地上のステラ

03

が心配していた事態は、牧やが2年生に進級してから数ヵ月後に現実となって現れた。

新しく入部してきた新入生43人の内、マネージャー志望の女子は5人。全員バスケット部経験はなし。ひとりはものの2日で退部。もうふたりも1ヶ月と持たずに辞めていった。理由は簡単、残ったふたりに追い出された。このふたりは出身中学が同じ部員を追いかけてきた形でのマネージャーを志願だった。

しかもこのふたりがすごかったのは、それを隠さないところだ。中学の頃からずっと追いかけていたようで、バスケットの知識はまったく問題ない。なのでド素人の3人はいらないと公言していた。

そんなわけで、とうとう「不純な動機」タイプに上下を挟まれてしまったはますます影が薄い。

この年の3年のマネージャーもふたりで、ひとりは最上級生への進級を期にこの年の副主将と付き合いだし、ひとりは卒業まで粘ったがが今の彼女と別れなかったので本懐が遂げられなかった。片方は今幸せの絶頂なのだろうが、片方はどん底、しかもそのの従妹が後輩にいるという地獄。

それが引き金になったかどうかはわからないが、とにかくの言うように海南バスケット部のマネージャーは急にギスギスし始めた。3年生は後輩に対して威張るようになり、1年生は「不純な動機もない上に身内のコネ」であるが面白くない様子だった。

牧は、から話を聞いていなかったらと思うとゾッとした。

つまりは、モテるだけに女の子のダークサイドにも鼻が利く人間だったのだ。自分と同学年の女子マネージャーは安心できる女の子だったからまだよかった。けれど、どうも次期3年のふたりは怪しい。次の1年に良心的な子が入ってくるとは限らない――

3年生に怒鳴られ、1年生にはあまり相手にされていないを目にする度に、牧はの言葉を思い出し、しかもそんなかみ合っていないマネージャー5人にまったく気付かない部員たちに驚いた。しかし、にあんな話をされなかったら、自分も気付かなかったかもしれないと思う。

だが、幸いにも牧はの言う通り「海南の中心」なのである。練習中に気を散らすことはないけれど、それを離れてもが攻撃されていると牧は割って入るようになった。あくまでもに用がある風を装い、3年と1年のマネージャーから引き離した。

いくら3年でも、マネージャーである以上は主力選手である牧に対して威張ることは憚られる。ちくちくとを突っついていても、牧に間に入られれば終わりだ。そうやって牧が守っているせいもあって、は完全にマネージャーの中で孤立した。

結果的にが危惧したことを自分で招いてしまった牧は、インターハイ県予選を優勝で終えたあたりで、電話で謝った。だが、は予想できたことだからと牧を責めなかったし、今年の1年生がそこまで強かったのは運が悪かったと言って笑った。

「ずっと見張ってるわけじゃないんですが、どうも雑用の割合が多い気がします」
「あはは、まあそうだろうな。洗濯や掃除なんてやっても面白くないし感謝もされない」
「笑い事ですか。先輩のこと好きだったからって、にあたらなくても」
「そんなこと言われてもなあ。好きだとも言われてないんだぞ、困った子だな」

はそう言いながらもあまり気にしていないようだ。

「まあでも、お前がいるから何も心配してないよ」
「いやオレは何も出来ないですよ」
「大丈夫だって。お前がいるからはまだマネージャーやってられるんだよ」

は牧がいなければは早々に追い出されていたとでも言いたげだ。さすがにそれは大袈裟なのではと牧は思うが、どう考えても自分よりの方が女心に詳しいに決まっている。そしてはまた天使を感じさせない冷ややかな声になる。

「まあでもそれも国体までだよ。おそらく、冬の選抜まで今の3年は残らないぞ」
「えっ、どうしてですか。まだインターハイも終わってないのに」
「お前がいるからに決まってるだろ。残る理由がないんだよ」

は鼻で笑った。そう言われると牧は返す言葉がなくて黙る。

「推薦取れたり上にあがるやつなんかは残ったって構わないけど、今の4番よりお前の方が上手いからな。武藤も高砂も伸びてきてるだろ。監督なら容赦なくスタメンから追い出すのはわかってるはずだ。引退間近になってスタメンから外されるくらいなら、さっさと辞めた方が傷つかなくていい」

