太陽と月の迷い路

8

いつものようにぶらぶらと競技場まで出かけていった央二郎は、が現れないのでそのまま遊びに行き、友人の家をはしごして帰ってきた。事故の時に一緒だったのとは別の、同じ中学の友人の家は居酒屋を営んでいるので、遊びに行くとおいしい料理をごちそうしてもらえる。しかも圧倒的プリンス経験のある央二郎である。友人の家族にも居合わせたお客様にも愛嬌を振りまけば、続々と皿が出てくる、というわけだ。

そうして気分良く帰ってきたら、個室のドアを開けっ放しで宗一郎がベッドに倒れ込んでいた。

央二郎は不貞腐れているだけで生活全般がだらしないわけではないのだが、現在宗一郎の方が厳しい環境に身を置いているせいで、何事もそつなくきちんとこなすことが多くなっていた。だというのに、共用スペースには荷物が散らばり、洗濯物もその辺に投げ出してあり、ベッドに倒れ込んでいる本人は靴下が片方だけなくて、残った一方も脱げかけていた。珍しい。

ここで勝てば日本一になれるかもしれないという大事な試合に負けて終わった後もこんな風に腐ったりはしなかった。もっと練習しないと、年末には自分が主将になるんだから、もっと頑張ろうとか言っていたくらいなのに。しかも今日はただの練習で、試合はないはずだ。平日だし。

腐っても双子、ピンと来た。だな?

「おーい、大丈夫かよ」
………………大丈夫じゃない」

特にふたりの間で差があるとすれば、央二郎の方が図太く、宗一郎の方がやや繊細だろうか。だから、笑ってはいけない。さらに、央二郎の感覚で「何だよ、いざとなったら萎えちゃったのか?」などとは言ってはならない。頑なになってしまって、もうそこで話は終わってしまう。

というか弟とにそんな急展開は無理だよな、と央二郎は思い直してベッドの端に腰掛けた。

「具合悪いのか?」
……悪くない」
「だろうな。あんまり急に不貞腐れるとオカンが泡食って心配するぞ」

ふたりの母親は元々双子の育児で疲れ果てており、その上央二郎の事故ですっかり考えを改め、生活の全てを子供たちで埋め尽くすことをやめた。央二郎の怪我が生活に支障がない程度になると、もう高校生だからね、を合言葉に突き放すようになってきた。

それでも普段そつのない宗一郎が突然不貞腐れると心配をするだろうし、その時に引き合いに出されてとばっちりを受けても困るので、央二郎はまず先にそこを突っついておく。腐るのはいいけど、あとでちゃんと片付けておけよ。お前のことでオレまで怒られるのは困る。

……あとでやる」
「そこまで腐るなんて珍しいな、と喧嘩でもしたのか?」

そして遠慮しない。案の定Tシャツにパンツだけでうつ伏せになっていた宗一郎は体を縮めた。

「女のヒステリーなんて向こうに非があってもこっちが謝らなきゃ治らないぞ」
……喧嘩は、してない」

が関係あることは否定しないわけだ。気持ちが落ちているので、そもそもとはただの友人関係なのだと否定することも忘れている。喧嘩でないとすれば、あれと、これと……

「勢いで告って振られたとか」
……してない」
「向こうが告りかけてたのに遮ってしかも誤魔化したとか」
……してない」
の目の前で別の女と仲良くしちゃったとか」
……してない」
「よし、じゃあ、キスしようとして逃げられた!」

自分から言い出さないのであれこれと並べていた央二郎だったが、宗一郎は「キスしようとして逃げられた」と聞くなり、枕の下に頭を突っ込んでしまった。ビンゴー!

