プロミネンス

09

神がの進路について真面目に話を聞き出せないまま、海南バスケット部は新学期を迎えた。と同時に国体準備である。去年までと違い、今年は県内の強豪校からの選抜チームになるとのことで、今年の成績と実績上、ホストにならざるを得ない海南は毎日慌ただしかった。

と言っても選手は練習をしなければならないので、忙しいのは顧問の先生とマネージャーの女性7人である。

「あれ、こんなとこで何やってんの」
「あー、先輩。もーへとへとっす」

普段6人もいるせいで、今年の女子マネはずいぶんのんびりとしていた。神も自分と同じ中学の後輩には目を光らせていたし、そういう意味ではも楽な1年だったと言えよう。しかしそれが裏目に出て、急に慌ただしくなったことで疲れた1年の女子マネージャーが勝手に休憩をしていた。

「まだやること残ってるだろ。疲れてるのはみんな同じなんだぞ」
「そうなんですけど、忙しすぎて目が回っちゃったんです」
「私たち手際も悪いし」
「なんか逆にご迷惑かなって」

熱くも冷たくもならない。今度は全身を電気が走り抜けた。苛立ちと怒りだ。

「そう言われたの?」
「まさか! だけど余計なことして怒られたら嫌じゃないですか」
「先生も先輩もそんなことで普段怒らないだろ」
「だから大丈夫ですよ。ジンジン先輩も休憩していきませんかー」

誰がそんなこと言った。お前たちのことなんかこれっぽっちも心配してないんだよ。お前たちがサボればサボるだけの負担が増すんだから、さっさと手伝いに行けよ! ていうか仲間ですよねみたいな顔して腕を引くな。

「オレは休憩しに来たんじゃないよ。いいか、これが忙しいんじゃなくて、今までが暇だっただけなんだ。今年は全部で6人も女子マネがいたし、顧問の先生も女の人だったから色々助けてもらえた。だから余裕があっただけで、来年になったら顧問の先生は変わるかもしれないし、お前たちだけでマネジメントしなきゃいけないんだよ」

つべこべ言わずにを助けろ。来年使い物にならなかったら容赦しないからな。

「今のうちに先輩のやることをちゃんと見ておかなきゃ。マネージャーマニュアルなんかないんだよ。来年になって慌てて、こういうのどうしたらいいんですか、なんて監督や選手に聞くわけにいかないだろ。全員女バス経験者なんだから、それはわかるだろ」

それでなくともが海南で過ごす時間は残り少ないんだし、お前たちに構ってる暇なんかないんだよ。

本音を慎重に違う言葉に変換し、神は淡々と言って聞かせた。疲れてへたり込んでいた女子マネージャー5人は、正面にしゃがみこんで真顔で話す彼の言葉に、何度も何度も頷いていた。3年生の引退も遠くない9月、特に後輩である1年生は、神を次のリーダーとして意識し始めている。

「プレイヤーでなくても海南というチームの一員なら、甘ったれたこと言っちゃダメだ。主将がよく言ってるだろ。疲れたり気持ちが折れそうになったらそれを必ず思いだせ。自分は王者海南の一員。わかったか?」

わかったらさっさと行けよ。を助けろ。に迷惑をかけるな!

本人曰く先輩に騙されて入部しただが、それでも彼女は3年間マネージャーを務め上げた。しかも、2年次はたったひとりで全国クラスの海南をサポートし続けた。そういう頼りになるがいるから余計に1年生はだらけるし、仕事を覚えようとしないし、も優しいので厳しく教えたりはしない。

無論そういうことで言えば、翌年のことを考えずに1年生を教育しなかったにも非はあるだろう。けれど、神にとってはマネージャーである以前に好きな女の子である。が悪いなんてことは考えもしない。自ら進んでに学び、海南の一員たる心構えを掴もうとしない後輩の方が悪い。

だが、のことは一旦措いておいたとしても、来年のマネージャーがこの体たらくでは本当に困る。こんな状態では、恥ずかしくて全国大会に連れていかれない。しかもその年の主将が自分だ。部員は主将の、そして監督を写す鏡だ。例え女子マネージャーでもそれは同じ。

