地上のステラ

02

車道はまだ雪が積もるほどではないものの、歩道がもうふかふかの雪でこんもりしている。スニーカーで来ているバスケット部員たちは滑ったりよろよろしながら帰っていく。ふだんなら数分で通り過ぎる校舎前の通りも、10分以上かかってやっと抜けられたほどだった。

「明日また休みなんかな。牧、どっか練習できるとこ知らないか?」
「全部外だなあ。室内も一箇所あったけどこの間潰れたし、大人しくしてるしか――やばい!」
「なんだ?」
「忘れた! 借りたノートロッカーん中だ。くっそめんどくせえ」
「明後日じゃだめなのか?」
「それじゃオレが困る」

試合などで授業に出られない時は友人にノートを見せてもらっている牧だが、昨日も忘れて帰り、今日もまだロッカーの中に入れっぱなしになっていたことを思い出した。取りに戻るしかない。

「まだ先生いるかな。とにかく戻るわ、じゃあな」
「おう、気をつけろよ〜」

げんなりしつつ、牧は元来た道を戻った。これで先ほど怒鳴り込んできた教師がいなかったらどうにもならない。さすがに3日も借りてまだ返せないというのはまずい。明日がまた雪で学校閉鎖になったとしたら、どうしてもそのノートを写しておきたい。

体幹がよく鍛えられていてバランス感覚に優れた牧であるが、何せ慣れない雪である。たまに足を取られながら学校まで戻った。まさかとは思うがと覗いてみたクラブ棟は、エントランスが開いていて、牧は雪を跳ね上げながらクラブ棟に飛び込む。

日が差さないせいで薄暗い廊下をサッと影が横切る。全員帰ったはずなのに。牧は一瞬心霊現象的なことを想像してしまい、ただでさえ冷えた体を震わせた。だが、その時背後からまた怒鳴り声が響いて来た。

「まだ帰ってなかったのか!」
「すいません忘れ物っす!」

反射的に反転して牧は気を付けをしてしまった。さきほど怒鳴り込んで来た教師は帰り支度を済ませている。手にクラブ棟の鍵を持っているので、最後の確認に来たのだろう。

「そんならほら、さっさと取って来い。もうここ閉めるから。帰らせてくれよ」

牧は靴を脱いで靴下の状態で廊下を走り出した。しかしなぜエントランスが開いていたのだろう、クラブ棟は各部にも鍵が預けられていて、バスケット部が全員出たのなら、もう誰もいないはずなのに。そして、牧は部室の前で急停止して愕然とする。部員がいなかったら部室も鍵がかかってるじゃないか!

だが、また背筋が冷えた牧の目の前でドアがスッと開いた。

「ひゃあああっ!」
「うわ、なんだ!」

情けない悲鳴と共に、が出てきた。

! お前なにやってんだ、帰ってなかったのか!?」
「これから帰るところだよ、牧こそ何やってんの」
「いやオレは忘れ物……
「なんだ、私が帰る前でよかったね。取っておいでよ、待ってるから」

は指に引っ掛けた鍵をくるくると回した。牧は頷いて部室に飛び込み、ノートを引っつかんでバッグに押し込むと急いで戻ってきた。牧が靴下で滑り出たところで、は部室に鍵をかける。ホッとした牧が振り返ると、は大きなゴミ袋を持ち、バスケット部備品のスポーツバッグを背負っていた。

「おっけー。さー帰ろうか」
……てかお前何やってたんだよ」
「何って、後片付け」

はゴミ袋を掲げて見せる。バスケット部の部室は大きいので、最上級生は朝も休み時間も昼休みも部室をよく使う。そのために部活動とは関係ないゴミが大量に出る。

「片付けって、お前ひとりでか?」
「そりゃそうだよ、ゴミがたまってたら、最後にまとめて捨てるのは1年の仕事だからね」

牧は何も言わずに並んで歩きながら、顔をしかめていた。ゴミはともかく最後に部室を出るのは1年の仕事か? それは普通最上級生の仕事のはずだ。そして今は3年生がいないのだから、2年がやるべきではないのか。だが、海南には海南の伝統というものもあるから、それでもいいだろう。

「そっちは何だよ」
「これは部室用のタオル。今朝雪で濡れたバッグとか色々拭いちゃったからね」
……それを何でお前が背負ってんの」
「えー、だって洗わないと! 今日はランドリー室使えないんだし、持って帰るしかないじゃん。カビちゃうよ」

はさも当然だといった風に驚いているが、牧はそれにも納得がいかない。の理屈は正しい、が、がひとりで全て背負い込んでいるのは明らかにおかしい。が引退してから1ヶ月、牧は彼の言葉を思い出す。あれはこういうことだったんだろうか。

