プロミネンス

10

神の苦難は続く。神に告白をしてきた女子マネージャーが退部してしまった。このタイミングだ、他の同学年女子マネージャーたちには退部の理由は知れたところだろう。だが、それで恨みを買うというなら、それは逆恨みであって自分に非はない。神はそう考えて少しだけ構えていたのだが、部内は特に変化がなかった。

あれっ、そういうことじゃないのか? それならまあいいか。神がそんな風に気が抜けた辺りで、もっと恐ろしいことが発覚した。神を好きになってしまったのは、告白してきた子だけではなかった。出身中学が同じ3人の内のふたりも神のことが好きになったのだと表明しているらしい。

そんな事情がなぜ漏れてきたかと言えば、つまり告白してきた子は「抜け駆け」をし、先走って告白して玉砕、その上片思い協定をひとりで破ったことを咎められて自主的に辞めていったらしい――という話が1年生の部員から出てきたのだ。

だがその1年生は、部員とマネージャーという関係を保たなければならないのに一線を越えてしまった彼女が軽率、残りのふたりはそんなつもりがなく、真面目にマネージャーを務めるつもりらしいと吹きこまれてきた。

信用できるかそんなこと。

神は興味ないという顔を隠しもしないで話を聞いていた。

「あんまりそういうのが目につくようなら、辞めてもらうしかないんじゃないのか」
「それはちょっと可哀想なんじゃ……
「そういうことするための部活じゃないだろ。仮にも海南の部員が情けない」

そういう意味でも教育をしてきたつもりだったのに、まるで伝わっていなかったこともショックだった。にも伝わっていなかったようだし、後輩には間違って伝わってしまったらしいし、踏んだり蹴ったりだ。

「少し減ったところでゼロにはならないんだし、来年も希望者が出てくるかもしれないし」
「まあそうだよな、前に先輩も言ってたけど、男だっていいんだしな〜」
「案外、下手でもバスケ経験があって理詰めの奴なんかいたら助かりそうだよな」
「来年は部活紹介の時にそういうの、付け加えてみるか?」

のいない海南、主将の肩書を背負ったオレは、一体どうなるんだろう。神はまた体温が奪われたような感覚を覚えつつ、同学年の部員の雑談に適当に応じていた。そこに勢い良くドアが開いた。

「おはよー」
「はざまーす。聞きました?」
「うん、聞いたー。なんか内部紛争だって?」
「なんでそんな不穏な言葉に変換されて伝わってるんすか」

部室に入ってきたはしかめっ面をしてうんうんと頷いている。だが、どうやら神に告白したことが原因とは聞かなかったらしいし、2年生もわざわざそれをチクる気はなさそうだ。女の子が5人も集まれば喧嘩もしよう、はそんな風に捉えているらしい。

「だけど、私が引退しても4人か。来年もまた希望者が出たらどうするんだろうね」
「先生もそれ悩んでましたよね」
「この間なんかマネージャー自体を廃止すべきだなんて話も出るし」

は着替えもせずにベンチに腰を下ろすと、ふうとため息をついた。今年から海南に赴任してきた教師が大変なフェミニストで、男子運動部が強い現状は男女平等の精神を育めないと主張している。最近大活躍の女子サッカー部が困った顔をしていた。

「運動できない子でも運動部で競技の楽しさとか、そういうの体験できるんだけどね」
「だからアレですよね、男子マネージャー。女子運動部に男マネが生まれればいいんじゃないですか」
「ま、私はもうあんまり関係ないんだけどね。外部にも出られないしぃ」

やはりどこかに「オッシャレーな女子大」への憧れがあったらしいだが、親からあっさり拒否され、しまいには担任にも「やりたいことがちゃんとあるならともかく、お前、校舎が気に入っただけだろ」と突っ込まれ、不貞腐れつつも外部推薦を諦めた。来春から海南大の1年生である。

