至上のヴィア・クルキス

6

が神に会えたのは、清田と話をした翌日のことだった。今度は朝を狙った。清田に聞いたところ、海南の場合朝練は強制参加ではなく、走り込みくらいなら自宅の周辺で済ませてくるのも多いんだとか。なのでちょっと早く登校して体育館に向かった。

体育館からは清田の言う通り、神の自主朝練の音と思しきボールの跳ねる音が聞こえてくる。

だが、何も喧嘩をふっかけに行こうというわけではないし、長話をする気もない。はまた背筋を伸ばすと遠慮なく体育館のドアをこじ開け、中を覗き込もうとした――ら、目の前にボールを掲げてゴールを見上げている神がいた。話は早いが一気に緊張が増す。

「おはよう、邪魔してごめん」
……おはよう」

掲げていたボールを下げて小脇に抱えると、神は姿勢を崩してだるそうな目をした。

「あの、この間の、校長の。あれ、私、事後報告で、知らなかった」
……そうだろうね。執行部も聞いてなかったみたいだし」

しどろもどろのに対し、神はぼそぼそとはしているが、淀みなく言う。

「私、あんな形で終わったことは、本意じゃなかった。ちゃんと神と話し合いで解決したかった」
……そう」
「ずっと平行線だったけど、でも、これでも一応査長だし、それが役目だったはずだから」

これでの方の言い分は終わり。案の定神は興味なさそうな目で生返事だ。だがが本当に言いたかったのは自分の思っていることではない。そっちはついで。

……神は、大丈夫?」

つい声が小さくなる。これ以上大袈裟にも、もっと軽くも聞けなかった。が心配したようなことは考えてもいないかもしれないし、清田が言うように完璧を求めて未だにに対する敵愾心があるかもしれないし。神は少し黙っていたが、やがて細く息を吐いた。

「大丈夫も何も、決まったことだろ」
「その決まったことが、あんな形で報されるのは、納得できることだった?」

私は話し合いたかった、生徒会と神のどちらもがまた手を取り合えるような道を見つけたかった。そう思ってたけど、神はどうだったの。あれで本当に納得できたの? 神はあれでよかったの?

ボールをカゴに置いた神はに歩み寄ると、ドアに手をかけて猫背になった。顔が少し近付く。

……別に、わかってたことだから」
「えっ?」
「あんな要望が通るわけがないことくらい、わかってるよ」

だったら何で、そう問いかけようとしたの目の前で神はドアを引いた。

「やってもやらなくても苦しい道なら、試してみたかった。それだけ」

その一言を残して体育館のドアは閉まった。

神の言葉にしこりを残しつつも、バスケット部は県予選に突入、神に「あれはどういう意味?」などと話をしに行けるわけもなく、生徒会は生徒会で新学期早々のバレー部の件で例年より多い新入監査部員の指導に時間を取られていた。

また、改革自体は成立しなかったわけだが、神の件がきっかけとなって春の予算会議は事前に各部の実態調査が行われ、それまでは各部長による大喧嘩でしかなかった予算会議は各部の事情を監査部の会計班立ち会いのもとで話し合いながら行われることになった。

結果的に予算増した部もあれば、明らかに不要なものの購入のために予算を取っていた部が発覚したりで、今年は全クラブが納得の配分となった。これでまた生徒会は評価を上げた。

その中でバスケット部はただひたすら静かに予選を戦っていた。予選と言っても海南は毎年シード校なので総合すると試合数は少なく、部員たちは主力選手を中心に県外の視察に出かけたりと公欠で不在になることも多かった。

そのせいで神は5月の定例会議を欠席していた。が、5月の定例会議は原則強制参加で、各部とも年間スケジュールと予算の使途予定表の提出を義務付けられていた。よほどの事情がなければ通常は部長が出席する。まだ学年が始まって日が浅いので、新年度体制に慣れる必要があるからだ。

しかしバスケット部は予選を理由に6月の定例会議も欠席。これは顧問の先生が直接言い渡してきた「やむを得ない事情」なので、生徒会は部長が来なくてもいいからさっさと書類を提出、あるいはメールで送れと催促していた。

というわけで6月の末日、監査部室で書類整理をしていたはやっとバスケット部のスケジュールと使途予定表を受け取った。だが、それを届けに来たのが神なので、気まずい空気で満たされている。本日執行部は担当の先生と夏休みの生徒指導と秋の行事についての会議で不在。テストが近いので監査部員もいない。ひとりだった。

「はい、確かに。備考欄何もないけど付け加えることはない?」
「今のところ何も。予選終わったし、例年通り」
「去年合宿所からクレーム来たって話あったけど……
「あれは誤解だったから解決済み。事務所の方に聞いてみて」
「わかりました」

