太陽と月の迷い路

エピローグ

昼食を取ってからエアコンの効いた部屋で昼寝をし、夕方頃に目を覚ました央二郎はのろのろと着替えて家を出た。自転車を引っ張り出して、またのろのろと漕いでいく。今日はこの辺りでも一番大きな花火大会なので、浴衣を着た人が駅方面に向かって歩いて行く姿が見られる。

それを横目に央二郎は自転車を漕ぎ、ゆっくりと傾いていく夕日の中、一軒の居酒屋の前で止まった。

自転車は店の前に停めてしまい、縄のれんを手で弾いてドアをガラガラと開ける。強い西日が差しているとはいえ、時間は既に営業時間内、店内では常連客が一杯やり始めている。

「こんばんわー」
「おー、央ちゃん今日は早いな」
「そう? 暑いからさ、冷たいの飲みたいなと思って」
「おーい、央二郎来たぞ!」

常連客に挨拶をしつつ、店の奥にある小さなテーブルに腰掛けると、カウンターの中にいたいかつい男性が厨房の方に顔を突っ込んで胴間声をあげた。すると、中から黒縁のメガネをかけたひょろりとした男の子と、金髪のベリーショートが現れて同じテーブルについた。

「なんだよ、今日は悪ガキ3人が勢揃いか。女っ気がなくてつまんねえだろうに」
「おじさん、オレら女には困ってないよ」
「出た! 女に困ってねえのは央ちゃんだけだろ〜」
「央二郎は両手に余るほど困ってないから、オレたちにも回ってくるの」
「なんだよ情けねえな!」

ガラの悪そうなおじさんに淡々と答えていた3人のところに、金メッシュでガチガチに固まったパーマ頭の女性がジョッキを3つ運んできた。中身はただの炭酸とコーラとウーロン茶。

おじさんが別の常連客と話し始めたのを確かめると、3人は少し身を乗り出してジョッキで乾杯した。

「央、オレたちはほとんど決めたけど、お前どうすんの」
「それそれ、もう片付いたからオレも大丈夫」
「じゃあ予定通り新学期からを目処に始めていいんだな」
「うん。悪かったな、あんまり顔出せなくて」

3人はジョッキを傾けつつ何やらボソボソと話している。メガネが手にしていたコンパクトサイズのタブレットに何やら入力している間、央二郎は金髪から説明を受けて携帯にそれをメモしていく。そこにまた店の奥から人が現れて、金髪の横にすとんと腰を下ろした。ホルターネックにショーパン、ピンクブラウンのロングヘアに分厚いつけまつげの女の子だった。

「やっと勉強始めるの?」
「央二郎が例の件片付いたって言うからさ。夏休みの間に終わってよかった」
「えー、まだ双子の弟の彼女にちょっかい出してたの? しつこいね〜」
「ちょっかいじゃないよ、審査」
「しん……はあ?」
「その女が弟にとって安全かどうか、確かめてるんだよ。央二郎になびいたら不合格」

顔をしかめる女の子に、ひょろりとしたメガネが淡々と説明する。

「最初は中学の時だったか? こいつに近付くために弟を足がかりにしようとした女がいてさ」
「あー、いるよねー、そーいうの」
「それに気付いたんだよな。んで、わざと自分から近寄っていったらすぐに落ちた」
「落ちたところで、そんなに簡単に弟からオレに乗り換えるような女いらねえ、とね」
……こっわ」
「弟命だからな」
「別に命ってほどでもないよ。ただ生きてる以上は双子のままだからな」

そこへ唐揚げと枝豆が出てきたので、央二郎たちは一斉に手を伸ばしてモグモグやりはじめた。

「それでなくともあいつは変にピュアなところがあるし。高校に入ってから試合見に行ったときに弟と勘違いされて絡まれたことがあるんだけど、なぜか押しの強い感じのばっかりでさ。こりゃ放っといたら面倒なことになりそうだなと思って」
「今度の子はどうなん」
「完璧。合格」
「えっ、とうとう合格者出たの!?」

ニヤリと唇を歪めた央二郎は背もたれに寄りかかって腕を組む。

「そもそもが宗を追いかけ回してた子じゃないし、どれだけ誘惑してもなびかなかったし、なんていうのかな、ざっくり言って愛情が強い子なんだよな。いざとなると遠慮が出ちゃったりするところとか、少し似てるし。ああ、この子なら宗を任せられるな、って初めて思ったからさ」

