太陽と月の迷い路

9

また翌日、父との会談が成功に終わったは、ジャージ代を握り締めて学校にやってきた。

昨日は思わず央二郎に向かって「神が好き」だと叫んでしまったが、よく考えたら央二郎も神だし、完全に勢いだったし、どうにもまだ宗一郎を好きだと胸を張って言える気がしなかったせいもあって、自分を奮い立たせるためにも本人に会おうと考えたのだ。

ジャージ代は新学期になってからでいいと言っていたけれど、口実は今のところこれしかないし、預かれないと言われたら持って帰ればいい。父がポケットマネーからなんとかひねり出してくれた2000円、意外と着心地が良かったジャージ以上の働きをさせてこよう。

は蒸し暑い曇り空の下を学校に到着、意気揚々と体育館に向かった。もうすぐ昼だし、練習が終わったところを捕まえれば話は早い。用件は多くない。ジャージ代を言い訳に声をかけ、改めて花火大会に行きたいと言うのだ。ぜひ一緒に行こう、そう言うだけでいい。

何度も頭の中でシミュレーションを繰り返しながら体育館にやって来たは、慌てて足を止めた。

いつもキュッキュッという床にバッシュが擦れる音と、力強くボールが跳ねる音ばかりが聞こえてきている体育館は、全てのドアに人が溢れ、わーわーいう人々の声で埋め尽くされていた。しかもなんだか見慣れないジャージが大量にいるし、今日は練習試合でもあったのか!? と目を剥いた。

とにかく全てのドアが埋まっているので、は道筋を逸れて校舎に向かう。そこから本校舎に入り、2階へ行く。体育館へ入るルートは3つ、周囲のドアと、正面入口と、そして本校舎から繋がる通路、である。そっちから回ってみた。するとこちらも人でいっぱい。

本校舎から繋がる通路は体育館に接続したところで2部屋になっており、普段は卓球部の活動場所兼室内競技の道具置き場になっている。その2部屋は体育館内を見下ろせる窓がついているので、これまたスーツの男性やらジャージの生徒やらでいっぱいになっていた。

2000円の入った封筒を握り締めながらその部屋を覗き込んだは、近くにいたスーツの男性が後ろで組んでいる手にある書類が目に入った。目を細めてなんとかその字を読み取ってみる……と、「国体」の二文字が。廊下の壁にへばりついていたは片手で顔を覆った。忘れてた!

もう8月も下旬、神のざっくりした説明によれば、ここ十数年海南だけで出場していた国体が混成になるため、代表が決まり次第合同練習が開始される――ということのはずだった。スーツ姿の男性、見慣れないジャージ、なるほど、合同練習だったわけだ。

はすごすごと廊下を戻り、図書室の休憩室にやって来ると、扇風機に近い席でぼんやりと空を見つめていた。勢いを挫かれてしまった。さあどうしよう。

しかし花火大会まではもう日がないのだ。一番の問題だった央二郎は、もし着いてきてしまっても毅然とした態度で接することが出来るような気がするけれど、宗一郎とギクシャクしてしまっては本末転倒。央二郎なんかどうでもいいから、ちゃんと話して改めて約束をしてしまわねば。

彼が今国体代表としていくつかの他校の選手たちと練習に励んでいるのはわかっている。それは邪魔したくない。だから、練習が終わったら少しだけ。たぶん、1分もかからずに終わるから。

は頭も一緒にクールダウンさせると、購買へ向かい、そのついでに体育館も覗く。まだ全然練習中。購買でパンを買って帰り、さっさと腹ごしらえをすると、これまでにないクリアーな思考の中、社会活動のレポートに取り掛かり始めた。合同練習はまさか昼過ぎには終わるまい。

バスケット部の活動がどうなっているかはよく知らないけれど、それでもこうした休暇中などの部活動は各施設利用に時間制限があったはずだ。だからきっと夕方まで練習をやったら合同練習は終わり。そうしたら体育館は閉まってしまうので、宗一郎は運動公園で個人練習をせざるを得なくなる。

しかし運動公園には央二郎がいるかもしれないし、出来れば学校で話してしまいたい。

その一心で集中力が高まったは、午後をフルに使ってレポートを完成させた。まだ手直しがいるかもしれないが、ひとまず書ききったのでよしとする。時間を見ると、16時45分だった。荷物をまとめ、そそくさと図書室を出ると、体育館に向かう。まだ人はいるが、ボールの音がしない。

