太陽と月の迷い路

3

それはもはやデートであった。昼前にふたりで待ち合わせて目的の店まで行き、食事をして、グリと一緒では入れない店やらを覗き、その上映画まで見て、20時頃に神はを家まで送る、という1日だった。

おまけに神は月末にまた1日部活が休みになる日があるから、今度は花火行かない? と言い出した。

のひとまず措いておいた乙女心は恋心になるため羽化を始め、しかしふたりで一緒にいると、神もそれは同じなのではないかという気がしてくる。

この時も神も、向こうから言ってくれないかな……と、自分から踏み出す勇気を持てないでいた。それぞれにためらう理由があり、それぞれに自信もなく、例えばバレンタインなどわかりやすいイベントでもあれば別だが、タイミングもわからない。そんな夏休みの頃のことだった。

太陽に焦がされたアスファルトはあまりに熱く、日差しが照りつけている間は散歩には向かない。盛夏の間はグリの肉球のため、ある程度日が傾いてからの散歩となる。そういうわけで、世間がお盆休みを終えて通常運転になろうかという頃、はグリと競技場に向かった。

お盆休み明けだし平日だし、神はいないだろう。今年のインターハイでは準優勝に輝いた海南だが、あくまでも狙っていたのは優勝である。それを逃した以上、次は冬の大会でトップを勝ち取ることが目標だと言っていたし、体育館が閉まる19時までは確実に学校にいる。

なので長居をせずに、バスケット広場に行きたがるグリには神がいないことを確かめさせ、その場で数分不貞腐れさせたらさっさと帰ろう。既に興奮して玄関でグルグル回っているグリにリードを付けると、日が傾き始めた空の下をは歩き出した。

グリのスピードに合わせてしまうと、彼女は余計に興奮してしまう。人間のようにペース配分など出来ないので、ある程度は飼い主がコントロールしてやる必要がある――のが一応ルールだが、は最近少し速度を上げている。次の神とのお出かけまでに、少しダイエットをしたかったのだ。

神は身長が190センチくらいあると言うし、遠目にはすらりとしているけれど、と並べてしまうとだいぶ大きな男の子だ。鍛えているので手足もそれなりにがっちりしている。なのでが図太く見えてしまうとかいう恐れはない。が、行く予定になっている花火大会に体の線が出るドレスを着ていきたいのだ。

その上そのドレスは前回ふたりでウロウロしている時に、神に選んでもらったもの。ロングのサマードレスがセールになっているのを目に止めたが、こういうの着てみたいと言うと、着てみればいいじゃん、と言う。そんなに簡単に言うな、着たことないから似合うかどうかもわからないと返したところ、彼はにこにこしながら「大丈夫、似合うよ」などと言ってきやがったのだ。

頭に血が上ったは「どどどどれがいいかな」と慌てふためき、目についたドレスを両手に掴んで体に当ててみた。パニックでどれが好みなのかとかいう判断もできない。すると神は白地に色とりどりの刺繍が入ったものがいいという。これが似合うと思うと言いながら、とどめに「かわいい」と言い放った。

そりゃー買うしかないじゃんよ……。元来惚れた相手には弱いである。セールだったので高価ということもなかったし、後で冷静になって見返してみても、いいセレクトだとは思う。だがしかし、ドレスは特に上半身部分が細めに作られていて、気をつけないと色々はみ出す。

自宅で改めて試着したは焦った。姿勢良くじっとしていればわからないだろうが、かがんだり座ったりしたらこれはやばい! その上白だからはみ出しが目立つ! というか透けない響かない下着も用意しなきゃダメじゃん!!! というわけで翌日からは散歩のスピードを上げたのである。

幸いグリはのんびり止まって風の匂いを感じる……とかいうタイプではない。ぐいぐい歩いて行くタイプだ。はこれに合わせて少し食事をコントロールして、などと考えつつまっすぐにバスケット広場に向かった。神がいないことを実際に見せないとグリは納得しないからだ。

だが、バスケット広場には見慣れた後ろ姿があった。

いつもが神とお喋りをしているベンチの辺りに佇み、ポケットに手を突っ込んでゴールポストを見上げている。ちょうど日が傾いてきて競技場がどこも薄暗くなり始める頃合い、煌々と照明が輝き出すまでの、ほんの一瞬の暗さの中で、は目を瞬かせた。神、なんかいつもと違う――

こんな風に、昼と夜が混じりあう時間帯を逢魔が時という。対になるもの表裏、双方が入れ替わる一瞬にその境界線は曖昧にぼやけて溶け合って、そこには魔物が現れる。人を惑わす魔が顔を出す。そして決して越えてはならない境界線を破り、手を伸ばしてくる。

