太陽と月の迷い路

2

「グリ! おいで! ふせ! よーしよしよしいい子だなー」

メルヘンの世界に迷い込んでしまって以来、はひとりの時はできるだけ競技場に散歩に行くことにしていた。もちろん神はいないことがほとんどだ。だが、休日の朝はいることが多いし、何らかの事情で体育館が使えないという日もたまにある。

グリの方もここに来れば遊んでくれるお兄ちゃんがいる、と早くも認識しており、ぐいぐいを引っ張ってきては神がいないと面白くなさそうな顔をしてその場に座り込み、しばし動かなくなるようになってしまった。

神は今グリに「ふせ」を教えている。お手とお座りはすぐに出来るようになったグリだったが、ふせだけは中々インプットできないまま3年目。それをが話すと、やってみたいと言い出して、自分で調べてきたらしい方法で根気よく教えている。覚えそうにはないが、神が楽しそうなので飼い主は静観の方向。

「犬を飼うって、毎月どのくらいかかるの?」
「えーと、これは中型だからエサ代と保険でたぶん1万とか2万とかそんなんじゃないかな」
「保険?」
「健康保険。うちらも病院で保険証使うでしょ、あれ」
「犬に保険証なんかあるの!?」

実際に飼育していないとペットビジネスは遠い話だ。神はただでさえ大きく丸い目をさらに見開いている。

「それも確か3000円くらいのコースだったはずだけど……
「そっか、じゃあ小型犬とかだったらもう少し安いのかな」
「たぶん。もしかして自分の金で飼いたいとかそういう……
「そっ、そういうことでは……いやその、いつか欲しいなとは思っててさ」

そのしどろもどろが自爆の証拠だ。しかし譲渡会に通って犬の飼育についてをよく学んだは釘を刺す。

「ひとり暮らしで犬はあんまりおすすめしないよ」
「えっ、どうして」
「犬って、本来は集団生活の生き物だから、ひとりぼっちって、本能で恐怖を感じるの」
「でもみんな留守番させてるよね?」
「それは人間の都合に合わせて無理矢理我慢してもらってるだけの話」

そもそも家もの母親が体を壊して正社員の仕事が負担になり、退職したことが犬を飼うきっかけになった。最近またパートを始めたが、グリの留守番は5時間以内というのが家のルールだ。特にグリは飼育放棄から保健所の経験があるので、父親が長時間の留守番を禁じた。

「ひとり暮らしなら猫とか魚とかの方がいいよ」
「そっか……犬と広いところ走るの、ちょっと憧れでさ」
「グリでよければ」
「えっ、ほんとに?」
「えっ、だめな理由がないじゃん」

や彼女の両親は他人に飼い犬を触られたくない、というタイプではない。そもそもは他人の飼い犬、グリが楽しければそれでいいのである。なのでグリが神にデレデレとまとわりついている以上、ダメな理由はない。なので問題があるとすればただひとつ、

「そんなに広いドッグランがないけど……
「それな……

この辺りはいわゆる住宅街である。最寄りの駅に近付くほど商業施設が増し、方々からバスが駅を目指して集まってくる。こうして各市町村には競技場や公園もあるけれど、とりあえず現状ふたりが徒歩や自転車で行かれる場所に広いドッグランがなかった。

しかしそれさえ見つかればグリと遊べると思ったか、神は自分の考えているようなドッグランを探し始めた。

「あった! これ、これこれ、どう?」
……遠くない?」
「行く方法ないかな」
「この子10キロあるからなあ〜。クレートには入れるけど、持って歩くような重さじゃないよ」

現実問題、グリと遠出をするには車が必要である。グリは車酔いがないので家は彼女を連れてよく出かけるが、高校生ふたり、どう頑張っても車移動は不可能だ。また、現状どちらもアルバイトをしていないので、行き帰りの全行程をペットタクシーに頼る資金もない。

表に出さないようにしているけれど、確実にがっかりしているであろう神を見ているとの胸は痛む。グリも楽しそうだし、詳しく話そうとはしないけれど神家では犬を飼えないようだし、彼の夢は叶えてやりたいがハードルが高い。こんな時は自分たちの中の「子供」を強く感じる。

だが、そんな話をがちらりと両親に漏らしたことから話は急展開を迎える。聞けばふたりは大型家具店で収納を見直したいそうで、神の行きたがったドッグランのすぐ近く。それならは友達とグリと遊んでおいでよ、お父さんたち家具屋行ってるから、というのだ。

はその夜急いで神に連絡を入れた。メッセージアプリで繋がっているとバレるのが怖いあまりメールだが、現地待ち合わせなら相手が男子だなどと親にバレることもないし、遠い街の大きな公園の中の一角だし、あまりに安全な気がする。家具屋が開く朝イチでどう?

