地上のステラ

14

駅からタクシーで鍵を預かるというバーまで向かい、牧はを店の前に待たせて鍵を取りに行った。本人的には少々コンプレックスであろう老け顔の本領が遺憾なく発揮されて、鍵の受け渡しは実にスムーズだった。しかもチャラチャラしたバイト君に敬語を使われる始末。後で聞いたらバイト君は30代だった。

「別荘って、いわゆる家なのかと思ってた」
「持ってない身からするとそういうのを想像しがちだよな」

牧が年の離れた友人から一晩借り受けた「別荘」は、所謂リゾートマンションの類であった。山の斜面に張り付いているような外観をしており、横に広く作られている。深夜でもエントランスは柔らかい色のダウンライトで明るく、オートロックの向こうには有人のセキュリティがあるようだった。

ここでも牧の老け顔が功を奏して、ふたりは難なくエントランスを突破、キーに記された部屋まで向かった。

「ねえ牧これはもしかして……
「ああ、すげえな、最上階だ」

しかも独立フロアで、エレベーターにカードキーを通す必要があった。予想を上回る展開にやや尻込みしていた高校生ふたりだったが、部屋は意外にもシンプルで、モノトーンで纏められたインテリアが少し寒々しいくらいだった。

「す、すごいね、こんなところ実際に見るの初めてだよ私」
「オレだってそうだよ」

ふたりは声を立てないように騒ぎながら、部屋の中をうろうろと見て回った。ゲストルームが3つにメインのベッドルームが1つ、だだっ広いリビングにアイランドキッチンというわかりやすい間取りだが、部屋の奥に進んだは歓声を上げた。

「牧牧、見てこれすっごい!」

全室オーシャンビューのマンションであるので、この部屋も横長に作られている。そのため、リビングと主寝室は海が見えるのだが、さらにテラスに面したバスルームが設えられていた。ほぼ露天風呂だ。

……一体いくらお金があったらこういうところ買えるのかな」
……本人はこれでも安いって言うんだよな」

ごくごく一般的な家庭の育ちであるふたりはなんだか急に萎れてきた。一通り室内は見学したし、普段から人のいないマンションなのでかなり冷えていた。と牧はエアコンをつけて回り、ピカピカのキッチンで恐る恐るお茶を入れると、やっと落ち着いた。

リビングには海が見えるようにコーナーソファが配置されていて、腰を下ろすとちょうどテラスの向こうが全て海に見える高さに調節されていた。牧の友人はよっぽど海が好きなようだ。

ちょっとばかり桁の違う豪勢さも面白いのは最初だけ。ふたりは広々としたソファの端っこに並んで座り、小さくなっていた。あまりに広いために暖房がなかなか効かない。はまだコートも脱げず、暖かいお茶の入ったカップで手を温めていた。

すると牧は主寝室やゲストルームを漁って毛布を引っ張り出して来た。

「少しは違うだろ」
「こたつが欲しいと思っちゃうあたり、私もド庶民だなあ」
「オレは石油ストーブが欲しいよ」

毛布でくるんでもらったは、隣に牧が座りなおすと、毛布をばさりと広げて一緒にくるまった。が、並んでくるまるとどうしても前が開く。は牧の膝に間に入れてもらうと、ぺたりと寄りかかった。ふたりはますます小さくなって丸まっている。てっぺんから顔がふたつ飛び出た巻貝のようだ。

「ていうかそれで、さっきのは一体……
「んふふ、実は私、中学の時に牧の試合、見たことがあるんだよ」

牧を見上げてはにやりと笑う。

「牧が海南に来るって決まって、浮かれた兄ちゃんが見に行くっていうから着いていったの」
「そんなこと、なんで今まで黙ってたんだ」
「なんでだろう、隠すつもりもなかったし、わざわざ言うこともないと思ってたのかも」

急に3年も前の話になって、牧は少し照れくさい。

「そんなとこ、見られてたのかよ」
「え、照れるところ?」
「だってそんな、まだ……
「一目惚れだったんだけど」
「は!?」

牧の裏返った声に、は吹き出す。

「まあその、話したこともないわけで、プレイを見てテンション上がっちゃって、っていうところだから、あんまり自慢できた話じゃないんだけど、つまり、私は牧を餌に兄ちゃんに釣られてマネージャーを始めたわけでして……

