太陽と月の迷い路

6

は、運動公園で頻繁に央二郎と会っていることを宗一郎に話していなかった。そもそも夏休み、連絡は取れる関係にあるけれど、さてどう伝えればいいかはわからなかった。央二郎がストーカーみたいなんだけどどうしたらいい? なんて書いてしまい、不興を買いたくはない。

しかし央二郎はやってくるし、グリの散歩には運動公園が欠かせないしで、は次第に面倒くさくなってきて、央二郎に捕まると適当に相手をするようになってしまった。見つけたら即スルーでいいのだが、そこは宗一郎と区別がついていないらしいグリが引っ張ってしまう。

さらに遊び慣れているプリンス央二郎なので、が面倒くさそうに相手をしていても、いつの間にか楽しい話題に引っ張り込んでは毎度自己嫌悪に陥らせていた。

しかしそうしている間にも花火大会は迫ってくる。

宗一郎の方もあまり成果が上げられていない。もちろん毎日練習があるし、神奈川選抜チームになるらしい国体が控えているかと思うと休むのがもったいない。しかしそれをにどう伝えたものか……と、ふたりとも無駄にまごついていた。で、央二郎はそういうふたりのまごつき具合が手に取るようにわかるのである。

そんな頃のことだった。いつものように央二郎は夜更かしをして、昼頃になってやっと起き出し、誰もいない家で母親の用意しておいてくれた昼食を食べると、また一寝入りしてから家を出る。それからのんびり自転車を漕いで運動公園に向かい、を待つ。

すると、早々にが現れた。だが、ひとりだ。犬がいないじゃん……と首を傾げた央二郎だったが、彼を見つけたは猛然と走り出し、ベンチに猫背で座っていた央二郎の元に飛び込んできた。

「犬はどうし――
「グリ見なかった!?」
「はあ?」

よく見るとは目を赤くして上ずった声を上げていた。

「見なかった……ってが連れてないんだから見てないよ」
「ほんとに? 央二くんいつからここにいた? グリ通らなかった?」
「え? なんで犬がひとりでここに来んの」
「いないの! 脱走しちゃったの!」

ほとんど悲鳴だった。央二郎は事態を把握するとの両腕を掴んで隣に座らせた。は小刻みに震えていて、目は真っ赤だが顔は真っ青、唇も色を失っていた。

によれば、親戚家族が遊びに来ていたんだそうな。小学生と幼稚園の子供がふたり、グリは慣れない子供相手でだいぶ興奮していたらしい。そこへ子供たちの父親が少し離れた場所のコインパーキングに車を置いて戻ってきた。彼は玄関ドアを開け放ち、子供たちもリビングのドアを勢いよく開いた。間に合わなかった。

「犬なんか放っといてもちゃんと戻ってくる、そういう本能があるから大丈夫だって」
「だけどお前んち全員で可愛がってただろ」
「子供のせいにするつもりってキレられて、だけ行けばいいだろって、わた、私だけ出てきた」
「わかった、はまずここに来たんだな? 最近ここが多かったから」

事情がわかったので、央二郎はの手を取ってやりつつ確認していく。夏休みなのでグリの散歩はほぼ毎回の担当になっており、そのため必然的に場所は運動公園になっていた。グリにとってこの数週間、散歩といえばほぼ運動公園だった。まずここに来てみるのは正しい判断だったはずだ。

だが、の話を元に時間を遡ると、央二郎がこのバスケット広場に到着した頃は、まだグリは家を飛び出していなかった。このバスケット広場の周囲を囲む芝生はグリのお気に入りなので、もしこの運動公園にグリが来ていたら、立ち寄らないはずはない。自分からを引きずってくる場所だ。

「他にも散歩コースいくつかあるって言ってたよな」
「ある、公園とか、ドッグランとか、車で行くところとか」
「よし、車で行くところは除外しよう。それは行き方を把握できてないはずだ」

央二郎は震えるの背中を撫でつつ、ゆっくりと語りかける。

「車に乗らないで、徒歩で家から出るルートは?」
「え、ええと、ここと、公園と、バス停を回るルートと……
「OK、それをひとつずつ回ろう。走って出ていった?」
「私、見てないの、部屋にいて、お母さんの悲鳴が聞こえたから」

慌てた母親の悲鳴に部屋を飛び出て玄関を出ると、既にグリの姿がなかった。なので自宅を背にして左右どちらの方向に逃げ出したのかもわからないという。

央二郎はよろけるの手を引き、まずは駐輪場へ向かう。そして自分の自転車を引っ張り出すと、を後ろに乗せた。このまま捜索するのは効率が悪いので、に案内させてまずは彼女の自宅へ向かった。は央二郎に言われるまま自転車を引っ張り出してくる。家の中ではどうやら両親が親戚家族と言い合っているらしい。