メルヘンの世界の中にいたはずのは、その違和感を感じる背中に少しだけ恐怖を感じた。けれど、そんなものは気のせい。逢魔が時? 何考えてるんだ私――

「どうしたの、今日部活じゃなかったの?」

グリも尻尾をぶんぶん振ってを力の限りに引いている。そう声をかけただったが、少し距離を置いて足を止めた。神がゆっくりと振り返る。昼と夜の間、薄暗い空の下で、神は逆光で輪郭がぼんやりしている。顔に影が落ちてよく見えない。

……部活? ないよ」
「そ、そう。……って、練習もしてないの? ボールは?」
……?」
「えっ、ちょ、何、急にどうしたの」

突然名を呼ばれたはグリのリードをぎゅっと引き寄せて肩をすくめた。なんだか変だ。いつも練習の時は動きやすいTシャツとハーフパンツなんていう装いばかりなのに、今日は所々にペイントがあるダメージジーンズと、トライバル柄のヘンリーネック。そういう服も着るのか……はつい彼の全身を検めた。

というか「」って。普段って呼んでるのに、何で急にそんなこと言い出すの。心臓破裂しそう。

……グリ」
「きょ、今日はいないと思ってたから、お兄ちゃんいないんだよって見せないと、帰らないから」
がオレに会いたいから来てるんじゃなくて?」
「は!?」

グリに対しても手を伸ばそうとせず、やっぱり神はポケットに手を入れたまま、姿勢も悪く佇んでいる。

、オレのこと好きなんじゃないの?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってどうしたの急に、今日変だよ、何かあった?」
「うーん、まだ中の上くらい? もう少ししたら上の下くらいには」
「神、どこか具合悪い? インターハイの疲れ、やっぱり取れてないんじゃないの」

照明が灯らない。バスケット広場は日が西に沈んでいくのに合わせてどんどん暗くなっていく。神の表情もますます見えなくなっていく。はじりじりと後ずさりを始めた。もうずっと仲良くしてきた神だけど、様子がおかしいし、怖さばかりが募る。本当にどうしちゃったの――

「疲れ、ね」
「やっぱり休みの間は遊ばない方がよかったかな、無理させた?」

神が怖いのでしどろもどろのは、彼を刺激したくないので下手に出る。すると神は突然スタスタと近付いてきて、体を屈めてを覗き込んできた。は思わず息を呑む。

が癒やしてくれたら疲れ、取れると思うけど」
「い、癒やす!? どうやって……ま、マッサージとか?」
「マッサージ、いいね」

神はさらに距離を縮めると、の両肘から手を滑らせて腕を掴み、ぐいっと抱き寄せた。グリは神の様子がおかしいことに気付いていないのか、ふたりの横でウロウロするばかり。

「神、本当にどうしたの」
「全身マッサージしてくれる?」
「なっ、何言ってんの?」
「じゃあ最初は唇からね。疲れてるから優しくマッサージして」
「ま、待って、やだ!」

息がかかるほどの距離に神の顔が近付き、は思いきり顔を背けた。その時である。

「央二郎、やめろ!!!」

また神の声が聞こえた。その瞬間解放されたは、ヨロヨロとその場で足踏みをした。一体何が起こってるんだ。その次には後ろから抱き寄せられて、しかもぴょんぴょん跳ねるグリにリードを翻弄されて、は目眩がしてきた。そんなの頭上で、やっと照明が灯る。

一体何が起こっているんだと顔を上げると、なんと、神がふたり、顔を突き合わせていた。

「なんでいるんだよ、お前部活だろ」
「早く終わって携帯見たら央どこに行ったか知ってる? って母さんから連絡来てたんだよ!」
「それでここに直行してきた、っての。よくわかったね〜」
「わかるに決まってんだろ、お前の考えることくらい!」

は自分の見ているものが信じられなくて、口をパクパクさせた。神と神が、言い合いをしている。

「あとちょっとだったのに……空気読めよ〜」
「いい加減にしろよ、やっていいことと悪いことがあるだろ」
「お前はいいのかよ」
「オレは何もしてない!」
「あ、あの……あの」

