太陽と月の迷い路

5

翌日、は激しい自己嫌悪とともに目覚めた。目覚めたというか、ほとんど眠れなかった。

ああいうのを正しく「遊び人」というのではないだろうか……は目覚めるなりため息をついた。つい絆されたを敏感に察知したか、央二郎は彼女を促してベンチに並んで腰掛けさせ、グリのことから始まり、他愛もない話題で30分近くも足止めさせた。

気付いた時にはも普通に喋っていて、中学生の時に好きだった先輩の話まで喋ってしまう始末。

その上、好きだった先輩には冗談めかしてバレンタインチョコを贈りたいのだと言ってみたところ、普通に真顔で「いらない」と言われた苦い記憶があり、それを話したら一瞬気付かないほどさらりと慰められ、先輩の方がバカだったんだと思えるようになってしまった。央二郎恐ろしい。

一体習っていたスポーツが違うから、当時の成績が違うからと言って、その他の点では同じ環境で育った双子にここまで差が出るだろうかと思ったけれど、よく考えると彼らは別々の高校に入ってそろそろ1年半になろうとしているのである。高校から生活環境が離れても充分変わってしまうか……とまたため息。

いや、央二郎も元々は宗一郎のようだったのかもしれない。それが彼だけ遊び果てた末にチャラけてしまったのだとしたら、宗一郎も警戒している女の子を緩ませてしまえるようになるのかもしれない。そう思うと、また宗一郎と央二郎の境目が歪んでじわりと混ざってしまい、気持ち悪くなってくる。

さらに央二郎は、30分ばかりをとっ捕まえてベンチでお喋りをしたけれど、本当に喋っただけで帰っていったのである。連絡先も聞かない、触ってきたりもしない、宗一郎とのことを蒸し返したりもしない。央二郎を拒絶しなければと構えていたは、その意義がよくわからなくなってしまった。

央二郎くん実は結構いい人だよ! とまでは思っていないけれど、この春からのこと、宗一郎はグリと遊びたかっただけで、ふたりで出かけたことも出かけようとしていることも、たまたまでしかなくて――としっかり話をすればわかってもらえるんじゃないだろうか、という気がしてきた。

当の弟も花火大会に関しては警戒してしまうけど、兄のことを嫌だと思ったことはないと言うし、むしろの感覚では「あの神が言うんだから、央二郎くん悪いやつじゃないんじゃないのかな」と思えてくる。

だからと言って、わざわざ意図的に運動公園へ散歩に行くわけではないのだが、毎日朝晩散歩の繰り返し、特に今夏休みのがグリの散歩に行く回数も多く、従って運動公園の回数も増えてしまう。案の定、中1日挟んだだけではまた央二郎に遭遇した。ヒグラシの声が遠く聞こえる夏の夕暮れだった。

……双子って言っても、ペアじゃなきゃ嫌だとか思ってるわけじゃないんでしょ」
「そりゃそうだよ」
「じゃあどうして似たような髪型してるの」
「叔父が美容師だからじゃない? オレたちが就職するまではタダで切ってくれる約束なんだよね」

ふたりの母方の叔父が美容室を経営しているらしく、子供の頃から毎月のように切りに行っていると央二郎は言う。当然カラーとかパーマとかは無料ではやってくれないし、叔父さんのスタイリングでただ切るだけだから同じにされてるだけ、とのこと。

「高校入ってから伸ばして染めてみようかと思ったんだけどさ、たっかいのな、カラーとかって」
「ショートカットなんだから自分で染めればいいじゃん」
「えー。ああいうのって髪に良くないんだろ? 上手にできそうもないし」
……私もやったことないからわかんないけど」

どうしても染めたければ、そんなこと構わずにやっちゃいそうなものなのに……は内心思った。髪が傷もうがどうせベリーショート、2ヶ月くらい待って切り落としてしまえばすぐに元に戻るじゃないか。地毛コスプレに命をかけている同中の友人がいるが、美容院でなんか染めてないぞ。マニックパニック様々。

つまりこの央二郎、プロフェッショナルである叔父さんの「髪が傷むからやめなさい」という忠告を素直に守っているということだろうか――はまた央二郎のイメージがぐにゃぐにゃと歪んできて、ぺしゃりとベンチに腰を下ろした。央二郎と話しているはずなのに宗一郎を感じてしまい、目眩がする。

「央二郎くんは」
「央二郎でいいよ」
「弟を名字で呼んでるのに」
「おうじ、でもいいよ」
……央二くんは、暇なの?」
「逆に聞くけど、普通高2の夏休みってそんなに忙しい?」