スケジュールと使途予定表については事務的なやり取りをせざるを得ないので、ふたりは書類を挟んで淡々と確認し合う。これで全クラブのスケジュールが出揃ったので、テストが明けたら総合スケジュール表を作成しなければならない。は書類に確認済みのサインを入れ、引き出しにしまう。

書類が引き出しに消えたらもうやることは残っていない。神はさっさと踵を返して帰ればいいだけだ。テストは近いがインターハイ出場が決まっている部に限り、テスト前でも19時までの部活動が許可されているし、土日も18時までなら練習などの活動をしてよいことになっている。

だが神が動かないので、は筆記具を片付けながら言ってみた。

……予選、お疲れさま」

今年もバスケット部は無事に予選を突破、これでインターハイ連続出場18年目だ。生徒会は顧問の先生からの要請で外壁にぶら下げる横断幕を制作、つい2日前に掲げてきたばかりだ。もちろん横断幕自体は予選突破が決まる前から準備されていた。誰もインターハイ出場を逃すなどとは考えもしない。

……なんとかね」
「それは謙遜?」
「いや、事実」

また嫌味だろうか、とが顔を上げると、神は長机に腰掛けて肩を落として背中を丸めていた。

「神奈川は、激戦区だから」
「だけど勝てたんでしょ。インターハイもちゃんと出場出来る」

はもちろん神を労うつもりだったし、簡単に言うけれどインターハイに出場できること自体が大変な偉業だということは充分理解していた。生徒会の後押しを受けて必死に頑張った女子バレー部は予選の決勝まで勝ち進んだけれど、敗退した。そういう現実だってあるのだから。

だが、神は肩を落としたまま顔を上げて、隣に並んでいたをちらりと睨んだ。

「そんな簡単な話じゃない」
「簡単な話だなんて思ってないよ。すごいことだなって、思ったから」
「すごくなんかない」
「それだけの成績を残してきて、まだすごくないの?」

それも、にとっては褒めているつもりだったのだ。だが神はいきなり大きな声を上げた。

「すごくなんかない! MVPは取れなかった!」
「えっ? MVP?」
「毎年、いつからだか知らないけど、MVPは毎年海南の主将が取ってきたんだ」

長机のへりを掴んでいる神の手が軋む。どんよりした梅雨空に蒸し暑い6月の午後、本部だけが寒い季節に逆戻りしたかのようだった。エアコンが効いているだけじゃない。すぐ近くにいるのに、やはり神からは冷たさしか感じなくて、は少しだけ腕が震えた。

……神奈川は激戦区で、予選が大荒れになるのはいつものことだけど、それでも今年は大変だった。監督もイライラしっぱなし、例年より頭を使わなきゃいけない試合ばかりで、その中で海南を背負って主将やって、部員たちからは出場校の中でオレが1番大変だったと思うって言ってもらったけど、だけどMVPはそういうことを評価するものじゃないし、全試合終わって疲れてインターハイ決まったことにホッとしてたら、MVPは、オレじゃなかった」

は生徒会3年目だが、MVPの話は初めて聞いた。神の話しぶりからすると、予選に出場した選手の中からひとり最優秀選手が選出されるのだろう。それが毎年海南の主将だった……というのは想像に難くない。だが、それに神が選ばれなかった、というのは理解し難い。そんなことがあるなんて……

「去年準優勝だったインターハイ、今年は優勝しかないって言われてる中で、主将がMVP逃して、海南の終わりの始まりとか、そろそろ神奈川の勢力図も変わるときだとか、言われて」

の知る「神宗一郎」という人は、あまり多くを語らないけれど朗らかで優しく、しかし自分を鍛え上げることには厳格で努力家で、かと思えば親しい友人には茶目っ気のある一面も見せるとかで、とにかくこんな激情からは程遠い人物だった。

「神、そんな勝手なこと言ってる人たちなんか……
「聞こうとしなくても聞こえてくるんだよ」
「私運動部のことはよくわからないけど、結果が伴えばそれでいいんじゃないの?」
「だから伴ってないだろ」
「神個人の成績、MVP取れなかったことが海南の評価にまで繋がるのは飛躍しすぎじゃない?」
「オレが繋げたくなくてもそう考える人はいるんだよ!」

また神は大きな声をあげてに詰め寄った。つい両手を上げてそれを押し留めようとしたの手首を掴み、肩で大きくため息をつく。

「だから……変えたかったんだ、どんな可能性も試せるように」
「勝手な評価する人に合わせなくても、ちゃんとインターハイには行かれたんだし、それは――
「生徒会から離脱できていたら、もっと余裕があったはず」
「そんなことくらいで変わるの? 予算の額で結果が変わ――
「大変だったんだよ、本当に、今年は」