央二郎が言うように、ふたりは死ぬまで双子だ。それはどうやっても変わらない。けれど、宗一郎がサッカー教室を辞めたあの日から、ふたりの道は1本ではなく2本になっていた。そういう中で、ガタガタの道を歩く兄は真っ直ぐな道をゆく弟に変な虫がつかないかどうか、常に監視していた。

「それってふつーに弟命じゃないのお。だって確か勉強だって……
「もっと高いところ狙えるんじゃないかってオレたちも言うんだけど、聞かねえんだよな」
「無理のきく体じゃないもんでね」

央二郎はまたニヤリと笑って炭酸水をぐいっと飲む。

央二郎、メガネ、金髪、この3人は宗一郎も通っていた中学出身の仲間である。央二郎と宗一郎とは3年間一度も同じクラスになったことがなく、メガネと金髪は央二郎と3年間一緒。なので宗一郎の方は彼らをよく知らないが、彼らの方は央二郎が話すので宗一郎のことは聞き知っている。試合も見る。

ちなみにこの居酒屋はメガネの自宅で、ピンクブラウンのつけま女子はその妹。金髪に片思い中。

さておき、の件が片付いたので央二郎の「用」が終わり、時間が出来た。もう夏休みは終わるけれど、彼らはこの長期休暇を終えたら、それぞれの目指す進路のために学校の授業以外でも勉強を始めることになっている。去年の冬あたりから3人だけで密かに計画されてきたことだった。

メガネは航空機が好きなので理工系の大学を、金髪は海技士を目指しているため海洋大学をそれぞれ目標にしている。そんな中、ジュニアユースにいる頃でも成績は上位から落ちたことがなかった央二郎だが、彼は偏差値50台半ばの福祉系の公立を目指している。

「作業療法士……って何する人?」
「簡単に言うとリハビリの先生。お年寄りだけじゃなくて怪我とか病気の人も見る方」
……え、それってだから結局弟じゃないの?」
「本人は自分が怪我した時の経験からだと言い張ってるけどね」

ちくちくと突っついてくる友人たちには反応せず、央二郎は携帯をさくさくとスクロールしていく。弟からの連絡はないので、と決裂しなかった模様。休みでも黙々と個人練習をしているような弟がこざっぱりした服装で出かけるようになってから数ヶ月、もういい加減くっついてもいい頃だ。

央二郎がしゃしゃり出て排除するまでもなく、高校に入ってから、とりわけ県下最強と謳われる海南大附属バスケット部のスタメンに入った1年生の2学期から宗一郎は高嶺の花になったので、兄が四六時中目を光らせていなくても女の影は見られなかった。

ところが突然休日におでかけ、しかも割と長時間。高嶺の花と油断してたけど、どこで引っかかったんだ。校内か、校外か? 宗一郎が出場する試合はほぼ毎回黙って見に行っているけれど、相変わらず本気に見えないようなミーハーな感じの取り巻きしかいないのに、どこのどいつだ。

しかもそれとなくどこへ行くのだと問いかけると、「みんなでバッシュを見に行く」と言い出した。

この野郎、世界にただひとりの双子の片割れに嘘ついたな!? のちのち宗一郎も言っていたように、嘘はわかるのである。頭にきた央二郎は背後からコソコソと覗き込んでパスコードを盗み見し、宗一郎が風呂に入っている間に携帯を覗いた。するとまさかのドッグランデートである。

小学生の頃から女に困ったことがない央二郎はつい吹き出したが、相手の女が清純を装っている可能性はゼロではない。メッセージの履歴を遡ってみても、個人的な付き合いが始まったのは最近のようだし、正直、海南の生徒というだけでは何も信用ならない。

そこで央二郎は運動公園まで何度か遠征を試みた。すると、3回目でビンゴ、がやってきた。

思ってたよりかわいいじゃん。それが央二郎の第一印象である。化粧しなくても黒く縁取りしたようなアイドルみたいな顔をしているわけではないけれど、これは完全に大人になったら化けそうだな、目立つグループには所属してないけど慣れた男から見たら上玉、そんな感じ――

しかし央二郎の警戒は緩まず、以後の「査定」が始まったのである。

どうやら宗一郎の方もに惹かれているようだし、で気を付けないと尽くす女になりかねない献身体質。央二郎は割と早い段階からこれはいいかもしれない……と思い始めた。なのでには容赦なく誘惑をかけ、あれこれと揺さぶりをかけてみたけれど、彼女は揺るがなかった。