組んだ足に肘を置いて央二郎はにこにこしている。は喉にものがつっかえている感じがして、グッと飲み込む。それを言われてしまうと返しようがない。宗一郎の方が特殊なのだ。や央二郎のように、アルバイトをしていなければそんなに毎日多忙というわけでもあるまい。超難関狙いならともかく、受験も遠い。

「あそ、遊び慣れてそうだし、友達も多いんじゃないの」
「多いよ。みんな似たような暇な高校生ばっかりだけど」
「そういう子たちと遊ばないの?」
「遊んでるよ。でもこんな早い時間からは遊ばないかな」

央二郎はまたにっこりと目を細める。はまた喉が詰まる。ですよねー。

「ふふふ、、なんでオレがここに来るんだろうって思ってるんでしょ」

そして完全に見透かされている。とっさにいい返しが出てこない。そうですと認めたようなものだ。

と話したいなって思っただけなんだけど」
……私と話しても面白いことなんかないでしょ」
「え。面白いけど……
「どの辺が」
「普通の話ができるところとか」

それの何が面白いんだろう。体のいい言い訳じゃないのかそれ。そう思ったのが顔に出ただろうか、顔を上げたはまたゆったりと微笑んでいる央二郎にたじろいで頬を強張らせた。

「友達多いのに、普通の話、出来る友達、いないの」
「まあね」
「てか、普通の話って何?」
が聞きたくないって思うような話題じゃない話」

どうにも央二郎のペースに乗せられている気がする。はまた返事に詰まった。早いところ弟の友人の面白みのなさに気付いてもらい、いたずらにちょっかいをかけることに飽きてくれないものかと思っていたけれど、どう頑張っても相手の方が一枚うわ手だ。

という風にが気力を失っているのも、央二郎にしてみれば手に取るようにわかるんだろう。

「で、はいつ宗に告るの」
……またその話?」
「男の方から言ってほしいって気持ちはわからないでもないけどね〜」

央二郎の読みは正しく、も宗一郎も相手が告白してくれるのを待っているような状態だが、とりあえず花火大会の約束があるのだし、それ以前にうっかり自分から言ってしまってブチ壊しになることは避けたい。なんなら告白は花火大会の時の様子を見てから……

「てかマジで宗ってヒマないけど、それでいいの」
「私が、いつ、神のこと好きだなんて言ったの」
「うわ、平気なんだ。まあそうか、もう4ヶ月くらいそれで来てるんだもんな」
「央二くん、あのさ」
「ん? なーに?」

意を決して反論してみようかと背筋を伸ばしたは、そんな優しげなことを言いながら顔をぐいっと寄せてきた央二郎に驚いて思わず身を引いた。だが、央二郎はさらに距離を詰めてきて、の手を取る。

「オレで練習してみる? 宗の言いそうなことくらい、何でもわかるよ」
「は、はな、離して」
「宗がオレになることは難しいけど、オレが宗になるのは簡単」

にっこり笑った央二郎は一瞬目を閉じて息を吸い込むと、また顔を寄せてきた。

、今度の花火大会、楽しみだね」

央二郎の指がするりと絡み、は彼の目を見つめたまま思考が停止した。服装や髪型が視界の端っこにいて、目の前にあるのは宗一郎にしか見えないような顔だけ。それが同じ声で、約束の花火大会のことを言っている。待って待って、これは央二郎だから、宗一郎じゃないから――

やけに耳につくヒグラシの声、息苦しいほどの動悸と目眩の中で、しかしはありったけの気力を振り絞って首を動かし、下を向いた。キスされる寸前だった。

「こんなことして、人のことからかって、楽しい?」
「からかってるように見える?」
「見える。神が普段女子と遊んだりしなかったのに、急に私が現れたから、面白がってる」

上ずる声でそう言ったはつい央二郎の手をぎゅっと締め上げた。

「神とは、グリと一緒に遊んでるだけだし、そんなことでも他の女子に知られたら面倒だから学校ではほとんど口も利かないのに。何も、バスケ部の次のキャプテンと付き合いたいから犬を使って声かけようかなとかそんなことしたわけでもないのに」

少しずつ少しずつ、自然に距離が縮まっていっただけなのに、何で横槍を入れられなきゃいけないんだろう。そういう思いが溢れ出てきたは、早口でそうまくし立てた。自分たちのペースで進めていただけなのに!

