地上のステラ

07

最後までに会わせろだの翔陽に行ってみたいだの湘北の赤頭が見たいだのと騒いでいた諸星だが、さすがに新幹線の時間には勝てなかったようだ。横浜に戻り、新横浜まで移動して帰るという。ふだん関東方面なら品川基点であろう諸星は乗換えが心許ないらしく、ちらちらと牧の方を見ていたが、牧は無視した。

「じゃあ次は国体だな。また海南オンリーか、神奈川は」
「今年はちょっと怪しいんだよなそれ……
「お、とうとう選抜か? まあ湘北使わないのはもったいないよな。荒いけど勢いあるし、面白い」

今年の神奈川にはもっとバケモノが潜んでいるのだと言いそうになって、牧は口を閉じた。愛知にもひとりやけに目立つモンスターがいるが、今年の神奈川のバラエティに富んだバケモノには適うまいと思うと笑えてくる。ただし、連中はバケモノでありクセモノでもあるので、それを考えると選抜は気が重い。

「じゃあちゃんによろしく。神には黙っといてくれなー」

少々強引なところは鼻に付くが、諸星のこういう単純明快さは見習うべきかもしれないと思いつつ、牧は彼を見送った。夏休みの行楽客の中から頭ひとつ飛び出た諸星の後姿が改札の向こうに消えると、牧もくるりと振り返って歩き出した。西口の駅前を通り過ぎ、市役所の方まで歩いていく。

目当ての店で買い物を済ませると、牧は駅に戻る道すがら、電話をかけた。

「これからお邪魔してもいいですか?」
「えっ、うちに?」
「はい。渡して頂きたいものがあるので」
……わかった。とりあえず来いよ。話はそれからな」

電話の相手はだ。

「牧、気にするなよ。――
「すみません、電車が来たので切ります」

改札も抜けていなかったが、牧は一方的に通話を切った。電車の音など聞こえなかったことには気付いているだろう。だが、電話などで余計な話をしてしまいたくなかった。それにはともかく、牧はあまりだらだらと話をする気はなかった。話すこともない。

この夏のインターハイ、海南は決勝で敗北、一番高いところには届かなかった。そして、は帰って2日後に高熱を出して倒れた。

「うえええ、お前わざわざ行って買って来てくれたの!?」
「前にが好きだと言っていたので」
「いやお前これこんなに、けっこう高いのに……悪かったなかえって」

は牧の買ってきたパレタスのフローズンフルーツバーに目を剥いた。はこのフルーツバーが大好きで、全種類制覇したいとよく言っている。牧はそれを20本も買ってきた。高校生の見舞いとしては相当高額になる。バイトもしていないのにやけに金払いのいい牧はおぼっちゃん疑惑が絶えない。

……の具合はどうですか」
「風邪でも熱中症でもないみたいだし、まあ疲れたんだろ。3年分の疲れだな」
「熱は……
「うん、昨日の時点でまだ39度あって下がらなくてさ。今朝点滴打ってきたみたいだよ」

インターハイから帰って2日、お盆の学校閉鎖期間に入ったと同時には熱を出した。最初は熱中症を疑われたが、特に異常はなく、ただ高熱が出ただけだというが、熱が下がらない。

「も〜、お前までそんな顔するなよ。の熱はお前のせいじゃないだろ」
「お前までって……
「いやほら、が倒れた時、神がいたろ」

学校に入れない間に洗濯しておきたいものがあると言って、山のような荷物を持ち帰ったがコインランドリーに行くというので神が手伝いに行った。そこでは倒れた。洗濯を待っている間に真っ赤な顔をして床にぺったりと倒れたという。に連絡を入れての代わりに洗濯を片付けてくれたのも神だ。

「まるで自分のせいでが熱出したみたいな、そういう悔しそうな顔してた。今お前もしてる」
「お門違いなのはよくわかってます。でも、オレも神も、そういう気分なんです」
「そりゃ勝手だけど、にそんな顔を見せてもらっちゃ困るんだよ」

は天使で優しい先輩だが、中身は悪魔である。それを忘れていた牧は真夏の気温の中だというのに肩が冷えるような気がした。だが、言われるまでもなくにそんな顔をして見せて困らせたいなどとは思っていない。フルーツバーを届けに来ただけだ。

「今年もほとんど引退しませんけど、夏休みの間はに休んでもらおうという話が出てます」
「え、平気なのか?」
「まだオレと神とデビーだけの話ですが、雑務は全員で交代してやります」
……やらないんじゃないか?」

冷たい目のに牧は苦笑いを返す。

「だとしても、には休んでもらわないと困ります。戻ってきて欲しいので」
「牧、んとこ行こうよ」
……行きません」
「デビーに連絡して伯母さん追い出してもらうから、気にするなよ。オレも行くし」
「オレを見たらまたは焦って早く治さなきゃとか言います。しばらく部活のことは忘れて欲しいんです」
「バカ言うなよ! 忘れられるわけないだろ、あいつの高校生活の全てだぞ!」