掴まれた手首が痛んだけれど、は神の呻き声に何も言い返せなくて俯いた。痛みを感じている自分より、痛みを与えているはずの神の方が苦しそうに見えて、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。生徒会から離脱しただけで簡単に変わるわけはないはずだが――

……牧のいない海南なんてって、海南を引きずり下ろすチャンスは今年しかないって、今年は戦う前から舐められてた、それはオレが主将だったからだ。部員たちまでまさかって思い始めないように、そんな風に揺らぎそうになってることも気取られないようにしなきゃならなくて、監督は余計にイライラするし、バスケと関係ないことに気を使ってばっかり」

多くの同級生たちが知る神が実は虚構の姿で、今の手首を掴んだまま愚痴を零しているのが本当の姿――だとは思えなかった。むしろ清田に期待されていたような、信頼の置ける厳しくも穏やかな主将、それが当然の神の姿だったはずだ。それをこんなにたくさんの重荷が捻じ曲げた。

去年まではチームに貢献できる選手になることだけ目指していればよかった。ちょっと桁外れの主将のもと、チームの主砲として、勝利へ直結する得点源として自分を磨き上げることが目標でよかった。

それが一転、主将になった途端、人々は先代の桁外れの主将と同じものを神に押し付け、求め、海南の主将という名のもとに彼を壊しそうになっている――

それを感じ取ったは無意識のうちに神の頬に手を触れていた。

人には個性があるから、誰も彼もが同じやり方で主将を務められるわけじゃない。誰が主将になろうとも、それぞれのやり方でその役目を全う出来ればそれでいいはずなのに、神は主将になった瞬間から「今年は優勝するしかない主将」という重い十字架を背負わされていた。

誰にも助けてもらえない、助けられる人もいない、自分で歩いていくしかない道は遠くて。

それは、わかる。私も、そういう道の上にいるから。

……つらかった、よね」

にはそれでも執行部と監査部という仲間がいた。日々の活動にはいつも監査部が一緒だったし、困ったことがあれば執行部が支えになってくれた。だけど清田の言うことが本当なら、神を助けられる人は他に誰もいなかった。

もしかしたら神は、そういう意味で私に助けてほしかったんだろうか。

そして私はそれを拒絶し続けてきたんだろうか。

査長としての自分の決断や決意には今でも後悔はないし、このことで気持ちが傾いたりはしない。それはが自分で望んで背負った十字架だ。どれだけ重くても道が遠くても誰にも投げ出せないプライドだ。それでも、今目の前で呻いている神の苦しみが痛いほどわかるから。

「助けてあげられなくて、ごめん、ね」

少しだけ声が震えた。

顔を上げた神は苦痛に歪んだ表情をしていたけれど、わずかにが触れていた頬が緩む。そして一呼吸置くと、の体を強く抱き締めた。の息が一瞬止まる。

いつか冬の日にも神に抱き寄せられたことがある。しかしその時は彼の体は冷たくて冷たくて、まるで生きている人間とは思えないほどに冷えていた。しかし今は熱があるのかと思うほど熱くて、それは単に季節が夏だからなのか、エアコンで快適な室温になっているはずなのに、それとも……

意識的にゆっくりと呼吸を繰り返して気持ちを鎮め、は神の背中を優しく撫でる。暖かい。手を止めると彼の鼓動が手のひらに伝わってくる。少し早い。うなじにかかる微かな息も暖かくて、いつかこの本部で照れながらクラウンワッペンを見せてくれた神を思い出す。

もしかして、神はあの頃の神に戻っているのかもしれない。戻してあげられているのかもしれない。

やがて緩む腕の中では顔を上げて神を見上げた。もうずっとこんな風に穏やかで静かな彼の目を見ていなかった気がする。こっちの方がいいのに。そう思った気持ちが指に伝わってしまい、再度の手は神の頬を滑り、指先が目尻に触れた。

睫毛、長いなあ。そんなことを考えていると、神の手が首の後ろに伸びて引き寄せられ、はもっと近くで神の目を見つめることになってしまった。神の鼓動は相変わらず少し早かったけれど、はどういうわけか感覚が麻痺したような静寂の中にいて、何も考えずに目を閉じた。

