プロミネンス

03

「先輩、オレ、個人練習、今日は1時間位で終わりますからね」
……え、あれ本気だったの!?」
「そりゃそうですよー。まだ陽が長いですからね、たまに待ち伏せされたりもするんです」

一応嘘じゃない。告白されて一度は断ったのが、一緒に帰ろと言って待たれたことがある。チャリ通だからと断ろうとしたら、途中まで乗せて行ってくれと言い出した。神はにっこり微笑み、事故があったら大変だからそんなことは出来ないよと言って、近くの交差点までは自転車を押して歩いた。だが、そこで置いて帰った。

なんで好きでもない女を乗せて送って行ってやらないとならないんだろう。この子を後ろに乗せ、抱きつかれながら走らなきゃならない理由は一体何なんだろう。先輩も乗せたことないのに、一緒に帰ったことすらないのに。そう考えて苛立ったことを思い出した神は、パッとひらめく。

いいねそれ。後ろに乗せて帰ろう。

「先輩は近いんでしたっけ?」
「うんまあ、バスだから、近いは近いけど」
「じゃあ1時間付き合ってくださいよ。責任持って送り届けます」

にっこり笑って少し首を傾げた神を、はなんだかむず痒そうな顔をして見上げている。だが、神の想像通り、は拒否はしない。今のところ帰宅が遅れる以外にに損なことはないし、付き合う「振り」だし、ちゃんと送り届けるというのも、神なら違えることはない。

断る言い訳を考えているのではなくて、こんなことしていいのかなあ、と迷っているようだ。神は、もう帰るつもりで着替えを済ませていたの背を押して歩き出す。夏服のシャツが少しひやりとしていて、その向こうに触れる背中の感触にぞくりと震えが走る。薄暗いクラブ棟が余計にドキドキさせる。

「個人練習って、いつもひとりでやってるの」
「はい。海南て延々個人練習してる人ばかりかと思ってましたけど、そうでもないんですね」
「あー……うん、そうなんだよね、結局そうなんだよね……
「どうかしました?」

ドキドキとともに少しだけ肌が燃えている神はしかし、のしょんぼりした顔に背筋を伸ばす。

「みんなすっごい練習するよ、海南は練習超キツいって有名だし。だけど、神くんみたいに部活終わっても、って人はやっぱりいないんだよね。もちろん休むことも大事だから、それはおかしくないんだけど、つまりその、結局海南で残るのって、練習に着いてこれて、しかも元から上手いっていう人が殆どなんだよね」

その半数以上が春に、それでも止まらずに夏まで、ボロボロと朽ちて剥がれ落ちるように部員が辞めていく。そうして残るのはの言うような部員ばかり。上手くもないし練習も耐えるのでやっと、だけど辞めない、という部員は本当に少ない。そんなことをしていても面白くないのだから、無理もない。

「みんな神くんみたいに練習しろとは言わないけど……
「結局、気持ちの問題なんでしょうかねー」
「気持ちかあ。まあそうだよね、割と図太いというか」

しょんぼりしていたは、今度はにやりと口角を吊り上げた。現主将も次期主将ほぼ確定の2年生もどちらも精神的にはとてもタフだ。の話に拠れば、去年の主将はメンタルが強すぎて逆に困ったという。

「まあその、無理をするのもよくないんだけどさ」
……可哀想なことをしましたよね」
「この間お母さんからお手紙きてたの、見た?」
「直接は見てません。監督に話だけ聞きました」

神の世代の特待生ふたりは、既にいない。片方は肩を傷めたせいで気力をなくし、転校していった。片方は寮生活と海南のキツさに耐え切れず、心を病んでしまった。こちらは退学。地元に帰って元気になってきたと母親が手紙を寄越してきたが、それを聞いて同世代がメールやメッセージを送っても、反応は一切なかった。

「辞めていく後ろ姿を見送るのは本当につらい」
「いつも先輩ですもんね、最後に会うのって」
「不貞腐れて去って行ってくれるならまだいいんだけど、病気とか、怪我とか、ほんとに可哀想で」

辞めていく部員の方も、残る仲間や監督に見送られたいとは思わない。けれど、せめて最後にと言葉を交わし、それを区切りとして去りたいのだ。高校生のいい思い出にならなかったバスケット部、その最後の記憶は唯一「嫌な記憶」にはならないがいい。