の天使の皮が剥がれて悪魔が飛び出してきた。牧は肌が痛むような気がした。

「自分に置き換えて考えてみろ。無理だろ。マネージャーだって同じだ」
「だけどさん、オレたちはに無理して欲しくない。元気になってから戻ってきて欲しいだけです」
「だからそれを直接言ってやれって言うんだよ。お前は変なところでヘタレだな」
「ヘタレとかそういうことじゃ」
「だってそうだろ、お前が言わなくて誰が言うんだよ。誰の言葉が一番に届くと思ってるんだよ」

まさか自分だと思っているわけがない。も言ってから後悔したらしく、牧の肩を掴んで家の中に引き入れた。フルーツバーを一旦冷凍庫に入れ、デビーに電話をかける。が簡単に事情を説明すると、デビーはすぐに意図を理解したらしく、すぐに通話は終わった。

「伯母さんこれから出かけるらしい。デビーが付いていって足止めしてくれるらしいから、もう少ししたら行こう」
「はい」

それから1時間ほどでふたりはの家に着いた。既にの母親とデビーは出かけていて、は合鍵を使って家の中に入った。とデビーが「兄ちゃん」と言うように、はこの家では他の家に住んでいる長男にも等しく、子供の頃から合鍵を持たされているのだと言った。

「入るの、初めてか?」
「もちろんそうです。別にオレ、とは学校の外で会ったことありませんから」
「お前らは部活ばっかりだからなあ」

保冷剤を取り替えて持ってきたフルーツバーを冷凍庫に押し込んだは、牧を促して階段を昇る。ピンクのプレートが下がるドアをノックし、はドアの隙間から顔を差し入れた。返事はない。

〜、どうだ具合」
さん、寝てるんじゃ……
「いや、目開いてる。ちょっと待ってろ」

ドアを開いたまま、は部屋の中に入っていく。緩く冷やされた部屋の中からするりと冷気が流れ出てきて、牧の裸足のつま先を撫でていく。中を覗くと、きちんと片付けられた部屋の奥のベッドにが伸びている。が膝立ちで屈みこみ、額を触っている。

「なんだよまだ下がりきってないのか。何度だ?」
「20度だから平熱」
「お前相当朦朧としてるな。牧来てくれたぞ。お前の大好きなフルーツバーいっぱい持って」
「牧? 牧は今日試合だよ」

熱で意識が朦朧としているのか、はわけのわからないことを言っている。はつい笑いながら、タオルケットをかけなおして牧を手招きした。牧は気が進まないながらも、無理矢理足を進めてベッドサイドに膝をついた。

「熱もあるけど、熱のせいであんまり寝てないらしいからちょっと変だな」
「やっぱり寝かせてあげた方がいいんじゃないですか」
「熱のせいで熟睡できないんだよ。薬で眠らせたくないしな。今ならたぶん何話しても記憶に残らないぞ」

真横で牧とが話していても、はぼんやりと薄目を開けているだけだ。は牧の肩を掴むと、力を入れて揺らし、柔らかく微笑んだ。作り物の天使の笑顔ではなさそうだった。

「オレ、下にいるから。こんな時くらいふたりでゆっくり話せ」

そして、力なく頷く牧を残して部屋を出て行った。

が階段を下りていく足音が消えた頃になって、牧はようやくに向き合った。薄目でぼんやりしているは熱のせいか頬が赤く、目が潤み、汗で髪が額に貼り付いている。その髪を指先で払い、牧はの額に触れた。夏の日差しの下を歩いてきた自分の肌より熱い気がする。

「牧がいる〜」
、つらいだろう。後でフルーツバー食べろよ、冷たいから」
「フルーツバー? うん、食べる」

はぎこちなく口角を引き上げて笑った。

さんは無理だって言うけど、部活、少し休んでくれないか。その間のことはなんとかするから」
「部活、私洗濯終わってなかったんじゃなかったかな」
「大丈夫、やってある」
「壊れたストップウォッチがあって、それをさっき信長が捨てちゃって」
「新しいの買っておくよ」
「私昨日、体育館の床モップかけなかったよ、どうしよう」
、大丈夫だから、もうそういうの、いいから……!」

薄目の薄笑いでそんなことを言い続けたの手のひらを掴むと、牧はの顔のすぐそばに額を押し付けた。の手はまるで力が入っておらず、牧の手の中でへなへなと形を変える。

「あれ、神くん、ダメだよ試合行かなきゃ」
――
「神くん、ちゃんと牧を支えてあげないと。牧は負けないんだから」

顔を上げた牧はの頬に触れる。くすぐったそうに微笑むを見下ろしながら、牧は顔を歪める。

ごめん、連れて行ってやれなくて、ごめん――
「あれ、なんで牧が謝るの? そんな顔しないで、牧は日本一なんだよ」
……!」

ふにゃりと笑ったに覆い被さった牧は、頬を摺り寄せると、小さく嗚咽を漏らした。

決勝で負けた時も、牧は表情を変えなかった。堪えきれず泣き崩れる3年生の中で、牧は険しい顔をしたまま、涙など1滴も零さなかった。もう2度とインターハイという舞台には立てない、優勝は手に入らないと思っても、泣きたくならなかった。ただ自分が至らなかったことに静かな怒りが沸いて、言葉が出なかった。