「へえ、じゃあ宗のことは何とも思ってないの? まあ、あいつ面白くないしね」
「えっ、そ、そういう意味じゃ……
「じゃあオレと付き合わない?」
「は!?」

仰天したは慌てて手を離そうとしたけれど、ガッチリ掴まれてしまって取れない。

「宗のこと好きじゃないんだったらいいじゃん。オレ時間あるよ」
「べべべ別に私と付き合わなくたって、央二くんには他にいくらでも」
「んー、友達はいっぱいいるけど、付き合うとなったら話は別じゃない?」
「だからそれは付き合う理由には……
「理由なんて、まずは付き合ってみて、それから考えればいいじゃん」
「それも違くない!?」
「うわ、まじか」

ついご機嫌取りだったことも忘れて突っ込んだに、央二郎は目を剥く。

「もしかして……好きになってからとか、片思いから告白してやっととか、そーいう手順を踏まないと恋愛できないタイプ? まじで? ほんとに現代人?」

の友人にも、央二郎の言うようなタイプはいる。しかしそのほとんどが真面目で勤勉なタイプの海南大附属の生徒にはそうでない者もとても多いのだ。はそのうちのひとり。決まった手順を踏まねばならぬとは思っていないけれど、央二郎が言うような手順もまた、出来るとは思えないし、やりたくもないのだ。

パートナーがいない同士、付き合ってみる? ダメだったら明日にでも別れましょう! はい、「付き合った人数」ひとりカウントです! みたいなのは肌に合わない。だからしなくていい。

「央二くんみたいな……遊び慣れてるタイプとは違うよ」
「うーん、普段どう過ごしてるかなんて関係ないと思うけどなあ。挑戦してみようって思わない?」
「それは、挑戦じゃ、ないと思う。何も考えてないだけだと思う」
「うわ、何気に失礼だね

それには謝らない。はつい「ごめんね」と言ってしまいそうになる唇をぐっと引き結ぶ。このお兄ちゃんは挫折から立ち直れなくて不貞腐れたままの困ったちゃんなのだと思うと、つい絆されそうになるが、それが一番マズい。突き放せばいいというものでもないけど、今は謝るべきではない。

「央二くんの私に対する興味は、ただの暇潰しだもん」
「そんなことないって! 優しいし可愛いし」
「それは嘘。少なくとも央二くんは絶対嘘。私本音で話してくれない人とは付き合えない」

は未だぎゅっと繋がれている手をそのままにして立ち上がった。

「手、離して。この間、中学ん時の先輩の話して、央二くんサラッと慰めてくれたけど、でも、先輩確かにひどいなって思うけど、でも嘘はついてなかったよ。先輩にとって私のチョコなんて必要ないものだった、先輩が欲しいって嘘ついてたら私のチョコはゴミ箱直行だったかもしれない。私はひとり浮かれてチョコ受け取ってもらえた! もしかしてもしかするかもなんて期待して、そのままずっと待ち続けてたかもしれない。先輩に直接連絡してまた嘘を重ねられて誤魔化されて、また待ってたかもしれない。そうならなくてよかった。確かに先輩冷たいなって思うけど、嘘つかれるよりはよかったんだなって今は思うもん」

一番誠実な答えとは何だっただろう。例えば優しい嘘なら、好きな人がいるから受け取れない、とか、好きな人がいるから義理ならありがたくいただくよとか、そんなところだろうか。しかし今のところにとってこの記憶は苦くとも過ぎ去った過去であり、先輩よりも神の方が好きだ。それでよかった。嘘は嫌だ。

「嘘、つかなかったらいいの?」
「また話が飛んでる。付き合う付き合わないじゃなくて、央二くん、私に興味、ないじゃん!」
「あるよ!」

繋いだ手を頼りに央二郎はサッと立ち上がると、素早く距離を縮めた。

「嘘、そんな――
「全然興味あるよ! 宗、なんでわざわざこの子なんだろって、ずっと思ってるもん」

逢魔が時の夏の夕暮れ、硬直したの見上げた先には、宗一郎によく似た顔が、にんまりと笑っていた。普段真ん丸できれいな目と、甘い口元が、遠くに浮かぶ三日月のように湾曲している。

無意識に手を振り払ったは、そのまま駆け出した。央二郎が怖かった。

宗一郎が自宅へ戻ると、双子の共用スペースで央二郎が携帯をいじっていた。ゲームをやっているらしい。

現在の家はふたりが小学生の頃にリフォームされた家で、元々は彼らの父親の長兄の家だった。さらに遡ると祖父の家であり、祖父が他界し祖母が長女と同居のために家を出て長兄が受け継ぎ、彼が長期海外赴任になって、その弟のものになった。そういうわけで古いが、すっかり手を入れてあるので小綺麗な家である。