隠れる必要はないのだが、はつい物陰に隠れて様子をうかがう。どうやらの見当通り、17時を目安に練習終了だったらしい。練習後のミーティングか何かをしている模様。

やがて17時を待たずに各所のドアにひしめいていた人々がワッと散っていった。本日終了というところだろう。はそれを確かめると、正面入口の方へ回る。部室棟へは正面入口から出るのが一番早い。その正面入口を出たところで待てば、宗一郎を確実に捕まえられるはずだ。

とはいえ正面入口の脇に立ってもいられないので、少し離れた場所で待つ。もし万が一宗一郎が誰かと大盛り上がりで喋っていたら、それはそれで声をかけられないからだ。

やがて見覚えのある海南3年生を先頭に、ぞろぞろと部員が出てきた。誰も彼も巨大でビビるが、2000円の封筒を握り締めたは深呼吸してじっと待つ。やがて首にタオルを引っ掛けた宗一郎が出てくると、は浮足立った。しかもひとり。誰ともお喋りはしていない。

一歩、また一歩進み出る。神、気付いて!

が声をかけるまでもなく、宗一郎は女子の制服に気付き、しかもそれがであるとわかると、「あ」とでも言っているのか、口がパカッと開いた。そして足を止め、ぞろぞろと部室に向かう代表たちの列から一歩踏み出した、その時だった。

お互いのことをまっすぐに見ていたと宗一郎の間に、数人の女子が飛び込んできた。制服ではなく、ジャージやらTシャツ短パンやら、着ているものは様々、しかし一貫性はなく、色んな運動部の女子が集まっているようだった。それが宗一郎の前に躍り出て、きゃっきゃと騒ぎ出した。

驚いて足を止めたはぽかんとしてその様子を眺めていたが、どうやら現在宗一郎と同じクラスの女子である模様。所属部はバラバラ。だけどバスケット部が国体の合同練習をしているというので見に来た、神奈川の全バスケット部員の中から選ばれた精鋭ってすごいね、と褒め倒している。

彼女たちの向こうに立ち止まったままのが見える宗一郎も慌てていた。なんて言えばいいだろう。しかし、先日の件を考えるとが何の用でここまで会いに来たのかもわからず、かといって自分たちが学校の外でも親しく遊ぶ仲だなどとは勝手に言えないし、押されるままになっていた。

代表たちが全員クラブ棟に移動してしまっても、彼女たちはまだ喋っていた。むしろ宗一郎がひとり取り残されたので話しやすくなった、とばかりに彼を取り囲んであれこれと話している。

それを見ていたは、学校の外で宗一郎と会うようになって以来初めて嫉妬を覚えた。宗一郎はクラスの女子と喋っているだけ、付き合ってるわけでもないのだから学校の中で親しいと知られたくないと言ったのは自分、それでも彼女たちを押しのけて宗一郎の前に飛び出たかった。

そして、そう感じてしまったことがむしろショックだった。

神は別に、私のものじゃないのに――

気持ちが挫けないうちに……と考えてのことだったけれど、たった今挫けた。そう、宗一郎と特別な関係になるということは、今ふたりの間に挟まる彼女たちのような存在にも「自分は宗一郎にとって特別な存在なので、どうか皆さんは遠慮を」と堂々と言えるくらいにならなければならないのだ。

神宗一郎とは、そういう覚悟を求められるだけの相手だった。それは、怖い。

気持ちは挫けたし、ジャージ代は新学期でもいいし、なんなら央二郎に預けてもいいんだし、帰ろう――そう考えてが片足を引いたときだった。宗一郎を取り囲んでいた女子たちの中のひとりが、に気付いてしまった。と宗一郎、ふたり揃ってサッと血の気が引く。

「あれ? 神、知り合い?」
「えっ、ああ、うん」
「うわ、何もしかしてうちら邪魔しちゃったとかー?」
「ううん、そうじゃ……
「何それもしかしてラブレター!? 茶封筒で!?」

面白がっているのかからかっているのか、それとも嫌味なのか。も宗一郎も冷や汗をかくばかりでよくわからなかった。だが、の手の中の封筒まで見つけられてしまっては、もうどうしようもない。は努めて視線を上げながら歩を進め、彼女たちの間に割って入って宗一郎の前に出た。

「そうじゃなくて、神、これ、代金」
「代金? 神、なんか売ったの?」
……この間、ここでゲリラ豪雨にやられて、Tシャツ、譲ってもらったから」
「えっ、嘘、男バスのTシャツ!? 欲しいー!」

