地上のステラ

09

牧の方から指定されたJRの駅までは、地元近くの駅から直通列車が出ている。乗車時間だけならそれが最短だった。だが、ちょうどいい時間に出発する電車がない。デビーの一報を受けたがすぐに車を出してくれたのはいいが、どこで何の電車に乗れば一番早く着けるか、さっぱりわからなかった。

「西東京方面なんて行かないもんなあ」
「でもとりあえず新宿あたりに出られればいいわけでしょ」
「横浜から北上して西回りの方がよかったりして」
「そんなルート行ったことないし、うまくいかなかったらどうするの」

着替えを引っつかんで家を出たは車の後部座席でもたもたと着替えている。バッシュお届けはひとりで行くことになった。デビーは明日の朝早くから朝練があるし、も同行してやりたいのだが、今乗っているのは自分の車ではないので、一旦返さなければならない。

「とりあえず京急で品川まで行くわ。快特ならかなり時間稼げるから」
「帰りはなんとかして横浜まで辿りつけよ。そのくらいの時間ならまた車出せるから」

心配そうなデビーとを車に残し、は横浜駅に飛び込んだ。

独特の発車音を響かせて走り出す京急に揺られながら、は胸に牧のバッシュを抱き締めて、肩で大きくため息をついた。普段部活ばかりで遠くまで遊びに行くことが少ないにとって、ひとりでこんな時間から東京まで行くなど、少し緊張の伴うことだった。

けれど、そんな遠い土地にいる牧に会いに行くのだと思うと、少しわくわくした。

時間に余裕が出来るといいな。そしたらちょっとお茶とか、できないかな――

携帯で何度も最短のルートを模索しながら、は東京に向かって行った。

一方、こちらも慣れない土地で珍しく忘れ物などして凹んでいる牧である。こんなことを頼めるのは家の人間しかいないが、申し訳なさが募るばかりで落ち着かない。

監督には緊急事態なのだから買ってしまえと言われたのだが、ホテルの最寄り駅の靴屋にはロクなバッシュがなかった。じゃあどこに買いに行けばいいというのだ。遠征は慣れているが、遠征先で靴を買ったりはしない。都心に出てもいいのだが、明日の試合のためのミーティングもある。4番の牧が抜けるわけには行かない。

例えばここにがいたなら、壊れたものと全く同じ商品を探してきてくれと言えただろう。しかし選抜で増えたスタッフの中にそんな使い走りのようなことを頼める人はいなかった。そんな使い走りを志願してくれる人もいなかった。の有り難味が身に染みる。

牧はミーティング終了後、からの連絡を受けつつホテルの最寄り駅まで走った。

23区を外れた東京のJRの駅前は、大きいけれどゴチャゴチャしていて、見慣れた地元の駅に比べると薄暗く感じた。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、スーツ姿の大人がぞろぞろと降車してくる。が心配でたまらないが、デビーかが同行してくれていることを祈るしかなかった。

十数分後、一駅手前にいるという連絡を受けた牧は、そわそわしながら改札の前で待っていた。また大量の降車客が雪崩のように改札から溢れ出てくる。その中にがいないかときょろきょろするが、見当たらない。そうして人が切れ始め、この電車ではなかったのかと思った時、改札の端からが転がり出てきた。

!」

思わず声を上げた牧を認めると、やけに可愛い服装をしたは猛然と走り出し、そしてその勢いのまま牧に抱きついた。牧は驚いて飛び上がり、がっちり抱きついて離れないを引き摺って柱の影に移動した。いくら知らない土地とはいえ、これは気恥ずかしい。

「おいどうした、大丈夫か」
「ちゃんと着いてよかったよ〜時間が遅くなっちゃったらどうしようかと思った……
……すまん、こんなことさせて」

背中を優しく撫でてやると、は顔を上げた。そして、牧の顔を見上げたかと思うと顔を歪めて泣き出した。

「ちょ、どうした! なんかあったのかよ」
「違う、ごめん、なんかホッとして、ごめん、牧の顔見たら安心しちゃって」
……本当にごめん」
「ううん、そういうことじゃないよ。ちゃんと間に合ってよかったと思ったから」
「ていうかひとりで来たのか。デビーかさんと一緒ならと思ってんだが」
「デビーはいつも通り朝練だし、兄ちゃんには横浜まで車出してもらっちゃったから」