「そっち貸せ」
「ええー、いいよ、私やるって」
「いいから言うこと聞け」

牧は遠慮するの手からゴミ袋をもぎ取った。エントランスでは鍵を掴んだ先生が睨んでいる。

まで残ってたのか! さっさと帰れって言っただろうが〜」
「ごめんなさい、鍵預かってるからいいかと思って」
「それゴミかよ、もー、早く行って来い!」

生徒が残っている以上は校門を閉められないので、先生は泣きそうだ。牧はに構わず走り出す。絶対に自分の方が早いとわかっているので、遥か後方で「私が行くよ」と言っているの声にも反応しない。ゴミ集積スペースへゴミ袋を放り投げると、牧はまた走る。

、ほら牧の方が早いだろうが」
「はーい……
「じゃあほらさっさと帰ろう、校門閉めるぞ」

徒歩圏内だという先生と共に通用門を出る。正面門は既に閉じられていた。

「ふたりとも帰れるんだろうな」
「大丈夫です、帰れます」
「ああそうか、は近いんだったな」

一族はこの辺りに古くからたくさん生息している家柄である。ペリー来航の折、先祖が浦賀まで遠征して黒船を見に行ったという持ちネタがあり、30年ほど前から家の子女は海南と決まっている。近年子供が減ったせいで現在はと従兄しかいないが、最盛期は10人以上の一族がいたという。

気を付けて帰れと念を押した先生と別れ、と牧はまたよたよたと歩き出した。

「それ、洗ったらまたお前が持ってくるのか」
「そりゃそうだよ。明日が休みだったら明後日かなあ。コインランドリー行かなきゃ」
「洗濯ってお前の担当なのか」
「そう決まってるわけじゃないよ。普段はランドリー室使ってるんだし」

あまり意識していなかったのだが、牧は記憶の糸を探る。確か先輩に当たる女子マネージャーたちは、いつも柔らかそうなタオルを抱き締めていたような気がする。洗ったばかりの真っ白なタオルを笑顔で差し出してくれることもある。あれは彼女たちが洗っていると思っていたのだが――

「でも、やってるのはお前なんだろ」
「まあそうだね。雑用は1年の仕事だから」

そういう側面があることは否定できない。特に上下関係が厳しい運動部ならの言っていることは正しい。しかし、にも念を押された牧はそれだけではないような気がしている。1年生だから、本当にそれだけか?

とはいえ、疑惑だけでを責めても仕方ない。の言うように、目を離さないでいよう、牧はそう思った。

「私は近いからいいけど、牧はちゃんと帰れるの?」
「大丈夫、まだバスは動いてるし」
「バス待つんじゃないの、寒いで――ふわあ!」

足を滑らせた。背負っているバッグの重みに引っ張られてぐらりと傾く。牧は慌てて手を伸ばし、の手を掴み、バッグを押し戻した。バッグが考えていた以上に重い。みんなの濡れたバッグだのを拭いたとか言っていたから、水分を含んだタオルが重くなっているらしい。

「人の心配してる場合かよ。いくら近所だからってこれじゃ遭難するぞ」
「そ、遭難なんていくら私でもそこまでは」

そう言いつつ、は牧に手を取ってもらっているというのに、また足元がよたついてつんのめる。

「説得力ゼロだな」
「雪が悪いんだよ雪がー!」

牧は取った手を繋いで少し組ませ、体が傾かないように支えてやる。の手は冷え切っていて、握り返すことも出来ないほどにかじかんでいる。力を入れて掴んでいてやらないと転んでしまいそうだ。牧に迷惑をかけているとでも思っているのか、は俯いて鼻をぐずぐず言わせている。

「家、さんちの方だよな。送っていくよ」
「えーだめだよそんなの! 牧が遠回りになるじゃん」
「バス停が近くにあれば別にならないだろ」
「だめだめ、こんな時くらいゆっくり休まないと! 休みないんだから!」

いっぱしのマネージャーのようなことを言う。だが、またよろけて牧の腕にすがりつく。

「そんな状態でよく言うぜ」
「だけど……あっ、兄ちゃんに来てもらうよ!」
「彼女来てるんだろ?」
「泊まるわけじゃないんだし平気だよそのくらい。私、彼女さんとも仲いいし」

はポケットから携帯を引っ張り出すと、に電話をかける。

「あっ、兄ちゃん、うんすごいね雪。そう、それでね、牧がさあ送っていくって聞かないの。え、あ、うん」

は牧に携帯を差し出す。に代われとでも言われたか。

……さん?」
「よう牧! 危なっかしいんだろ」
「そうなんです」
「ありがとな。出来れば送ってってくれるか。いつまでもオレを頼れると思って欲しくないんだ」

牧は頷きながら返事をした。の言っていることはもっともだ。牧もが何でもかんでも背負い込んだ挙句頼みで何とかしようとするのはやめて欲しいと思っている。一生懸命なのはいいのだが、は自分の許容量を守らずいつもオーバーさせ気味だ。

