太陽と月の迷い路

7

部活もやっていない、生徒会の執行委員でもない、そもそも海南大附属は部活動の充実が高じて校内のメンテナンスにはきちんと外部サービスを使う方針で、そのため美化系の委員会活動も非常に希薄。なので、夏休み中のに学校に行く予定などあるわけがなかった。

それでも央二郎の相手に疲れ果ててしまったは、グリの散歩を1日休ませてもらいたくて「学校へ行く」と親に嘘をついた。学校へ行くいい言い訳が思いつかず、結局「友達に会う」という説得力のない説明になってしまったが、追求されることはなかった。

また、幸い海南大附属は夏休み中でも図書室と各教科の資料室を開放しており、特に外部を目指す3年生に重宝されている。何しろ図書室は広くエアコン・電源・ウォーターサーバー完備。併設されている休憩室にはソファ席もあるという中々に良い環境だ。

そこで課題の残りを片付けてもいいな、ギャラリーが多いようだったら少しバスケ部の練習覗いてみようかな、神にはバレない程度に――そう思っては学校までやって来た。しかし普段の登校時間よりずいぶん遅い上に8月の太陽の日差しは容赦なくの肌を焼いた。暑い。汗もかいてしまった。

お盆休み明けの校舎は人が少なく、放課後のような静けさだった。時間は10時、部活ならそれぞれの活動場所にいるだろうし、図書室へ向かう間もクリーンサービスのスタッフとしかすれ違わなかった。

図書室の中は熱された肌がスッと気持ちいいほどには冷えていなかった。しかし休憩室には扇風機もあって、はそこでしばしクールダウンしてから空いている机に腰掛け、のんびりと課題を始めた。

テーマが自由なので逆に手を付けるのが遅くなってしまった社会活動のレポートだった。内容は自由だが、実社会における何かしらのテーマについて実地調査を行い、まとめるというもの。まあ、自由研究の高校生版だ。迷った挙句、は楽をすることを選んで犬猫の殺処分・保護活動問題を選んだ。

これなら改めて調べずとも、何についてどれだけ書くか、というくらいの下書きさえあれば出来る。

というか、央二郎が現れるまでは、この夏休みをそこそこ神と過ごすつもりでいたのだ。彼がインターハイから帰ってきたら、休みや自由になる時間にすぐ合わせられるように、予定はなるべく入れないでおこうと思った。それが裏目に出て央二郎の相手をする羽目になったわけだが、そういうわけで、レポートは手抜き。

それでもグリを譲り受けた保護犬施設とは今でも連絡を取り合っていて、グリのその後の様子や、保護犬を引き取って飼育するということの報告を行っている。ボランティア活動もしたいけれど、学生の身では時間の都合がつかないことも多い。その辺も書こうと思った。

レポートは少なくても多くてもよろしくない。ネット上の情報のコピー・アンド・ペーストに頼らなくていいのは楽だが、それなりに「調べてきました感」が出ないとマズい。写真は添えようと思えばいくらでもある。下書きを見つつ、汗の引いてきたはレポート用紙にシャーペンを走らせる。

グリは最愛の家族だ。だけど、このところグリと央二郎はいつもセットで、こうして学校でひとりで文字を書き続けているとどちらも忘れられる気がした。そして今、やけに遠くに感じてしまっている宗一郎を近くに感じられるような気がした。彼は体育館の中にいる。

まだ花火大会までは少し時間があるけど、どうしよう、大丈夫かな、一緒に行けるかな――

そういう居心地の悪い不安は忘れたかった。央二郎にぎゅっと抱きつかれたときのような、視界が歪むような感覚は忘れたかった。宗一郎とふたり、グリと一緒に遊んだあのメルヘンの世界が戻ってくればいいのに――

確かに昼ごろまでは夏特有の巨大な入道雲が空を覆っていたのだ。

だが、がレポートと格闘している間に入道雲はいずこかへと流れていき、代わりに輪郭のぼんやりした灰色の雲の塊が忍び寄ってきていた。エアコンの効いた図書室でレポート用紙に向かって俯いていたが、ふと空腹を感じて顔をあげると、窓の外が妙に薄暗くなっていた。

時間を確認するともうそろそろ2時になろうかというところ。思いのほかレポートとしてまとめるのに手こずって、まだ半分も終わっていない。しかしは、それならまたここに来て続きをやればいいかな、と考えていた。明日すぐとは行かないけれど、数日おけばいいだろう。