「また先輩はクリスマスに可愛くない格好してくるんですか」
「去年もちゃんと可愛かったからな? ていうかそれは報復してほしいって意味か?」

結局、最上級生になってからは一度もガーリーデコレーションによる報復をやっていない。自分が最上級生になってしまったので、迂闊に報復などしたらいじめと思われかねないという遠慮があったし、昨年の主将のような面倒くさいキャラの部員がいないので、やりようもなかった。

「まあその、こうなってみると一度くらいガーリーにされてみたかったような気がします」
「うん、なんか泣きそうだからそういうこと言うのやめようか」

2年生とがへらへらと笑っているのを、神はぼんやりと眺めていた。今も体の真ん中は冷えきっているし、のことも好きだけれど、もう抗いようがないんじゃないのかという気がしてきた。どれだけ自分がのことを思っていたとしても、事態は何も変わらない、ふたりの距離はもう二度と縮まらないんじゃないか。

――まあでも、女なんか面倒くさい、いらない、そんな気持ちで海南に入ったんじゃなかったか、オレは。

それを思い出すと、少しだけなら自業自得なのかもしれないと思う。一目惚れなんて不可抗力とはいえ、誰かを好きになるつもりなんか全くなかった。中3の時に見た試合で海南を目指すことを決め、そのことで友達付き合いや恋愛を犠牲にしなきゃならないんだぞと言われても、それでいいと思っていた。

それを今になって悔いているわけではない。自分のバスケットのためには最善の選択だった。間違ってはいない。けれど、そこにという女の子がいたことだけが予定外だった。

こんなことなら、出会いたくなかった――

騒がしい部室の片隅で、神は生まれて初めて、人を愛しく思うあまり涙が零れそうになった。

この年も冬の選抜では優勝に届かず、確実に躍進していった年ではあったけれど、日本一の栄光に輝くことはないままの代は海南バスケット部を退くことになった。引退である。

クリスマスの宴席では、例によってが可愛くないとイジられ、けれど昨年と同じように同学年の部員からは感謝の言葉とともに頭を下げられ、後輩たちからはゴテゴテのガーリーなラッピングでプレゼントを貰い、はまた泣いた。

が、監督への感謝の贈り物が着ぐるみパジャマにすり替えられており、の海南バスケット部の締めは、モコモコのクマちゃんパジャマの監督にこめかみをグリグリやられるという、大変に彼女らしいものとなった。ついでに監督の私物の扇子もファー付きのメルヘン仕様のものにすり替えられていて、監督は散々だった。

本当なら、この日もを送って帰りたかった。神はそんな思いを胸に抱え込んだまま、店の前でタクシーを待つと後輩女子マネたちを見ていた。今年は女性が顧問の先生含めて6人なので、3人ずつに分乗して帰るとのこと。

が突然自分から離れていってしまうまでは、今年のクリスマスもプレゼントを用意して、ふたりきりの時間を作って、引退したをいっぱい労って、そのまま可愛がって愛し合って過ごしたいと思っていた。けれど今神は、タクシーに乗り込んで手を振るに向かって作り笑いで手を振り返している。

翌1日休みを挟むと、とうとう神は海南の主将になる。神奈川の頂点をその背中に背負う。

その頃にはもうはいない、ということはわかっていたことだ。だから、海南の主将という立場の重さを分かち合い、支えてほしいとは思っていない。けれど、それはきっと誰よりが喜んでくれるのじゃないかとは思っていた。そのためにも頑張ろうと思っていた。

神にはもう、心を支える土台がなかった。もちろん練習や試合に影響したりはしない。それだけで様子がおかしくなってしまうようなら、そもそも主将候補になどならない。けれど、それを離れたところで、と一緒にいられた頃のような、明るくて楽しくて笑顔でいられるような日々は、もう二度と自分に訪れないような気さえしてくる。

「付き合っている振り」ではなくて、神が本当にを好きなんだということは、誰にも言っていない。

神が調子に乗って以来、例えばの当時のクラスメイトや近しい友人には彼氏面をして回っていた。けれど、おそらく本当にと仲の良い友人なら、それが「付き合っている振り」だとは知られているに違いない。だから、急に神が3年の教室に現れなくなっても、誰も不審がったりはしなかっただろう。