が喜んだように、彼女たちもやっぱり男子バスケット部のTシャツとあらば金を出しても欲しいアイテムだったようだ。の背中にワッと飛びついて、期待に満ちた目で宗一郎を見上げている。

実際、SサイズMサイズはほぼ需要がなくて、埃被ったダンボールの中にしまい込まれたままだ。だから欲しいと言うなら放出してやってもいいんじゃないの、というのが実情だが、宗一郎の独断で出来ることではない。

「ご、ごめん、は緊急事態だったから、たまたま」
「えー、じゃあ雨の日にずぶ濡れになればいいってこと?」
「そういうわけじゃ……
「だって同じことじゃん! ずーるーいー!」

頭の周りでキャンキャン騒がれたはくらりと目眩がして、グッと奥歯を噛み締めた。そして、力を入れて茶封筒を持ち上げ、宗一郎の目の前に付き出した。

「助けてくれてありがとう、ございました、これ、お金」
「えっ、あ、その……
「ねーねー、さんだっけ、Tシャツ、譲ってくれない? 金払うしー」

女子たちが私も私もになってしまったので、は俯き気味のまま声を絞り出す。

「む、無理、おと、お父さんが着ちゃってるから……
「ちょ、なんで親になんか着さすの。海南の男バスのTシャツだよ!?」
「めっちゃレアなんだよ、知らなかったの?」
「もったいね〜!」

しかしどうやら彼女たちはを攻撃したいわけではなさそうだ。さもありなん、何しろ2年生の中ではあまりに有名で目立ってハイスペックな宗一郎と、その他大勢のである。など、本当にたまたま通りかかってしまっただけの通行人Aとしか思えないはずだ。

彼女たちの中にと面識のある子がいなかったのも運が悪かった。自分たちは同じクラスだし同じ運動部だし、宗一郎の事情も男子バスケット部の事情もよくわかってるけど、あなた何も知らない子だよね、という前提があるのだろう。この場においてはの方が「部外者」的存在に見えるはずだ。

校外での数ヶ月を校内に持ち込みたくないと言ったのは自分だから――はある種の諦めのような気持ちが襲い掛かってくるのを感じていた。彼女たちに抗って大きな声を出し、何なら宗一郎の腕を掴んでこの場から離れるというくらいのことをする勇気がない。央二郎じゃあるまいし、出来ないよ。

は2000円の入った茶封筒を力任せに宗一郎の胸に押し付けた。もう限界だ。思わず封筒を手で押さえた宗一郎も何か言わねばと思うのだが、なんて言えばいいのかわからない。にはただ無言なばかりの宗一郎としか、映らない。

女子たちの騒ぎ声の中、はつい、呟いた。

……花火」
「えっ!?」
「お、お邪魔しました」

宗一郎の耳にかすかに届いただけの囁き声、それだけを残してはその場を逃げ去った。また逃げ出してしまった。けれど、もう2000円は渡してしまった。学校の外でも仲良く遊んでいた仲だったけれど、ふたりで出かける仲だったけれど、もうきっかけがない。言い訳がない。

背中にTシャツ欲しいと騒ぐ女子たちの声がいつまでも聞こえているような気がする。

真夏の午後、逢魔が時には程遠く、メルヘンもトワイライトゾーンもなく、どんよりとした曇り空に重苦しい雲があるだけの世界は何ひとつ不可思議なことはなく、不快な湿気に肌を滴る汗の気持ち悪さと同じように、ただひたすら、現実だった。

「今度は何やったんだよ鬱陶しいな」
「オレは何もしてない」
「じゃあ何だよか?」
も何もしてない」
「あーそう、何もしなかったからこじれたわけね」

さすがに央二郎だ。今日はもうドン底まで落ちてベッドに倒れ込む気力すらなかったようで、宗一郎は共用スペースのビーズクッションの上にうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。手には茶封筒。

携帯でパズルゲームをやりつつ央二郎が全てを聞き出したところで、宗一郎は尻を蹴られた。

「言ってやればよかったのに、ちょっとふたりで話があるから外してくれって」
……が知られたくないって、言ってたから」
「嘘も方便て言うだろ……。犬のことでもなんでも、言い訳はいくらでもあったはずだ」
「後でがヘイト買うようなことになったらって……
「クラスも違うし部活もやってないし面識はないし、お前が庇ってやればいいだけの話だし」
「女子の間のことだぞ、そんな男が考えるみたいに簡単になんて」
「めんどくせえな〜!」