むしろだらしのない女子マネージャーがぞろぞろと後をくっついているようでは、何のための女子マネージャーなのかと疑われるのがオチだ。万が一にも、名実ともに神奈川の顔である海南のマネージャーが彼氏欲しさにマネージャーやっている、なんていう風に思われるようなことがあってはならないのだから。

近年ではマネージャーの性別を限定してはならないという校則ができたが、進んでマネージャーをやりたがる男子生徒は滅多に現れないし、男子運動部に女子マネージャーという組み合わせがなくなることもないのだが、少なくとも神にとって、そんなだらけた海南など許せなかった。

を助けたい、そして来年の海南のため。神は国体を境にマネージャーに対してとても厳しくなった。

若干お祭り騒ぎの感が拭い切れなかった国体が終わり、神たちはのんびりする暇もなく、中間テストの時期に突入した。ということは部活がない。このところ練習と一緒にマネージャーたちの教育にも気を配っていた神は、珍しく疲れていた。

もうずっと一番近くにいる女の子がだったせいか、5人の後輩たちの教育は骨が折れた。と同じ感覚で話を進めると、まさかこれほどかと思うくらいに通じない。自分の意図することが伝わらず、また彼女たちの言わんとすることもよくわからない。

というかそれ以前に、神に「後輩の気持ちを理解してやりたい」という意識はない。彼の目的はと来年の海南だけだ。だから余計に伝わりが悪くて、後輩たちは不安がるし、神は人の目のないところで苛々していた。

体の疲れではなくて、気持ちの、精神的な疲労だ。ということは、でなければ癒やせない。

神はテスト期間に突入してすぐにを家に連れ帰った。親がいないことは確認済みだし、はどうやら外部進学を親から断られたらしく、テストに対する意欲もあまりない。部活が休みになった直後くらい、のんびりイチャついていても問題にはならないはずだ。

またこの頃になると、ようやくも痛がらなくなってきて、神の要求がいつも突然であることを除けば、以前よりずいぶん気楽になってきていた。そして、いつかすっかり調子に乗っていた神はしかし、今では「付き合っている振り」という前提も忘れがちになっていた。

そんなものだから、この日も神は唐突にの腕を引いて自宅に連れ帰り、疲れた心を癒やすべく、彼女の体にむしゃぶりついた。後輩の面倒と練習でガサガサに荒れていた心が滑らかに整えられていく感じがするし、失った気力が充填されていくような気がした。

すっかり満足してを腕に抱いたままうとうとしていた神は、彼女のくしゃみで目を覚ました。

「うわ、ごめん、起こしちゃった」
「平気。寒いの?」
「ううん、そういうわけじゃないの、ごめん」

携帯を見ていたらしいは、神が目を開けて自分の方を見たので、慌てて携帯の画面を隠した。

「別に見ないよ。そんな慌てて隠さなくたって」
「そ、そういうわけじゃないよ、そう、無意識で」
「まさか寝顔とか撮ってたとか?」
「し、しないよそんなこと!」
「いや怒ってないでしょ。てかしか見ないんなら撮ってもいいよ」

神は手を伸ばしてを引き寄せる。汗でしっとりしているの肌が何とも言えず心地いい。

「オレもの寝顔の画像欲しい」
「ちょ、それは勘弁して」
「なんで? 可愛いんだよ、たまに口元むにゃむにゃしたりして」
「やめて恥ずかしいよ!」

恥ずかしがるのはわかってる。照れておろおろするが可愛いから神はからかうのだ。

……、もう1回しよ」
「えっ!?」
「まだ、時間早いよ。帰りはちゃんと送っていくから」

こうしておねだりをしてが断った試しはない。毎度毎度、面白いくらい簡単に絆されてきた。

だが、ふたりが「付き合っている振り」を始めて1年、深い関係になってからも既に5ヶ月、ふたりきりになると神の言うままされるがままだったが、始めて抵抗を見せた。甘ったれた声を出して擦り寄ってきた神をそっと手で押し返し、ゆるゆると首を振った。

?」
「ええと、私はもういいかな」

はそう言うけれど、が望んでねだったことなど一度もない。一瞬意味がわからなかった神はと同じように首を傾げ、けれどそれでは納得出来ないので、首を伸ばしてキスしようとした。だが、それもの手のひらで遮られてしまった。