送信してから数秒で返信が来た。

「ありがとう!!! 楽しみにしてる!!!」

はつい声を立てて笑った。まだメルヘンの世界は続くらしい。

「ここ理想的すぎて近くに引っ越したい」
「あれなら雨の日でも使えるもんね」

神の部活の予定と調整して、ドッグラン行きが叶ったのは2週間の後のことであった。スタジアムに併設された巨大な公園は中央を高架が横切っており、その下がバスケットコートやインラインスケートなどに解放されている。高架の下のため、屋外でありながら全天候型のバスケットコートが無料で使えるというわけだ。

昨日遅くに遠征先から帰ってきたという神だが、がグリとドッグランまでやって来た時には既に到着していた。ふたりはレストハウスで利用料などを支払うと、ドッグランへ向かう。もしかしたら一雨あるかもという予報のおかげか小型専用エリアしか利用がなく、歓声を上げながらフリーエリアに入った。

お散歩大好きグリなので、リードを外してもらうと大興奮で走り出し、ふたりを置き去りにしてエリア内を駆け抜ける。さしもの神もついていけるスピードではない。とにかくグリはかつてない広さのドッグランに大喜びで、3周ほどするまで戻ってこなかった。

さすがに興奮しすぎだろうとがおやつで釣って呼び戻し、クールダウンさせてから神は一緒に走り出した。神が手におやつを持っていることを知っているので、グリもひとりで走り去ってしまうようなこともなく、ぴょんぴょん跳ね回って遊んでいる。はそれを遠目に深く深呼吸をする。

神はグリと思う存分遊べて満足だろう。広大な芝生のドッグランで犬と駆け回るのが夢だったのだし、それが目的だったのだし。だが、にとってこれは来たる一大イベントの前哨戦に過ぎない。正直緊張でグリどころではない。親に不審がられないように務めるので精一杯だった。

この日、ドッグランで遊んだ後、は両親にグリを預けて、神と電車で帰ることになったのである。

まさか犬と遊びたいと言って待ち合わせている相手が男の子とは知らない両親は「一緒にお昼を食べよう、その後で送っていってあげる」と言い出したが、色んな意味で無理だ。は内気な子だからと断り、神には両親の都合で昼頃には引き上げなければならないと連絡した。すると、とんでもない提案が返ってきた。

いわく、お礼にご飯おごるからだけ残れない? である。

しかも、最寄り駅にはほとんど商業施設がないので、少し電車で移動してからご飯食べて帰ろうよ、と来た。そのメールを受け取ったは頭が爆発して髪の毛が全て飛んでいってしまうのではないかと思うほど驚いた。しかし、嫌だと断る理由もないし、断りたくないし、ちらりと両親に話すと「いいよー」とのこと。

そんなわけでは今キャッキャとはしゃいでいる神とグリを眺めつつ、気が気でない。

何かお礼があった方がいいよな、という気持ちはわかる。立場が逆なら自分でもどうにかしてお礼をする方法を探すだろう。それはいい。お礼が出来ていれば引け目を感じなくて済むし、ちょっと寂しいけれど、それっきりで終わらせることが出来ると思うだろうし、それはいい。

しかし問題は相手が神だということだ。自分が海南2年生の中でどういう立場でどんな評価をされているかは自分ではわからない。だけど少なくとも神に匹敵するほどの実績や評価は持ち合わせていないはずだ。いいんだろうか。あとで面倒なことにならないだろうか。

そんなに長く一緒にいて、もっと一緒にいたいと思ってしまわないだろうか。

1年生の時も、それほど話したことはなかった。当然だ。神は始業前と放課後は必ず部活、休み時間は普通にクラスの仲のよい男子と喋っていたり、同学年のバスケ部員と話していたり、そこにがわざわざ首を突っ込む用件などあるはずがなかった。

それでも、神がどういう人なのかは知っている。真面目で温和で、人前で誰かを悪く言ったりしない、相手が誰でもコロッと態度を変えるようなところがない、そういう人だ。

そしてこのひと月ほどで、もう少し彼を知るようになった。思っていたより子供っぽかった。いや、これまでが神のことをもっと大人びた人だと思いこんでいただけの話だ。普通の同い年の男の子、そんな感じだ。その上ちょっと天然で、そそっかしいところもあるし、本当にバスケットと日々の生活でいっぱいいっぱいの高校生だった。