央二郎はまた宗一郎の尻を踵で蹴る。というか宗一郎の方は言い訳を並べているわけではないのだ。央二郎が言うことはもちろんわかっていて、けれど焦って狼狽えるあまり毅然とした態度を出せなかったことを後悔するあまりドン底になっているというわけだ。それがわかるので央二郎も遠慮しない。

怖かったろうな、それじゃ」
「オレも怖かった」
「それはオレも怖いと思う」
……、最後に、言ったんだ」
「何を」
「花火、って、か細い声で」

もしかしたら央二郎が着いてくるかもしれないからどうにかしなきゃ、と悩んでいたのが嘘のようだ。のか細い囁き声は宗一郎の胸を抉り、今もチクチクと痛めつけてきている。

花火大会のことはふたりからちらりと聞いただけだった央二郎がさり気なく続きを促したので、落ち込んでいる宗一郎はまたペラペラと喋ってしまった。ドレスを着てみたいというので一緒に選んだこと、買ったはいいけどそれを着ていく場所がないというので、花火大会に誘ったこと、それをどうするかはまだ未決のままになっているということ。なのに抱擁事件と今日で二度もこじれた。

「落ち着け、こじれてない」
「なんで」
「ふたりでちゃんと話してないだけ、こじれたように見えてるだけ、さっさとアポ取って会ってこい」
「これ以上深追いしてもにつらい思いさせるだけなんじゃ……

携帯を手にしてみたものの、そのままがっくりと項垂れる宗一郎をまた央二郎の爪先が突っつく。

のため? お前に覚悟がないだけの話だろ」
「オレだけ覚悟しても……
「覚悟ってお誘い合わせの上声掛けして一斉にするものだったか?」

ビーズクッションの上にふたり、ごろりとひっくり返ったまま天井を見上げた。

「優しいのはいいけど、お前のは残酷な優しさってやつになりかねないぞ」
「お前の意地悪の底に実は優しさがあるのが見えないように、か?」
……そんなもんねえけど」

央二郎の声がくぐもる。寝返りを打って背を向けてしまったらしい。宗一郎は央二郎の背中をちらりと見ると、ゆっくり深呼吸をする。央二郎がサッカーを、宗一郎がバスケットを始めるまでは、何もかも同じだった相棒の心、あの頃はもっとよく見えていた気がする。それでも央二郎が唯一無二の存在であることには変わりがない。

「オレに嘘ついてどうするんだよ」
「嘘なんかついてないって」
「バレるってわかってるのに嘘つくなよ」
「だから、嘘じゃねえし」
「オレの嘘がお前には通じないように、お前の嘘もオレにはわかるんだよ」

央二郎は応えない。耳の後ろをガリガリとかきむしり、背を丸める。

「高校が分かれてからますますお前のことがわからなくなった。だけど、それは外で高校生やってるお前をオレが知らないだけの話だ。だけど母さんの腹ん中から一緒に出てきた神央二郎のことなら世界中の誰よりもよく知ってる。父さんや母さんよりもお前のことはオレが一番わかってる」

少なくとも宗一郎には兄と距離を置くつもりなんかなかった。それでもお互い自分を最大限に活かせて気持ちを傾けられる場所を求めた結果、早々に道が別れた。ただそれだけの話だ。

もっと話してほしいとか、もっとお互いのプライベートをさらけ出そうなどとは思わない。もう道は別れたのだ、無理に進路変更の必要は感じなかった。だけどあの事故以来、兄弟の世間的な評価が逆転して以来、朝と夜のように明暗が分かれてしまって、それがふたりの関係にも響いている気がしたのだ。

央二郎はわざとらしい咳払いとあくびをするとのそりと起き上がり、猫背のままぼそりと呟く。

……そういうことはに言えよ。兄貴に言ってどうするんだ」

確かに。宗一郎は鼻で笑い、珍しくニヤリと目を細めた。

「覚悟、出来たかもしれない」
「は?」
「オレ、もお前も、どっちも大事だから」
「お前なあ」

照れているのだろうか、央二郎は宗一郎に顔を見せずに立ち上がって私室に入っていく。そしてまた首筋をボリボリかきむしると、少しだけ後ろを振り返ってぶっきらぼうに言い放つ。

「大事、とか、曖昧な表現に逃げてんじゃねえよ。に言う時はもう少し言葉考え直せ!」

バタンと勢いよく閉じられたドアに、宗一郎は声を殺して笑った。