今更になって「付き合っている振り」じゃなくて本当に付き合って欲しいと言っておけばよかったと思っても、遅い。「付き合っている振り」でもとは恋人同士と同じように付き合えていたし、そんなの肩書だけの問題だから、自分との心さえちゃんと繋がっていたら、問題など起こりようがないと思っていた。

神が思っているより、ふたりの間の繋がりは細くて頼りないものだったのかもしれない。

駅前で解散した海南バスケット部の忘年会、神は地元の駅を出ると自転車をのんびり漕ぎながら、12月の冷たい風に肌を冷やしていた。に焦がれることですぐに燃え上がる自分の体。しかしもうずいぶんそんな感覚に陥っていない。ずっと冷たいままだ。

夏休み頃、気が早いけどと言いながらはクリスマスの服を考えていた。どうせまた可愛くないっていじられるから、いっそ着ぐるみパジャマかなんかで行ってやろうかな、と言って笑っていた。結局それは監督へのいたずらに転用されたようだが、神も一緒に笑いながら、プレゼントを考えていた。

去年のクリスマスまでは、1度しかキスをしたことがなかった。だからどんなものを贈ったらいいか見当もつかなくて、服を選んでくれたショップの店長さんに助けてもらった。だけど今年はちゃんと「贈りたいもの」があった。

今度こそ体に着けてもらえるように、指輪かネックレスにしようと思っていた。どうやらピアスは開けていないようだから、落としやすいというイヤリングはやめよう。に似合う可愛い指輪かネックレスを探そう。そう、思っていたのに――

静かなクリスマスの夜、星を見上げた神の左目から、涙が一滴、流れ落ちた。

忘年会の翌日1日を挟んで、最後まで残っていた3年生が晴れて引退となる。とうに推薦が決まっている主力選手の他にも、海南大に内部進学する数人含め、減りに減った3年生はを入れてちょうど10人。とはいえ海南ではこのくらいが普通の人数である。

新しい主将である神へ引き継ぎが行われ、数十年前からの習慣となっている、格闘技部のように壁にかかったネームプレートの主将の場所に神の名前がぶら下がる。バスケット部創設から数えると、神は第52代主将だそうだ。それには本当に誇りを持っているし、51年間の諸先輩方には感謝でいっぱいになる。

だが、それと同時にのネームプレートも剥がされる。差別をしているつもりはないのだが、毎年マネージャーのプレートは手書きで、のものも当時の顧問の先生の達筆で書かれていた。引退式で大泣きしたはそれを大事そうに両手で持って胸の辺りに置いている。

これも毎年のことだが、引退した3年生はそのままどこかへ繰り出して遊んで帰るのが恒例になっている。高校生活の殆どを練習と試合に費やしてきた彼らは遊び慣れていないので、ファミレスやファストフード、カラオケくらいが精一杯だが、それでも共に戦ってきた仲間だけでこの日だけはたっぷり遊ぶのだ。

そうして、神はひとり取り残された。

新主将としての最初の練習、しかし冬の選抜が終わったばかりだし、3年生がいなくなったことで監督の方も調整の真っ最中だ。割と普段通りの練習をこなし、部員たちは面白がって神をキャプテンと呼んではにやにやと笑っていた。

しかしそれが終わると、神は今度こそひとりきりだ。

と一緒にいられなくなってからもずっとひとりだったけれど、それでも普段の部活の中ではの姿があったし声が聞こえたし、は確かにそこにいるのだと感じられる日々だった。しかしもう、この海南バスケット部のどこにもはいない。

年が明け、自由登校に入れば学校にすら来ない。よく3年間もバスケット部のマネージャーが務まったなと思うほど、本来的にははものぐさな人間である。何も用がないのに学校に来たりはしない。わーい、もう春休みだー! などと言いながら昼頃まで寝ている、それがだ。