はこのことを当然知っていたはずだ。それを天使の顔をしつつ悪魔になってみたりして、を不純な動機のない純粋なバスケットファンの従妹だと思わせてきたのだ。の言うことが真実なら、これはこれでけっこうな不純な動機タイプだったのではないだろうか。

さん、とんでもねえ悪魔だ。牧は内心でに毒づいた。

「あの人がバスケしてるところを3年間もすぐそばで見られるんだ、って。万が一嫌なやつだったとしても、牧のバスケはずっと見ていたいって、そう思ってて。なのに、実際に入部して話してみたら誰よりも優しいし、真面目だし、おまけにとどめがあの『連れて行ってやる』でしょ」

は頬に手を当てて懐かしそうに目を細めた。

「その時決めたの。この人が100パーセントのバスケが出来るように、私はなんでもやろうって」

牧の耳に神の声がオーバーラップする。あれはこんなに遠い日のことだったのか。

「だから、好きになったのは私の方が先」

またにやりと笑ったは腕を伸ばして牧の首に絡ませ、額を合わせた。

「だから、今こうしてることも夢みたいで、緊張はするけど、嫌じゃ、ないです……
――

寄り添って毛布にくるまりながら、唇を重ね合わせる。何度も、何度も。

は嫌じゃないと言うし、牧は出来ることなら抱いてしまいたかった。けれど、ふたりはキス以上には何もせずに過ごした。その代わり、海南で過ごした3年間のことを、どんな些細なことも穿り返して話した。いつでも共にあった記憶を確かめるように、それが何より愛しいということを――

そして、主寝室の巨大なベッドで頭をくっつけて眠った。

「バカじゃないの?」
「まあそう言われるだろうとは思ってましたよ」

翌日、オールでカラオケに興じたデビーは姉がまだ別荘にいるので一旦の元に移動した。でまだ彼女の部屋におり、デビーは彼女さんのご厚意で仮眠を取らせてもらい、その後車で別荘までやってきた。神が「目が潰れるかも」と言った3人が揃ったが、は昨夜のオーラをだいぶ失っていた。

マンションの中を走り回ってはしゃぐデビーをが追いかけている間に、昨夜の首尾を尋ねられた牧は事の次第を正直に話し、案の定に呆れられたところだ。

「我慢したっていいことなんかひとつもないぞ」
さんと一緒にしないでください」
「いやオレは間違っちゃいねえと思うけど……

だが、そう言いつつもは嬉しそうだ。しかし、そもそも、の一目惚れを知っているにも関わらず、いや、知っていたからこそ思わせぶりなことを言い続けたこのの真意はどこにあったのだろう。

「え? そりゃがお前のこと好きなのは知ってたよ。でもそれはお前も同じだったろ?」
「オレ、そんなこと言いましたか……?」
「いや言ってないけど、思い返すとけっこう最初っから好きだったろ?」

さも当然という風には牧を指差す。

「オレ、よくわかんないんだよね。お互い好きなのにそれだけで何も進展しないのって」
「だから焚きつけたんですか」
「人聞きの悪いこと言うなよ〜。そんなつもりなかったのにオレのせいで付き合うことになったとでも?」
「いやそういうわけじゃないですけど……
、お前のこと本当に大事に思ってるよ」

の悪魔面に呆れていた牧だが、その言葉に思わず背筋を伸ばす。

「ちょっと妬けるくらいずっとお前に夢中だからな。あんまりそんな風に見えないだろうけど」
……それは、オレも同じです」
……そっか」

頬に薄っすらと赤みの差した牧は、の方を見ていられなくて目を逸らした。視線の先には、デビーと一緒にテラスで海を見ているがいる。冬の海は少しくすんだ色をしているが、潮風に髪をなびかせているは、朝日に照らされて輝いている。

は、オレの太陽です。――今までも、これからも」

は何も言わず、今度こそ天使の笑顔で微笑み、大きく頷いた。

数日後、牧をはじめとした3年生は晴れて引退の運びとなった。あまりに厳しいことで知られる海南バスケット部に3年間所属するということは、下手すると家族よりも長い時間を仲間と過ごすことになる。そのため、引退式での号泣は割と恒例であり、それを毎年やっている監督ですら涙ぐむこともしばしば。

ただし今年の場合は牧というカリスマがいたせいで、後輩の号泣率が高い。ちなみに3年女子マネージャーの最後の仕事がこの引退式の際の花束を用意することである。贈呈は監督選抜の次期スタメン候補が行うけれど、花を選んでくるのはの仕事だった。

