地上のステラ

13

紙ナプキンを取り落としたが顔面蒼白の白目の気分になっているところに、牧の携帯が鳴りだした。着信は神からだった。神なら何があっても邪魔をするようなことはしないと思われるので、この着信は何かどうしても伝えたい用件があるということだ。

牧の言葉を処理しようとしているだけで精一杯のをそのままに、牧は電話に出た。

「どうした」
「あ、牧さん? お邪魔してすみません、今外ですか?」
「いや、駅に近い方のカフェだけど」
「ああ、よかったあ! 実はですね」

神によれば、すっかり出来上がってしまった先生たちとOBが早めに店を出て河岸を変えると言い出したという。パーティの開始も早かったし、飲酒可能なOBが乱入してきたことで、飲み直したい気になったのだろう。それが徒党を組んで出て行ったのがほんの数分前だという。

「でも、どの店に入るのか決めてないみたいで、ああだこうだ言いながら歩いて行きまして」
「どこも混んでるしなあ」
「どうせ『相模』に行くことになると思うんですが、鉢合わせしたら嫌だろうと思って」

相模は海南OBの実家の寿司屋である。成人式を迎えた地元が近い海南OBはここで集まるのが恒例になっている。もちろん酒も出すので成人式に関わらず監督や海南バスケット部関係者はここを使うことが多い。店は2駅ほど離れた場所にあるので、電車かタクシー移動になる。駅周辺で遭遇しないとも限らない。

……あのあとだいぶおふたりのことで盛り上がってましたし」
「オレは構わないけど、はキツいだろうからな。ありがとう神、助かるよ」
「先輩、可愛くなりました? 言わないけど、デビーがそわそわしてましたよ」

鼻にかかった神の笑い声が少しこそばゆい。

「はは、そりゃもう」
「うわー、いいなあ見たいなあ、牧さん写真撮って画像送ってください」
「そうしてやりたいのは山々なんだが……撮らせてくれると思うか?」
「う、それはそうですけど」
「牧さーん、オレも見たいっすー!」

耳元で突然大音量がしたので、牧は思わず携帯を耳から離した。清田の声だ。

「すみません、清田とデビーがなんか盛り上がってて。1年生よく働いたのでテンション上がってるかも」
……ちょっと聞いてみるよ」
「えっ」
、神たちのところ、ちょっと顔出せるか?」

だが、この時はあまり正常な判断が出来る状態ではなかった。突然の衝撃発言に頭はぐるぐる心臓はバクバク、せっかく食べた食事を戻しそうなくらいに緊張してしまっていた。なので、「神のところ」と聞いてつい何も考えずに頷いてしまった。神のいるところに行けば、この動揺が収まるかもしれないと思ったからだ。

「行かれるって」
「本当ですか!?」
「先生たちに鉢合わせしないように裏の方から行くよ。まだ店にいるのか?」
「いえ、もうほとんど片付けも終わったので、たぶん店の前にいます」

神は信じられない様子だ。無理もない。よろず地味で通してきたが可愛く装ったところを素直に見せてくれるとは考え難い。だが、今日は国体の時のように「非日常」の針が振り切れているだろうというのも想像に難くない。だったら気が変わらないうちに早く!

「そしたら、できるだけ1、2年生は帰しておきますから」
「すまんな。ここももう閉まるだろうから、すぐに出るよ」

牧は店内を見渡してそう言うと、通話を終えた。

22時を前にカフェを出たと牧は、メインストリートから1本裏手の道を手を繋いで歩いていた。酔っ払った先生たちは店を物色しながら駅方面に向かうだろう。だが、今ふたりが歩いている通りは飲食店が少なく、喧騒を避けて帰宅する人々が家路を急いでいる。

「ねえ、私やっぱり恥ずかしい」
「でももう行くって言っちゃったからなあ」

歩いているうちに思考がクリアになってきたは、少し俯いてごねた。

……そりゃオレも見せたくないよ」
「え?」
「神が1、2年は出来るだけ帰すって言ってたけど、3年は無理だろうし、あんまり見せたくない」

こんな可愛くなってしまったなど、本来なら見せてやる義理はないのだ。

「ただ、神もデビーも清田も頑張ってくれたらしいから、お前がいいなら顔を出したいと思って」
「そっか……

の弱点は1番目が牧、2番目が後輩である。牧は謀るつもりはないのだが、そう言われたは恥ずかしさより後輩の気持ちを汲んでやりたい気になった。

「けど店に着くまでに腹を決めておけよ。場合によっては付き合うことになったって言うからな」
「そっ、そんな、わざわざ言わなくたって!」
「あの状況の後で聞かれないわけないだろ」
「は、恥ずかしいよ、ねえ牧やっぱり私」
「それにちゃんと宣言しておかないと誰が懸想してくるかわからんからな」
「そんなことないよ! 考えすぎだって!」
「お前のその手の発言は信用ならんて言ってるだろ」

