プロミネンス

04

翌日、放課後になって部室にやって来た神とは、いつも通り、様子がおかしいということもなかった。

神の方は朝練が終わって教室に戻るなり、チア部の女の子とその友達数人から、すれ違いざまに舌打ちと何か言われていたようだが、むしろそれは昨夜のキスのダメージがあったということだ。自分もとキス出来て幸せ、割と面倒なのも牽制できてラッキー。神は機嫌が良かった。

その上、このところ神のシュート成功率が落ちないものだから、監督の方から直々に冬の予選では1度スタメンで使ってみたいと言われ、顔には出さずとも有頂天になっていた。何しろまだ3年生もいるし、このままいけば3年生ふたり2年生ふたり、そして1年生の神。この5人だ。

特待生は早々に脱落していった。しかし、海南に憧れて受験してきたその他大勢の地元組である神が今、神奈川の頂点に君臨するチームのスタメンという枠の中に手をかけようとしている。嬉しくて仕方ない。

努めて普段通りの顔を装っている神の隣で、同学年の部員たちとがまた喋っている。

「3年て冬で引退なんですよね」
「そう。去年は3位決定戦で負けちゃったけど、決勝と同日だから最終日終わって、次の日とかかな」
「それはそれでなんか寂しいですね」
「私は寂しくない気がするな!」
「キャプテンはそうでしょうけど、副キャプも引退しちゃうんですよ」
「あっ、うん、それはちょっと泣くかも」

とにかく、主将が人望がなく副主将は人格者なので、1年生も言いたい放題だ。

「そしたら引退と同時に新しく主将が決まるんですね」
「決まるってかもうそれは、ねえ」
「オレらの代はどうなるんだろう。それっぽいのはいなくなっちゃったし」
「何言ってるの、てことは全員にチャンスがあるってことじゃん、頑張ろうよ!」

今の主将も次期主将も入学時から飛び抜けて能力が高く、トップがトップのままトップになったパターンだ。だが、神たちの代は特待生が途中でリタイアしてしまったし、そのふたりを除くと、これまではどんぐりの背比べであった。それを聞きながら、神は頬が緩みそうになる。

のサポートがあったからとはいえ、毎日練習してきてよかった。こうやって練習を続けていれば、「海南の主将」というあまりに大きなチャンスも夢ではないかもしれない。残念ながらそれはが引退した後の話だけれど、きっと彼女は喜んでくれる。そのためにも頑張りたい。

頑張ったからってなれるものかな、なんて尻込みしている同学年たちをちらりと見た神は、その向こうで頑張れと言ってぴょんぴょん飛び跳ねているを目にして思わず吹き出した。何が年上だよ、背の高いのに囲まれてぴょんぴょんやってるあれが年上、目上、先輩? ただの可愛い女の子じゃん。

昨晩キスしたあと、は耳まで真っ赤になって唇を震わせていた。怒っているようには見えなかったし、泣き出すようなこともなかった。ただどうしたらいいかわからなくなっているように見えた。そして、神の背中にあった手が震えるままにギュッと制服を掴んでいて、それがどうしようもなく可愛かった。

チア部の子たちが突撃してくるようなことはもちろんないし、神がもう一回してみたいと思っている間にバスが到着してしまった。震えるの肩を支えて乗り口まで誘導し、神は「ありがとうございます、気をつけて」と囁くと、背中をぐいっと押してバスに乗せてしまった。

そして、走り去るバスは見ずに自転車を漕ぎ出した。スピードを上げて風を受け、少しでも冷まさないと、自分の体の表面から発せられる熱で体が燃え尽きてしまうんじゃないかという気がした。

「てかあれほんとなんですか、3年生引退した後に宴会って」
「うんほんと。夜に何時間かだけだけど」
「なんか会社みたいですね」
「お酒を飲めないだけで変わらないんじゃないかな。OBの人も来るよ」

海南は夏のインターハイ同様、冬の選抜も十数年出場し続けているので、それが終わった直後のクリスマスに忘年会というか納会というか、とにかく部員と監督とスタッフで宴会がある。それ自体特に期待はない1年生だが、OBが来るというのは少し魅力的だ。

「先輩がミニスカサンタでプレゼント配るんですか」
「神くんは発想がおっさん臭いと思うんだよね」
「前にドレスコードあるって言ってたじゃないですか」
「10年以上前に部ジャーで来た人がいたらしいからね……