神はまたしょんぼりしてしまったの頭をワサワサと撫でた。

「先輩は優しいですね」
「ちょ、そんなことないし、私一応先輩なんだけど」
「ちゃんと敬ってるじゃないですかあ」

照れるを見下ろしながら、神はいつものように柔和な笑顔を顔に貼り付けている。

優しい先輩、後輩思いの先輩、だから、オレの頼みも聞いてくれるんだよね。

1時間ほどシュート練習に付き合ったは、初めて見る神の個人練習の様子に感心しきりだった。打ち始めてすぐにボール拾いを買って出て、その上終わる頃には自販までダッシュして飲み物を買って来てくれた。

「どんどん上手くなるなあとは思ってたけど……そりゃなるわ! 神くんすごい!」
「そうですかあ?」
「だってこれ毎日でしょ。いやー、これはちょっと……なかなかないよ」

帰り支度をしている神を待ちながら、はうんうんと頷いている。ポジションが変わって以来、ずっとシュート練習をしているということは知っていたけれど、本当に黙々とそれだけを突き詰めていたとは思っていなかったんだろう。海南は伝統的に「一芸」タイプの選手は珍しいそうだし、今もそういうタイプの選手はいない。

「お待たせしました。あと、ジュースごちそうさまです」
「いいよそんなの。みんなには内緒ね」
「先輩は喉乾きませんか」
「ま、もう帰るだけだし」
「マネージャーが何てこと言ってるんですか。そういうのが熱中症を招くんですよ!」

神は真剣な顔で、飲み差しのペットボトルを突き出した。に買ってもらったものだ。

「えーいいのに。じゃあちょっとだけ」
「あ、オレもう大丈夫なんで全部飲んじゃっていいですよ」
「そう? じゃあ空にして捨てて帰ろう」

クラブ棟入り口にある自販機のところにあるゴミ箱に捨てて帰れれば、荷物にならずに済む。急いでペットボトルを傾けるの唇を凝視してしまいそうな自分を、神は必死に抑えていた。飲みかけのジュース、間接キス。また体に火がついたような気がしていた。

外に出ると、夏の名残の熱のこもった風がどんよりと吹き付けてきた。はしつこく遠慮していたけれど、神は取り合わずに駐輪場に向かう。親切で言ってるんじゃないんだよ、先輩を後ろに乗せて帰りたいからやってるだけなんだから。

「うむ。この重い塊を乗せて帰ろうという根性は立派であるぞよ」
「それはそろそろ身長が185で毎日筋トレしてるオレに言ってるんですか?」
……最近物忘れがひどくてのう」

上手く取り繕えない時、はこうして「老師キャラ」で茶化すことが多い。けれどそれは、照れと恥ずかしさと、ほんの少しの意地っ張りなんだと神は知っている。なのでつべこべ言わずに後ろに乗りなさい。事故のないようにゆっくり時間をかけて帰るから。

「ちゃんと掴まって下さいよ。先輩がいないと部室掃除する人がいなくなっちゃうし」
「ああ、うん、それは少し自分たちでもやろうな?」
「てか先輩、お腹空きませんか」
「空いたー!」

ステップに足をかけたの腕が神の肩に触れ、そしてはしゃいだ声が聞こえる。今までで一番近いの声だった。ぞくりと背中に痺れが走り、四肢にまで伝わって、再び神は炎に焼かれている。ゆっくりと走りだせば、の体が肩に背中に触れて、夏服のせいでほんの少しだけ肌を、彼女の体の肉を感じた。

「お腹は空いたけど、何食べるの?」
「うーん、実はまだ自分の帰り道くらいしか知らないんですよね、この辺」
「じゃあ駅の方行こっか! ちょっと遠回りになるけどいいよね?」
「先輩が大丈夫なら」
「平気平気、私アイス食べたい!」
「またですか! お腹膨れませんよ?」

はけたけたと笑って、神の耳を引っ張る。これが夏でよかった。全身至るところ熱くなっているのがバレてしまう――耳に残るの指の感触に、神の身を覆い尽くす炎は勢いを増していた。

今年のバスケット部ルーキーで1、2を争う人気である神が、先輩マネージャーと付き合い始めたらしいという話はあっという間に広まった。特に運動部周辺では、がっかりと期待はずれと羨望が入り混じりながら拡散し、そして静かに記憶に残った。

けれどそれも1年生の間だけの話で、依然「彼女の振り」をしているはそれを知らなかった。神の言うまま、告白ラッシュに困っている後輩のために、彼氏のいない身を提供してやっていると信じていた。どちらにせよ同じバスケット部なのだし、何も困ることはない。

だが、神の思惑は違う。たまたま都合のいい「妙案」を思いついただけで、彼の目的は最初からただひとりだ。告白ラッシュも捌けないわけじゃない。そんなものは中学の頃から慣れているし、にっこり笑ってごめんと言えばいいだけ。手書きの手紙も捨てればいいだけ。それを申し訳ないとは思わなかった。

だってそうだろ? 好きでもないのに付き合ってあげるのが正しいっていうのか? 何の魅力も感じないのに?

