至上のヴィア・クルキス

8

とはいえ時間は既に昼に迫っていて、またも神も予算は乏しく、なおかつ遊び慣れていないので「遠く」には限度があった。しかし「地元」の範囲はもちろん、特に神は神奈川を離れたかった。

というわけでふたりは東京に向かっていた。お盆休みでも平日の午前中の電車はほどよく空いていて、ふたりは並んで座ってぼそぼそと喋っていた。

これといって目的があるわけではなく、学校生活で忙しいふたりには行楽でよく来るというほどでもなく、ただとにかく馴染みのない場所へ逃避したかっただけだが、多摩川を越えるといよいよ神奈川から出ることが実感出来るのでかなり気が楽になっていた。

「そっかあ、清田くんひとりで火を消せちゃうんだね……
「バスケ部の主将ってそういうタイプが多いんだよな」
「何その他人事みたいなの」
「他人事だからね」

神の横顔はいつも通り、というかがかつて「神」だと思っていた穏やかで静かな横顔だった。

「慰めようとか思ってないけど、神だってそういうタイプじゃないの?」
「種類が違うよ。清田とか先代みたいなのはみんなを掴んで引っ張っていけるタイプ」
「神はまず掴まないもんなあ……

先代の主将と会話したことはもちろんなく、遠くから見たことがあるだけだったが、確かに絶対的なカリスマのオーラを纏っているような人だった。まるで大人みたい、そう思っていた。それと比べれば清田はまだ親しみやすさがあったし、高校生らしい無責任さも垣間見えたが、それでも部員全員を後ろに置いて気負わない心の強さを感じていた。

だが神が部員を引っ張っていけないタイプであるとは思わなかった。彼はそういうタイプではなくて、どちらかというと「黙って後ろから着いて行きたくなるタイプ」なのでは、とは思っていた。

「そうかなあ。実感ないけど」
「だって別にバスケ部の中は問題ないんでしょ」
「自分ではよくわからないよ。まとまってる気もするし、距離がある気もする」

それは清田の言っていた「豹変に戸惑ったままの部員、他者を寄せ付けない雰囲気の神」なのではと思ったが、わざわざ報告することもあるまい。それは神と部員がいつか解決するかもしれないし、そのまま終わる問題かもしれないのだから。

「それは歴代の主将だって同じだったんじゃない? オレのチームはオレのカリスマ性でガッチリまとまってるぜ、なんて思っちゃうような人は海南男バスのリーダーには向かないんじゃないのと思うけど。監督だって色んな面で判断して主将を選んでるんじゃないの?」

だが、ここ数年の主将はとにかく技量優先であり、1年2年の頃からチームの主力選手がそのまま主将へ育っていく。1年かけてポジションの交代に対応すべく地道な努力を重ねた神が珍しいだけで、通常であれば特待生で入部してきた清田のようなタイプがそのまま部長に納まる。

「そういう、清田みたいな、入部してきた時点で将来の主将確定みたいなタイプじゃなかったから」
「あの子そんなにすごいのか」
「一応ね。あいつの世代は化物みたいなのがたくさんいるから大変だろうけど」

そう言うと神は珍しく自虐的な嘲笑を浮かべたので、はつい身を乗り出した。

……言っただろ、MVP、取れなかったって」
「県予選?」
「そう。チームの実績で言えばもちろん海南の方が上だけど、化物がいるんだよ」

その化物にMVPを奪取されてしまったのだろうか。少々話は見えないが、は何も考えずに神の手に手を重ねた。それが神の日々の努力を否定するものではないはずなのだが、結果が伴わないことは結局記録としても残らず、鍛錬が結実したという証拠にもならない。気持ちの置き場に困る。

……その時は誰も神に同情なんかしなかったのに、ね」
「オレのMVPはどうでもいいことだからね。海南の成績というほどでもない」
「みんな手のひらひっくり返りすぎでしょ」
……怖かったよな、ごめん」

神が顔を上げて手を包み返してくるので、は途端に照れて俯いた。部活や学校の話になるとつい熱中して忘れてしまうけれど、そういえば自分たちは生徒会本部でキスをした仲であり、今も手を繋いで顔を寄せ合って喋っている、どこからどう見てもカップルだ。おかしいな、付き合ってないのに。

「べ、別に神が悪いわけじゃ」
「だけどもう、オレのせいでずっと怖い思いさせてるから」
「神のせいじゃないって」
「もう何回泣かしたんだろ。の親父さんに知られたら絶対殴られるよ」