、携帯で連絡して先に気が付きそうなのっておやっさん? おっかさん?」
「た、たぶんお母さん」
「もしかしたら自分で戻るかもしれないし、玄関開けて誰かひとり残れって連絡しときな」

は携帯を出して央二郎の言う通りに母親に連絡を入れておく。ついでに運動公園は見てきたこと、これから徒歩ルートを回ることを付け加えた。

「じゃあまず一番頻度の高いコース、行くぞ」
「お、央二くん、足は?」
「激しい運動出来ないだけで、チャリくらいはなんてことないよ。ほら、早く」

追い立てられるまま、は自転車に跨って央二郎の後を追った。

まだ少し余裕があるとはいえ、夏の夕暮れが空の裾に迫ってきていた。蒸し暑く息苦しい空気が淀む中、は央二郎の背中を追いかけて自転車を漕ぐ。いつかグリと走る宗一郎を自転車で追いかけたことを思い出して、はまたくらりと目眩がした。

このまま得体の知れない魔物の世界に入っていってしまうんじゃないだろうか――そんな気がして。

と央二郎が徒歩で行く散歩コースをしらみ潰しに当たり始めてから1時間、ようやく薄暗くなり始めた頃。普段しょっちゅう通っているはずのコースを回ってみてもグリの影すら見つけられなくて、は焦っていた。

もう怖い思いはさせたくなくて大事に飼ってきた犬だったのに、今頃危ない目に遭っていないだろうか、飛び出してしまったはいいけれど、迷ってしまって心細くないだろうか。そんな思いばかりが駆け巡ってしまい、余計に不安で怖くてべそべそ泣いていた。もしあの子をこんな形で失ったらと思うと、震えも止まらない。

央二郎は度々自転車を止めてはそんなに声をかけ、手を繋いで大丈夫を連呼し、心当たりを一緒に探して回った。本人の言うように、自転車で住宅街をぐるぐる回るくらいなら負担ではないようだ。

「すれ違ってたらどうしよう」
「あいつ普段、『オイデ』出来るの?」
「出来る。名前呼んだだけでも来る」
「だったら声が聞こえる範囲に入れば出てくると思うんだよなあ」

央二郎はルートを追いつつ、の言うようにすれ違いや入れ違いにならないように気をつけて回ってきた。また、外を見ていそうな人を見つけるとグリの風体を説明して見かけなかったかどうか訪ねて回った。が、今のところ何の情報もなし。の父親もやっと捜索に出られたらしいが、車で行くルートを当たってみるとのことなので、まだ時間がかかる。

「どこ行っちゃったんだろう……
「あー、よしよし、泣かない泣かない、片手サイズの犬じゃないんだし、大丈夫だって」

だが、徒歩ルートをあらかた回りきってしまったので、ふたりはまた運動公園に行ってみることにした。急いでいたので運動公園では誰にも声をかけずに来てしまった。施設内は常に職員が巡回しているし、事務所に立ち寄ってみようと思ったのだ。

しかし事務所ではあっさりと不発。とグリに見覚えがあるという職員もいたけれど、犬がひとりでほっつき歩いていたら安全面からも通報があるはずだし、自分たちも決してそのまま見過ごしたりはしない、というのだ。

もう心当たりは全て探した。は央二郎に手を引かれてバスケット広場のベンチに崩れ落ちた。両親からも連絡はない。空はゆっくりと、しかし確実に暗くなっていく。グリは首輪に鑑札が付いているし、自宅の電話番号も記してある。だからもし事故にあったり、どこかに保護されたら、真っ先に自宅に連絡があるはずなのだ。

むしろグリが得体の知れない世界に迷い込んでしまったのでは――そんな途方もないイメージしか湧いてこないほどは疲れ切っていた。央二郎が自販でお茶を買ってきてくれたが、ほんのちょっぴりしか喉を通らない。暑いし泣いてるし、喉は渇いているはずなのに。

「でも連絡がないってことは、事故じゃないってことになるだろ」
「それは、そうなんだけど……
「あの大きさじゃ連絡しないでうちの犬にしちゃおうとかは思わないだろうしな」

