きりの3年生にそのチャンスを掴んだ者たちのものだ。

「また来年があるさっていうカード、オレたちは2回までしか使えない」
「だけど先生たちは何度だって使えるし、まるで神たちはその駒」
「まるでじゃなくて、そうなんだと思うよ。先生だけじゃなくて、遠くから見てる人にとっても」

何回でも「来年があるさ」というカードを切り、何年かかっても「次」へ繋げることが出来るのは、「今年」が毎年巡ってくる大人たちだけ。たった1回のチャンスしかなくて、それを逃したら二度と取り返せない3年生は為す術もなく戦いの場を去らねばならない。

……予選の後、八つ当たりしてごめん」
……いいよ、怒ってない」
……なんで」
「あのときのことなんか、今頭に来てるのに比べたら」

まだ怒りの収まらない様子のは、ゆるりと微笑む神とは対象的にまだしかめっ面だ。

「しかもインターハイの件はのせいにされたし」
「私のせいでいいよもう、言わなかった宗一郎も悪いけど、助けられなかったのがほんとに悔しい」
……なんでそんな強いの」
「強い? そういうことじゃないよ、査長の役目が果たせてないからだよ」

今度は神が首を傾げた。査長の役目? オレのためじゃないの。

「私も言うね、私は神みたいなすごい選手になれるような能力とかはないし、だから生徒会なら頑張れるかなって思って入ったんだけど、その役目を全うすることは神たちが試合で勝利するために練習を積み重ねたり、試合で全力を尽くしたりするのと同じだと思うんだよ。私は私の戦いを戦ってた。全力で戦ってた。だけど実は力を尽くせてなかったってこと。それは悔しい。助けたかった」

特に名誉職である査長の任を授かったことは、余計にをその役目に邁進させた。

……同じだったね、オレたち」
「戦ってきた舞台の大きさは違うけどね」
「そんなことない。自分の選んだ道が苦しくても逃げずに走り続けてきたのは、何も変わらないよ」

神は体を起こして改めてしかめっ面のに向き合うと、眉を下げた。

がいたから、耐えられたんだよ」
「そ、そんなこと……
「前にも言ったけど、が支えだった。さもオレの良き理解者ですって顔して近付いてくるような人より、絶対に自分の信念を曲げずに、同じように毎日を戦ってるがいて、オレのことを助けたいって言ってくれる、どれだけ苦しくてもがいると思えば、勇気が出た。まだやれる、まだ戦える、もっと上に行けるはずだって、最初の気持ちに戻れたから」

に甘えて助けてほしいと願ったけれど、が自分の戦いから逃げなかったことが結果的に神を支えていた。耳に甘い優しげな言葉よりの戦う姿はよほど神を奮い立たせた。ひとりじゃない、同じように苦難の道を行く人がいる、手は届かなくても心は繋がっている気がした。

はもう、オレを何度も助けてくれたんだよ。誰よりも、何よりも」

神のぱっちりとした右目から、小さなしずくがほろりとこぼれた。は首を振る。

「違うよ、私は何もしてない、何も出来てない、しようともしなかった」
「だからだよ、は自分の戦いを自分のやり方で戦ってたんだから」
「そんな風に言わないで、何もしてあげられなかったのに」
「そんなことないよ、たくさんのものをくれたんだよ、だけだったんだ」

神は涙に触れようと伸ばしたの手を掴み、唇を寄せた。

、好きだよ、オレにはだけ、だけなんだよ」
「そ、宗一郎……
「オレのことを分かってくれるのはだけ」
……私のことが分かるのも、宗一郎だけ?」

の目にもじわりと涙が浮かび、声が震えた。

「そうでありたいと思ってる」

は膝立ちになって神に飛びついた。

共に過去に例のない状況に置かれ、同じように苦難に立ち向かう意思を持つ者同士、それぞれの道をそれぞれの覚悟でゆくことが、いつかたったひとりの心の支えになった。向こうも頑張っていると思えば、自分も頑張ろうと思える。

そういうが、神が、いると思えばまだ歩いていける。どこまでも行かれるはずだ。

「私も好き、宗一郎のこと好きだよ、誰にも言えなくても、受け入れてもらえなくても」

にこやかに交際宣言などとても出来るとは思えない。しかしそれはどうでもいいのかもしれない。苦難の道は今に始まったことじゃない。同じ苦しい道なら、自分の心には正直でありたい。

「宗一郎、全部、忘れられる?」
「忘れられる。今はのことしか、考えられないから」

エアコンの涼やかな風が冷やす肌は熱く、ふたりは抱き合ったままラグの上に倒れ、そして唇を重ねた。全て吐き出してしまったので頭はからっぽ、静かな部屋にふたりを惑わせる悪魔はいない。背中に背負う重い十字架もない。

あるのはただ、見つめる瞳と燃えるような吐息と、互いの名を呼ぶ声だけだった。