だけどは違う。どうしても彼女を手に入れたい。だって一緒にいられないんだもん、なんて言われて別れる先輩たちと違って、となら嫌でもずっと一緒だし、個人練習に付き合ってくれたら毎日送って帰ったっていい。それだけ一緒にいる時間も増えるのだし、いいことずくめだ。

「彼女の振りなんて、またすごいこと思いついたもんだな。いいのかは」
「何かやらなきゃいけないわけでもないですしね」
「まあそうだよな。何しろ暇がねえしな」

顔が怖い副主将は一応を心配してそんなことを聞いてきたけれど、神の外面の良さは生まれつきの才能で、他の追随を許さない。神なら心配あるまい、さえ問題ないなら、彼が部活に集中できる環境は歓迎するといったところだ。

ここ数年の海南は毎年1つずつ順位を上げていっていて、夏も冬も去年は4位、今年の夏は3位。だからと言って冬も3位になれるように頑張ろうなんてことは考えない。ひとつ飛ばして1位になることしか考えない。特に2年に強い選手のいる今年はその期待が高まる。

だもんで、神がを隠れ蓑にしてまでも部活に集中したいという姿勢は概ね好意的に迎えられた。その上、よく働くマネージャーのの後輩思いも感心されるし、このふたりの「付き合っている振り」は「良いこと」として受け入れられた。

「とりあえず冬のトーナメントで試合に出たいです」
「予選じゃなくてね」
「まあそれも出たいですけど、予選だけじゃ嫌なので」
「うむ、志が高いのは立派じゃ」

個人練習に付き合っていたは老師キャラで腕を組み、うんうんと頷いた。国体が終わって1ヶ月、相変わらず付き合っている振りのふたりは、こうして神の個人練習を一緒にやってから帰ることが多くなっていた。

「でも、予選は出られるんじゃないかと思ってるんですよね」
「そうだね。お披露目って言ったらおかしいけど、うちと違って3年が引退してるところも多いし」
「お披露目ですか。今年は陵南が目立ってましたもんねえ。うちは1年生影薄くて」
「うん、それな。とりあえず神くん頑張れ」

現在の神奈川勢力図としては、神の1学年上がやたらと目立つ選手が多く、3年生すら霞みがちというおかしな状況になっている。1年生は神の言うように陵南高校に飛び抜けて目立つのがひとりいるので、いかに海南と言えど、まだまだ影が薄い。

「よーし、あと5本! バシッと決めてアイス食べて帰ろう!」
「先輩、オレたちにちゃんとご飯食べろとか言う前に、先輩も間食控えましょうね」
「いいじゃんそのくらい〜他に楽しみないんだから〜」
「それ一番マズいでしょ。部活なくなったら急に太りますよ」
「やめてえ!」
……まあ、オレはガリガリより柔らかい方がいいと思いますけどね」
「それだって限度があるでしょ! 勝手なことばっかり言いやがってもー!」

男子数十人の中に女子ひとり、勢いはこうしてからかわれることも多い。今のところそれがセクハラの域にならないのは、ひとえに顔が怖い副主将のおかげである。来年の主将予定もそういうところには厳しいというか、きちんとした人なので問題はなさそうだ。

ところでの場合、毎日の部活のせいで若干筋肉質ではある。ただ、このようにアイスクリームの摂取が多いので、本人いわく「脱いだら悲惨」とのこと。神はそれを実際に確かめてみたいと思っては炎に肌を焼かれ続けている。偽彼氏彼女になって1ヶ月、そろそろ進展が欲しい。

というところでの要望通りアイスクリーム――なのだが、本人の小遣いにも限度がある。最初はアイスクリームショップに行きたがっただが、早々に小遣いが尽きて、最近ではコンビニやスーパーが殆ど。の使っているバス停は学校のすぐそばだが、神が送ってくれるので、こういう時は少し先まで行ってから乗る。