「チューぐらいいいだろ」
……神くん」
「名前で呼んでって言ってるのに、まだ慣れないの?」

神はくすくす笑いながらの手のひらをペロリと舐めた。

「疲れちゃった? 無理させたんだったらごめん。つい夢中になっ――
「神くん、こういうの、もうやめない?」
「は?」

の指にキスしていた神は、一瞬で全身が凍りついた。体温だけでなく、視界まで急激に色がくすみ、けれど耳には自分の心臓の鼓動の音が強く響いていて、耳障りだ。

「ほら、もう付き合ってる振りなんかしなくても大丈夫じゃない? 冬の選抜が終わって、3年生が引退したらとうとう神くんが主将なんだよ。海南の主将って言ったらほら、選ばれし中のさらに選ばれた者のみが得られる称号で、そういうの、海南の生徒はみんなわかってるし、もう、大丈夫じゃない?」

は神の目を見ようとしない。

「まだ2ヶ月ちょいあるけどさ、老兵は去るのみっていうんだっけ?」

間違っている。だが、神はそれをつっこんでやる余裕などなかった。体が冷たくて冷たくて、どうやったらまともに動かせるのかわからないほど冷えている感じがする。はそんな神の腕をするりと抜け出ると、老師キャラになってみたりしながら、てきぱきと制服を着込んだ。

「あー、てかのんびりしてたらすぐに忘年会になっちゃうね。服買わないと〜」

言いながら、はベッドの上に置いてあった携帯を取り上げた。それをつい目で追ってしまった神は、去年のクリスマスに贈ったクラウンのイヤホンジャックアクセサリーが付いていないことに気付いてしまった。

24時間一緒にいられない自分の代わりにのそばに置いてもらいたくて贈ったものだ。あの日、小さな公園でキスと共に受け取ってくれたのに。それからずっとずっと、と一緒にいたのに。神はとうとう目の前が真っ暗になって来た。

「夏は決勝で負けちゃったけど……今度こそ優勝したいね。日本で、1番強いチームになりたいね」

そう言い残して、は振り返りもせずに神の部屋を、家を、出て行った。

それがテスト期間のことでよかった。それだけは本当に不幸中の幸いだった。テスト期間でも自主的に練習をしている神だが、最初の数日はそれを完遂するのでやっとだった。もはや悲しいとか苦しいなんていうのを通り越して、強い感情が湧いてこなくなってしまった。

それでもテストは問題なかったし、部活が再開しても神は変化がないように見えた。だけでなく、もいつも通り、と2年生が喋っていても、どちらも以前と何も変わらない。冗談を言い合い、は老師キャラになり、神は他の2年生と一緒になってをからかった。

唯一の変化は部活が終わった後の神の個人練習だ。は部活が終わるとさっさと帰る。いつの間にか部室の鍵はスペアが作成されていて、神に預けていてもいいという許可が顧問の先生から下りていた。次期主将なのだし、施錠なども忘れたことがないので信頼されている。

集中はしていても、熱い意欲などどこかに置き忘れてしまったような感じだった。五感は全て薄らぎ、世界は全て色褪せて綻んでしまったように見える。ひとり黙々と練習を続ける神は、そんな荒廃した世界でただひとり、ボールに意識を集中しながらの面影を振り払い続けた。

を恨む気持ちはない。けれど、この状況そのものには苛立ちと怒りだけしかなかった。への感情が昂ぶるとすぐに燃え上がる炎もなくなってしまった。肌がずっと冷たい。その代わり、今度は体の中で冷たい炎が燃えている。に触れられない苛立ちと怒りの炎だ。

朝から通して全部で500本。それが毎日のノルマ。神は冷たい炎に焼かれながら497本目を静かに放つ。

そこへ体育館のドアの軋む音が響いてきて、神はこっそり舌打ちをした。あと3本なのに。

「あっ、まだやってたんですね。お疲れ様です」
「おう、お疲れ。もうすぐ終わるけど」
「いつもより遅いから何かあったらと思って」

後輩の女子マネージャーだった。同じ中学出身ではないふたりのうちの片割れだ。中学時代は女バスの部長も務めたというが、とにかくオンオフの切り替えが下手くそで、人に使われることにもまだ慣れない様子だ。1年間部長としてトップに立っていた頃の感覚が抜けないのだろう。海南ではよくある話だ。

「鍵もあるし、着替えて帰るだけだから大丈夫だよ」
「今何本目ですか?」
……これで498」
「あ、ほんとにあとちょっとだ」

神の肌に電気が走る。帰っていいって言ってるのがわからないのか。

「本当にこれを毎日なんですか?」
「そうだよ」
「休みの日も?」
「そう」

神の斜め後ろに立った彼女は感嘆のため息とともに「すごい」と呟いた。また神の苛立ちが加速する。そこで何してんの? 何の用? あと2本でオレは帰るし、体育館も部室もクラブ棟も全部閉めるけど?