また口をあわあわさせているの手を引くと、牧は少し難しい顔を作ってみせる。

「あと、そのうち名前で呼ぶ練習もしてもらうからな」
……うそお」
「嘘って何だよ。ほら言ってみろ」
「やめてえ! 顔から火出る!」

照れるの手を引き、牧は15分ほどで海南OBの店までやってきた。明かりの落ちた店先に、だいぶ人数の減った部員たちがたむろしていた。時間も遅いし、牧は神が騒がないようによく言い含めておいてくれていることを祈った。

すると、恥ずかしさが頂点に達したは、牧の背中に隠れてしまった。

「あっ、牧さん! ……あれ?」
「姉ちゃんどうしたんですか」
「オレの後ろ」
「は?」

真っ先に気付いた神とデビーと清田がぴょこぴょこと跳んで来た。

「どうもさっきはよく考えないで行くって言ったらしくてな」
「姉ちゃん往生際悪いぞ。せっかく兄ちゃんたちが協力してくれたんだから、ちゃんと顔出せよ」

デビーの言うことはもっともだ。身内に、しかも弟に言われると堪える。は牧のダウンジャケットからそろりと手を離した。牧はその手を取ってやり、エスコートでもするようにしてを前に出した。

「やっぱり家の人間だったな」

そう言い添えた牧だったが、3人は息を飲んで言葉が出ない。残っていた部員たちもそろそろと近寄ってきてを目にすると、言葉を失ってしまった。実の弟であるデビーはすぐに解凍したけれど、誰も何も言えないままだった。それほどは可愛くなっていたのだ。

一族特有の「華」を持たないはずのは、牧に想われることでその蕾を花開かせたのであった。

「ほ、ほら牧やっぱり私――
「姉ちゃん、これはね、姉ちゃんがこんなに可愛いとは思ってなかったからびっくりしてんの」
「あんたまで何言ってるのよ、そんなこと――
「先輩……可愛くなりましたね。だから言ったのに」
「神くんお願いやめて」

照れておろおろしているその姿はいつものだ。だが、家オーラが放出しているはそんなうろたえた姿ですら可愛らしい。徐々に解凍が進むが、誰も彼も目の前のと記憶の中のが混ざり合わなくて混乱しているようだ。

「ていうか――改めてあれっすね、デビーの姉ちゃんなんすね」
「ここにさんがいたら、オレたち目が潰れるかもな」

しみじみと言う清田に乗っかった神はからからと笑った。天使のは人の心を蕩かし、悪魔のデビーは人の心を惑わせる美形であるが、今のならその間に立っていても違和感がない。牧、、デビーが横並びになっているが、家のオーラが強すぎて珍しく牧の影が薄い。

「そうだ、姉ちゃん写真撮ろ。どうせ滅多にこんな格好しないんだろ。母さんたちも喜ぶよ」
「あっ、オレも! 先輩オレも!」
「ちょ、信長までなんなの急に、牧〜」
「いやオレも撮りたい。んで、諸星に送りつける。今日中に。クリスマスのうちに」
「うーわ、牧さん最低! それ早くやりましょ先輩ほらほら」

この夜、チームメイトたちと楽しくカラオケに興じていた諸星は、牧から届いたメールを見て撃沈、史上最高に可愛いの肩を抱く牧を見た史上最悪のクリスマスとして彼の記憶に一生消えない傷となって残り、それは進学した後に牧をちくちくいじるネタとして長く使われることになった。

「それで、ちゃんとまとまったんですか?」
「神くん、あのねえ」
「まとまったよ」
「ほ、ほんとですか、よかった……

少し輪を外れた位置でを捕まえた神は、牧の言葉を聞くなり両手で顔を覆って肩で大きく息をついた。

「長いことやきもきさせて悪かったな」
「いえ、いいんですそんなこと。オレが勝手に騒いでただけですから」
「新体制になると忙しくなるだろうけど、時間作れよ。3人でどこか行こう」