助けて、と言ってみたときだけ揺らいだように見えたが、そこは単にの献身体質によるものだと判断した央二郎は、今度はふたりをくっつける方向に回る。央二郎が邪魔し続けてきたせいで宗一郎は女の子慣れしていないし、の方も男の出入りはなかった模様。途中めんどくせえと心が折れそうになったが、それでも今日は念願かなってふたりで花火を見上げているはずだ。

無事に宗一郎は「自分から行ってやらないとが学校で立場をなくす」ということに気付いたようだったし、自身の経験から言っても、目立つ方が執心しているという体にしておいた方が安全だ。

嫉妬を嫉妬と気付ける人間は嫉妬を表に出したりはしないものだ。自身の感情が嫉妬と気付けば閉じ込めるからだ。しかし悲しいかな自分の感情の正体を深く掘り下げるようなのばかりなら苦労しない。兄の設定が弟にスライドしてしまったかのような状況の中、央二郎はいずれ弟は嫉妬の渦に巻き込まれるであろうと考えていた。

だからこそ宗一郎に擦り寄ってくる女には容赦なく誘惑をかけてきた。これまで、彼の「審査」に耐えきった女はいなかった。何しろほぼ同じ。央二郎にとって宗一郎に化けるのは造作もなく、相手の欲するところを察した央二郎に攻撃されると、見るも無残に崩れ落ちた。はい、不合格。

不合格なのでさっさと関係を断とうとすれば、「私のこと好きって言ってたのに」と来る。「そっちこそ、宗一郎のこと好きって言ってたよね」と返せば、それ以上は誰も何も言い返してこない。

恨みを買うであろうことも承知の上だ。でもそれでよかった。あの事故以来、央二郎はただひたすら後悔しない選択肢だけを選んできた。判断が間違っていても、そのときに自分がこれだと感じるものに進路を定めよう。どうせ拾った命だ。使い捨ててやろう。そう思った。

強烈な痛みと恐怖の中で意識を失い、気付いたらベッドの上で、体はベッドに固定されていた。

消毒薬の匂いと、カーテンに囲まれたベッド、動かせない体。央二郎はその瞬間に自分が何より熱中していたサッカーを永遠に失うことになったのだと気付いた。たびたびジュニアユースのコーチからは、「央二郎は真面目だし努力家だしセンスもあると思うけど、競技に対する愛情がない」と言われてきた。その意味がよくわかった。

そして皮肉にも命拾いをしたことで両親と弟から浴びるほどの愛情を注がれ、入院からリハビリの間に重病を患う女の子と泥沼のような恋に落ち、央二郎は初めて自分の人生に愛情を感じ始めた。

ともに勉強を始めようとしている仲間たちもそうだ。彼らは央二郎が羽目を外すことにたびたび警告をしてくれていたけれど、央二郎は無視した。それでも命に別状がなかったことを喜んで、高校に入ったばかりなのに授業に一切出られない央二郎のサポートをずっとしてくれていた。

それをどう自分の中と外に活かしていこうか。央二郎がそう考え始めたのは、やはり1年生の秋だった。すると自分が這いずりながらリハビリをしている間に黙々と練習をした弟が、とうとうその努力を実らせてスナイパーのようなシューターとしてその名を知られるようになった。

弟の活躍する試合を見ながら、央二郎は「事故らなかったらオレがこうなっていたはずだ」と思った。しかし彼の中の愛情を受け取る容器はいっぱいになっていて、嫉妬は感じなかった。むしろほぼ同じの双子、競技は違えど、永遠に失ったと思っていた自分自身がそこにいたのである。

その時央二郎は決意した。この神宗一郎という選手をなんとしてでも守らねばならない。

バスケット選手として活躍することは本人も望んでのことだし、何も彼のバスケットに対してああだこうだと口を出すつもりはない。だが、華々しい活躍をする人間にはそれをむしり取ろうとする輩がつきものである。自分のようにならないように、なんとしてでも守っていこう。

この頃泥沼の恋に落ちていた女の子は治療のため遠方に越していたし、そもそも年上で出身地での復学を望んでいたし、なし崩しに夢から醒めた状態で央二郎はそう決意した。

宗一郎に近寄る女査定はその一環である。まさかこんなに早く「当たり」を引くとは思わなかったけれど、当たりと確信したからにはくっついてもらわねば困る。まだ弟からの連絡はない。まあもう日が沈んだ頃だろうし、帰宅した弟からよい報告が来ればそれでいい。