本日の500本目がきれいにゴールネットに吸い込まれていくと、彼女は小さく拍手をし、ボールかごを押してきて神の近くに置いた。仕方なくボールをその中に突っ込んだ神は、彼女の話には適当に返事をしてボールを片付け、不本意ながらも一緒に体育館を出た。彼女はまだついてくる。

部室で神が着替えていても、彼女はまだ喋っている。

「やっぱり次の主将って先輩なんですか」
「たぶんね」
「海南の主将って……本当にすごいことですよね」
「そうだね」
「先輩って確か地元組だったんですよね?」
「そう」
「地元組が主将候補になるのは12年振りだって監督が言ってました」
「へえ、そうなんだ」

わざと意地悪い声色を使ったりはしていないけれど、生返事だということくらいわかりそうなのものなのに。体育会系でも文系でも理系でも何でも、それだけで人を判断するのは嫌いだったが、神と同じ中学出身の後輩もこんな風に押しが強くて、それには辟易していた。メンタルが強いのも考えものだ。

着替え終わった神は、後輩を気遣ったりすることなく施錠などを確認し、電気を落として部室を出た。暗いクラブ棟の廊下を歩く神の後ろを彼女は小走りに着いてくる。

「電気が全部消えると真っ暗なんですね、ちょっと、怖いかも」

そんな呟きが右腕の真後ろで聞こえた。神は途端にぞわりと怖気立つ。お前の方が怖いよ。

相変わらず生返事の神を追いかけて後輩は自転車置き場まで着いてきてしまった。さすがにしつこい。

「チャリじゃなかったよな? 悪いんだけど、寄るとこあるから送れないよ」
「わ、わかってます。あの、先輩」

マズい。この状況には覚えがある。海南の主将候補には誰も告らないなんて誰が言ったんだよ、嘘つき!

「先輩って、今彼女とかいないんですよね」

いないんですか? ならまだわかる。いないんですよね、とはどういう意味だ。

「バスケ部のこととか知らない子に付きまとわれたりするから、彼女がいる振りをしてるって聞きました」
「ああ……まあね」

なんだか都合のいい情報になっているような気がするが、まあいいだろう。だが、

「好きな人とかもいないって、聞いたんですけど」

神もこれには驚いた。誰にもそんな話をした覚えはないし、好きな人ならちゃんといるけど。

「誰にそんなこと聞いたの?」
「えっと、先輩です」

嘘だろ。

、なんでそんなこと言ったんだよ。オレ、のことこんなに好きなのに、誰より大好きなのに、あんなに君のことを愛していたのに、伝わってなかったの? オレの気持ちって、にとって何だったんだ。いっぱいキスして、いっぱいセックスもして、それでも伝わらなかったっていうの?

、君はオレの好きな人じゃないの?

今度こそ目眩と共に目の前が暗転した神は、思わず片手で目元を覆った。後輩が俯いたまま告白らしきことを言っているような気がするが、内容なんかさっぱり耳に入ってこない。

「だからその、よかったら、付き合ってもらえませんか」
「ごめん、好きな人、いる」
「えっ!?」
「付き合ったりはしてない、けど、好きな人、いるから、ごめん」

神は首だけ折って頭を下げると、そのまま振り返って自転車に飛び乗り、走り去った。

スピードを上げると秋の風がつめたい肌をもっともっと冷やしていく。身の内に燃え上がる冷たい炎は風に消されて、燃えかすすら残らない。神の中にあるへの想いが拠り所をなくして、ばったりと倒れてしまったような気がした。支えるものが何もなくて、起き上がれない、立ち上がれない。

、君が好きだよ。君を初めて見たあの時からずっと好きで、好きで好きで、それは今でも変わらない。

だけど、起き上がれそうにないよ、立ち上がれそうにないよ、――