地上のステラ

04

夏休みに入るのと同時にバスケット部は合宿に入る。河口湖にある合宿所で10日間、そして一度帰宅してからインターハイである。合宿はマネージャーも全員参加であり、寝食を共にするせいで普段よりも格段に忙しい。そのため、毎年インターハイが終わるとマネージャーがダウンすることが多い。

は去年平気だったよな」
「お盆休みは死んでたけどね。夏風邪とかはひかなかったよ」

移動のバスの中でもがひとりでぽつんとしているので、牧が隣に移動してきている。海南はバスを2台所有しているので、ある程度の距離ならどこでもこれで出かけていく。部員たちも慣れているので疲れにくいという利点もある。

……監督に聞いたよ。神の練習に付き合ってるんだって?」

余計な感情が混ざらないようにして牧はそう言ってみた。に対して特別な感情があるとは今でも思っていないし、こんなことを言ったのだって、本人に様子を聞いてみたいと思ったからに過ぎない。どんな反応が返ってくるんだろう――そんな興味があるだけだと牧は思っている。

「そうそう、偉いよねー神くん。なんか自分が恥ずかしくなってくる気がするよ」

は真剣な眼差しで唸った。まるで近所の神童を褒めちぎるお婆ちゃんのようだ。そんなの鹿爪らしい態度に、牧は張っていた肩を緩ませて小さく息を吐いた。それが安堵の一呼吸だったことには、本人は気付いていない。

「帰り、ちゃんと送ってってもらってるのか?」
「いらないって言ってるのに聞かないんだよ。神くんもチャリの距離とは言うけどさ」
「また駄々こねてるのかよ」
「駄々じゃないってば!」

また牧はふっと息を吐く。また肩の力が抜ける。

「お前な、そういうこと言ってるとオレも残るぞ」
「わかったよもう、大人しく送ってってもらいます」

ぺちぺちと牧の腕を叩くの拗ねた顔に、牧は嫉妬らしき感情を全て忘れた。何も見なかった、何も感じなかった、はこれで何の問題もなし。牧はそうやって心に蓋をし、カチリとスイッチを切り替えるようにして合宿に挑んだ。

は大丈夫、オレも大丈夫。

へのはっきりしない複雑な感情を抱いていた牧は、それにしっかり蓋をしてインターハイにも臨んだ。海南大附属は昨年の時点で15年連続インターハイに出場しているが、未だに優勝経験はない。そのため、まだ2年生ながら牧という傑出した存在を手に入れた今、周囲がかける優勝の期待は高まるばかり。

しかし当の牧はそんな重圧に対してはなかなかに鈍感という得な性格の持ち主だった。周りに何を言われるまでもなく、全てに勝ちたいと1番願っているのは牧本人だったからだ。どれだけ期待をかけられても「何で当たり前のことをわざわざ言うのだろう」としか感じない。

さすがに順調に勝ち上がって行った海南だったけれど、準決勝で高校バスケット界最強の強豪校に敗れた。そして3位決定戦で辛くも勝利し、全国3位という結果を残すことになった。これでも海南としては平均的な成績といえる。ベスト4ベスト8とは言うが、8だと監督がクビになるという噂だ。

一方、大人の事情はどうであれ、舞台がインターハイともなると、対戦相手が顔なじみということも少なくない。インターハイで上位まで勝ち上がってくる程の実力があれば、どのみち国体や冬の選抜でも対戦する可能性は高いし、その都合上相手を知っていて損はない。

そんな中でも特に積極的に他校の生徒と接触を図るのは、2年生、分けても所属していれば女子マネージャー同士は連絡先の交換に余念がない。来る最上級生マネージャーに備えて強豪校の同士で情報交換をするというわけだ。

対戦相手でもあるので手の内を明かすようなことはしないが、地区予選の様子や新人の噂、監督の異動まで、このマネージャーネットワークからもたらされる情報は多い。まあ部員に漏らさない範囲で好き放題情報を交換してもいるのだが、それはそれ。内容は推して知るべしといったところか。

そんなわけでも準決勝に至るまでに何人もの女子マネージャーと連絡先を交換してきた。2年生マネージャーの場合このためもあって同行が必要になるというわけだ。また、海南の場合はそのネームバリューのおかげで、対戦していない高校のマネージャーからも連絡先を交換して欲しいと請われることもしばしばである。