神もまた目を閉じ、ふたりはお互い引き寄せられるようにしてキスしていた。

遠くに生徒の楽しげな声が聞こえる生徒会本部、中古の冷蔵庫が不意に震えてふたりは離れた。

……助けてあげられないのは変わらないけど、支えには、なりたかった」
「知ってる。がそういう人だって知ってたから、逃げ場所になってくれるって」
「逃げたかったの?」
「逃げたくなかったから賭けたんだよ」

神はまた目を閉じて額を合わせ、をゆるりと抱き寄せる。

「この学校の中でオレが助けを求められる場所があるとしたら、それはしかいないと思ったけど、生徒会がそれを受け入れてくれるとは思ってなかったし、監督と顧問は理解してくれたけど部員の中には納得してないのもいるし、だから余計に助けてほしくて縋りついたんだと思う」

けれどそれも結局自分の首を絞めるだけで、という救いの手が現れることはなかった。

「部長になって部員以外で最初に話したのがだったんだよ。部長交代の申請しに行って、クラウンワッペンを見せて。でもはワッペンなんかなくてもオレが主将であることを疑う人はいない、自分らしくやればいいオレなら安心して着いていけると言ってくれて、それがすごく嬉しかったんだ。そうしようと思ってた。……だけど、の他にそう思ってくれる人はいなかった」

人は姿形が変わっただけの「先代の後継」を望んだ。揺るぎない大黒柱、他の追随を許さない技量、仲間たちを結束させるカリスマ性、敵を圧倒し戦意喪失させる圧力。さあ明日からそんな主将になって次こそ優勝を取ってこいよ! 応援してるんだから期待に応えろよ!

「そういう期待の中で優勝をもぎ取るには、今のままのオレじゃ無理だって、思って……

人々の期待に応えるために自分を偽り、仲間たちにも壁を作り、そして唯一の理解者だと思っていたにも拒絶され、そんな状態で予選に臨めば十数年振りにMVPを逃すという結果に終わった、それは本来温厚な神を豹変させるのには十分だったはずだ。

はまた背中をゆっくりと撫で下ろす。

「予選がつらかったのは、神が今のままの自分じゃダメだって思ったから、じゃないかな」

むしろよくそんな状況でインターハイ出場なんか決めてきたなとは思う。だが予選で無理が通ったのだからそれを続けていけばもっと無理ができるという論法は危険が大きい。それは破滅を招くだけのような気がした。

「前の部長さんの真似なんかダメだよ、それは神じゃない。だったら神に主将なんかやらせなきゃいいじゃん。前の部長さんの写真でも置いとけばいいじゃん。神が神らしく今年を戦えないならMVPもらったって意味ないよ。神は神のために戦うべきだよ。神は海南の道具じゃないんだから」

そういう生徒の学校生活を守るためにあるのが本来の生徒会なのに。は徐々に腹立たしくなってきて神の体をぎゅっと締めつけた。海南の栄誉や応援しているとプレッシャーをかけてくる人々のために選手がいるのではない。高みに挑む選手たちのためにクラブ活動やサポートがあるのだから。

「助けになりたい、守ってあげたいよ、それが私の役目なのに」

腹立たしいしもどかしいしで、つい神の背中を叩いてしまった。するとまた腕が緩んだ。

「あ、ごめん、つい頭に来て」
……
「えっ?」

我に返ったは自分の名を呼ぶか細い神の声に驚いたところでまた唇を塞がれた。我に返っていたので今度は急激な羞恥と混乱が襲いかかってきた。そういえばさっきはなんであんなにサラッとキスしちゃったんだ……? ちょっと待ってこれ、これ今キスしてんのって神の唇なの……

さきほどの優しいキスとは違って、触れたまま小さく何度もついばむようなキスだった。我に返ってしまったは途端に心臓が早鐘を打ち、全身が痺れ、熱くなり、頭がぼんやりしてきた。そういえばもうずっとくっついたままなんだけど……

息が上がっているを解放した神は何も言わず、赤くなった頬に触れては撫で擦っている。

「あ、あの、今更なんだけど、これって、その」
「オレ、のこと好きだよ」
「えっ、はい?」
「大袈裟なんかじゃなくて、が心の支えになってる」

しかしそんなことを言う神の表情は硬い。そしてまた彼の体は温度を失っていく。

「神……?」
「だけどオレたちって、ずっと対立してる敵同士」
「そ、そう、だけど」
「苦しい道を歩いてるのは同じだけど、今のままじゃ手を取り合うことは出来ない」

改革を主張したバスケット部の主将と、それを拒絶した査長だから。

「自分の信じた道を外れることなんか出来ないだろ、お互い」

そして神は、いつかこの部屋でクラウンワッペンを手にしていたときのように微笑んだ。

「本当のオレはが知ってる、それだけでいい。また歩いていけるよ」