太陽と月の迷い路

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西に太陽が沈みつつ、東の空に薄っすらと透けた月が浮かぶ、そんな頃合いの中をは足早に歩いていた。彼女の少しだけ先を行くのは黒白茶の三色展開の中型犬。犬の散歩だ。

犬は推定5歳のミックス犬、名前はグリ、3年前に家が引き取った保護犬である。何度も譲渡会に通って出会った運命の子であったが、を始めとした家族が愛情を注ぎまくった結果、家暮らしが3年目の彼女はずいぶんフリーダムなワンコになった。との散歩は大好きだが、お姉ちゃんがいることは忘れがち。

帰宅時間と季節により、明るいうちはが散歩に行くことになっている。帰宅が遅かったり、冬で真っ暗になってしまった時などはの父親か、あるいは母親とふたりで行く。いずれにせよ犬の方は楽しいので誰と行こうが上機嫌だ。そして帰るとご飯を食べ、ばったりと倒れてぐっすり眠る。

この日は暗いというほどでもなく、しかしだいぶ日は傾いてきていて、ギリギリというところだった。母親がまだ帰宅していなかったので迷っただったが、すでにグリは「お姉ちゃん散歩行こ!行こ!!行こうよ!!!」というテンションになっており、それに負けた。惚れた弱みだ。

先日も近所のランナーおばさんに「犬の散歩なんか運動にならないでしょ」と鼻で笑われたが、体重2キロの小型犬の散歩と一緒にしないで欲しいと思いつつ、は早足というかもはや小走りで道をゆく。毎日犬と歩くようになってから主に下半身が丈夫になったような気がしている。

散歩コースはひとつではなくて、自宅から歩いて公園を往復するノーマルコースを始め、車で出かけるようなコースも含めれば7通りくらいはある。今日はその中のひとつ、これも近所だが、市営の運動公園競技場だった。もう日が傾き始めていたのでこの運動公園を選んではやってきた。

運動公園内の施設は様々、体育館もあるが、屋外にも広く、様々な競技に対応できるようになっている。そしてが小学生くらいの時に夜間にも開放されるようになった。仕事が終わってから一汗流したいという利用者が増えたからだ。なので、21時くらいまでは必ず人がいる。

逆にご近所周遊ノーマルコースは日が沈むとほぼ無人のコースになってしまう。折り返し地点は児童公園のため夜間は照明に乏しく、犬連れとは言え、女子高生がわざわざひとりで入り込むような場所ではない。

そういうわけで、は犬に引っ張られながら運動公園内のランニングコースに沿って歩いていた。

グリは保護犬になるまで飼育放棄状態であったらしく、最初はリードを付けたまま歩くのが苦手だったのだが、あの頃が懐かしいと遠い目をするほどには現在お散歩大好き、弾丸ウォークである。

「待て待て、その芝生は入っちゃダメだって。何回言えばわかんの」

そして芝生とあらば飛び込む。はギリギリとリードを引いて遠ざけたが、本日グリは葉っぱと戯れたいと言って聞かない。無駄吠えはしないしトイレも失敗しないしお手おすわり伏せも全部できるが、それでも彼女はフリーダムである。惚れた弱みだ、は渋々犬が入っても平気な芝生のある方へとコースをそれる。

少し行くとバスケットゴールが2基ある広場へと出る。その周囲が割と管理の甘い芝生ゾーンだ。運動公園内のメイン通路から外れるので人は少ないが、バスケット広場はあまり人気がないのでグリが満足したらさっさと通り過ぎればいいだろうと考えたは何も考えずに犬を追っていった……ら、人がいた。

ああやばい! 人いたー!

だが時既に遅し、グリは入ってもいい芝生ゾーンだとわかっているので凄まじい力でを引っ張る。

すみませんすみませんどうしても犬が葉っぱがいいって言うのですみませんお邪魔はしないのでちょっと見逃して下さい…! と思っていただったが、ちらりとバスケット広場に佇む人物を見たところでパカッと口を開けて声を上げた。

「あれ!? 神!?」

神、と呼ばれた人物もその声に驚いてボールを手にしたまま少し飛び上がった。神は同じ高校に通う男子生徒で、現在2年生であるふたりだが、ほんの少し前、1年生の時に同じクラスだった。

「うわ、? どうしたこんなところで……って犬の散歩? 近所?」
「うん、まあまあ近所。神こそどうしたの」
「いや、練習」
「それはわかるけど、部活じゃないの?」

神はふたりが通う海南大附属の男子バスケットボール部に所属しており、基本毎日体育館で練習のはずだ。何しろ神奈川ではもう何十年も「一番強い高校」なのであり、しかも神は次期主将だという話だ。それがなんでこんな市営の運動公園なんかでひとり細々と練習してるの……は首を傾げた。