自分の父親の呑気な顔が浮かんではつい吹き出した。うちのお父さん神を殴ろうと思っても顔に届くかなあ。腹パンしかないんじゃないのかな。神がおでこを手で押さえたら手をぐるぐる回すだけで何も出来ない気がする。

神を殴れない父親の想像にニヤニヤしてしまっただったが、確かに神に関わることで半年以上も苦しんでいるというのに、神に対して嫌悪感も恨みもないなと考えていた。まあそうでなければキスなどしないわけだが、遺恨らしきものがなにもない。

「それは誰のせいでもなくて……私と神が自分の信じるものに一生懸命取り組んでた証拠だと思う」
……怒ってないの」
「まさか。何かあるとすぐに手のひら返す人たちの方がよっぽど腹立つけど」

意外な答えだったのだろうか、神は目を丸くしていたが、やがて繋いだ手を頼りに座り直し、にもたれかかった。なにぶん身長差があるのでの頭の上に神の頭がちょうどよく乗っかる。

「神、あの……
「今日は、主将とか査長とか、そういうの、なくてもいいよな?」
「えっ、あ、うん」
……今日は、って呼んでいい?」

のよく知る「神」の声だった。優しくて穏やかな言葉遣い、低いけれど聞き取りやすい声、それらを懐かしく感じながらは頷いた。繋いでいた手は神の両手に包まれていて、額にかかる彼の微かな息に髪が揺れる。

「じゃあ、私も宗一郎って、言おうかな」
「そうして」

せめて今日だけは、何もかも忘れるために。

しかしやっぱりふたりに目的地はなく、行ってみたい場所もなく、延々と電車に揺られて疲れたので渋谷で下車してみたものの、お盆休みの渋谷の街は人でごった返していてのんびり歩くのには向かないようだったし、当たり前だが暑い。暑いというか、痛い。

「渋谷なんて来たの久しぶりだな〜。普段用もないし……
「オレも冬の大会で毎年来てるけど、それ以外では特に用がないからなあ」

それ以前に地元から離れて大きな街で入用なものを買うのだとしても、かなり手前の横浜で充分足りてしまう。普段学校に籠もりっきりのふたりには渋谷と言っても特に用がなく、特別な街ではなかった。でもそれは都内のどの街でも同じことだった。ただ地元を離れたかっただけなので。

そういうわけで街を持て余したふたりは目についたカフェに入ったのだが長蛇の列。めぼしいカフェはどこも似たような混雑で、結局ふたりは流れ流れて駅から離れた店に入った。ちょうどランチタイムで賑わっていたけれど、行列しているほどでもなく、ゆったりと過ごせそうだ。

「てことは次はええと、その冬の大会、じゃなくて国体か」
「それもどうなんだろうな。去年は選抜になったけど今年はどうなるか」
「選抜、あーそうだったね。海南だけで行く方がいいんだっけ?」
「選抜は選抜でいいんだけど、また海南がホストになるとオレが主将だから気が重い」
「えっ主将嫌なの」
「面倒くさい選手が多いから……

ランチプレートを突っつきながら神が遠い目をするので、は口元を押さえて笑った。今年は怖い主将で戦ってきたかもしれないが、神はそもそもが寡黙で温和なタイプである。そこにもし清田みたいな選手がウジャウジャいたらと思うだけで可笑しい。

そして結局学校の範囲を出ない話だ。何もかも忘れたくて多摩川を越えたはずだが、生活の殆どを学校の敷地内で過ごしているふたりに雑談のネタは少ない。

は文化祭で引退、か」
「ああ、まあね……
「えっ、違うの」
「清田くんの話聞くまで査長辞めようかと思ってた。私が辞めれば治まるかなって」

しかしもう鎮火してしまったらしいし、後出しで生徒会を辞めても無意味なパフォーマンスにしかならない上に、休み明けのタイミングでは本部閉鎖で逃げた上に投げ出すのかとまた叩かれるのがオチだ。

……ってなんで査長やってんの」
「なんでって、先代の執行部が決めたことだから」
「ああいや、そうでなくて、査長って特に名誉職だろ。人より忙しいし」

は神の問いに水で喉を湿すと短く息を吐いた。

「私、宗一郎みたいに特技とかないし、海南てほら、バスケ部みたいにそもそも初心者が入れないような部が多いし、でも何か授業以外に学校で何かやりたいなって思ってて、それで生徒会に興味出てさ。何か特技とかなくても出来そうだったし、査長になれるなんて思ってなかったし」