平然と口を挟んだ神だったが、も動じない。ある程度はきちんとした服装で来ないとダメ、というルールの背景にはまたげんなりしている。現在の主将っぽいからだろう。

「だけど、オシャレしてこなきゃダメってわけでもないから、大丈夫だよ」
「そういえば先輩が可愛くなかったって聞いたことあります」
「それはキャプテンでいいんだな? よし、わかった」

主将の言う「可愛い」は、神がネタにしたようなミニスカサンタやら胸元の空いたタートルネックやらと比べての話だ。だがこうやって告げ口をして、主将がの報復の餌食になるのは今年の海南の娯楽のようなもので、神たち1年生は笑わないように堪えている。主将、今度は何をガーリーにされるんだろう。

もちろん神もそんなコスプレじみたスタイルでが現れるとは思っていないし、そんな装いで来られても困る。だが、情報では21時頃までの席だというから、その帰りに送って帰ろうと思った。場所は少し離れた大きな駅だそうだが、その日は自宅まで送って帰ろうと心に決めた。

クリスマスデートは出来ないけれど、そのくらいなら構わないでしょ。ねえ、先輩?

「いやまさか本当に可愛くないとは」
「もうさ、みんなの言う『可愛い』って一体何なの。着ぐるみでも着てくりゃいいっての?」

この冬の予選で、神ともうひとりスタメンで試合に出られた同学年がそんなことを言ってにどつかれている。とはいえこれはイジりであって、も監督や先生の前でみっともなくない服装をよくよく選んで来たのが伺えるファッションだった。だから可愛くないのも仕方がない。

「だいたい、みんなも人のこと言えた服?」
「それこそ普段ジャージと制服ですからねえ」
「ていうかそれ以上にキャプテンがショックですオレ」
「あんなもの見たくなかった」
「副キャプの調子に乗ったウォレットチェーンが霞みますね」

キャプテンはビビッドカラーでポップな服装が大好きだ。ボトムはジーンズだが、ダウンベストの下のパーカーが蛍光ピンクと蛍光グリーンのバイカラーで、ラメの入った星形のプリントで埋め尽くされている。好きなファッションをしているのはいいことだが、あまり似合っていないので悲惨だ。

「だから毎年今日で『キャラ』が固まる感じかな」
「そうみたいですね。……とりあえず神が腹立つってのはわかった」
「腹立つって何だよ」
「お前なんでそんなにオシャレくさいんだよ練習ばっかりのくせに」

そこは要領がいいだけだ。夏頃にはドレスコードがあるという話を聞いていたので、神は母親にその旨をさっさと話し、どういう服装がいいのか調べておいてくれと頼んでいた。しかし神の母はフルタイムで働いているので、面倒くさくなった彼女は職場のオシャレっぽい20代の同僚に頭を下げて丸投げした。

「その人の友達が服屋で働いてるっていうから紹介してもらったんだよ。これはそこの店長さんの見立て」

なので素人には出せないオシャレ感がダダ漏れになってしまったというわけだ。しかも小顔の可愛い185センチである。店長さんはテンションが上ってしまい、試着に行った日には決まらずに、つい先週になって全身届いた。

「いいなーそういうコネ」
「先輩は自分で選んだんですか」
「そんなアドバイザーみたいな人いないからね! 私だって制服とジャージが9割なんだって!」
「そこはファッション誌買うとか色々あるでしょう」
「君らはバカなのかね? 可愛いコーデとやらの写真を見ても、何が自分に似合うかは判断できないんだよ!」

1年生はとそんなことを言い合いながら笑っているけれど、神から見れば充分すぎるほど可愛いの私服姿であった。それこそ合宿やインターハイの時もTシャツが私物になるくらいで、完全な私服は初めてだった。その姿に心が踊り、またじわじわと肌が熱くなってくる。

宴会は基本的には監督や先生と3年生が中心で、下級生たちはご相伴に預かる形になっている。それはマネージャーも同じなので、は2年生エリアと1年生エリアのちょうど真ん中辺りで大人しくしていたのだが、3年生へ引退に寄せたメッセージカードが配られたところで事件が起きた。