さらに言えば、男子校であったり伝統的に女子マネージャーがいない高校の場合、選手がそれを理由に他校の女子マネージャーに連絡先を聞きに来たりもする。まあ悪意のある言い方をすればナンパだ。だが、接触を持てるのは基本的には対戦校なのだし、距離が近いとは限らない。だから大目に見られている習慣ではある。

も準決勝までの6試合の間に3度ほどあからさまなナンパに当たった。が、が色よい反応を見せない上に、だいたい真後ろに牧がやってくるので相手は逃げていく。そのせいもあって本人はあまり深刻に受け止めていない様子だった。

さて、3位決定戦の終了後である。

「海南2年のマネージャーさん?」
「はい、そうです」
「うち、女子マネいないんです。なもんで、オレと連絡先交換してもらえませんか。次期主将予定です」

に気さくに声をかけてきたのは3位をかけて対戦した愛和学院の2年生だった。ぱっちりとした目のさわやかな風貌のその2年生はを見下ろしながらにっこりと微笑んだ。マネージャーがいないから交換というのはほぼナンパのはずなのだが、彼はそんな下心をまったく感じさせなかった。

「あ、はい。と言います……
ちゃんね。オレは諸星っていいます。よろしく」

は従兄の代のマネージャーに教わった通り、校名、所属、苗字に加えてQRコードを印刷した名刺を持参していた。の私用アドレスが入っているものと、学校から支給されるメールアドレスが入っているものと、2種類ある。女子同士でなければ学校支給メアドの方を渡す。はそれを諸星に差し出した。

だが、諸星は受け取らない。

……そっちが欲しいな」
「え?」
「これ、ナンパ用のでしょ。オレ、ナンパのつもりないよ」

の勘がよければ、例えば従兄の並みであったなら、これもそういう種類のナンパなのだとすぐに気付いただろうが、生憎上下のマネージャー仲間に小馬鹿にされていることにも鈍感な有様である。つい素直に頷くと私用アドレスの入った名刺を手渡した。諸星は今度は素早く受け取って首に下げた入館IDケースに差し込む。

「じゃあ後でメール送るから、オレのはそれ見てください」
「あっ、はい、ええと諸星くんでいいんだよね」
「大ちゃん」
「はい?」

名刺と共にずっと手にしている手帳を開いて書き込もうとしたは、ひっくり返った声を上げて手を止めた。

「オレ、諸星大っていうんだ。だから大ちゃん」
「はあ、大ちゃん」
「なんですかちゃん」

ただでさえ鈍感なである。ここまでするすると話を展開されると気付くものも気付かない。だが、諸星がいいようにを翻弄できたのはここまでだった。の背後に髪型が崩れた牧が静かに立ちはだかったからだ。しかも、と諸星のやりとりをなんとなく見ていたようである。

「よう、牧、お疲れ」
……お疲れ。、1年生頼む」
「あっ、いけない忘れてた。ごめんね、今行きます。じゃ、じゃあ大ちゃんまたね」

今年はスタメンにもベンチ入りにも1年生がいないので、同行してきた1年生は全員客席にいる。指示があるまではその場から動いてはいけないことになっているから、その誘導は2年マネージャーの仕事だった。は諸星に片手を挙げて見せると、牧の顔を見てから走り去った。

……大ちゃん?」
「そう、オレ大ちゃん」
「お前なあ」
「このくらい大目に見ろよ。よくある試合後の光景だろ。近所でもないんだし」

怪訝そうな顔をした牧に、諸星はに見せたのと同じようなさわやかな笑顔を作る。確かに諸星のいる愛和学院は愛知なので近くはない。が、遠いというほどでもない。だが、距離はこの際問題ではない。国体や冬の選抜もあるし、全国の有力選手は東京に進学して来ないとも限らないからだ。