涙目になりながらも、はにこにこと微笑んでいる。ちゃんと牧と合流できたことで気が緩んだのだろう。

「でもおかげで思ったより早く着いたよ。帰りは横浜まで兄ちゃん来てくれるっていうし、もう安心!」
「ありがとな、。こんなこと、家にしか頼めなくて……
「いいって! ほら、これもマネージャーの仕事のうちってことで、ね?」
「だけど……
「それより、牧さ、すぐにホテル戻らないと……ダメ?」
「何!?」

まだ涙の残る目で少し首を傾げたがそんなことを言うので、牧は一瞬頭に火が着いたのかと錯覚したが、無理矢理息を吸い込んで平静を装う。が、はそんな牧に気付かずに、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。

「お、お腹空いちゃって、お昼食べたっきりで……

牧から連絡が来なければデビーと帰宅して夕飯だったのだが、取るものもとりあえずは家を飛び出した。その間乗り換えロスもほぼなかったので、飲まず食わずでここまで来てしまった。そのおかげで早く到着したので、お茶どころか食事をする時間も取れそうだ。牧は気が抜けて苦笑いだ。

……ああ、いいよ。どこか入ろう。お礼におごるよ」
「えっ、大丈夫だよ。兄ちゃんに少しもらったし」
「いや、おごらせてくれよ。今はそのくらいしか、出来ないから……

牧は遠慮してパタパタと手を振るの背中に手をかけると、静かに抱き寄せた。

「え――
「オレもホッとした。いつも一緒なのに、今は離れてるから」
「牧……
「神や清田はいるのに、お前がいないんだ。変な感じだよ」

も恐る恐る牧の背中に手を伸ばしてみる。触れている場所からかすかに感じる鼓動が、牧のものなのか自分のものなのか判らない。帰宅ラッシュの駅はどこか殺伐としていて、行き交う人々は身を寄せ合うと牧になど目もくれない。やがて離れたふたりは無言のまま見つめ合った。

は空腹を忘れ、牧も今なぜ駅でこんな風に見つめ合っているのか忘れた。ふたりとも、このまま目を見交わしたまま近付いていって、そしてキスしなければいけないような気がしている。そうしたいとかではなくて、そういうことになっている気がする。よくわからないけど、ああ今自分たちはキスをするのだな。そんな風に。

だが、そんな「いい感じ」になっていたふたりの耳に「ふぎゃ!」というなんだかやけに聞き覚えのある声が聞こえてきた。も牧も瞬時に距離を取って離れる。この声は――

「信長!」
「ああもう、あとちょっとだったのに清田お前!」
「藤真……
「いやオレじゃねえっすよ、仙道さんが押したから!」

と牧は顔面蒼白。どうやら一連のやり取りを見られていたらしい。突然のことに言葉が出ないふたりを他所に、柱の影から清田と藤真に仙道が転がり出てきた。覗き見とはいい趣味をしているが、これは予測できたことだ。警戒しなかった牧も悪い。

「あっれー、ちゃん私服だ。可愛いねー」
「うお、そういえばオレさんの私服初めて見るかも」
「健気だねほんとに。こんな時間にこんなとこまでバッシュひとつ抱えて来てくれるなんて」

3人は言いたい放題だ。

……信長、神くん、は?」
「足止めしてもらってます、サーセン」
「足止め?」
「オレが三井をけしかけて、その三井が飽きないように一志も焚き付けといたから大丈夫」
「藤真さんマジ怖ぇーっすよ。神さんも怖えーと思ってたけど藤真さんシャレんならないっす」

まったく悪いと思っていないらしい。3人ともにこにこしている。その一見純真な笑顔にがっくりと肩を落とした牧は、観念しての手を取った。見栄を張って下手な言い訳をしていたらあっという間には絡まれてしまうだろうから。それに、見られてしまっていた以上はもう取り繕いようがない。