「おいこれだろ!!!」
「またやられたのか!」

主将が取り出したのは白地に金とピンクのゴージャスでエレガントでロマンティックなカードであった。メッセージカードの中の紙だけ出して1、2年に書かせ、こっそりと仕込んだらしい。監督が大笑いしている。文字は入っていないけれど、明らかにブライダル用だ。

「お前えええ最後の最後までよくも……!」
「先輩が『去年のは可愛くなかった』とか吹聴するので、可愛くしてみました! てへっ!」
「てへっ! じゃねえだろ! ちょっとこっち来い! ここ座れ、正座!」

みんな面白がって盛り上がっているが、神はサッと血の気が引いた。まさかこの勢いで告白とかないだろうな。オフコートの性格はともかく、1年間海南の4番を背負ったプレイヤーとしては尊敬に値する先輩だった。けれど、のことは別だ。そんなのは許さない。

だが、神が止められるわけもなく、は主将の向かいでちょこんと正座をした。

「お前な、この2年間で一体オレが何度ガーリーにされたか覚えてるか?」
「さあ……
「このカード入れて17回だ!!!」
「なんでそんないちいち数字覚えてるんですか気持ち悪い」
「そりゃあ、オレがロッカーのドアにシールくっつけてカウントしてたからだ」

横から副主将も顔を出す。ちなみにこの副主将はにガーリーにされたことはない。

「ほんとにお前のこの下らない報復に対する情熱には呆れる。が、最後にひとつ言わせろ」

神は目の前が真っ暗になってきた。やめろ、何を言う気だ。こんなところで告白なんかしたら、周りの空気に押されて「うん」と言いかねない。は本当に主将のことはウザがっていて、プレイヤーとしてはともかく、人間としての信頼はゼロに等しいと言っていたのに。流されてOKしてしまうかもしれない。そんなの嫌だ!

――、2年間本当に世話になったな、ありがとう」
「は? えっ?」

急に真面目な顔になった主将と、その後ろにいた3年生が一斉に頭を下げた。

「今年なんかひとりで毎日よく頑張ったよな。この報復も最後だと思うと寂しいよ」
「オレも一度くらいガーリーにされてみたかったよ」

にこにこしている主将副主将を前に、はワッと声を上げて泣きだした。そしてつい両腕を広げた主将を華麗にスルーして副主将と3年生達のところに飛び込んだ。場内大爆笑。差し出した腕の行き場がない主将はまたキーキーわめき出し、ガーリーなカードでの後頭部をベチベチ引っ叩いた。

それを遠巻きに見ていた神は、スッと不安が抜けてため息をついていた。3年生達にぎゅうぎゅうやられているのはやっぱり面白くないけれど、引退間近の3年生と後輩マネージャーの思い出の1ページのような感じになっている。それならまあ、いい。

ガーリー報復イベントで沸いた宴会は予定通り21時頃には終わり、途中から乱入してきたOBと監督と先生たちは二次会に繰り出してしまった。というわけで未成年はここで解散である。

、ひとりで大丈夫か? いつもはバスだろう。まだあるのか」
「はい、大丈夫です。終バスがけっこう遅いのでまだ余裕があります」
「そういう意味じゃないんじゃないですか。先輩、オレ送りますよ」

顔は怖いが、部内で一番優しくて人格者の副主将との間に神は割って入った。どう誘おうかと考えていたけれど、いいタイミング。やはり副主将は素晴らしい先輩だ。

「おお、そうしてもらえよ。神は平気なのか」
「駅からチャリなんで、問題ないです」
「えーいいよ、もうこんな遅いんだし、明日だって午後からあるのに」
「オレは普通に朝からやりますけどね」
「ほらあ」
、こういう時はちゃんと言うこと聞け」
「えー」

ぶうぶう文句を言っているが、神を警戒してのことではないようだ。

「オレたちが引退したら最上級生なんだぞ。それは上から物を言えばいいってことじゃない」
「どういう意味ですか?」
「部の中の状況をよく見て、1年から3年まで、全部の部員のバランスを取ってやるんだ」
「バランス、ですか」
「そういう意味じゃお前は3年生の先輩でいたらダメなんだ。いつでも1年の目線になれるようにな」