「そう来たか」
「別にキスしようとしたわけじゃない」
「まあなんだ、ちょっと迫ったら逃げられたとか、そんなとこか」
「迫ってない」
「わかったよ。でも逃げられたんだな」

ひしゃげた枕の向こうで頭が少しへこんだ。頷いたらしい。

「あのなあ、が男慣れしてないことくらいわかるだろ。毎日犬の散歩でお前が休みでなかったら遊びにも行かないような、将来確実にこじらせます、みたいな喪女予備軍じゃねえか。お前だって不慣れなんだし、いきなり手ェ出したらそりゃビビるに決まってんだろう」

わざと大袈裟に言うと、央二郎の思惑通り宗一郎はがばりと身を起こして食いついてきた。

――はそういう子じゃない」
「普段頭ん中では名前で呼んでたのか、いじらしいな」
「違っ……

身を起こし、ベッドの上であぐらをかく央二郎に向かい合った宗一郎はまたぺしゃりと潰れた。

「僕たち健全なお友達ですってのも程度問題だろ……17にもなって好きな女に性よ」
「そ、そういうんじゃないって!」
「だからー、そうやってすぐに否定する方が逆に不自然だっていうの」
「みんながみんな同じってわけじゃ」
「でもなんかやらかしたから逃げられたんだろうが」

顔を上げて反論したい宗一郎だったが、またぺしゃりと潰れた。

「てか、仲のいい女友達のこと好きになるって、そんなダメなことかよ?」
「そ、そういう目的で会ってたわけじゃ」
「そんなこと言ってない。ふたりで犬と遊んでる間に好きになっちゃったんだろ。なんでダメなんだよ」

に対して好意があるということは、頑として認めない。だが、話は最初からその前提だし、でなければ逃げられて腐ることもないわけで。潰れたままの宗一郎はぎゅっとタオルケットを掴んでいる。

「普通の……付き合いなんて、してやれないのに、自分の都合のいいときだけなんて」

聞いてもいないことを喋りだした。央二郎は内心「チャーンス!」と思いつつ、相槌を打つ。

「夏休みの今だって、二学期だって全然暇ないし、それはずっと変わらないし」
「うーん、それが嫌かどうかはが決めることじゃね?」
……そうかもしれないけど」
「で、結局何やらかしたんだよ」

宗一郎は掴んだタオルケットをしばらくバサバサやってから、長くため息をついた。

「午後休みになったから、個人練習申請してて、ひとりで体育館に向かったら、いたんだ。そしたら、雨、降ってきて、部室に連れ帰って、シャワーとか入らせて、制服が少し乾くまで喋ってようかって、なったんだけど、途中で帰るって、言い出したから、つい、引き止めようとして、後ろから」

エッその程度、などとは死んでも口にしてはならぬ。央二郎は笑わないように静かに息を吸い込む。

「だから、さっき言ったじゃん。ぎゅってしただけでも、びっくりしたんだろ」
……しなきゃよかった」
「え。いやいやちょっと待て、は別に嫌で逃げたわけじゃないぞ!?」
……は?」

後ろからぎゅっ、を拒否られたと思ってたのかよ……。央二郎は手のひらを額にバチンと叩きつけたい衝動に駆られつつも、それを我慢するために腕を組み、声が上ずってしまわないよう腹に力を入れる。

「逃げられたって言っても、触んないでまじキモイとか言われたか? 言わなかったろ? 今までそういうことがなかったから、突然ぎゅってされてどうしたらいいかわかんなくなっちゃっただけだ。てかその前にまだ付き合ってないだろ。オレはそーいうの気にしないけど、お前らは気にするじゃないか」

思わず体を起こして見上げてくる弟の情けない顔に吹き出してしまいそうになるが、我慢だ。央二郎にはの動揺もよくわかる。兄貴と違って弟の方は実に紳士的、もどかしいくらいのペースでゆっくり関係を育んでいると思っていたのに、突然の雨にそれをかき乱されてパニックだ。青春してんな〜!