そうやって央二郎から離れる時間を作りたかった。

は書きかけのレポート用紙に付箋を貼り、荷物をまとめて休憩室に向かう。一応まだ昼時なので、ソファ席は3年生に占領されている。なので自販機の近くのテーブルの端に腰掛けて、自分で作ってみた弁当を開く。

コンビニで済ませてもいいのに、なぜ自分で手作りをしてきたかと言えば、いつか宗一郎とグリと出かける時に持っていってみたかったからだ。なんだよその乙女思考、と自分でも呆れるが、弁当の内容を考えるだけで胸がときめいた。宗一郎に「あーん」してみたい。

頭のなかで考えただけなのに、頬がカッと熱くなる。そんな自分がなんだか恥ずかしくて、は俯き気味に弁当を突っついた。しかし、弁当持ってグリの散歩はいいけれど、央二郎をどうにかしないことにはそれすら実現しない気がしてくる。

例えば、同級生同士が付き合うまでに10ステップあったとする。段階は人それぞれだろうが、例えば自分たちの場合、1にも満たない関係だったのではないかという気がしてならない。央二郎は1から10まで5分で済むのかもしれないけれど、自分たちはそうじゃなかった。

それを横からかき回されても何も進まないし、むしろ後退してしまうような気さえしてくる。

ただ弁当を食べていただけなのに鬱々としてきてしまったは、ぐいっとお茶を流し込むと席を立った。ひとり静かなところで黙々としていたから余計なことで頭がいっぱいになったのだ。そう考えて図書室を出たは、のんびりと体育館に向かった。ちょっとバスケ部を覗いてみようと思った。

普段もバスケ部は見学者が多い。が、体育館の各ドア付近は接近禁止というルールがあり、見学は体育館側面のギャラリーに登って見下ろすか、正面口のエントランスから、という決まりになっている。なので、そこに生徒が固まっていれば紛れ込むのは簡単。その上、宗一郎は遠目に見てもわかりやすい。

央二郎のことは告げ口をしたくなかった。兄のことは大切に思っているらしいから、悪く言うようなことはしたくなかったし、宗一郎が練習している間に何度も会っていて、この間なんかぎゅーっと抱きつかれてキス寸前だった、などとはもっと言いたくなかった。

花火大会がもうすぐそこまで迫っていることはわかっていたけれど、それでも宗一郎にとっていちばん大切なことはグリでもでもなく、バスケットなのだということを自分に改めて言い聞かせたかったのかもしれない。

そんな思いで本校舎を出て、少し離れた場所にある体育館まで歩いていった――ら、誰もいなかった。

確かバスケ部って毎日練習があって、それも基本朝から晩までやってて……っていう話じゃなかったっけ? 海南のバスケット部が強いことはよくわかっていても、その練習がどのように行われているかは人づてに聞くだけのなので、たっぷり数分はその場で呆けていた。

しかし立ち尽くしていても何もわからない。気が削がれたし、今日はもう引き上げようかと思うものの、今帰ると夕方のグリの散歩に間に合ってしまう。今日はもう央二郎に会いたくないのだ。こちらも気乗りはしないけれど、仕方ない、ファストフードでまた課題をやるかな……などとがウロウロしていたときのことだった。

「あれっ、どうした?」

背後から聞こえてきた声には一瞬央二郎を思い浮かべてしまい、驚くあまり「ヒャッ」と乾いた悲鳴を上げた。だがそんなことはありえない。慌てて振り返ると、宗一郎が目の前に立っていた。

「うわ、ごめん、びっくりした?」
「ご、ごめん、誰もいないから今日は部活ないのかと……
「ああ、今日は監督午後から国体の件で出かけてるし、牧さ……先輩も進学の件でいなくてさ」

なので午前中で終わったのだという。週末には国体の選抜チームの発表も控えており、その件で代表選手が集まるだのなんだのと忙しくなるので、半休を挟むことにしたらしい。

はどうしたの。部活……やってなかったよね」
「え、あ、それが、親戚がね、来てて、課題やりたかったんだけど、うるさくてさ」

の頭の中では央二郎とグリが超高速で駆け回っており、そんなわけでグリ脱走事件の時のイメージからそんなことを言ってしまった。が、宗一郎は普段通り、疑う様子もないようだ。