「それともお前の彼女だったか? それならメールも遠慮するけど」

諸星の邪気のない笑顔は、と牧の間にはそういう事実がないことを知っていると物語っていた。

……いや、違うよ。ただ去年の先輩の従妹なんだ。変な虫がつかないようにと仰せつかってる」
「なあんだ。じゃあ問題ないよ。オレ、変な虫になりようがないから!」

この悪意も下心もまったく感じさせない笑顔は、どうやらわざわざ作っているのではなく、彼の自然なものであるようだ。変な虫かどうかを判断するのはお前じゃないと牧はツッコミたかったが、ため息と共に吐き出して言葉にはしなかった。そんな牧にまた諸星はにっこりと笑いかける。

「うちは女子マネ禁止だから、羨ましいよ。しかもあんな可愛い子」
「やっぱり変な虫じゃねえか。あれでもうちの大事な戦力なんだよ」

いささか呆れてきた牧はつい吹き出した。だが、諸星はにっこり笑顔を崩さない。

「戦力って……あれ、もしかしてお前ら麻痺してんじゃないの?」
「麻痺?」
「ずいぶん噂になってたけどなあ。今年の海南の女子マネ、可愛いって」

そこでタイムオーバーだった。去り際に諸星はまたにっこりと笑って牧に囁きかけた。その優しそうな笑顔と静かな声音がを思い出させて、牧は息を呑む。

「お前らには戦力でもオレたちには可愛い女の子だぜ。気をつけなよ〜」

牧は返す言葉が見つからなかった。

2学期に入ると、海南はまたすぐ国体へ向けて練習に励む。ここ10年近く国体はインターハイ県予選優勝校だけが出場している。つまり、毎年海南だけで行っていることになる。県内には他にも優秀な選手がいるけれど、わざわざ選抜にしなくても海南だけで充分だからだ。寄せ集めのリスクを取る必要がない。

そしての予見どおり3年生の大半がこの国体を最後に引退するという。残ったのは内部進学かつ試合に殆ど出たことがないようなタイプの部員と、現4番から6番の主将副主将を含む3人だけ。この3人は推薦入学が内定しているので冬の選抜まで残るという。

が、これもの言うように、おそらく冬の選抜でスタメンに残れるかどうかは怪しい。この頃になると神のシュート練習の成果が上がってきて、部内でも1、2を争う成功率を叩き出すようになっていた。既に来年のことも考えている監督の目論見の中に神が名を連ねたのは言うまでもない。

「最近どうなんだ、神は」
「それがさ、夏休み、学校の体育館使えない時もずーっとやってたみたいで、入る入る」
「来年楽しみだな。えらい飛び道具が出来上がったもんだ」

国体目前の日曜日、朝から延々練習している部員たちは、まだまだ気温が高いので午後は2時間の休憩を義務付けられている。幸い海南大附属のクラブ棟にはシャワールームがあるので、クールダウンはできるが、その後は部室である。エアコンをつけてもいいのだが、体温調節が出来なくなるのであまり涼しく出来ない。

しかも体を横に出来るベンチはだいたい3年生が優先的に使うので、2年生以下は椅子や床に座ったり、それでも場所がなくなると体育館で寝ている。そんなわけで、この日と牧はランドリー室のベンチでだらだらと過ごしていた。が休憩中に洗濯機を回しておきたいと言うので、牧も着いてきた。

運動部共用の洗濯機は全部で8台。うち3台を回しているところだ。

確か雑用は1年生の仕事だと言ってたはずだが、は2年生が暮れかかってもまだ雑用をやっている。掃除洗濯片付け後始末……そんなことばかりやっている。もちろん練習の管理などもやっているが、3年と1年に取って代わられてしまうことも多い。

「そういや、諸星とは連絡取ってるのか?」

暑いのと気が緩んでいるのとで、牧は無意識にそんなことを聞いた。言ってから突然脈絡もないことを口にしたと思ったけれど、もう遅い。暑さでぼんやりしているは牧の方を見ずに一呼吸置く。

……うん、なんかけっこう頻繁にどうでもいいメールが来る」
「どうでもいいメール?」
「なんていうのかな、バスケあんまり関係ない話が多くて返事に困る」

は携帯を取り出してなにやら操作すると、またポケットに押し込んだ。

「最近は国体で会おうねって。神奈川と当たるとは限らないのにね」
……困ってるなら」
「あ! 大丈夫困ってない! 平気! 気にしないで! たかがメール!」

ぼんやりした目で洗濯機を見つめながら困惑の言葉を漏らしただったが、我に返ると慌てて否定した。の得意技とでも言うべき「私は大丈夫、牧はそんなこと気にしないで」の一種である。