バスケット部にも、海南にも、の姿はない。

そして3月になれば、は卒業していってしまう。神を残して去ってしまう。

神は誰もいない放課後の部室で、ボールを片手に立ち竦んでいた。今日から主将になった神に、女子マネージャーたちは「今度は私たちがキャプテンをしっかりサポートします」とわざわざ言ってきた。お前たちがサポートするのは部員全員だろと言いたいのを、神はグッと我慢した。

忘れよう。シュートをひとつ打つたびに、との思い出を、への恋心を捨てていこう。女は面倒臭い、邪魔、ウザい。触るな。そう思っていたあの頃のことを思い出そう。

大丈夫、以外の女なんて、本当に面倒臭くて邪魔で、ウザいんだから――

そうして3月を迎えた神はしかし、シュートを何万本も打ってきたというのに、のことはさっぱり忘れられないままだった。ここまでくると自分で自分に嫌気が差してきて、最近後輩の間では、神は主将に就いてからずいぶん怖くなったと言われるようになってきた。

だが、神がどれだけあがこうが、たち3年生の卒業はやってくる。卒業式当日、海南大附属高校の講堂は体育館の近くにあるので、練習は休みである。というか式が執り行われている間は、在校生は校内をウロついてはいけないことになっている。

基本的に卒業式は3年生とその保護者だけで行われることになっていて、出席する在校生は生徒会と吹奏楽部だけである。それもそれぞれ役割があってのことで、講堂で一緒に座っているわけじゃない。

そんな海南の卒業式は毎年大体昼前には終わる。そして謝恩会という名目で地元のホテルで立食パーティが催される――のだが、近年これの出席率が悪いことが問題になっていて、つい去年から試験的に中止になっていた。だが、生徒に不満はないらしく、だいたいみんな友達同士で遊んで帰る。

そうやって卒業生たちが校舎を出て行くのは、遅くとも13時くらいだろうか。神は顧問の先生によく確認を取った上で、14時から体育館を借りることになっていた。監督始め先生方からの信頼も篤い神であるから、こういう申し出はだいたいすぐ通る。鍵ももう預かりっぱなしだ。

13時55分に駐輪場に自転車を停めた神は、ポケットから出した鍵を指先でくるくると回しながら、クラブ棟に入った。神はだいたい毎日一番早く来て一番遅く帰る。そんな主将はおそらく海南始まって以来お前が初めてだと監督に笑われたが、部室で先輩に襲いかかったのも自分が初めてなんじゃないかと思っている。

海南の常勝神話が始まった頃、今よりも女子マネージャーの地位は低く、ただの雑用係だったと過去を振り返る先生もいる。洗濯や掃除や、ボールの手入れや、片付け、とにかく「部員」という意識はなく、当時定年間際だった先生に「家政婦」と言われたほどだったという。

そんな話を思い出した神は、やっぱり「女子マネージャー」という一種の伝統はそろそろ打ち破られるべきかもしれないと考えた。フェミニストの先生が大喜びしそうな話だが、神はいつか話の出た「男子マネージャー」を本気で取り入れたくなってきていた。

やっぱり男子マネージャーも募集しよう、着いて行かれなくて辞めたくなっても、マネージャーとして海南バスケット部の一員になるという選択肢を提案していこう、そして、選手として戦う部員と、それをサポートするチーム、双方が対等な立場で共闘できたらいいんじゃないか。

そうしたら女子マネージャーが何人入部したいと言い出しても、全員入れてやれる。ずっとずっとが悲しんできた脱落者も引き止められるかもしれない。こうしてせっかく仲間になったんだから、最後まで一緒に日本一を目指そう――入部したばかりの頃のの言葉が蘇る。

はいなくなってしまうけれど、それならば、オレはの意志を継いで、彼女が望んだ海南バスケット部を作っていこう。オレに残されたのは、褪せることのない思い出と、それくらいしかないから――

力なくため息をついた神は、寂しさを振り払おうと勢い良く部室のドアを開いた。

「え!? 神くん!?」