ギャンギャン言い合いをしている神ふたりを見上げたは、震える声で喘ぐように叫んだ。

「君ら、誰!?」

いつも神とお喋りをしているベンチに腰掛け、隣にグリを座らせたは、生気のない目でぼんやりと正面を見上げていた。の正面には同じ顔をした男の子がふたり。

「ええと、オレ、双子なんだよ」
「オレが兄貴の央二郎」
……オレが弟の宗一郎」
……逆じゃない?」

驚くというより、唐突すぎる展開には状況の把握が追いついていない状態だ。とりあえず今のところものすごくどうでもいい質問を挟む。

「いやほら、双子のどっちが先か問題ってあるだろ」
「出てくる順番てだけの話だし、オレら帝王切開だし」
「だから妙な上下に振り回されないように、って、こっちが二郎でオレが一郎に」
「へえ」

ちゃんと説明してもらったが、は反応が薄い。宗一郎の方が肩を落としてため息をつく。

「それでその、何で知ったのかわかんないけど」
「携帯見た」
「ロックかけてるだろ! なんでパスコードわかったんだよ!」
「後ろから覗いた時に覚えた」
「マジかよ、ええとだから、それでここのこと知って、それで、なんていうか、気になって」
「オレに隠れてコソコソいつの間にか女作ってたとか、本当かどうか確かめないとな、って」
「絶対それが目的じゃないだろお前!」

は少しずつ目の前の同じ顔のやり取りに慣れてきて、落ち着いた思考が戻ってきていた。同じ顔と言っても、微妙に違う。二卵性なのだろうか。確かに顔の輪郭とか眉の動き方なんかはそっくりそのままだ。だけど、優しげな宗一郎に比べると、央二郎の方がきつい顔立ちをしている。襟足も少し長い。

さらに、とにかく央二郎は姿勢が悪い。肩も背中も丸めて首を突き出すような立ち姿で、いつでもまっすぐな体をしている宗一郎の方が背が高く見える。央二郎は顔色もあまりよくない。瞼が重そうで気だるげだ。

怖い思いさせてごめん、その、悪気はないんだ、だから」
「ああ、うん大丈夫、別に怒ってはないから……
「だろー。あ、てかオレとも連絡先交換しよ。って何好きなん?」
「央!!!」

の前にひょいとしゃがみ込んだ央二郎の腕を掴んで立ち上がらせると、宗一郎は苦しそうな表情で、しかしを直視できないようで、グリの方を見ながら頭をペコリと下げた。

「ほんとにごめん、またちゃんと説明するから、今日はごめん」
「なんだよ、お前部活終わったんだろ、遊び行こうぜ」
「行かない」
「じゃあとふたりで行くからいいよ」
……犬がいるので、いいです」
「おいおい、ふたり揃って真顔やめろよ」

はグリをぎゅっと抱き寄せ、宗一郎は央二郎の腕を掴んだまま振り返ることなくズルズルと引きずっていってしまった。すっかり夜になってしまったバスケット広場、夜間照明の煌々とした明かりがやけに眩しい。は、狐につままれたようなとは、こんな気分のことを言うのでは……とぼんやり考えていた。

央二郎に腕を掴まれて詰め寄られた時の、あの現実感のなさを思い出すと怖い。宗一郎の方だと思っていた。それを疑いもしなかった。薄闇の中の央二郎は様子の変な宗一郎にしか見えなくて、それがどうしようもなく不気味で怖いのに、あの時は少しだけ「このままキスされてみたい」と思ってしまった。

すぐに我に返って顔を背けていなかったらキスされていたんじゃないだろうか。

その一瞬だけよぎった感情は間違いなく宗一郎へのものだった。けれど、央二郎と見分けがつかなかった。

日が落ちたとはいえ真夏の風の中、はぞくりと背中を震わせた。宗一郎への気持ちや、彼を彼と認識している意識や、それに対して起こる反応様々、どれも自分のものではなくなってしまったような気がして。

数日後、自宅で夏休みの課題を片付けていたは宗一郎に呼び出されて学校に向かっていた。この間のことを釈明したいけどすぐに時間が取れない、今日は午後半分で部活が終わるのと、個人練習を申請してあって誰もいないから、部室に来てくれないかという。

確かにの地元でも宗一郎の地元でも、外で話したい話ではなかった。海南の、しかもバスケット部の部室、そこなら央二郎はどれだけ頑張っても入ってこられない。央二郎が海南の生徒でないことだけはも知っている。あの顔は校内にひとつしかない。

久しぶりの制服でバスケット部の部室の前に立ち、ドアをノックする。すぐに中から宗一郎が開けてくれた。

「ほんとに、ほんとにごめん!」
「ちょ、いいよ、そんな、神が頭下げるようなことじゃないよ」
「ていうか今更だけど何もされてない? もし何かあったら――
「神、落ち着いて、何もないよ大丈夫」