「牧、悪いな、頼むわ」
「はい、わかりました」
「いい感じになったらチューくらいしとくんだぞ」
「は!? さんじゃないんでそんなことしません!」

牧はの笑い声を聞きながらに携帯を返した。が代わると、は一方的に「牧に送ってもらえ」と言って切ってしまった。切れてしまった携帯に向かってはわめき立てたが、牧に引っ張られてまたよたよたと歩き出した。

が余計なことを言ったので、牧は言葉が出てこない。手を繋いでいるのも途端に気恥ずかしくなってきた。いい感じも何も、どんどん積もる雪の中を歩くのが精一杯なのに、何を言っているんだあの人は。しかもチューだなんて。牧はの顔が見られなくて、意味もなくきょろきょろと辺りを見回したりした。

の言うように、確かにバスケット部の中でと一番仲がいいのは牧だ。だが、仲がいいとは言っても、それは部活の中だけのことで、部を離れてまで親しくしているというわけでもない。とりあえず今はクラスも違うし、部活に関わることでもなければ連絡を取ったりもしない。

ただし、牧の場合はを慕っていたという前提があるので、をいい先輩だなと思うほどにをも好意的に感じたのは事実だ。も先輩のと同じように真面目で裏表もなく、とにかくひたむきだった。と仲良くやっていけるのにはそういう理由もある。

割と似てるんだけどな……

気恥ずかしいながらも、牧はちらりとの横顔を見下ろす。従兄のはなんとなく似ている。だが、天使の笑顔で乙女のハートをガッチリ掴むと違って、はなぜか目立たない。牧の感覚で言うとけっこう可愛い顔もしていると思うのだが、どうにも可愛い子ということにはなっていない模様。

視線を感じたのか、はひょいと顔を上げた。頬が寒さで真っ赤になっていて、化粧をしているみたいに見える。牧はドキリとして、そしてそのことに自分で驚いた。さんがあんなこと、言うからだ。

「ほんとにごめんね、風邪ひかないようにしてね」
「そりゃお前の方だろ」
「平気平気、バカは風邪引かないから」

そう言ってはにやりと笑った。

手を取って支えてやりながらの家まで送っていった牧は、の家族に暖かいものを飲んでいけだの服を乾かしていけだのとさんざん引き止められた。だが、引き止めれば引き止めるほど外の状況は悪化する。唯一冷静だったの弟に助けられて牧はなんとか解放された。

「牧さん、オレも来年海南入ります。よろしくお願いします」
「おお、またがふたりになるんだな。待ってるよ」
「オレ、兄ちゃんよりは役に立つと思うんで!」

だけでなくの弟まで連れまわしていたようだ。これがまたに似ている。かなりの美少年だ。ついでに言うと両の親もずいぶん整った容貌をしていた。牧はが地味に見える理由がわかったような気がしてきた。周りが強すぎる。

「牧、ほんとに気をつけてね」
「バスで帰るよ。バス停近くにコンビニあるって言ってたし、大丈夫だから」
「もし帰れなくなっちゃったら戻ってきてね」

もし帰れなくなったとしても同級生の女の子の家になど泊まりたくない。牧はどんなことがあっても帰宅しようと固く心に決めた。は気を使っているだけなのだとわかっているが、こういうところは鈍感すぎて困る。

「あとこれ、使って」

牧の手を取ったは小さなカイロを掴ませた。牧の指を畳み、両手で包み込む。

……ありがとう。じゃあまたな」
「うん、明日か明後日ね!」

まだ頬が赤いが手を取ったまま笑顔で見上げている。牧は、そのまま屈んでにキスしてしまいたい衝動に駆られた。けれど、それは自発的なものではなくて、に焚きつけられたせいだと思う。しかも、言うほどにはを好きだという自覚はない。

たまたまが余計なことを言い、たまたまが親切にカイロをくれて、そして手を包まれているからだ。

牧は片手を上げての家を去っていく。ポケットの中で握り潰していたカイロがじわりと暖まってくる。ついさっきまで繋いでいたの冷えた手と違って、カイロはどんどん熱くなる。ポケットから手を出し、カイロを頬にそっとあてる。どくどくと脈打つ鼓動が耳に響く。

なんでこんなにドキドキしてるんだ。オレたちは何でもないのに、さん、余計なことを!

牧は降りしきる雪の中、真っ赤な顔をして帰っていった。