「今日はちょっと監督の都合で早く終わっちゃってさ。もう少し練習したかったから」
「そっか。家の近くに練習できるところないの?」
「えっ、ここが家の近くの練習できるところ」
「あれ? 神てこの辺だったの?」
「この辺、ていうかチャリで20分くらいだけど」

ふたりは目を丸くした。去年1年間同じクラスだったけどそんなことちっとも知らなかった。

改めてお互い説明を試みてみると、一応住んでいる市が違う。なので小学校や中学校はどちらもよく知らない。神の方がバスケットの大会などで対戦したことがあるかないかというくらいで、近所と言っても例えば小学生くらいの感覚なら完全に「生息地域外」になってしまう。

なおかつ自宅を基点に考えると最寄り駅も異なり、さらに神の言う「チャリで20分」はだったら確実に30分以上はかかりそうな距離だった。しかも、が親から交通量が多いので自転車では通るなときつく言い渡されている道を行くようだ。この道を使うと確かに色々ショートカットになる。

「そっか、なるほどね。それなら学校もチャリで行けるね」
は電車? チャリだとちょっと遠回りになるよな」
「そう。駅までチャリ。電車なんか3駅なんだけどね」

そんなことを言い交わしつつ、はその場をぐるぐる回っている。グリはお姉ちゃんの同級生がいてもお構いなし、芝生の上をあっちに行ったりこっちに行ったり。神はそれを見てつい吹き出した。つい3月まで同じクラスだった女子が犬に引きずられてぐるぐる回ってる。

「てかワンコかわいいね〜。種類、なに?」
「この子保護犬なんだよー。たぶんミックスなんじゃないかな」
「保護犬? めっちゃ仲いいんだな、すごい」
「家族全員で甘やかしまくった結果〜」

まだがぐるぐる回っているので、神はなんとなくついて回る。すると、ある程度芝生に満足したらしいグリがやっと神に気付いたらしく、フサフサと尻尾を振って近寄ってきた。

「お、触っても平気?」
「下から横から行ってくれればOK。虐待の形跡はなかったんだけど上からが苦手で」
「かわいいな〜! 子供の頃から犬飼ってみたかったんだよな」
「飼えないの? 保護犬でもいい子いっぱいいるよ〜」

神はそれには答えず、ニコニコ顔で犬の頬やら肩首やらを撫で回している。グリの方も家に甘やかされまくった結果、人間大好き撫でてくれる人大歓迎になったので、こちらもデレデレ、目尻が下がっている。

……よくここに散歩に来るの?」
「うーん、どのくらいかなあ。散歩コースいくつかあるんだよね」

時間帯、季節によって、または誰が行くかによっても変わるという家の犬の散歩事情を説明すると、神は何度か頷いて立ち上がった。それをつい目で追ったは、背の高い神を見上げる格好になり、ついでに彼の背後の空が目に入った。すっかり暗くなり始めている。

「やば、暗くなってきちゃった。ここ明かりが強いから気付かなかった」
「あ、ほんとだ。明るいから閉まるまで練習できるのはいいんだけどね」

言いながら神はボールを片手にベンチまで戻り、帰り支度を始める。明るいのだからまだ練習していて平気なのに……と首を傾げただったが、神は荷物をまとめ終えるとまた戻ってきた。

「徒歩の距離だったよね? 送っていくよ」
…………え!? そんな、悪いよ、犬いるし」

まさかの展開には素っ頓狂な声を上げた。送っていってもらえるのはありがたいけど、そうすると神はさらに自宅から遠くなるわけだし、練習していて疲れているわけだし、というか何より神は自転車、とグリは徒歩。なかなかに難しい道連れではないだろうか。

だが、神はこともなげに言う。

がオレのチャリで走る。オレはワンコと走る。どう?」
「嘘お」

驚いて間の抜けた返事しか出来なかっただが、どうも神は犬と戯れたい様子。確かに、好きだけど犬を飼ったことのない人間にとって、犬と走るのは憧れだ。は自分もそうだったので、気持ちがよくわかる。

かと言ってそれをわざわざ突っ込むまい。保護犬を引き取るまで人様の家の飼い犬をヨダレ垂らして眺めていた経験のあるである。同士よ、という熱いものが胸にこみ上げ、その申し出を受けることにした。