同じ学校の同い年、お互い惹かれ合った末の関係、女の子の方が献身体質。結果は上々。

「ねー、ちょっと聞いてんの央二郎」
「えっ、なに」
「犬」
「犬?」
「飼っちゃダメって」
「ああ、それか。ずっと欲しがってるんだけど、どう考えても無理だろ」

央二郎の隣でメガネが吹き出す。犬はもうずっと央二郎が「禁止」しているのだ。

「事故る前まではオレはプロになると思ってたし、でも高校からはユース行かないつもりでいたし、宗も海南行きたいって言い出してたし、そうしたらオレたちどう考えても実家にいるのって、高3までじゃん。犬飼ったって一緒に生活するのはほんの数年、あとは親に丸投げになるだろ。親が欲しくて飼うならともかく、帰省したときだけの癒やし要員とか犬に失礼だ」

金髪も吹き出した。もう何度も聞いてきた央二郎による「犬に失礼」論である。

「ほんとはめっちゃ好きなのにねえ、犬」
「そりゃそうだ。昔近所にモフモフの中型がいて、仲良しだったんだよ」
「それを何だっけ、何を理由に禁止にしてるんだっけ」
「オレがひとりで面倒見ることになるから却下」

事実その可能性が一番高い。宗一郎は朝から晩まで練習、両親も働いている。帰宅後のほんの2時間程度モフモフして癒やされたい程度で犬なんか飼えると思うなよ、犬はぬいぐるみじゃねえ! が央二郎の持論である。そういうわけで、ずっと犬を飼いたいと思っている宗一郎はグリに飛びついたわけだ。

「なんかさあ、央二郎って家族に愛情があるのかないのか、わかんないね」
「そんなもんじゃないか?」

さて、どうだろうか。仲間たちが突っ込むように、作業療法士を目指すのは宗一郎が今後もバスケットで活躍するのを願ってのことだ。言い寄ってくる女を追い払っていたのも弟のためだ。それが「愛情」かどうかは自分ではわからなかった。ただ、宗一郎はこの世にたったひとりの替えのきかない唯一無二の存在で、彼の躍進は今や自分の夢でもある。宗一郎を守りたいと思うことは、自己愛に近いものなのかもしれないとも思う。

宗一郎は「も大事、央二郎も大事」と言った。それもわかる。は本当に宗一郎を真摯に想っていて、揺るがぬ純粋な愛情を示してくれた。だから宗一郎のそばにいてほしいと思う。機会があれば、試すようなことをしたことも謝りたいと思う。

しかしその一方で、ふたりの間に入って混ざりたいという気持ちも少し。

に対しては特別な感情を持っていない。あくまでも宗一郎の彼女審査合格者である。けれど、は頑なに宗一郎を想いつつも、宗一郎の家族だからという理由で受け入れようとしてくれた。

宗一郎もも。もしかしたら、そういう「ふたり」を求めていたのかもしれない。

メガネが受験に至るまでのざっくりとしたスケジュールを作っていて、それを眺めながら央二郎は心の隅っこでちらりと思った。守るものが、ひとつ増えたかもしれない。

そして思い出す。事故から生還したあとにベッドで聞いた、真っ赤な目をした宗一郎の言葉を。

「央二郎、オレの足、あげるよ。オレは腕があれば、バスケ、出来るから」

バーカ、いらねえよそんなもん。そう言いながら央二郎は絶望にも似た後悔で押し潰されそうになったものだった。この世に一緒に生を受けた弟にそんなことを言わせた――それが何より央二郎を打ちのめしたのだ。コーチに散々言われた「愛情がない」ということの意味が刃物のように心を抉った。

だからこそ、宗一郎が思う存分バスケットで活躍することは、兄にとっても希望なのだ。

受験へ向けた段取りが整い次第、担任にも相談して、そしたら両親に話そう。宗一郎とにはまだ内緒。当分は「怪我で将来を棒に振った不貞腐れてる兄」を演じて、ちょっとばかり甘えてみようかと思っている。うぶなふたりをからかうのも楽しい。無関心を装っているが、犬もかわいい。

何気にオレの将来って、意外と明るかったりするんだよ。だから、きっと大丈夫。

END