しかもわかりやすいミックス犬。子犬で購入すると数十万するような小型犬ではないので、捕まえたのちに気に入ってしまって……というのは確かに考えにくい。だとすると未だに逃げ回っているんだろうか。そう思うと胸が痛い。普段自宅は静かで穏やかだから、玄関に柵がなくてもグリは飛び出したりしなかったのだ。

そう考えてまた震え始めたところで携帯が軽やかに鳴り出し、は慌てて着信に応じた。母親だ。

「えっ、帰ってきた!? え? 山下さんて……モモちゃん!?」

央二郎がいることも忘れて、は電話の向こうでも涙声の母親の話に大声で相槌を打っていた。

「モモちゃんて何だ」
「えーとね、近所の、シェルティーのモモちゃん」
……わかるように話してくれる?」

つまり、グリは犬友の家に逃げ込んでいた、ということだったらしい。モモちゃんはの自宅からものの1分ほどで行かれる場所にある山下さんちの飼い犬で、グリとは特に仲良し、近所コース散歩の時はよく立ち寄る。山下さんが仕事から戻ると玄関先でグリが寝ていたので、慌てて連れてきてくれた……とのこと。

慣れない小さな子供に興奮して飛び出してしまったグリは、安心できる場所を求めて山下さんちに駆け込んでしまったようだ。なのでまったくの無事、異常はなし。もう真っ昼間ではないとはいえ夏の屋外に何時間も寝ていたので、ものすごく喉が渇いていたくらいで済んだ。

と、そこまで話したところで、気が緩んだはわっと泣き出した。ずっと怖くて仕方なかった。

「ははは、怖かったよな。でもよかったじゃん本人何ともなくて」
「このまま、いなくなっちゃったら、どうしよって」
「よしよし、もう大丈夫大丈夫、家に帰ったらいつも通り、もう怖いことないよ」

ぼろぼろと涙を零すを、央二郎はゆっくりと撫でる。泣いてしゃくり上げて、また震えている。

「もう大丈夫、、大丈夫だよ」

優しい声だった。まるで嘘偽りのないような、そういう声色だった。

どれくらい「よしよし」していただろうか。はホッとした気の緩みでワンワン泣き、通りかかった運動公園の職員の方に「見つかったの、よかったね」と声をかけてもらってもまだ泣いていた。

やっとのことで泣き止んだは、ようやく央二郎が買ってきてくれたお茶をグビグビと飲み干した。真夏に焦って自転車を漕いだ汗と涙でカラカラに乾いていた。茶類は水分補給にならないとHRで指導されたけど、それは帰宅してからグリと一緒に存分に補給することにする。

「落ち着いたか?」
「ごめん、ありがとう。もう平気」
「相当なストレスだったろうからな。泣いて全部流せば早く楽になるよ」

ベンチに跨ってヘラヘラ笑う央二郎だったが、は正面に向き合うと、深々と頭を下げた。

「本当にどうもありがとう」
「何だよ急に。別に走り回っただけで見つけてないけど」
「ひとりじゃどうしていいかもわからなかった。助けてくれてありがとう」
「別に助けるつもりはなかったんだけどね」

結果的にと央二郎の捜索は何の意味もなかった。もし央二郎が散歩コース以外に「グリが行きたがりそうな場所」や「家族以外に好きな人はいないか」などと問いかけていたらあるいは、というところだが、それは結果論。動揺していたにとっては、一緒にいてくれただけでもありがたかった。

なんだかチャラくて不真面目で不誠実な感じがするし、実際弟に女の影ありと見て毎日のようにからかってきていたのだし、央二郎に対してはマイナスの感情しかなかった。しかし、グリが行方不明とわかるや、の手を取って積極的に捜索に協力してくれた。それは何よりも感謝に値する。

「それでも私は心強かった。見捨てないでくれてありがとう」
……どーいたしまして」

央二郎の声が少しくぐもったので、はやっと顔を上げた。すると、勢いよく引き寄せられてぎゅっと抱き締められてしまった。薄暗いバスケット広場にヒグラシの声だけがこだまして、は全身にぞわりとしびれが駆け抜けた。今の会話から抱擁になるような要素、あった?