「そうか、図書室静かでいいよな。涼しいし」
「そうなのそうなの。それでちょっと休憩がてらバスケ部覗こうかなあ、なんて思ってたらさ」

なんとか取り繕えたのでは口が軽くなってきた。央二郎はいないし、場所は学校だし、喋っているのは宗一郎だけれど、花火大会もサマードレスも恋心も忘れて話せている気がした。気楽な同級生同士だった頃のような、他愛もない雑談。

「てか、午後休みなのにここにいるということは神はやっぱり安定の」
「個人練習」
「すごいなあ、ほんとに毎日やってるんだね。私なんか犬の散歩で精一ぱ――

気が楽になったがペラペラと喋っていると、ふたりの間を夏らしからぬ爽やかで涼やかな風が吹き抜けた――次の瞬間、ふたりの頬にパッと散らしたような水滴が当たった。そして、それに気付いて手を頬にやり、空を見上げた途端、ザーッと激しい雨が降ってきた。

「ゲリラ豪雨だ!!!」
、早く、こっち!」

屋外で直撃を食らったことがなかったはつい大きな声を上げただけで呆然としていた。宗一郎はぼんやりしているの手を掴むと走り出し、本校舎ではなく、体育館のさらに奥にあるクラブ棟へと引っ張っていった。そっちの方が近い。

遠くに見える空が少し青い。本当に局地的な集中豪雨だったんだろう。その中をふたりは駆け抜けた。

「あわわ、入っちゃって大丈夫なの」
「大丈夫、また個人練習申請してるだけだから。タオルふたつあればいいかな」
「えっ、だってそれ部員用だよね!?」
「あっ、そうか、一応洗濯済みのものだけど気になるよな」
「わ、違う違う、私が使っちゃったらマズいんじゃないのって」
「それは平気。これレンタルタオルでさ。いつも何十枚も用意してあるから」

ゲリラ豪雨にやられて、ふたりともびちょびちょ。足元には丸く水たまりができるほどで、の髪の先端からもボタボタと水が滴っている。真夏とはいえ、これでは帰れない。

運動部のクラブ棟にはシャワールームがあるので入った方がいいと宗一郎は勧める。備品などを洗濯乾燥するランドリールームもあるそうだが、さてそれで制服のスカートをかけていいものだろうか。それ以前には着ているもの以外に服がない。

「ええと、緊急事態だからいいと思うんだけど、バスケ部Tシャツとジャージでどうかな」
「緊急事態でも怒られないかな」
「うーん、Tシャツはかなりストックあるし、ハーフパンツは確か2000円くらいだったと思うんだけど」
「にっ、にせん……

ある意味では消耗品なので、海南大附属男子バスケットボール部のロゴ入りTシャツはサイズ展開豊富で段ボール箱に詰まっている。ので、一枚あたりの価格も安い。が、ストックが少ない上にオーダーメイドであるバスケット部ジャージのハーフパンツはそうはいかない。アルバイトをしていないはためらった。

「Tシャツは平気、誰も在庫確認してないし、実はXXLばっかり減って他のサイズ使う人いなくて」

言われてみると、当の宗一郎も190センチくらいあるという話だし、見かけたことのあるバスケット部員たちはみんな背が高くて体が大きい。自己満足の筋トレじゃあるまいし、ピチピチのTシャツよりは、たっぷりと体を覆うサイズの方がいいんだろう。丈も合わない。

「ジャージはオレも半分出すよ」
「え!? ダメだってそんなの! 何言ってんの!」
「でも雨にやられただけで2000円はキツいじゃん」
「そこはもう親に頭下げます。バスケ部のジャージとかレアアイテム過ぎるしちょっと嬉しい」
「そう? 上のジャージは4500円だけどいかがですか」
「えっ、買っていいの」
「えっ、欲しいの」

そりゃあそうだ。神奈川の高校バスケットの頂点であり、入部した部員の殆どが1年生の1学期に退部してしまうという、選ばれし者のみで構成されるチームなのである。そのオリジナルジャージとなれば、本来なら素人で部外者のの手には入らない代物だ。