生徒会は同様の動機で監査部に入ってくる生徒がほとんどだ。生徒会なら運動が苦手でも楽器が出来なくても何の問題もない。生徒会の理念さえ納得できれば活動内容は至ってシンプルだし、人数も多いので難しいことはみんなでやればいい。能力での序列もない。重要なのは人柄だ。

「どうせ内部進学で内申も関係ないけど、そこは自分のためというか」
「関係ないのに?」
「宗一郎とは、真逆なのかな。記録に残らなくても、自分のために頑張った記憶が欲しいというか」

数字の世界で結果を残さなければならない神、何をどう頑張っても記録として残らない。意見の食い違いだけでなく、ふたりはそもそもの在り方ですら天と地ほどの違いがあった。

「査長になってからはもっとそう思うようになったかな。査長に選ばれたけど、それは運動部の主将みたいに何かが1番だったからじゃないし、生徒会にとって重要な能力を持ってる子は執行部に入るわけだし、私の場合は何ていうか……最後まで辞めそうにないタイプだったっていうだけなのかも」

だから査長は「特に名誉職」として知られるわけだ。執行部に入れなかったという看板と実行部隊監査部の責任者を背負って1年間働かなければならない。

「大変なことはあるけど、自分のためにやってることだから、辞めたくないのかも」

天と地ほどの違いがある主将と査長、それなのにの言葉は神がバスケットに向かう気持ちと同じで、それが苦しいのもやめられないのも同じで、手に手を取り逃げ出した先でわかっていたことを改めて実感するしかなかった。

「おかしいなあ、今年の始め、オレたち喧嘩ばっかりしてたのに」
「喧嘩っていうのかな、あれ」
「じゃあ何」
「自分のために戦ってただけじゃない?」
……それもそうか」

相手を傷付けたいという意図はなかった。自分の信じたものを守りたかっただけで。

長居にも限界があるふたりは店を出るとまた渋谷の街を歩き出した。夏の午後の殺人的な気温が肌を焼くのでまたどこかに入らなければと考えていた。ふたりでゆったり過ごしたいだけなのだが夏休みの渋谷しんどい。かといって他に行く場所もない。

……帰る?」
……まだちょっと帰りたくない」
「宗一郎んとこ親は?」
「休みだけど全然いる。は?」
「うちは昨日から帰省してる〜」
「えっ」
「えっ?」

暑いあまり呼吸すらしんどい日差しの中、神はつい足を止めた。何、親いないの?

「えっ何、どうしたの」
「それ早く言ってよ」
「何が」
「親いないんならんちでよかったのに」
「どこか行こうとか言ったの宗一郎じゃん」
「そうだけどエアコン効いてる中にいた方がいいじゃん」
「うち何もないけど」
「だからなに」
「することなくない?」
「マジか」
……そっちこそマジか」
「はあ……あんなこってりしたキスした仲だってのに……
「こってりとか言うな」
「あっれー?」
「てか中途半端なんだよなオレたち」
「よう神」
「えっ?」

立ち止まってダラダラと言い合いをしていたふたりは、突然声がひとつ増えたので驚いて顔を上げた。見れば神と同じくらい背の高い男がにこにこと佇んでいて、はつい肩をすくめた。なんか神みたいなおっきい人だけどバスケ関係の知り合いかな……

「どうしたんこんなところで〜」
……そっちこそ」
「オレ実家東京だもん。中学は代々木だったからこの辺は通学路みたいなもんだし」

にこやかで愛想のいい人のようだが、神はなんとなく肩を落としている。面倒くさい選手のひとりなのだろうか。がそんなことを考えながら見上げているのに気付いたらしく、実家が東京だという彼は殊更にっこりと笑顔を作り、拝むように手を立てるとの方に少し屈み込んだ。

「突然ごめんね、オレ陵南のバスケ部にいるんです」
「あ、そうですか、こんにちは」
「あはは、こんにちは。面白い子だね〜。彼女? だよね?」
「えっ、あっ、その――
「そう、彼女。、これが今年のMVP」
「えっ!?」

神が繋いだ手をぐいっと引いて彼女だとか言い出した衝撃と、例の今年のMVPという衝撃が同時に襲いかかってきたので、はずいぶん高いところにあるふたつの顔をキョロキョロと行ったり来たり忙しなく見ていた。いや彼女て、MVPて。

「MVPて、まだ根に持ってんの?」
「根に持ってるとかそういうことじゃない。悔しいに決まってるだろ」
「ま、海南なんかにいると余計にそう思うかもなあ」
「海南なんか」
「あら、彼女ちゃんも海南だったの? ごめんごめん、オレたちにとっては目の上のたんこぶだからさ」