とはいえ神は犬を飼ったことがないと言うし、失礼にならないように言葉にするのは難しかったけれど、しっかりとリードを手首に絡めてから持ち、長く伸ばさないこと、急に曲がる可能性があるから常にまっすぐに軌道修正してやること、走る速度は犬ではなく神に合わせてほしいとは言った。

「私より神の方が力があるから大丈夫だと思うんだけど、一応お願いします」
「うん、気をつける。てか犬って想像以上に力強いね」
「でしょ。私最初引き倒されたもん」

また吹き出した神はしかし、の言うことに従い、リードの取っ手に手を通してぐるぐると巻きつける。グリの方も神にリードを持たれても問題ないらしい。何が起こるのかと若干興奮気味の様子。

「でも……練習してたのにまた走って大丈夫?」
「えっ、大した距離じゃないよ。学校で練習してるときの方がもっと走ってるし」

思わずウッとなってしまったは苦笑いで神の自転車のサドルに跨る。犬と走るので神の荷物は自転車のカゴとが背負う。自分も神の速度に合わせてスピードをコントロールしなければ、とちょっと緊張していただったが、楽しそうに走り出した神を慌てて追いかける羽目になった。早すぎないか!?

「ちょ、神、犬に合わせなくていいよ!」
「えっ、合わせてないよ!?」
「まじで!!!」

もちろん犬も大喜び、ノロノロしているお姉ちゃんを振り返りつつ、飛び跳ねるようにして走っていく。

「うううまじか〜さすが海南バスケ部」
「やばい、犬かわいい!」
「足の長さが! 違うとは言え! いつもこんな速度で走ってんの……!」

むしろ身長約190センチと走るの大好き中型犬に追いつくので精一杯。は一生懸命自転車を漕ぎつつ、どんどん暗くなっていく空の向こうの、薄っすらと輝き始めている月を見上げた。

オレンジと青と黒の空に透けるような月が浮かんで、その下を神とうちの犬が駆けていく。

なんだか、メルヘンの世界だなあ。

は自分も不思議なおとぎ話の世界に迷い込んだような、そんな気がしていた。

翌日、昼休みに購買のパンを買いに出たは、食堂に来ていたらしい神と鉢合わせた。

「昨日グリ大丈夫だった? 走りすぎて疲れてない?」
「昨日は白目剥いてベロ垂らして寝てたけど、今朝になったら戻ってた」

白目剥いてぐっすり寝たグリは朝6時には完全に蘇生、登校前に弾丸ウォークに付き合って来たはちょっとげっそりしつつ、苦笑いで答えた。てか私の感覚で言ったらそれは神も同じなんだけどなあ。あんな速度であの距離走ったら、私だったら今日疲れて起き上がれない気がするよ。

家に着く頃になってようやく犬の名前がグリであることを知った神はグリグリと連呼しながらまた撫で回し、そして颯爽と自転車を漕いで走り去っていった。よっぽど気に入ったんだろうか。

「あはは、むしろの方が疲れてるみたい」
「まさか自転車が人間に追いつけないとは思ってなくてさ……

神はさも可笑しそうに声を殺して笑っている。はそれをちょっと不思議に思いつつ、友達に呼ばれたのでその場を離れた。友達と合流すると、すぐに「神とふたりで何話してたの」と突っつかれた。正直に犬の散歩してたら神が犬気に入っちゃって、と話した。友達は少しだけ疑いの眼差しを向けてきた。

そう、神はその「バスケット部次期主将」という絶対的な肩書きのみならず、人当たりはよく真面目で柔和、しかも可愛らしい顔立ちに身長約190センチ、というもはや僻む気にもならないスペックの持ち主なのである。当然女子人気は高い。高いが神本人が高嶺の花で多忙ゆえ、実際に突撃しようという女子はそれほど多くない。

はもちろんそれを重々承知しているので、飼い犬は保護犬だという話をしたから気になったのか、どういうところで譲ってもらうものなのかと聞かれた、と嘘をついておいた。神が興味があるのは犬。私じゃないよ!

普段は楽しく過ごせる気楽な友人でも、間に男子を挟むと本当に面倒くさい。出来れば穏便に高校生活を全うしたいにとって、学年でも1・2を争う目立つ男子と親しいなどと思われるのは厳禁。一応同じクラスだったので雑談くらいは出来る関係だけど、特別なことは何もないと示しておく必要がある。

案の定、友人は神が興味を持ったという譲渡会についてを知りたがった。はグリと出会うまでに通いつめた譲渡会の話にシフトしていく。ほら、私が熱っぽく話すのも、犬の話でしょ?