一応も監督から声をかけてもらい、頭を下げるだけの挨拶をした。そんなこんなで、体育館での引退式が終わり、下校するまで花束を水に入れておきたいと牧に言われたは、ダッシュで部室へと向かった。

その後をこっそり着いて行った部員たちの耳に、乾いた破裂音と部室から響き渡るの悲鳴が聞こえてくる。牧をはじめ、引退したばかりの3年生はクラブ棟の廊下で声を立てないように笑った。

本日の部室はお疲れ様仕様に改造されており、ドアを開けるとクラッカーが鳴るよう仕掛けられていた。さらに、が部員たちのために見繕ってきたのと同じくらいの量の花束がひとりのためだけに用意されている。

クリスマスの時の「帝王お持ち帰り事件」以来、特に3年生はへの態度が非常に不遜であったことに気付き、大いに反省した。その上、可愛らしく着飾ったを見てしまった部員の場合、牧と仲良く手を繋いでいるその光景に激しい後悔を呼び起こされてもいた。

その後悔をバネに感謝と謝罪の意味を込めて、今、部室は花で溢れかえっているというわけだ。

思わぬサプライズには号泣、それを見た新主将である神も我慢の限界を突破、ついでにつられた1年生もまた泣き出し、このサプライズを知らなかった監督と通りすがりの運動部員まで号泣という、3年生にはもはや笑えるくらいの引退式の幕引きとなった。

この日は練習のある1、2年生を残して3年生だけでファミレスなどに繰り出すのが恒例となっているのだが、今年はもその輪に入れてもらい、牧とのことを突付かれつつも真っ赤な目で楽しく過ごした。

その裏で、大量の花束の運搬を押し付けられたデビーは、神に借りた自転車と全身に花を挿して帰ろうとしたが、それでも運びきれなくて逆ギレ、零れ落ちた花をその辺にいた女子にバラ撒き、なんとこれがきっかけで女子マネージャー志願者が1、2年生合わせて8人も現れることになった。

さて、年末年始のために一旦南半球から帰ってきた牧の友人は、一晩別荘を貸したことについて早速牧を突付いた。何しろ誰にも知られていないお小遣いを貯めて学費にする等と抜かした堅物の牧が、彼女と過ごすから部屋を貸せと言ってきたのである。15歳の頃から彼を知る小父さんとしては気になって仕方ない。

しかし結果は「喋ってました」である。小父さんも逆ギレ、牧はオレの別荘でボンヤリしてんじゃねえと怒られた。

それはそれで面白くない牧だったが、自由登校になってからまた別荘を借りたいと申し出た。バレンタインである。引退して時間があるから手作りにするとが張り切っているので、3年間貯めに貯めたスポンサー料を存分に使ってをあちこち連れ回し、そのまま別荘に泊まった。

話を聞きつけたが絵に描いたようなニヤニヤ顔で「チョコと一緒にも食べちゃったのか」と大喜びしたが、要はそういうことだ。なんで他人にこんなことをとは思うが、催促メールがしつこい上に場所を借りた手前、牧はスポンサーにもなんとなく報告、今度は褒めてもらえた。

3月に入ると、新生活の準備に追われつつもと牧は無事に卒業を迎え、とうとう海南を去ることになった。

「そんな怖い顔しないでよ〜」
「そりゃしますよ。そういうのキツいんでやめてもらえませんか」

卒業式は講堂で行われるため、体育館は空いている。ただし、講堂と体育館は近いので、練習は式が終わってからとなる。式を終えたと牧は下校前に部室に寄り、現在の主将である神はふたりを渋面で迎えた。卒業証書を手にしたふたりを見るだけで泣きそうなのである。

「名残を惜しみに来るくらいいいだろうが」
「はあ……もう少し遅く来ればよかった」
「主将なんだし、そんなに張り切って来なくてもいいのにね。なかなか癖が抜けないね神くん」

例の主将専用デッキチェアで神は頭を抱えた。

「それにはどうせ春休みの間また通うようだろ」
「なんかちょっと嬉しいよね」
「ヘラヘラしてないでビシッとお願いしますよ。全員デビー目当てなんですから」
「まあ家だからなあ……不思議ではないけど」

8人いたマネージャー志願者のうち、実際に県予選までの試用期間にチャレンジしてみることになったのは7人。2年生ふたりに1年生5人である。しかし、先輩がいない状態でのスタートになるため、海南大進学で地元に残るが講習を行うことになった。特に全国大会等は実際に行った人間の話がどうしても必要になってくる。