「お前ら暇だなほんとに。飯食わせて返すから、先に帰れ」
「えーオレも行きます!」
「そうですよー、みんなで行きましょ」
……なんでだよ」
「その方が楽しいからに決まってるだろ」

にこにこ顔の3人に背中を押されてふたりは渋々駅前の店に入った。イタリアンレストランと書いてあるが、ほとんどファミレスだ。4人席にふたり席をくっつけて座る。牧清田の向かいに藤真と仙道。恥ずかしくて俯くに、仙道が話しかける。

「でもちゃんこれから帰るんだろ、そんなおしゃれして来ちゃって大丈夫?」
「ていうか仙道くん、私名前なんか名乗ったっけ?」
「ううん、清田が言ってたから」
「のーぶーなーがー」
「いやいやいや、みんな名前で呼んでるじゃないですか」

問題はそこではなくて人懐っこい笑顔で馴れ馴れしい藤真と仙道だが、それにツッコんでも仕方ない。

「これは、週末に試合見に来る時に着て行こうと思ってて部屋にかけてあって……

あんまり慌てていたので、それを引っ掴んで飛び出してきてしまったというわけだ。制服はの車の後部座席に置いたまま。デビーが気付いて持ち帰っていてくれればいいが、忘れていたらは女子高生の脱ぎたて制服だけを後部座席に積んで走ることになる。

「とりあえずなんか頼め。あんまりのんびりもしていられないだろ」
「あ、うん。でも横浜まで兄ちゃん来てくれるから、ちゃんと帰れるよ」
「本当に帰るの? バレないように手伝ってあげるから牧の部屋泊まっちゃえばいいのに」
「藤真、お前どんだけゲスなんだよ。だいたいオレは高砂と同室だ」
「そんなもんオレがいくらでも懐柔してやるって」

藤真はきれいな顔をしてとんでもないことを言う。だが、それより恐ろしいのはそんな発言に引くどころか乗り気になっている清田と仙道である。うんうんと頷いてはまたにこにこと笑っている。牧は3人の顔に油性ペンで「道徳観念」と書いてやりたい衝動に駆られた。

……藤真くん、なんかイメージと違ったな」
「どんなイメージだったの?」
「3年も試合で見てきて、今年なんか監督でもっと真面目な人かと思ってた。こんなにチャラかっただなんて」

の悲しそうな顔につい牧も吹き出した。清田と仙道は大笑いだ。

「チャラい……っていうのかこれ」
「チャラいというか軽薄というか……わかんないけど、少なくとも覗きなんかする人だとは」
「いやもう牧さんと神さんがバッシュのことでわたわたしてる時にはこれ話出てましたからね」

その後も3人にさんざん突っつかれたは、食事を済ませるとさっさと店を出た。牧とふたりでなら少しゆっくりしたかったけれど、外野がいてはもう用はない。まだ着いてくる3人と出来るだけ距離を取りながら、は牧と手を繋いで歩いている。

……仙道じゃないけどお前、この時間からその服でひとりか」
「そ、そんなにマズい?」
「時間が遅いからな。こんな時間に外出歩き慣れてないだろ」
「お前のその海南ジャージはなんのためにあるんだー」
「っさいな藤真お前はほんとに、言われなくてもそうするって」

改札の前まで来たに牧は自分の羽織っていたジャージを脱いで着せ掛けた。

「えっ、いらないよ、大丈夫だって」
「お前の大丈夫は信用ならん」
「だって牧、ジャージの替えあるの?」
「清田のを使うからいい」
「ちょ、マジすか!」
「それで今日のことは不問にしといてやる」

幸い海南ジャージは名前が入っていないし、清田は1年生なので成長を見越して大きめのサイズを着ている。牧が強奪してもまあ問題なく着られるだろう。それにしてもが着るとぶかぶかだ。袖がだらんと垂れてしまっている。その様子にテンションが上がったのは藤真と仙道である。

「ここで彼服とかマジか」
「いや藤真さんけしかけておいてそれは」
「やばい目障りな海南の部ジャーが」
「女の子が着るだけで破壊力倍増」
、あれは忘れろ。なんか変なもんでも食ったんだろう」