みんなが高嶺の花だと思っている神は、実はすっごい普通の男子だ。

それがもうずっと自分の心をくすぐり続けていることは充分に自覚していた。だけど神の目的はグリだし、たぶん2年生になって部活での立場も確立されて余裕ができてくれば、きっと彼女も出来るだろう。そしたら自分の役目は終わる。彼女ができればグリ目当てでも自分と会うことはなくなるだろう。

そういう「高確率で訪れる当たり前の結末」が揺らいでいく。

神は実はすっごい普通の男子だ。私もすっごい普通の女子だ。「もしかして」が背中に重い。大事なものなので振り払いたくはないけれど、あまりに重いので冷や汗が出てくる。

そういう緊張が取れないままドッグランで遊び続け、やがて力を使い果たしたグリが地面に伏せたまま大あくびをし始めた。時間は11時。それでも2時間ほど遊んだことになる。今日はグリ、夜の散歩はいらないな、と思いつつは両親に連絡を取った。

神には待機していてもらい、迎えに来てくれた両親にグリを預ける。予定より早い引き揚げだが、家具の方はひとまず下見だと言うし、何より家はグリ優先である。このまま帰宅してグリを休ませてから両親も外食に行くというので、はそこで別れた。

さあ、ここからが本当の戦いである。いざ、出陣!

は脳内に鳴り響く法螺貝の音とともに、歩いていった。

それはまさに「気が抜ける」という状態であった。帰宅したは着替えもせずにベッドに腰掛けてぼんやりしていた。グリはリビングのカドラーでお腹を出して爆睡、が腹を撫でても完全なる無反応という有様。両親は昼にたくさん食べすぎて夕食を取れる気がしないと言うし、なのではひとまず自室に帰った。

目眩がしそうなほどの緊張を抱えたまま神と大きな街まで出て、まずは昼ごはんを食べよう! 何食べようか! という流れになった。さてそれから約4時間、そこにあるはずの負けられない戦いは一瞬で過ぎ去り、気付いた時には最寄り駅だった。

あれ〜……なんかめっちゃ楽しかったよ……? 緊張? 途中からどっか飛んでた。

にとって、神はやはり「すっごい普通の男子」だった。なので、想像以上に気後れしなかった。いやむしろ少し自分の方があれこれ神をリードしていたような気がしないでもない。なんというか、遊び慣れていないのが丸出しだった。そりゃあそうだろう、どう考えても時間がない。

そういうことがいくつも重なっての緊張はいつしかどこかへ吹き飛び、まるで女友達と遊びに出かけているような錯覚すら起こした。神は確かに学校では目立つ生徒なのかもしれない。だが、ふたりが一緒に過ごしたのは学校ではなかった。老若男女入り混じる街だった。

そういう中に入ってしまうと神の「特別感」は急速に薄れていき、ただちょっと背の高い同い年の男子、という程度にしか感じなくなってきた。神の顔ははるか彼方遠いところにあったけれど、目線が自分と同じ高さにまで降りてきた気がした。見ている景色もただの街だった。

あの妙な緊張は何だったのだろう、あの「自分なんか」って何だったんだろう。今日、楽しかったよ。

何を食べようかでウロウロ迷っている間に昼になり、どこの飲食店も混雑し始めた。出来るだけ安いところで済ませてあげたいと思っていただったが、このままだといつまで経っても食事にありつけないと思ったらしい神はが「おいしそう」と言った店に突撃。

そこでは神が自分の三倍くらい食べるのでまず驚き、そこから部活の話だの犬の話だのとあれこれ話が弾みだし、その頃からだろうか、気付けば緊張も自虐も消えていた。

食事を終え、少し周辺をうろついてから地元へ向かう路線に乗り、途中で別れるまでずっと楽しかった。というかまだ楽しいような気がする。しかもとうとうメッセージアプリで繋がってしまった。メールより早いからこっちがいいと言われて、断る理由が見つからなかった。

あれ? これ友達だね? というまるで他人事な認識が追いかけてくる。緊張と一緒に持っていた乙女心が消えたわけじゃない。神は確かに素敵な男の子だ。しかしそれをひとまずその辺に措いておけるくらいに彼と「遊んで」いるのは楽しかった。色恋を始終意識しなくても過ごせる相手だった。

それはそれで残念に思う気持ちもあるけれど、決してそれが目的ではない。ひょんなことから親しくなっただけの友達だけれど、仲良く遊べるんだからそれでいいじゃないか。付き合ってない男女がふたりで遊んだらいけないわけじゃない。今はそれでも充分な気がした。

だってほら。は手の中にある携帯を持ち上げ、メッセージアプリの画面に目を落とす。

「よく考えたらドッグランじゃなくても海でよくない? グリって海平気?」

また遊びに行きたいらしい。グリだけ貸し出しするわけはないのだから、ももちろん一緒。

「もうすぐ予選も始まるけど、時間空いたら連絡するよ」

予選てそれインターハイの予選でしょう。犬と遊んでる場合じゃないんじゃないの。は肩を震わせつつ返信をタップしていく。グリさんは海も全然平気、だがしかし少々毛が長くて多いので後始末が大変ですがそれを手伝ってくれるなら!