は牧に余計なことを考えずにバスケットしていて欲しいだけだ。そういう気遣いだということは牧自身もよくわかっている。だが、メールとはいえ調子のいい他校の生徒に言い寄られていて、それを持て余しているのを「気にしないで」と言われてしまうと、面白くない。

頼りにされていない。そんな言葉を思い浮かべては打ち消し、と諸星のメールのやり取りが自分に関係ない理由を並べ立てる。は彼女じゃない、の彼氏はオレじゃない、のことは仲間だと思っている、好きだなんて、思っていない――

だが、そんな牧のジレンマをよそに国体ではトーナメント戦の初日が愛知と同じ会場になってしまった。国体に出場してくる以上は県下ではトップクラスの選手であるから、試合となればプライベートは一切関係がない。けれど、そのスイッチの切り替えが上手であるがゆえにオフコートでは奔放な選手もいるということだ。

牧がすぐ横にいるにも関わらず、諸星はにお土産を手渡した。

「え、エビフライになってるよ……!」
「可愛いだろ。ちゃんもこれありがとな」

一応交換だったようだ。は諸星にもらったご当地デザインのキャラクターストラップに大喜びしている。一方の諸星は鎌倉銘菓鳩サブレをもらったらしい。神奈川県民なら一家にひとつはこのお菓子の空き缶があるというアレだ。消えてなくなるものを持って来たの選択は正しい。

「牧、見て見てエビフライエビフライ」
「よかったな、いいものもらって。ていうかこういう交流もアリだよなあ。諸星、冬に味噌くれよ」
「なんでお前に買ってこなきゃいけないんだ」
「シウマイ買ってきてやるから」
「冬は東京なんだから品川で買えるじゃねーか」

が諸星をほったらかして自分に纏わりついてくるので、牧は少し気分がよかった。だが、可愛いキャラクターがエビフライに包まれているのがよっぽどツボにはまったらしく、は笑いが止まらない。ちょうど近くを通りかかった神にも飛び跳ねながら纏わりつく。

「神くん見て見てエビフライエビフライ!」
「ほんとだ。あれっ、もしかして諸星さんにもらったんですか? 先輩、ちゃんとお礼言いました?」
「あっ……
「だめじゃないですか、ほらちゃんと言いましょう。ありがとうございました!」
「あ、ありがとうございました」

神はの後頭部を押して一緒に頭を下げた。確か神の方が年下のはずだが、はいいようにあしらわれている。それを見ていた牧と諸星は苦笑いするしかない。というかこれではまるでは神の身内か彼女かというところだ。牧はいつものことなので黙っているが、諸星は面白くない。

「君、1年生?」
「はい、神といいます」
ちゃんと仲いいんだね」
「仲いいだなんてそんな。尊敬してる先輩ですよ」
「ちょ、何言ってるの、神くんやめて」

わけもわからず割って入るの肩を神の手がそっと引く。

「へえ、君はちゃんと大事にしてるんだね」
「はい。だから心配には及びませんよ」

諸星も優しい笑顔だが、神の方はそれに輪をかけて可愛らしく爽やかな笑顔だった。その笑顔の下で交錯する思いがあるなどと知りもしないはきょとんとしているし、それを黙って見つめている牧は少しだけ気持ちが不貞腐れていくのを感じていた。お前ら、一体何の話してるんだよ。

「諸星さんは確か愛知の星って言われてるんですよね」
「オレが言い出したことじゃないけどな」
……先輩は恒星なんですよ」
「こうせい?」
「ステラ」
「は?」

には及ばないだろうが、それでも天使のような微笑で神はわけのわからないことを言う。諸星だけでなくも牧も怪訝そうな顔をしたが、神は笑顔を崩さない。どころか、の手を引いて諸星から引き離し、牧の方に押しやると、また向き直ってにこりと笑った。

「まあそれは牧さんも同じなんですけどね! 海南の中心ですから」

神の後ろで牧は思わずの手を取り、ギュッと握り締めた。