を部室の奥にあるテーブルの辺りまで招き入れると、宗一郎は体をふたつに折り曲げて頭を下げた。は慌ててそれを押しとどめたけれど、宗一郎は納得していないようだ。

「びっくりはしたけど、何もされてないし怒ってもいないし、大丈夫だから、頭上げて」
「ごめん……
「だからもういいって。なんか……神の方がつらそうだよ」

そう言われた宗一郎はため息とともに肩を落としてに椅子を勧め、冷蔵庫からお茶を持ってきてくれた。

「双子、だったんだね」
「隠してたわけじゃないんだけど」
「わざわざ双子でーすって言って回らないよね」
……ちょっと、問題があって」

は、深入りする気はないから気にしなくていいと言いたかっただけなのだが、宗一郎はあまり聞いていないようだった。に並んで腰掛けて向かい合うと、膝に手を突っ張って項垂れている。

「ええと、お兄さんのこと?」
「お兄さんて、同い年なんだけどね」
「いや何て言ったらいいもんかと」
「央二郎でいいよ。それでええと、つまり、もう1年以上不貞腐れたままでさ」

彼が現在進行形で不貞腐れているのはわかる。は頷いた。そうだろうね、あれじゃ。

「グレてるとかそういうんじゃないんだけど、やる気もないし、でももしかしたらかなりギリギリな悪いこととかはしてるかもしれないし、でも学校行ってないとかじゃなくて、フラフラしてるというか……

表現しづらいようだが、から見て央二郎はざっくり言うと「チャラい」そして「痛い」である。それは一応目の前の宗一郎が身内なので言いはしないけれど、無意味な反抗心で甘えてカッコつけてる人……という印象があった。あと、兄弟とはいえ他人の携帯のロック突破するとか悪質すぎる。

「去年はそんなことなかったのに、2年になってからオレが部活でもないのにひとりで出かけるようになった、それが気になったんだと思うんだ。と出かけるようになってからやり取りも増えたし、隠し事してると思ったかもしれない。だから実際に確かめてやろうとか、たぶんそんな感じだったんだろうと思うんだけど」

しかしそれにしても宗一郎は逃げ腰な言葉ばかりを並べている。それが兄を悪く思われたくないという庇う気持ちからなのか、あまり具体的に言えないような問題を抱えているからなのか、は判断に迷った。

例え央二郎がどうしようもないクズだったとしても、それは宗一郎とは関係ない。一体央二郎に何が隠されていようと、宗一郎とはこれまで通りの友人関係を続けていきたいので、自分がどういう認識でいればいいかは出来れば宗一郎に決めてもらいたかった。

央二郎を許して悪く思わないで欲しいと言えばそれでもいい。実はとんだクズだけど自分はそうじゃないから勘違いしないで欲しいと言えばそれはもちろんだ。先日のことは本当に遺恨に思っていないので、指針は宗一郎の判断に任せたかった。

「央二郎くん、ちょっと大変な感じ?」
「大変というか……暴れたりとかはしないんだけど」
「持て余してる?」
「そういうわけでも……家にいる時はそれほどでもないというか」
「外で問題が多いの?」
「それも全部把握できてるわけじゃないから何とも言えないんだけど」

少なくとも宗一郎は央二郎に対して悪い感情があるわけではなさそうだ。だが、対央二郎に関しては心を傷めているというか、兄に対しての感情は穏やかではない様子。

「でもなんか本人は楽しそうだよね」
「うん、そうなんだ」
「でも神は楽しくなさそうだよね」

遠慮なく返されると、宗一郎はことさらに肩を落とした。はいそうですと言っているも同然。

「あのー、よければ聞くけど」
……いいのかな、そんなこと」
「それは神の判断でいいけど。私は平気だよ」

宗一郎はいつかのように顔を逸らし、眉間にしわを寄せている。迷っているようだ。

……ごめん、こんなこと、家族のことなんか」
「そういうの気にしなくていいよ。あるある」
「海南に入ってから、誰にも話したことなくて」
「大丈夫、誰にも言わないよ」

そもそもこれほど宗一郎と親しいということすら、誰にも話していない。そこは保証付きだ。が淡々と相槌を打っていると、宗一郎はようやく顔を上げて静かに息を吐いた。彼も張り詰めていたんだろう。全部吐いてしまって楽になった方がいい。

……ありがとう、がいてくれてよかった」

そんな言葉に胸をギュッと締め付けられたことは、またその辺に措いておきます!