欲しかったら言ってくれれば買っといてあげるよ、などと笑う宗一郎にも少し緩んだ。どうやら下着は無事のようだが、制服は全てずぶ濡れになってしまった。これでは帰れないし、親に迎えを頼もうにもどちらも不在の時間帯なので、正直ものすごく不安だったのだ。幸い夏だし、Tシャツにハーフパンツなら充分に帰れる。

気が緩んで楽になったは女子用のシャワールームを借り、タオルでしっかり水気を拭き取り、真新しい海南バスケット部Tシャツとハーフパンツのジャージを着込んだ。鏡を覗くと、遠巻きにしか見られなかった選ばれし者のみの精鋭チームと同じTシャツを着た自分が写っている。

うわ、どうしよう女子マネみたい。

その当然の妄想にはひとりでジタバタし、しかし宗一郎を待たせていることを思い出して慌ててシャワールームを出た。もしひとりで男子バスケット部のドアを開けようとしているところを目撃されたら話がややこしくなるからだ。でも宗一郎と一緒なら問題なし。

「うわ、女子マネみたいじゃん」
「やっぱそう思う? 私も思った」
「まあもう女子マネなんてセクハラだって言われちゃうけどさ」
「強制してるわけじゃないんだから、やりたい人にはやらせてあげればいいのにねー」

練習の大変さは度外視でマネージャーになってみたいと思ったはそう返してニヤリと笑った。

「どうする? すぐ帰る? まだいるなら制服ハンガーにかけた方がよくないか」
「いるなら、って、だって神練習でしょ」
「えーと、一応18時まで練習申請してるし、今日は他に使ってる部、ないみたいだから」

海南大附属高校は運動部の活動が盛んになるに連れて体育館が増え、現在授業で使うスタンダードなタイプの大きな第一体育館に加えて、第2と第3まである。室内競技部はそれらをうまく譲り合いながら練習しているが、男子バスケットボール部だけはだいたい第1を占領しがちだ。

それはさておき、つまり宗一郎はがまだ帰らないなら、自分も付き合うと言いたいらしかった。

シャワーで温まったの頬が更に熱くなる。

「じゃ、じゃあ少し干していこうかな、借りていい?」
「はいこれ。エアコン少し強くしようか、除湿すれば乾くのも早いかもれしれないし」

ハンガーに制服のスカートを吊り下げたはそれを窓辺に引っ掛けると、いつか宗一郎から央二郎の話を聞いた時に腰掛けていた椅子に腰を下ろす。ミーティングなどに使うテーブルに、パイプ椅子が6脚。きっと監督やキャプテンや副キャプテンや、そういう人たちが座るんだろうな。

「そういやしばらく会ってないけど、グリ元気?」
「えっ、あ、うん元気元気、暑いからダラダラしてるけど変わりないよ」

神兄弟の顔でグリと言われると央二郎を思い出してしまうだったが、意識的にゆっくりと呼吸をして気持ちをなだめる。私が会いたくて会ってるわけじゃないもん。

まだ央二郎の件が解決を見ていない以上、花火大会のことを蒸し返しても堂々巡りになるだけだし、ふたりはやがてグリの話題からも離れて、バスケット部の話や課題の話と雑談にシフトしていった。

その間にも部室に据え付けられているエアコンは乾いた冷風を吹き出し、室内の湿気を除去していっていた。が、なにぶん業務用のパワータイプである。の制服のスカートから滴り落ちる雫の間隔が短くなる頃にはだいぶ部屋を冷やしていた。ので、は突然大きなくしゃみをした。

「わ、冷やしすぎたか! ごめん、今止める!」
「ご、ごめ……止めなくていいよ、弱めるだけでいいよ!」

くしゃみをしたらゾクリと震えが来てしまったは宗一郎の背中に向かって声をかけた。いくらゲリラ豪雨でも真夏の午後だし、エアコンを完全に切ってしまうとすぐに暑くなってしまう。というか改めて今宗一郎は「個人練習のために体育館を借りる申請をしていた」のであり、自分が引き止めているのだと思いだした。

今年のインターハイ、海南は準優勝だった。詳しくは聞いていないけれど、今年の海南にとって初めての負け試合だったという。もしそこで勝っていたら、日本一になっていた。宗一郎はそういうチームの一員で、年末にはそのチームのリーダーになる人なのだ――ということも一緒に思い出してしまった。