そうしては、神が休みになるとグリを連れて出かけるようになり、収納の見直しの見通しが立ったらしい両親がまた連れて行ってくれると言うのでドッグランも行き、ぜひにと誘われたので神の出場しているインターハイ予選も見に行った。もちろん運動公園でもよく会っていた。

普段から復習は怠っていないらしい神はテストは気楽に考えているというし、も何が何でも上位をというタイプではなく、テスト期間になって部活が出来なくなるとやっぱりグリと出かけた。

もちろん誰にも話していない。神はどうだっただろうか、少なくともは出かける場所を選んだし、出来るだけ自分だとバレないような服装もしたし、学校を離れた場所で神と親しくしているなど知られないよう努めた。

神は予選を全て勝ち抜いて神奈川ベスト5にも選出、いよいよ次期主将としての地位を揺るぎないものにしていたけれど、それでもと一緒にいる時はただの高2男子だった。合宿とインターハイで夏休みの前半をほぼ使い切るので、去年は後半に合宿に持ち込めない課題と練習で大変だったとげんなりしている。

夏至が過ぎたばかり、19時近くなっても明るい夏の運動公園、グリは芝生にゴロゴロと背中をこすりつけてご満悦。は神と並んでベンチに腰掛け、夏休みの課題についてグダグダと話していた。

インターハイは全国大会であり、期間も長く、今年の海南バスケット部は優勝を狙える状態にあるとされているし、その部員たちは一部社会活動などの課題を免除されている。だが、各クラスで微妙に差異のある座学の課題は免除されない。インターハイが終わっても3週間ほど夏休みはあるからだ。

「インターハイ帰ってきて少ししたら学校が閉まるから練習も休みになるんだよな」
「少しくらい休んだ方がいいって……
「それでも5日間とかそんなもんだよ」
「恐ろしい……

はバスケット部の練習量を聞くだに身震いがする。どうして倒れないんだ? グリとの散歩で少し体力がついた! などと考えていたのが馬鹿らしい。

「1日くらいは遊びたいんだよね」
「そりゃそうでしょ。田舎とか行くの?」
「うち田舎ないんだよ。親、どっちもこの辺でさ」
「財布の中身も乏しいしなあ」
「それですよさん。合宿とインターハイでだいぶ負担かけるし、追加は非常に厳しい」

神によれば、大会に関わらず遠征費用は学校が負担してくれるそうだが、当然滞在中の小遣いまでは助けてくれない。夏なので大会を離れても水分補給など必要になってくるが、そのあたりは自費である。合宿と合わせて2週間以上、それなりに持ち合わせがないと心許ないし、その分普段の遊興費は抑えなければならない。

……この間海の近くで見たお店、行ってみたいんだよな」
「ああ、なんか安くて美味しそうなとこだったよね。なんだっけ、ハンバーグだっけ」
「そうそう、サイズ豊富だったじゃん。あれならでも平気」
「でもテラス席なかったじゃん」

グリと海で遊んだ帰り、神は通りかかった店のメニューを見てずいぶん気に入った様子だった。ハンバーグが中心の店でサイズ展開が豊富、キッズサイズからフードファイト用としか思えないサイズまでたくさん用意されていた。それにしては価格がリーズナブルでファミリー客が中心のようだった。

しかし残念ながら一般的な飲食店で、屋外のテラス席はなし。もちろんグリ連れでは行かれない。というかいつもグリと一緒なので、基本的にはコンビニとかパン屋とか、そんなところで終わりがち。

すると神はの方を見ずに、ぼそりと言った。

「じゃあ、ふたりで行こうか」

夏至が過ぎたばかりの夏の空、少しずつ藍色が降りおりてくる空の下、があの日その辺に措いておいた乙女心が神の声に乗ってふわりと舞い戻ってきた。はまたメルヘンの世界の中に落ちていく。

神はの方を見なかった。も神を見ないで返事をした。

「うん、行く」