これは監督の指示だったのだが、神は最初難色を示した。年下とはいえ、またが軽んじられるのではないかと思ったからだ。だが、すぐに全員デビー目当てと判明、その姉であるには失礼を働かないだろうという希望的観測で神も頷いた。

自由登校の間にも何度か講習をしたのだが、今のところマネージャー研修生は素直にの教えを守っている。本人が卒業してしまうのをいいことにデビーはのことを「帝王・牧の彼女で主将の神は舎弟、他のマネージャーは全員に恐れをなして逃げた」と嘘を吹き込んだという。さすがに家の本流、やることが汚い。

「それに、さんはともかく牧さん遠いですよ」
「それはまあ、すまん」
「3人でどこか行こうったって、時間が取りづらいですよ」
「まあまあ、どうせ来年になったら神くんだってそうなるよ」

3人で1日くらい外出できればと考えていた牧だったが、引退したふたりはともかく神にそんな暇はない。牧も進学の準備があったので、3人の時間は結局この日を迎えても重なることはなかった。

「ひとりだけ置いていかれる気分です」
「来年の今頃、私が同じことを言うことになるんだよ」
「おいおい、何でお前らはそうネガティブなんだ」

ふたりがぐずりはじめたので、牧はの肩を抱き、神の背中を擦ってやる。と神にまとめて抱きつかれた牧は、苦笑いをしつつも一切の名残が消えていくのを感じていた。神は置いていかれるというが、置いていくものなど何もないように感じる。手に入れたものはあっても、失ったものなどひとつとしてない。

得がたいものを得て、欲しいものを手に入れた。届かなかった場所もあったけれど、自分の代わりにが遥かなる高みを垣間見てくれた。それだけで、もう思い残すことなど。

「とりあえず牧さんは時間が出来たらすぐ帰ってきて下さい」
「わかったわかった」
「これじゃ今年は牧の争奪戦だなあ」
「先輩はまだそんなこと言ってるんですか、私を優先してくらい言いましょうよ」
「ははは、いいぞ神もっと言え」

春の日差しが静かに差し込む薄暗い部室で、3人は笑い合った。そして部員たちが顔を出し始め、神が後輩の顔から最上級生の顔になったのを見届けると、と牧は部室を出て帰路についた。暖かい風に潮の香りが混ざり、の制服のスカートをはためかせている。

手を繋ぎ、ぽつりぽつりと話しながら、のんびり歩く。

牧はいつかの大雪を思い出していた。に不穏な話を聞かされたばかりで、妙に意識してしまい、の顔もまともに見られないまま送って帰った。雪の中を帰る牧にカイロを手渡してくれたにキスしてしまいたいと思ったことも、今では懐かしい思い出だ。

家に到着すると、は牧の真正面に立って腕を伸ばし、牧の胸にそっと添えた。

「ねえ牧」
「なんだ?」
「私を優先して」

突然のことに牧はむせた。確かに言えとは言ったが……

「なんかそういうの思いつかなくて、私。なるほどなあって思ったからさ」
「本当に優先して欲しいって思ってるのか?」

は少し考えてから、小さく頷いた。

「うん。だけど神くんと3人で会いたいとも思うし、ちょっとぐちゃぐちゃになってる」
「正直でよろしい」
「でも優先はともかく、独占したいとは思ってるよ!」
……何を?」

家の玄関ポーチで、牧はにやりと口元を歪めた。せっかくだから言葉にしてもらいたい。

「ええとその、全部」
「全部って?」
「意地悪〜」
「たまには言ってみろ。まだ名前呼びだってできてないだろうが。さあ両方まとめてどうぞ」

3年間も苗字呼びで通してきたので難しいだろうが、もういい加減腹を括って欲しい。の背中に手を伸ばして引き寄せながら、牧は少しふんぞり返って、偉そうに首を傾げてみた。は耳を赤くしつつ、息を呑む。

……紳一の、全部、私だけのものにしたい、です」

予想以上の破壊力だった。バレンタインの夜も無理矢理名前を呼ばせたが、威力が変わらない気がする。もうずっと前から自分の全てなどのものなのに。牧はそう言葉が頭の中で纏まるより早く、そっとにキスして、優しく抱き締める。もぎゅうっと抱きついて、幸せそうに頬を緩ませた。

「じゃあも、全部オレのものになってください」
「はい」

春の暖かい風が、ふたりの背中を撫でていく。それはまるで、餞のようだった。

END