「お、央二くん、何やっ……
「暑い中走り回ったんだから、ちょっとくらいいいだろ」
「え、だから暑いんなら別にこんな」
「お礼、これでいいよ」

確かに何か礼をせねば、とは思っていた。だけどそれはコンビニで好きなもの奢るとか、オンラインショップのギフトカードとか、そんなものだと思っていた。これじゃお礼にはならないし、こんなお礼をするつもりはないし、抱擁以上のことを要求されても困る。

だが、驚いて動揺してもぞもぞしているの首筋に央二郎はすりすりと口元を寄せてくる。の肌が粟立ち、カッと顔が熱くなる。こうしていると、本当に宗一郎なのではと錯覚を起こす。顔や佇まいには微妙に違いがあるが、声はまったく同じに聞こえるからだ。

ふいに腕が緩んだので、はすぐに身を引いたのだが、依然として背中をガッチリホールドされており、今度は顔が近付いてきた。マズい。は精一杯体を反らしてみたけれど、そうすると今度は胸がガラ空きになってしまう。それを狙っていたのだろうか、央二郎は素早くの鎖骨あたりに顔をうずめてきた。

「ちょ、ちょっとほんとに離し――
……、オレも助けて」
……え?」

初めて聞く、低くて小さくて細い声だった。はつい押し返す手を止めた。

「どういう……意味?」
「ぎゅってして、さっきオレがやったみたいに、撫でて」
「はい?」
「いいじゃん、してよ、頑張ったんだから、褒めてよ」

意味はわからなかった。央二郎が何を言いたいのかわからなかった。けれど、耳元で聞こえてくる声はいつもの軽薄そうな央二郎の声ではなくて、兄が未だ立ち直れていないんだ、と苦しそうに語る宗一郎の声と同じだった。無理しないでほしい、迷惑でない程度に協力したい、そういうの癖に火をつける声だった。

つい止めてしまった手は行き場もなく宙に浮いていた。その手をそっと央二郎の頭に落とす。

……撫でるだけじゃなくて、ぎゅって」

もう充分央二郎の両腕はの体を「ぎゅっ」としていたけれど、の腕の方はやんわりと彼の肩に添えてあるだけだった。どう考えても「ぎゅっ」の必要はなかったし、お礼というのもおかしな話だし、央二郎がなぜ急にそんなことを言いだしたのかもわからないけれど、は何も考えずに、彼の頭を抱え込んだ。

不安で悲しくてどうしたらいいかわからなくて心細くて――そんな気持ちなら、今日何時間も充分に味わった。

…………怖いの?」

少し力を入れてみると、微かに頷いたような気がした。宗一郎と錯覚していた感覚はいつしか消え、には央二郎という人の体の暖かさと首筋にかかる吐息だけが残った。

突然甘えてきた央二郎だったが、がおろおろしている間にまた突然元に戻り、少し猫背で軽薄そうな彼に戻った。そしてポカンとしているを促して自宅まで送り届けた。

「今度から人が来る時は予め2階にでも避難させときなよ」
「う、うん、そうする……
「あ、やべ、ここにいたら親に見つかっちゃう?」
「え」
「男と一緒じゃマズくない? 平気?」

ニヤニヤと心にもなさそうなことを言っているが、は「確かに親にはあまり見られたくない」という照れの気持ちと、央二郎は別に恥ずかしい人なんかではない、という気持ちでまたふたつに割れていた。そして唐突に思い出す。

「ていうか、ほんとにちゃんとお礼したいんだけど」
「だからアレでいいって」
「あんなのお礼になってないから」

というか逆にあれがお礼として成立してしまっては困るのだ。だが、央二郎はぐいっと顔を近付けてくる。

「ふーん。じゃあ、チューでもいいよ」
「は?」
「キス。そうだなあ、出来れば唇くっつけたままちゅーちゅーする感じのがいい。エロいの」
「は!?」
「チューしていい感じだったらエッチしてもいいし」
「何言ってんの!?」

狼狽える……というよりは驚愕しているに対し、央二郎は実に淡々とそんなことを言う。

「ほらー、この程度でそういう反応なんでしょ。やめときなって」
……なんで私が無理な要求したみたいなことになってるの」
「ぎゅーってくっつくくらいでいいことにしとけよ」
「お礼したいって言ってるだけじゃない。どうしてそうやってふざけたことを言って、意地悪な――

とうとう頭にきてしまっただったが、央二郎は動じることもなく近付けた顔でにんまりと笑う。

「ふざけてないよ。犬一緒に探したお礼くらいだったら、一発やらせてくれるくらいでいいよってオレは普通に思ってるけど? それがふざけてることになるのはがそういう人だからでしょ。常識的に考えて、とかそういうこと言っちゃう? 残念だったね、オレ、非常識な人間だからさ」

それでも彼の笑顔は柔和で、は心の中で振り上げた拳の下ろす先を見つけられないでいた。

そして央二郎は振り返って自転車に跨ると、意味ありげに首を傾げて付け加えた。

「宗は常識人間だと思うよ、みたいな」

そしてそのまま走り去ってしまった。