けれど、熱に浮かされたの赤い顔を見ていたら、悔しさと後悔と罪悪感が纏めて襲い掛かってきた。

「優勝してやるって、お前をそこに連れて行くって言ったのに、出来なかった」

の頭を抱え込む牧の肩に、手が伸びて来る。弱々しく添えられる手が燃えるように熱い。

「一番高いところからの景色をお前に見せてやりたいって、絶対に見せてやるんだって、思ってたのに――

新しいマネージャーも入って来ない、1年生は平年より脱落者が少ない、今年の神奈川はバケモノ揃いで部内の空気もピリッとしている。そんな中で懸命に頑張るに手も差し伸べてやらず、神に任せきりで、そんな風に色んなものを犠牲にしてきたのに、それでも頂点には届かなかった。

はぼんやりと天井を見上げている。牧はの肩に顔をうずめて、少しの間、泣き続けた。後にも先にも、牧がこんな風に泣いたのはこれっきりだ。しかも、も意識が朦朧としていて、はっきりと見て聞いたわけではない。3年の夏を2位で終えた牧の、ただ1度きりの涙だった。

それでもすぐに涙の引っ込んだ牧は、耳に規則的な息遣いを感じて顔を上げた。涙に霞む目にの寝顔が映る。は牧の肩に手をだらりと乗せたまま、眠りに落ちていた。泣いたことですっきりした頭と心にの穏やかな寝顔がじわりと染み込んで来る。

眠ってくれて安心したのもあって、牧は涙目のまま微笑む。顔に貼り付いている髪を1本1本払い除け、熱で真っ赤になっている頬に手のひらを添えた。の頬など、牧の手のひらの中にすっぽりと収まってしまう。

心からを可愛いと思った。愛しいと思った。

に余計なことを言われたからとか、神や諸星があれこれと勘繰るからとか、そんな意識は全くなかった。ただ目の前ですやすやと眠っているがあまりに愛しくて、こうしてずっと触れていたかった。そして今度こそ、自分の意思で、キスしたいと思った。

だが、はこうして眠っているのだし、意識のない時に勝手にキスしてしまうのは、牧にとって男の沽券に関わる。ましてや相手がならなおさらだ。どうせキスするなら、ちゃんと意識のはっきりしている時にしたい。ちゃんと自分だとわかってもらえる時の方がいいに決まっている。

牧はやけにくすぐったい指先での唇をなぞると、そっと頬に唇を寄せる。

燃えるように熱い頬に触れた唇からエネルギーが流れ込んでくるような気がした。

……、待ってるからな。元気になれよ」

もう一度頬にキスした牧は、を静かに抱き締め、そして部屋を出た。

点滴が効いたのか、しばし熟睡したは夕方頃に目を覚まし、のどの渇きを覚えてふらふらと部屋を出た。ダイニングにいた母親と弟と従兄のが慌てて熱を測ると、38度5分になっていた。まだまだ下がりきらないが、それでも意識はだいぶはっきりしていたし、水分が欲しいという。

充分に水分を補給したの横で、はにんまりと頬を吊り上げた。

、牧がな、パレタスのフルーツバー買ってきてくれたんだぞ」
「え、嘘!? ほんとに?」
「伯母さんとデビーが食べたいって騒いだけど、阻止したからな。全部お前が食べろよ」

がそう言うと、母親とデビーはぎくりと肩を震わせた。

「うん。でも不思議ー。ちょうど夢に牧が出てきてさ、頭撫でてもらったら楽になって、熱が下がる気がして」
「ふはは、あいつの手はとうとう奇跡を起こすようにでもなったか?」

もデビーも、牧が来た記憶がないことを黙っていた。もし牧が初めてとふたりきりになって、思うまま話が出来たのだとしたら、それは穿り返さない方がいい。

「ほら、どれがいい」
「嘘、こんなに!? ふわあ、牧、なんで私の好きなフレーバー知ってるんだろう」

の広げてくれた箱から1本取り出してかじりついた。は、そりゃあ牧の愛情だろうよと言おうとして我慢した。牧はまだ完全な自覚には至っていないはずだし、インターハイは終わっても、海南の3年生にはまだ国体と冬の選抜がある。

「おいしい〜熱下がるよこのおいしさは〜」

真っ赤な顔でシトラスミックスを平らげたの熱は、2時間後には37度台まで下がった。