副主将の言葉にと神は何度も頷いた。女子マネージャーが実際に行う役割などとは別の意味での「在り方」の話だ。は1年と2年と3年の間を繋ぐ糸なのである。

「だから今日は神の言うこと聞いて送ってってもらえ。帰り道に何かあったら学校にも迷惑がかかるだろ」
「はい、わかりました」

全員で駅まで向かい、上りと下りに別れて乗車する。寮生がいる上りの方が人数が多い。と神は下り。だが、と同じ駅で下車するのはたったひとり。現在2年生のその部員と改札を出た神は、混雑に紛れてさっさと別れた。は西口、彼は北口だそうだから、もう用はない。

「うわー、バスすっごい並んでる」
「増便とかしてくれればいいのに。ここからだと先輩のお宅はどのくらいかかるかな。徒歩、行けます?」
「うーん、歩いて帰れないこともないけど」
「先輩が辛くなかったら歩きましょうか。あれじゃ2本くらい待つようですよ」

神は湧き上がる歓喜の声を腹に飲み込み、バスを待つ長蛇の列を指さした。の自宅が歩いて帰れることは知っている。でなきゃこんなことは言わない。ああ、年末の混雑が有り難い。こうして何も策を弄さなくてもとのんびり歩いて帰れる口実ができてしまった。

「そんなことしたら神くんが遅くなっちゃうよ」
「先輩、バス停なんていうところですか」

神はに返事もせずに、携帯を覗いている。言われたバス停を調べると、2系統のバスが通っている。なんとなくそんな記憶があったのだ。

「ビンゴ! こっちの方が本数ありますね。帰りは別系統のバス使うから大丈夫ですよ」
「それで帰れるの?」
「だってこっちは普段先輩が通学に使ってる路線でしょ」
「あっ、そっか! そしたらチャリ置き場までバスで行かれちゃうんだね」

の最寄りバス停から別の系統のバスに乗れば、海南に行かれる。海南を通りすぎて駅の手前で降りれば、ちょうど駐輪場が目の前だ。神は普段チャリ通で最寄り駅は海南大附属と同じ。だから何も問題がない。

「じゃ、行きましょうか。寒くないですか? 暖かい飲み物とか欲しくないですか」
「うーん、そう言われると欲しくなるね。よーし、お姉さんがおごってあげよう!」

は閉店間近のカフェに飛び込む。

「いいですよ、自分で買います」
「いいからいいから。送ってってもらうお礼ね。何がいい?」
……じゃあ暖かい紅茶で」
「小僧、遠慮するでないぞ」
「えー。でもオレ甘いのとかそんなに得意じゃないんで、それでいいですほんとに」

飲めないことはないけれど、の脳内でこねくり回されているであろう山盛りのアレンジなどは本当にいらない。つまらなそうな顔をしただったが、結局神の言う通り紅茶をオーダーし、自分はあれこれとアレンジをした甘いラテをオーダーした。

「カフェのカップ片手に歩くとか、オシャレな人みたいだね」
「そうですか? それより先輩気をつけ――
「熱っつ!」
「間に合わなかったか」

テイクアウト用のカップの細い飲み口から出てくるラテがあんまり熱いので、はその場で飛び上がった。

「あひゅいーしたやけろひたー」
「ちょっと何言ってるかわかんないです」

神はふざけてそんな風に返しつつ、いつかのキスを思い出していた。12月の空気に冷やされた肌がじわりと熱を持つ。冷たい水があるわけでなし、は口をパクパクさせて、やけどを冷やしている。その口に食い付きたい、けれど今日は焦ったらだめだ。神はその欲求と静かに戦う。

のおっちょこちょいを笑いつつ、神は耐える。並んで歩き、部活の話をし、ちょっと話が横道に逸れたりしながらも、言葉を切らさないように、の気持ちが楽しいままでキープできるように細心の注意を払う。

いくら元気で明るいお調子者マネージャーだからといって、彼氏でもない男とキスしてしまったことがノーダメージなはずがない。それが年下の後輩のやむを得ない頼みだったからなんてことは理由にならないはずだ。どれだけ後輩を大事に思っていたとしても、親愛の情と恋愛感情は似て非なる厄介なものだ。

気にならないはずがないよね、先輩。だけど、気にしてない風に装ってきたよね。例えば先輩が、男切れたことないしキスくらい別に、っていう人だったら何も不思議には思わないけど――先輩はそうじゃないでしょう?

オレが思うにそれは、先輩にとってオレが「アリ」だから――なんじゃない? 違う?