つい突っ込んでしまっただったが、彼の言う「目の上のたんこぶ」で「海南なんか」はわかるような気がした。生徒会が炎上する羽目になったのはまさにその「海南なんか」のせいだ。海南が十数年も神奈川を制し続けてきたことが余計に神たちを苦しめている。

これが県内の他の強豪校だったら、その主将だったら神もこんなに傷つかなかったに違いない。

自分で絶対にMVPを取ってやるぞと意気込むだけならまだしも、取って当たり前というプレッシャーがいつでもつきまとう。きっとこの優しげな笑顔のMVPくんにそんなプレッシャーはなかっただろう。海南を蹴落とすことだけを考えていたはずだ。MVPはその副産物でしかない。

「でも、歴代の海南の主将の中でも神は特別な存在になったよな」
……どういう意味だ」
「海南なんかにいて、本当の意味で『負け』を知ってる選手はそう多くない」

思わず睨んだ神だったが、一転真面目な顔をした彼の言葉に黙り、繋いだ手にギュッと力を込めた。

「去年は勝ってばっかり、今年はやけに負けが多い、どっちも経験出来る海南の選手は珍しい。どうよ、部内。混乱はしてないだろうけど、普段と違わないか。そういうの、海南じゃ滅多に体験できない貴重なケースだろ。大事にしろよ」

まあ今年はそれ以前に神の改革運動で余計に「いつもと違う」年だったわけだが、しかし彼の言う理屈はわかっても、その年に主将になるしかなかった神にとっては災難であり、まったく余計なお世話だ。

「その年に3年だったオレの身にもなれ」
「それはご愁傷さまとしか」
「どうせ冬まで残るんだろ」
「そりゃお互い様。国体どうなるんだろうな、聞いてない?」
「監督も大荒れだから」
「あはは、監督もこんなの久しぶりだろうからな。うちの監督のニヤニヤ笑いが止まらない」

そんな頭上のやりとりを見ていたはしかし、神の表情が少し緩んできた気がして緊張に強張っていた体が楽になってきた。ライバル校の選手なんだろうに、試合でない時にこんな風に普通に会話できるというのは、いいなあ。こうやってみんなお互いを鼓舞しあって高めあっているんだろうな。

ねえ、これが大人がいうところの「青春て素晴らしい」とかいうやつじゃないの? なのにどうして神はあんなに苦しむ羽目になったんだろう。神が苦しまなかったら私も苦しまなくて済んだはずだし、海南がそれぞれの思いで大揉めになることもなかったかもしれない。

そんな風に私たちを引っ掻き回したのは、誰?

「彼女ちゃん暑いのに引き止めてごめんね、大丈夫?」
「うん、大丈夫。もう帰ろうかと思ってたし」
「まあちょっと外で遊べる気温じゃないしね……せっかくの休みなのにもったいないけど」

こういうのを「人たらし」っていうんだろうな。はそんなことを考えながら笑顔のMVPを見上げ、しかし神からMVPを奪った人がこの人でよかったと思い、つい言いたくなってしまった。

「平気。帰って私の家でふたりでのんびりするから」

今度は神がキョロキョロし始めたが、MVPくんは目を細めたままを指差す。

「そーいうの大事。こいつすぐ思い詰めるから、息抜きさせてやって」

なんだか長い付き合いの友人のような口ぶりに神はあれこれ反論していたが、彼はそのまま手を振って立ち去ってしまった。神はまた肩を落として大きくため息をつく。

……な? 面倒くさいだろ」
「あんな人がいっぱいるの?」
「まあ、そんな感じ」
「それは面倒くさいわ」

いい意味でも、悪い意味でも。はちょっとだけ神のため息の理由を察して、そしてそっと距離を縮めて寄り添う。まったくこの主将くんはライバル校の選手にすら「すぐ思い詰める」性格だって見抜かれてたなんて。しかもそれ、自分で緩められなくなってる。

生徒会の使命は生徒の学校生活を守ることだけど、このひとりで思い詰めてひとりで苦しんでる人を緩めてあげられるのは私の役目なのかもしれない。

そうすることで自分の苦しさも和らぐ気がした。

「じゃあ、帰って、のんびりしよっか」
……いいの」
「彼女なんでしょ。息抜きさせてあげるよ、面倒くさいけど」

そうしてふたりは初めて声を上げて笑い合った。