牧にそう言われた神は、珍しく顔を赤くした。そして、何度も頷いた。

「牧さん、もうこれきりにしますから、少し先輩貸してください」
「神くん?」
「クリスマスだから、特別な」

頭上で何やら貸し借りが成立してしまったは、神に抱きすくめられて飛び上がった。

「神くん!?」
「先輩、牧さんと仲良くしてくださいね。おしゃれもしてくださいね、可愛いんだから」
「またそういうこと言うの、やめてよ、二度と会えないみたいじゃない」
「ごめんなさい、でもたぶん可愛くしてる先輩には二度と会えない気がします」
「えっ違っ……ちゃんとやります〜」

いつか練習帰りにの足が絡まった時のように、ふたりは笑い転げた。にとって、神は自分とデビーの間に生まれてくるはずだった弟のようなもので、どれだけ周りが余計な勘繰りをしても気にならなかった。それは今となっては牧も同じで、がぎゅうぎゅう抱き締められていても、もう心に波風は立たなかった。

「わー! さんオレもー!」
「キャアア!」
「お前は許可してねえ!」

神とめがけて飛び掛ってきた清田の脳天に牧の拳骨が落ちたが、デビーにけしかけられた1年生に襲われて、結局は後輩たちにもみくちゃにされてしまった。それでもせっかくの装いが崩れないように気を使ってくれたあたり、やはり普段から少しくらいは可愛くしておいた方がいいということだ。

「牧さん、結局どうしますか。兄ちゃんにも一応状況は連絡してありますけど」
「まだちょっと本人が判断つかないみたいなんだが、お前はどうするんだ」
「1、2年はオールでカラオケっす! だから何かあればいつでも引き受けられます」
「でもできれば引き受けたくないっす! 少なくとも朝まで帰ってこないでくださいっす!」

本日やたらと馬が合うデビーと清田はまたそっくり返って笑った。

がぐずるから、先に行ってくれると助かる」
「先輩は本当に思い切りが悪いというか、決断力に乏しいというか」
「神くん、そんな問題じゃないと思うけど」

牧と手を繋ぎなおしたは、また頬も耳も真っ赤になっている。どうやら別荘の件は神もデビーもにも話が通っているらしく、の知らないところで段取りが組まれているようだった。

「じゃ、清い体の姉ちゃん、永遠にさようなら」
「ちょっ、何言ってんのあんたは!!! 違うから! 断じて違うから!!」
「先輩、あんまり言うと牧さんが可哀想ですよ」

性別の問題だけで言えばは今完全にアウェーである。可愛い見たさに居残っていた全員が牧の味方だろう。弟であるデビーですらこの有様だ。そうやって目一杯からかわれたは、部員たちが見えなくなっても真っ赤な顔で何か色々なものと戦っていた。


「はいぃ!」
「お、落ち着けよ」
「だって、無理だよそんな」

牧はまた口をあわあわさせ始めたの手を引いて歩き出す。

「信用できないかもしれないけど、何かしようとか、そういうつもりないぞ」
「えっ、あ、うん、そ、そっか」
……ただ、ふたりでいたいだけ」

駅に着く頃には23時を回るだろうが、別荘は電車で30分ほどの海岸沿いにある。終電はまだまだ先なので、充分間に合う。鍵を預けてあるという店も朝5時まで営業しているバーだというから、こちらも問題ない。

「私も、信用してないとかそういうわけじゃないよ、ただ今日はいきなり色んなことが起きたから……
「それは……本当にすまん」
「ううん、日頃からぼーっとしてるから頭が着いていかれないってだけ」

などに比べたら自分だってぼーっとしていると牧は思う。と牧、ぼーっとしている同士だったのだ。

「だから……例えば、何かするんだとしても、嫌じゃ、ないです」
「は!?」
「だって、私の方が先に、牧のこと好きになったんだもん」

今日一日を驚かせっぱなしだった牧は、ここに来ての衝撃の告白に度肝を抜かれ、逆に慌てる羽目になった。なんとなくも自分のことを好いていてくれているだろうとは思っていたが、ちょっとそこのところ詳しく、というわけだ。

「えへへ、じゃあ別荘に着いたらね」

はそう言って笑った。