腹を抱えて悶絶している藤真と仙道に、さしもの牧も若干青筋立っている。

「うん、なんかもう色々非日常過ぎて」
「気を付けて帰れよ。何かあればさんにちゃんと連絡して」
「牧も明日頑張ってね。土日はみんなで見に来るし」

非日常の針が振り切れたは、そう言うと牧にハグしてポンポンと背中をたたいた。それがあまりに自然だったので、隣にいた清田もつい両手を広げて待機していたのだが、デコピンしかもらえなかった。藤真と仙道に至っては「じゃあね」だけである。

改札の向こうに海南ジャージが消えてしまうと、牧はさっさと歩き出す。後ろから3人が追いかけてきてやいのやいのと騒ぐが、牧は取り合わない。信号待ちの間ににメールを入れ、感謝を伝えておく。

可愛い私服のや、藤真の言う彼服状態に頭が爆発したのは、部屋に戻ってからだった。幸い、今日は出場時間が短かった同室の高砂がランニングに行っているというので、牧はベッドに体を投げ出し、頭を枕の下に入れてこっそり暴れた。

まっすぐに腕の中に飛び込んできた、ホッとして涙腺が緩んだ、恥ずかしそうに首を傾げた。そして、腹は立つが3バカがいなければきっとキスしてしまっていた。慣れない土地のトラブルが非日常過ぎただけだと思いたいけれど、それが間違いであることは自分が一番よくわかっている。

は顔色を変えなかった。牧の服をキュッと掴んでいた。少しだけ爪先立っていたような気がする。

キス、したかったな――

なんとか頭を冷やした牧は、の持ってきてくれたビニールバッグからバッシュを取り出して靴紐を調整しようとした。すると、ビニールバッグの中から飴が転がり出てきた。駅の売店などによくあるスティック状のものだ。の忘れ物かと思った瞬間、牧はまた頭が爆発した。

ボールペンによるガタガタの字で「Cap,Fight!」と書かれていたからだ。ガタガタでもの字だとわかる。

バッシュだけ手渡すのはまずいんじゃないだろうかと道々考えた挙句、時間もない中で已む無く駅の売店でこのビタミンC含有と書かれた飴を買うの姿がありありと想像できた牧は再度頭をクールダウンさせるのに、また、しばらくして帰ってきた高砂に動揺を悟られまいとするのに苦労した。

一方、部ジャーとはいえ彼服で横浜まで帰ってきたは、の車を待ちながら、めくってもめくっても緩む袖を諦めて、だぶつく袖口に頬を寄せていた。牧はいつもジャージやユニフォームを大切に扱っていて、3年目だというのに彼のジャージはとてもきれいだった。

ほんの少しだけ、牧の匂いが残っている。慣れない路線で慣れない土地まで出かけた不安は、牧の顔を見つけた時に全て吹き飛んだ。その勢いで抱きついてしまった時と同じ匂いがした。抱きついたことなんて初めてのはずなのに、とてもよく知っている気がする、気持ちの落ち着く匂いだった。

「お前それ、牧のか?」
「そう。仙道くんが時間遅いからマズいんじゃないのーって。で、藤真くんにも突っつかれてさ」

を車に乗せたはお馴染みの海南ジャージに目を丸くしたが、がそう言うのでそれ以上は突っ込まないことにした。にしてみれば亀の歩みより鈍いと言いたいところだろうけれど、なんだか少しずつ進展してきていると牧の関係が嬉しかった。

「牧に藤真に仙道ってすごい面子だな」
「でもそのふたりはけっこう見損なった」
「ははは、バスケが上手くたって普通の男の子だよ。牧だって同じだ」
「そうかなあ。牧はあんなことしないよー」

は憤慨しているが、そんな面子を前に自分のジャージを着せて帰すとは。は運転しながら、そっとにやつく。いい傾向だ。もし今度の週末に観戦しに行った国体で選手たちに会えたら、分けても藤真と仙道に会えたら礼を言いたいくらいだった。はそんなことを考えながら大あくびのを助手席に乗せて走っていた。