哀しいかなそれが現実だ。牧も納得した。その点については何も異論はない。

「そんで新体制、お前がキャプテンになる。はもう何も心配いらない。なっ」
…………さんて天使とか言われてるけど、悪魔だったんすね」
「甘いな牧、家ってのは本来こうなんだよ。だけがちょっと変なの」

だとしたら、家は相当な狸一族だということになる。牧は、を始めの親にも弟にもそんな印象は一切感じなかった。しかしそのだけが変だと言うのだから、の裏表のないひたむきさは本物だということになる。

「それにオレが想像してたより状況は悪くないみたいだし、安心したよ」
「これでですか……
「女ってのは怖い生き物なんだよ。あ、でもはそんなことないぞ。安心しろよ」
「な、何言ってんですか!」

電話の向こうでは冷たく笑う。牧は背筋が冷えるのを感じた。

「牧、と一緒に帰ったりしてるか?」
「い、いいえ……
「それなら一度が部室を閉めて帰るまで残ってみろ。面白いものが見られるかもしれないぞ」

は最後まで一体何があるのかは言わなかった。牧はそれが気になりながらも、見てみたいとは思えなくてため息をついた。を見守ることに飽きたわけではないけれど、マネージャー同士でギスギスしていたりするならこっそり覗いてなんかいないでを引っ張って帰ってしまうかもしれない。

または、仕事を大量に押し付けられているのだとしたらその場で怒鳴り散らしてしまうかもしれない。

そんなのはどちらも嫌だった。

もはやインターハイ出場が当たり前の海南大附属の場合、県予選が終わってから期末前の部活停止期間までに限り、テスト前の名目でやや練習が短縮される。いくらスポーツに力を入れていても一応普通科なので、赤点だらけの生徒を黙って全国大会に送り出すわけにはいかないからだ。

この点は監督や顧問もよくわきまえていて、普段から成績不振が続いているとすぐ指導される。何も学年で50位以内に入れなどということは言わないのだし、部員の方も海南の部員として残りたい以上は大人しく勉強も頑張っている。強豪校で生き残るには要領のよさも必要だ。

とはいえ短縮されるだけで練習自体は停止期間に入るまではちゃんとある。

停止期間に入る前日のこの日、牧は全員がぞろぞろと帰っていく中で体育館に戻るの後姿を見つけて足を止めた。の言葉が蘇る。もう何も用がないはずの体育館に手ぶらで戻っていくの後姿を見ながら、牧は無意識に足を踏み出していた。

体育館に近付くと、ボールの音が断続的に響いてくる。間隔からしてシュート練習のようだが、まさかがやっているわけではあるまい。首を傾げつつそっと覗いてみた牧は、すぐに首を引っ込めた。

「神?」

今年入った1年生だ。身長は高いが、細身なために入部1ヶ月もしない内にセンターから外された。その神が黙々とシュート練習をしている。はそれを少し離れた位置で見ている。首にクリップボードをぶら下げていたので、練習の記録でもつけているのかもしれない。

牧はもう一度首を伸ばして覗き込む。神がボールを構え、シュートを打つ。その結果をは書き込み、ボールを拾う。その繰り返しだ。ふたりとも口もきかずに延々それを続けているようだ。

……あれが毎日だ」
「ふぁ!?」

牧は後ろから響いてきた声に危うく大声を上げそうになって口元を押さえた。首を引っ込めて壁にへばりつくと、背後にいつの間にか監督が立っていた。暗がりに眼鏡がきらりと光る。

「毎日500本打つまで帰らん。大した根性だ」
「ご、500……ですか」
も最後まで付き合ってやってるらしい。さすがにの血筋だな」

同姓で区別がつかないので、監督もと呼ぶ。おそらく来年には弟が入ってくるので、のままの方が都合がいい。今の1年生もそんな話を聞かされているので先輩と呼ぶのが普通だ。

「これで成績がひどいようなら止めにゃならんところだが、幸いふたりとも問題ないしな」
「そうですか……
「まだ今年は使い物にならんかもしれんが、お前の代になったら化けるかもしれんぞあいつは」
「500本じゃ、ずいぶん遅くなりますね」