「ちゃんと好きです付き合いましょうとかいう手順さえ踏んでたら逃げられなかったと思うぞ」
「それはそうかもしれないけど……
「もしそれでも拒んできたら、そんな女やめとけ。疲れるだけだぞ」
「べ、別にそういう目的のために」
「いいか宗一郎、オレはお前より確実にクソ女の経験があるから言ってるんだよ」

また視線をそらして俯いてしまった宗一郎にビシッと指差した央二郎は語気を強める。

「付き合ってる男が抱き締めたいって思って触れてくることすら嫌だっていう女、それがダメなわけじゃない。それは勝手にしたらいい。だけど、お前の方に触れたいという気持ちがあるのに、それは許せないけど関係は続けたい、だったとしたら、結局そんな女とは『合わない』ってことになるんだよ」

宗一郎がまだ首を傾げているので央二郎は畳み掛ける。

「そういうこと何度も何度も繰り返して恋愛慣れして、それで同じように恋愛慣れしてきてる上に一番合う相手を探す――なんてのは暇な人間だから出来ることだ。お前、そんな時間ないだろうが。そんなことに時間を浪費するつもりもないだろうが」

何だか納得行かない宗一郎もそれだけは図星で、ぐうの音も出ずにまた潰れた。

……だからさっさと告っとけってのに」
……お前が邪魔したんだろ」
「邪魔? オレが何したよ」

央二郎とは1度しか会っていないことになっている宗一郎は、反撃に足る情報がない。

「花火大会、行こうと、思ってたのに……
「行きゃいいだろうが」
「逃げられたのに」
「そういうことは既読スルーのままになってから言った方がいいぞ」

気まずいのはわかるけれど、何もしなければ新学期を待たずに自然消滅だ。

、何も言わずに逃げたのか?」
……国体見に行きたいとか、また練習覗いてみるとか」
「ほら見ろ。今後一切顔合わせたくないやつがそんなこと言うか?」

央二郎は枕元に投げ出してあった携帯を拾い上げ、宗一郎の目の前に落とした。さっさと修復しとけ。

「一言『好きだ』って言えば全部片付く、それだけ!」

「そんな簡単な話じゃないもん……
「お前ら鬱陶しいな〜」
「だったら関わらなきゃいいでしょ!?」

翌日、運動公園である。

ジャージの件で微妙に母親とギクシャクしているは、しかし急にアルバイトと言っても日雇いバイトが近所に転がっているわけもなく、父親に母と揉めているから間に入ってくれと頼んだところ、珍しく娘から頼られた父は発奮、この後娘と犬を拾って外食の予定。

央二郎の方も昨日が運動公園に来なかったわけがわかったので、今日は少し早い時間から待っていた。すると案の定どんよりした顔のが上機嫌のグリに引きずられてやって来た。

「じゃあ何、はさ、宗が跪いて手を差し伸べてくれないとぎゅーも出来ないの?」
「そういうことじゃなくて……びっくりしたから……
「その場で言えばよかったじゃん。こういうのは驚くからやだって」
「嫌っていうわけでは……
「拒否りたくないけど急に来られても困るっての? 今からぎゅーしていいですかって言えばいいの?」

央二郎は気楽なものだ。返答に困るを突っついては逃げ道を塞ぐ。

「オッケー、、オレのこと好き! ぎゅーってしていい?」
………………やだ」
「じゃあ何ならいいんだよ」

はベンチの上に膝を立ててそれを抱え込む。

……花火大会、行こうって、話、してたんだもん」

そしてこっちも聞いてもいないことを喋りだした。

「夏休み、休み少ないけど、でも家で寝て終わらすのもったいないし、少しくらい遊びたいし花火大会行かない? って言うから、その日、服も選んでもらったから、着ていこうかなとか、思ってたのに」

央二郎は距離を縮めて、膝を抱えるの肩をそっと抱く。

「なあなあ、お兄ちゃんよくわかんないんだけど、それでいいんじゃないの?」
……神はきっと、咄嗟にやっちゃったことだと思うんだけど、驚いちゃったから」
「うん、それでその何がダメなの?」
………………もう、普通に、出来ないよ」

よくわからないお兄ちゃんはの肩をポンポンと叩きつつ、苦笑いだ。

「普通って?」
「今まで遊んでたみたいに、普通に喋って、何でも話せたり、そういうの、出来ないよ」
「なんで?」
「まともに、顔を見られない」
「お兄ちゃん今悩み相談してんのかな、惚気話聞かされてんのかな」
「どっちでもないよ!!!」