その際、彼らの両親は子供が双子であること、ふたりともスポーツに熱心であること……を最優先し、思い切ったリフォームを決行。自分たちの寝室は1階にして、2階をほぼふたりに明け渡してしまった。オープンな共用スペースに収納と学習机を作り付け、洗濯物置き場やそれぞれの競技に合わせた棚やらフックやらをこれでもかというほど用意した。その上でベッドとテレビが置ける程度の個室を仕切った。

双子といえど、その頃既に環境の違いが生活にも出てきていたので、プライベートを確保しつつ、母親が片付けなどで素早く遠慮なく手を出せる状態にしたかったらしい。現在も寝室以外は母親が管理している。

その学習机が本棚で仕切られた共用スペースには大きなビーズクッションが3つ転がっていて、央二郎はそれをふたつ使ってひっくり返り、携帯を何やらちょこまかと操作していた。

「おかえりー」
「ただいま」
「国体どうなったよ」
「まだ何も聞かされてないけど、やっぱり選抜になるっぽい」
「へー、お前入れるの?」
「と思うよ。3年生だけってことはないだろうし」

央二郎が彼にとってはどうでもいい話を振ってくる間に、宗一郎は洗濯物をまとめて所定のカゴに入れ、翌日の練習着を出しておく。屋外の競技ではないので汚れは汗だけ、食事は帰宅してすぐに済ませたので、次はシャワーだ。下着とTシャツを掴んで階下へ降りようとした宗一郎だったが、背中に央二郎の低い声が飛んできた。

「今日に会ったよ」
……運動公園、行ったのか」
「そう。あの子無防備だよなー。夕方で薄暗いのにJKがTシャツに短パンて」

だからボディーガードしてきてやったんだ、というような口ぶりだ。宗一郎は細くため息をつく。

兄のことは本当に案じているのだ。怪我が元で競技には戻れなくても、彼には人好きする物腰や対人スキルがあるし、勉強もジュニアユースにいる頃でも決して怠けたりしなかったし、不貞腐れて時間を浪費しているのはもったいない。道は違えど唯一無二の双子、昔のような関係に戻りたかった。

しかし、どうにもに対して興味があるらしいことについては対処が難しい。

「海南はお前みたいに遊び慣れてる子が少ないんだよ。あんまり構わないでやってくれ」
「お前はいいの?」
「同じ学校の友達と、学校も違うその兄貴じゃ話が違うだろ。彼女どうしたんだよ」
「彼女ってどれ?」
……好きなタイプじゃないだろ」

央二郎が付き合っている女を全て把握しているわけではないが、それでも気が向くと彼は恋人の写真を弟に見せびらかすことがよくあった。容貌に共通点はそれほど見られなかったけれど、それでもとにかく毎回派手な感じのする女の子だった。真っ黒でまっすぐな髪で化粧っ気もなくても、常にまつげだけは分厚く、黒目が不自然に巨大化していた。そういう女の子を何度携帯のモニタで見ただろう。

Tシャツに短パンであくせくと犬の散歩に出かけてくるような女、好みじゃないくせに。

「タイプじゃなくてもいいじゃん。てかあの子の何がよかったんだ」
……そういうことじゃないって言っただろ」
と同じこと言うなよな〜お互い告り待ちのくせに」
も同じこと言ったんだろ、だったらそれが正しい」
「だーかーら、だったらオレがもらっても構わないじゃん」

央二郎はに見せたような、三日月のような目でにんまりと笑っている。

「央、暇なら……
「宗、風呂入るんだろ。お疲れ」

話の矛先が自分に向きそうになったことを察知した央二郎は、サッと手を上げてビーズクッションにどさりと寄りかかり、また携帯を操作し始めた。自分のことは話す気にならないらしい。

事故後はベッドの上でじっとしているしかない日々が続いていた。事故は春休みの間だったが、全ての処置が済み、話せるようになったのは入学式の直前だった。だから、少しだけ話したあとは、退院してきてすっかり不貞腐れた央二郎しか知らなかった。

それでもずっと心配している。サッカーはダメになってしまったけれど、央二郎ならほかにいくらでも自身を活かす道があるはずだと宗一郎は信じているし、兄なら何でも成し遂げられると本気で思っている。自分は地道な努力でしか道を切り拓けないけれど、兄は違う。そう思っている。

自分で力になれるなら、何でもするのに――ずっとそう思っている。