監督は指で眼鏡を押し上げると、鼻の穴を広げてふっと笑う。

「オレは先に帰るがな。は家が近いし、心配ないだろう」

そう言うと、監督はくるりと背を向けて帰っていってしまった。牧は鳩尾の辺りがザワつくのを感じて思わず手で押さえる。いくら近いからといって、は毎日遅い時間にひとりで帰るのか? 神の努力は素晴らしいけれど、それにが付き合う必要はあるのか。

牧ものろのろと後ずさると、体育館を後にした。ここで見ていても部室にいても、どちらにしても都合が悪い。しかし、がひとり夜道を帰るのだとわかっていてさっさと帰ってしまうのも、なんだか気に入らない。牧は色々言い訳を考えながら、図書室に向かった。窓際の席は体育館が見える。

そこで勉強しつつ時間を潰した牧は、体育館の明かりが落ちるのを見て、図書室を出た。わざとのんびり歩いてもクラブ棟までは昇降口を出ればすぐに着いてしまう。エントランスで待ち構えているのも気恥ずかしいし、牧は正門のあたりで立ち尽くしていた。

だが、はいっこうに現れない。牧が目撃したのは部室から体育館に向かうだ。あらかた片付けなどは終えてから神の練習に付き合っているだろうに、まだなにか用があるのか。

そんな風に牧がそわそわしながら待っていると、正門前の通りからの声が聞こえてきた。

「大丈夫だと思うけどなあ。あ、まあその重いのは否定しないけど」
「先輩くらいじゃ重くないですよ。でもダメです。万が一転んじゃったら大変だから」
「だけど今はテスト前だし、特に時間がもったいないよ」

と神だ。神が自転車を押しながら、と並んで歩いている。

「それも大丈夫です。先輩だってそれは同じでしょ。今年は先輩もインターハイ行くんだし」
「いやー私はほら、最悪行かれなくても困らないけど」
「ダメですって。先輩の代はひとりなんだからちゃんと体験してこないと。来年困りますよ」

察するに、神は自転車を押しながらを送って帰っているということらしい。後ろに乗せて走れば早いものを、神は頑としてそれを断っているようだ。神にもをひとりで帰すという選択肢はないらしい。牧は途端に身の置き場がなくなったような気がして足元が落ち着かない。

また、ふたりが話しているのはインターハイに同行するマネージャーの話だ。伝統的に海南のマネージャーは3年と2年しかインターハイに同行しないことになっている。普段ほど仕事がないので3年生だけでもいいくらいなのだが、2年生は翌年のために見学に行くというわけだ。

ただしの場合は昨年のインターハイを家族と観戦しに訪れている。万が一が出場しないとも限らないので、伯父や伯母にくっついて観戦しに来た。それでも客席で見るだけと実際に同行するのとでは勝手が違う。神の言うように今の2年はひとりなので、ちゃんと行ってもらわないと来年困ることになる。

神が送って帰っているならまあいいか、と牧は正門を出た。が、その視線の先にヘッドライトの光が差し込み、のシルエットがくっきりと浮かび上がった。制服のスカートが翻る。

「危な――
「先輩!」

またつい声を上げてしまいそうになった牧は、バチンと口元に手を当てる。眩んだ目が戻り、の後姿を捜すと、は神の長い腕に巻かれていた。足元が絡まって、神と神の自転車に寄りかかっている。

「先輩、大丈夫ですかー!?」
「神くんごめ……ちょ、足絡まった!」
「先輩足それどうなってんすか」

も神も笑いながら体勢を元に戻そうとしてふらふらしている。傍目にはじゃれついているカップルにしか見えない。よろつくの手を取ってやり、支える神。その手にしっかり捕まっている

牧は全身の皮膚がじわりと焼かれるような感覚に襲われた。

試合に負けた時の悔しさに似ているが、少し違う。焦燥感と喪失感が混じり、破壊衝動までが誘われる。楽しそうに笑い合っていると神の後姿、もう見たくない気がするのに目が離せない。牧はその場に立ち尽くしたまま、ふたりの影が見えなくなるまでその感覚と戦っていた。

まさか。自分がなぜそんなことを。必要がない意味がない相応しくない感覚だ。

これはまるで、嫉妬じゃないか!