がアイスクリームで満足すると、ふたりは近くのバス停まで向かう。だが、この日はいつもと様子が違っていた。海南の方からぞろぞろと見慣れた色のジャージがたくさん歩いてくる。

「女子しかいませんね。練習試合とかかな」
「あー、なんだっけ、たぶん女子サッカーじゃなかったかな。チアが一緒に行ってるはずだし」
「女子サッカー最近強いですね。男子がちょっと不貞腐れてますよ」
「男子だってまあまあ強いのにねえ。女が活躍するとすぐ臍曲げるんだから」

しかし海南の部活動の中で一番怖いのはチアリーディング部である。コーチも一番怖い。大会などがなければ試合の時の応援にも来てくれるが、そこで余計なことを言ったりやったりすれば、二度と来てもらえない。ちなみにバスケット部は今年のだらしない主将が失言をしたので、彼が卒業するまでは来てもらえないことになっている。

海南の所有するバスは校舎から少し離れた場所に駐車場があり、練習試合などで使用した時はそこから学校まで歩いて行って解散、というのがいつものコースである。なので、彼女たちは試合から帰ってきて、解散したばかりなのだろう。神とが寄ってきたばかりのスーパーは運動部御用達の寄り道スポットでもある。

スーパーの駐輪場からバス停までは、ほんの目と鼻の先。神は自転車を押して歩きながら、ちらりと海南ジャージガールズを見る。向こうもこちらを見ている。そりゃあそうだろう、少し前から噂のカップルだ。特に1年生なら、がどんな顔をしているのか気になる。

バス停にたどり着いた神は、時刻表を確かめているに気付かれないように後ろをちらりと振り返った。チア部の1年生と思われる数人が、離れた場所で一塊になってふたりを見ている。神はチア部の中のひとりに付き合わないかと言われたことがあるが、その場で断った。断られるとは思っていない顔をしていたからだ。

控えめ過ぎて誰だかわからないのも、自信満々で来られるのも、どちらも嫌だ。オレは自分が好きになった女の子に、好きになってもらいたいんだよ。それは、先輩ひとりしかいない。

――先輩」
「ふぁっ!? どどどどうしたの神くん」

携帯で時刻表を見ていたは、神に肩を引き寄せられて飛び上がった。付き合ってる振りでも、これまでは本当に「そういうことになっている」だけだった。一緒に帰るにしても、今この時ほど大量の女子が毎回いるわけでなし、というかむしろ誰もいないんじゃないかというくらいだった。

しかし神が「いると困る」と言うので、は素直に付き合ってやっていただけだった。

「夏休みに告られた子がいるんです」
「えっ、ああ、あれは――チアの方かな」
「はい。やっぱりチア部は怖いですねー」
「ああうん……あそこは怖いよね……去年キャプテンが当時のチア部長に」

は今年のバスケット部主将が去年のチア部長にうっかり失言をしてしまい、グーで鳩尾を殴られるという事件があったのだと言って笑っている。神はの肩を抱く腕に力を込める。

「先輩、オレの背中に手を回して」
「へっ? おお、了解、これでいいかな。いやーなんか恥ずかしいなー照れるなー」

最近、神はクラスの女の子に小言を言われた。チア部の子だった。彼女出来たって聞いたけど、年上ってマジで? 神てババア好きなん? あの子の方がよくない? にっこり優しく笑った神は、心の中で彼女をボロクソに罵倒した。たかだか1年、下手すると数ヶ月程度の差で、しかも人の彼女をババアて。ふざけんな。

告白してきた当人は見当たらないようだが、小言を言ってきた同じクラスの女子がいたのはわかった。神はもうすぐバスが来るという表示が出ている電光掲示板をちらりと見上げて、スッと息を吸い込む。

残念だったね。だけど君たちの仲間より、先輩の方がよっぽど魅力的なんだよ。

……先輩」
「んー?」
「上、向いて」
……え?」

きょとんとした顔のに向かって屈み込み、顔を近付けた。

「な、ちょ、神くん――
「オレたち、付き合ってるんですよね」
「だ、だけど、それはほら、ええと、神くん、近いよ」
「付き合ってるんだから、おかしくないでしょ」
「そ、そうなの? あの、私、こういうの――

焦って真っ赤になっているの肩をぐいっと引き寄せると、神はそのまま唇を押し付けた。チア部の塊からは短い悲鳴が上がり、そしてまた神の肌は足元から火がついたように燃え上がった。

束の間神はチア部もバスケット部も忘れた。が好き――ただそれだけしか考えられなかった。