強いて言えば「怒り泣き」という顔でが睨むので、央二郎はまた勝手にぎゅっと抱き締めた。

「ちょっ、また! 央二くん! いい加減にして!」
「ほーら、オレにはそういう風に言えるんじゃん」
「なっ……
「でも宗には言えないんだろ? それってどういうこと?」

央二郎はあれこれ聞いてくるけれど、答えはくれない。はまた答えに詰まって肩を落とした。

「もしかして、オレのことちょっと好きになってきてる?」
「なんでそうなる」
「宗は緊張して遠慮が出ちゃうけど、オレと一緒の時はすごく自然だよね。くっついても平気」

途端にが絶望した顔をしたので、央二郎はよしよしと頭を撫でてやる。央二郎の手が髪に触れる瞬間も、は驚いて体を震わせたりはしなかった。まだ央二郎の腕に体を抱かれているけれど、押し返すこともせず、俯いてしょんぼりした顔をしている。

「気楽な相手と付き合うっていうのもひとつの選択肢だと思うけどなあ」
……好きじゃ、ないのに?」
「死ぬほど好きになって付き合ったら、思ってたのと違うってこともあるし」

央二郎は頭を撫でていた手を滑らせての頬をそっと撫でる。

「オレと宗の違いなんて、学校とか、過去くらいなものだけど。他を構成してるものはほとんど同じ。食べ物とか音楽の好みなんかはほぼ同じだし、がそうして欲しいって言うなら、宗みたいな真面目くんになってもいいよ。ぎゅーとかチューとかはしたいけど、もちろん無理はしないし」

央二郎の声は、本当に宗一郎と同じだった。姿を見なければ、まるで宗一郎がそこにいるかのように。

「宗と普通に出来ないなら、普通に出来るオレはどう、って話」
……本気じゃ、ないくせに」
「それはの方だよ。オレはをいつでも受け入れられるよ」

そして央二郎は、と宗一郎の間にずっとある壁にヒビを入れる。

「宗一郎と違って、オレは時間あるからね」

絶対的な違いだった。はバスケット部の中心人物である宗一郎の邪魔をすることだけはしたくなかった。負担になりたくない、海南バスケット部という大きな存在に、一介の同級生である自分が迷惑をかけることにならないようにしたかった。

それは心から自分で望んだことで、本当はバスケットなんかやめて欲しいなどと思っているわけじゃない。しかし、そう考え始めると、今後も飛躍を続ける一方であろう宗一郎の相手として自分はあまりに不釣り合いなのではないだろうかと思えて仕方なくなってくる。

だから央二郎のその言葉は、あまりに甘い誘惑だった。

嘘か本当か、何のためらいもなく好きだの何だのと彼は言う。このところ運動公園でよく話しているが、当然嫌悪感はない。本人の言うように、彼は「ほぼ宗一郎」だから。また、この点は央二郎が上手だからだろうが、話していても会話が途切れることもないし、大笑いはしなくても、そこそこ楽しい。

そう、央二郎は本当に「気楽な相手」だった。

もし今ここで央二郎を受け入れたら、彼はどうするんだろう。また何のためらいもなく好きだよと言って抱き締め、キスしていい? と聞いてから顔を近付けてくるんだろうか。優しくしてくれるんだろうか。一緒にグリの散歩に行ってくれるんだろうか、海に、ドッグランに、そしてこの運動公園に。

宗一郎のように。宗一郎と過ごしたように。

はじりじりと焼けるような胸にいっぱい息を吸い込むと、勢いよく央二郎の体を押し返して立ち上がった。少しでも気を緩めたら泣いてしまいそうだ。

「そんなの、出来ないよ!」
「どうして?」

穏やかな表情で首を傾げる央二郎に、はとうとう叫んだ。

「私が好きなのは、神だから!!!」

そしてリードを引いてその場を走り去った。ベンチにひとり残された央二郎はぼそりと呟く。

「えっ、オレも神だけど?」