うちの飼い犬とか、花火大会が、そういう大会や練習で疲れ切っている彼の時間を奪っていいんだろうか。は窓辺に引っ掛けてあったスカートに手をかけて目を閉じた。神が何も言わないなら距離を置いた方がいいのかもしれない――そんなことを考えていた。

だが、次の瞬間、両肩がふんわりと暖かくなって、は思わず飛び上がった。ハンガーにかかる制服のスカートをぎゅっと掴んだまま首を捻ると、こっちも驚いて両手をホールドアップしている宗一郎がいた。部員用のレンタルバスタオルを肩にかけてくれたらしい。

「だ、暖房つけるわけにもいかないし、窓開けると湿気が入ってくるし」
「ご、ごめん、びっくりしただけだから……
……スカート、乾いた?」

の手の中にあるスカートはまるで乾いていない。自宅に予備のスカートはあるけれど、濡れた方は畳んで持って帰る間に皺が寄るかもしれないし、そうしたらクリーニング行きだし、ハーフパンツ買ってクリーニング出して、こりゃあ花火大会の予算を取られるかもしれないな――

「ううん、まだ乾いてない」
……そか」
……でも、そろそろ帰るよ。練習時間、減っちゃうから」

バスケットより自分を優先してよ! なんていう自分本位なことは思いたくもなかった。だからもう帰ろう。そう考えたがハンガーに手を伸ばすと、その手に宗一郎の手が重なった。何が起こっているのかわからなくなったが「え?」と声を上げた瞬間、彼女は自分の腕ごとくるみ込まれて、後ろから抱き締められていた。

肩にかかるやわらかいタオル越しに宗一郎の体を感じたは思わず身を縮めて、息を呑んだ。呑んだというか、少し口を開けた状態で止まってしまった。ハンガーにかけようとしていた自分の腕ごと、宗一郎の腕が絡みついている。

その感触に央二郎を思い出してしまったは、ショックで今度は唇を引き結んで顔を歪めた。こういうことをするのは央二郎じゃなかったの? 宗一郎は同学年の間ではあまりにも有名であまりにも高嶺の花のバスケ部次期主将じゃなかったの? どうして今、こめかみに彼の吐く息を感じてるの。

そしては、こめかみにかかる息と一緒に、聞いたのである。

……

そう囁く、宗一郎の声を。

それに全身がじわりと震えたのを確かに自覚していた。耳が熱くて、痺れる肌が気持ち悪くて気持ち良くて、そんな自分はもっと気持ち悪くて、だけど今すぐ振り返って宗一郎に抱きつきたい衝動が怒涛のように襲い掛かってきた。あとほんの少しだけ気持ちが揺らいだら、もうその衝動に勝てない。

しかし、どうしてか負けてしまうのが怖かった。は宗一郎の腕を跳ねのけて逃れた。

「あ、ありがと、タオルありがと。もう、平気だから、私、帰るね」
「ご、ごめん……
「これ、ジャージ、お金、いつまでに払えばいいかな?」
「あっ、ええと、新学期にならないと……
「わかった! それまでにちゃんと用意しておくね!」

宗一郎の方も慌てて身を引いて顔を背けている。はそれを確かめるまでもなく、ハンガーにかかっていたスカートを引き剥がし、窓辺から離れてバッグの中に畳んで詰め込む。今日は課題のためのレポート用紙と筆記具くらいしか入っていないバッグの中は濡れた制服でいっぱいになってしまった。

「練習忙しいと思うけど、また運動公園来ることがあったら教えてよ、グリが喜ぶから」
「そ、そうだね、うん、連絡、する」
「あと、国体も見に行かれたら行きたいから、詳しいことわかったら教えてね」
……うん」

抱き締められたことが嫌なんじゃない。ただなぜかどうしても怖くて、あのまま衝動に流されてしまうのが怖くて、そんな風に流されてしまったら、いつか央二郎にも抗えなくなるような気がして――

「せっかく体育館借りてたのに、邪魔しちゃってごめん」
「そんなこと」
「また図書室来るかもしれないから、また体育館覗いてみるね!」

ずいぶん早口になっていることに自覚はあったけれど、は構わずに荷物を抱えてドアに向かう。

「じゃあまたね! 練習頑張って!」

そうして、ろくに宗一郎の顔も見ずに部室を出た。そのまま走って学校を出た。

雨は上がって、世界は夢物語のようにきらきらと輝いていた。