昨日はたまたまメルヘンの世界に迷い込んじゃっただけ――

「だったんだけどねぇ……
「グリー!」

週末、はまた運動公園で遠い目をしていた。日曜の朝、両親がゆっくり寝坊をしているので、グリはのベッドに飛び上がって顔を舐め回してきた。お姉ちゃん散歩行こー!!! である。グリは後ろ足で立ち上がってドアを開けるという技を身に着けており、ねぐらは居間だがこうして好きな時に起こしに来る。

暗くなってから無人の場所は早朝でも同様の場合が多い。なのではまた運動公園まで来たわけだが、神もまた自転車でやってきていたらしい。嬉しそうな声で呼び止められ、喜んだグリに引きずられてバスケット広場である。神とグリを見ていると「オールウェイズ・ラヴ・ユー」が聞こえてきそうだ。

「朝練とかじゃないの?」
「去年までは体育館の鍵を預からせてもらうことができたんだけど……

神によれば、かつては早朝練習のために運動部員がクラブ棟や体育館の鍵を預かって自主的に練習をする習慣があったそうだが、旧来の過剰なクラブ活動や行き過ぎた指導の見直しを図る目的の一環で、担当の職員が出勤してくるまではどこにも入れないようになってしまったという。

それでも守衛さんが門を開けてくれる8時になれば敷地内には入れるそうだが、土日祝日は9時になってようやく体育館その他の施設が解錠される。なので8時に学校に着いても教室や図書室にいるしかなく、それなら別の場所で練習するなどしてから9時頃登校した方がいい。なので運動公園。

「体育館が開くまで学校の中走ってることもあるんだけどね。もしかしてグリ来てるかな、と」

来てるかな、じゃないよねぇ、やっぱり。

ほんの淡い期待にヒビが入る。が、十分予測できたことだし、はしゃいでしまいそうになる心は努めて静かに保つようにしている。ないない、いわば「スター生徒」な神だよ。あるわけないじゃん。グリだよグリ。

神がシュート練習だと言うので、グリが芝生を堪能するのに付き合いつつ、はバスケット広場の周りをウロウロする。身長は190くらい、という話だが、神は小顔で、なおかつ身体がまっすぐですらりとしている。それがまるで機械のような規則正しいフォームでボールを投げてはシュートを決める。

周りをウロウロしながら、はついそれに見とれた。なんで1回も外さないの……

「すごいとは聞いてたけど……ほんとにすごいね」
「そんなことないよ」
「そんなことなくないよ……それだけ入るんだからもう練習しなくてもいいんじゃないのって思っちゃう」

神は軽やかに笑っているが、本音だった。そうか、こういう人が「県内一強いチーム」の「キャプテン」になれるってことなんだな。まったく同じ動きでボールを放り投げて、一度もシュートが外れることがない、そんな特別な人だけが、そういう特別な存在になれるんだろうなあ。

そんなの遠い目を感じ取ったか、神は苦笑いで首を掻いた。

……もしこのシュートが外れるようなことがあったら、それが大事な試合の大事な瞬間だったら取り返しがつかないからさ。もっと練習しとけばよかった、っていう後悔はしたくなくて。今は練習だけじゃなくて、オレのシュート、外れないよな、大丈夫だよなって、確認してるみたいなところもある」

ビビりだよな、なんて言いながら神は眉を下げて笑った。

はなんと言ったものか迷った。それは確かにビビりだと思う。だけどそのビビッてしまう気持ちはよくわかる。ビビりになって当然だと思う。自分だったらそんな重圧耐えられるかどうか。しかし逆に、特別製だと思っていた神が、満遍なくハイスペックだと思っていた神が急に身近に感じてきた。

なのでつい言ってしまった。

「じゃあ、私がこの先一生でシュート決められる分を、神にあげるよ。たぶん50回くらいはあるんじゃないかな」

私はシュート決められなくても怖くなったりしないから、私が持ってる「一生のうちにシュート成功させられる回数」、それは全部神が使ってよ、という気持ちになったのだ。正直50回でも多いような気がしたけれど、それでもないよりはマシでしょ。

神は一瞬面食らった表情をしていたが、すぐに笑み崩れた。の胸がギュッと軋む。

「ありがとう。これで逆転とか、これで試合終了っていう、大事な時に使うよ」

雲間から朝の太陽の光が指し、バスケット広場を明るく照らす。は少し目が眩んだ。

ああまだ私、メルヘンの世界にいるみたい……