灯りを消して

Episode of extra.

かさ……かさ……

乾いた音が、規則的に響いている。暖かい布団の中とは裏腹に、きりりと冷たい空気が鼻を冷やしている。は、ぼんやりと目を覚ます。普段と違う目覚めの景色に、身体に感じる違和感に、眉をひそめた。

あれえ……なんだっけ。

いつもより床が近い。ベッドで寝ている時は1番遠くあるはずの本棚が、ほとんど目の前にある。それに、この腰に圧し掛かっている重いものはなんだろう。かすかにではあるが、首筋の辺りにそよそよと風が吹いているような気もする。この部屋に隙間風はなかったような気がしたのに。

無意識に布団を除け、重たい首を曲げて重さを感じる腰の方を見る。瞬間、はバッチリ目が覚めた。

の腰――というよりはウエストあたり――に乗っていたのは、江神の腕だった。首筋をそよぐ風は、当然江神の寝息。寝返りを打ったらしいの背中に江神が抱きついているのだ。一気に蘇る昨夜の出来事、昨夜の自分の言動の全て。は朝の冷静な頭にそれを思い出し、沸騰した。

そっと江神の腕から抜け出し、起こしてしまわないようにずるずると布団から這い出る。腕から逃げたところで退避スペースが広いわけではないから、は無理に身体を捻って本棚に寄りかかる。身を起こしながら、ちらと眠っている江神を見てみる。

うわあ、江神さん寝てるよ! すやすや寝てるよ! 可愛いよ!

寝起きのぼんやりした身体に、江神の寝顔は少々堪える。じたばたと暴れてしまいたいのを我慢して、は江神の寝顔から目を逸らし、顔を上げた。そこで今度は別のものを目にしてべたりと本棚に張り付いた。

「お、おはよう……

アリスがソファの上で気まずそうに座っていた。慌ててきょろきょろと辺りを見回せば、起きているのはアリスとだけ。アリスは早くに目が覚めてしまったようで、手には文庫本を持っている。目覚めかけのが耳にした、かさかさという音の正体はこれだった。

「おは、おはよ、アリス、起きてたの」
「うん、結構前に」

結構前に目覚めていたというアリスは間違いなく江神とに目を留めただろう。よく観察すればこたつの足を挟んでいる事が判るが、それでもぴったりとくっついて眠る2人を見ただろう。はそれが強烈に恥ずかしい。慌てて取り繕おうとしたのか、の布団の上に伸びている江神の腕を毛布で隠した。

「あの、アリス、これはね、昨日」
「そんなに慌てんでもええよ今更……

目撃してしまった方だって恥ずかしいに違いない。アリスは視線を逸らしてぼりぼりと頭を掻いた。

「けど……なんかちょっと安心した」
「え、なにが?」
「いや、穏やかな顔してくっついて寝とるから」

それがどう安心するのか、はアリスの言葉の意味を判じかねて首を捻った。

「昨日、しんどかったろうと思って。だから、ちょっとホッとした。僕たちさんざん邪魔したんやないかと思うてたから、なんや、心配する事なかったな、て」

そんなアリスの言葉に、はこくりと小さく頷く。時計の針は、午前8時を過ぎたところだった。

「ほ、ほんますんませんした……

午前9時を回ったの部屋は、重苦しく鋭い棘を含んだ雰囲気で満たされていた。

こたつを真ん中に、ソファに腰掛けるアリス。ベランダを背に正座で腕組みの江神、その傍らに控える。そして、江神の真正面にこたつを挟んで小さくなっているのは、目が覚めたついでに酔いも醒めた2回生コンビ。本日のメインイベント、江神のお説教タイムだ。

に揺り起こされ、同じく既に目覚めていたアリスに狼狽した江神だったが、アリスがに言ったような事を繰り返すと、いつもの調子を取り戻してふんわりと微笑んだ。そして、寝起きの一服を済ませると、2回生コンビを叩き起こしたのだった。

目は覚めたものの、昨夜の記憶に動揺している2回生コンビを沈黙睨みでその場に釘付けにし、そそくさとお茶を淹れて来たを自分のすぐそばに座らせたところだ。こたつの上でカップからゆらゆらと湯気を立てているのは、やっぱり2回生コンビからのプレゼントであった紅茶だ。

……何をしたのか、解ってるやろうな」
「わ、解ってます」

じっと見ている、というより江神はいっそ睨んでいるし、静かだが言葉に怒りを感じない事もない。一応は叱られる立場にないとアリスもびくびくしている。

「まず、アリスとには、ちゃんと謝れ。特にアリスは健康に関わる事や」

話の矛先を向けられたアリスは、と同じく今では特に気にする様子もないらしく、いっそう気まずい表情を浮かべた。思うところあって羽目を外してしまった先輩たちの気持ちは解らないでもないから、余計に気まずい。

江神の目にすくみ上がって、2回生コンビはぼそぼそと2人に詫びた。とアリスは、江神に逆に怒られない程度に首を手を振り、怒っていませんという無言のアピールを示す。それを確かめると、江神は続けた。

「正直、昨日の晩の時点では、かなり怒ってた。俺とがこんな関係になってなかったとしても、女の子の部屋に上がり込んで酔い潰れて寝てしまうなんていうんは最低や。アリスに無理矢理呑ませたのもな。しかし、当のとアリスは大して気にしとらんと言い出したし、俺も一晩寝たらいくぶん気が済んでしもうた。だから、これ以上は昨日の晩何があったかなんていう事は追求しない。お前たちも色々思う事があったんやろう、それを咎めはしない。先輩を立ててやろういう、後輩たちの懐の深さに感謝するんやな」

寝たら気が済んだというよりは、枕を並べた状態でに下の名を呼ばれたからだろう。やはり穏やかに話していた江神だが、だからこそより一層凄みが増す。2回生コンビはとりあえずのお咎めなし宣言に胸を撫で下ろしつつ、とアリスに繰り返し謝った。

「もういいですよ、お2人とも顔を上げてください」
「いつもの感じに戻ってくださいよ」

そう返している下っ端コンビに、江神は頬を緩ませた。

お前たちは、本当にええ子やな。

そんな充足感を得たならば、少し意地悪をしたくなる。江神はにたりと口を歪ませてふんぞり返った。

「よーし、モチに信長、帰り支度の前に一仕事してもらおうか」
「は、はい?」
「仕事、ですか」

すっと身構えた2人は、上目遣いに江神を見ている。

「風呂掃除に窓掃除、それとコンビニまでお使いや。全員分の朝飯を買うて来る事。とアリスにはプリン、俺には煙草1箱付きや。ええな」

とアリスは慌てて辞退したが、2回生コンビは警察官のような敬礼をビシッと決め、普段どおりの様子でニカッと笑った。つられて、江神もパッと笑顔になる。となければ、もアリスも笑顔でそれを受け入れるしかなかった。

掃除と買出し、2つを1人ずつで分担してしまってもよかったのだが、望月と織田はどちらも2人で取り掛かる事にしたらしい。織田が風呂掃除をし、望月はソファで悠々と寛ぐ3人を背中に窓を拭いている。

「モチさん、適当でいいんですよ」
「いや、見てみぃ、もうヤニ付いとる」
「そういう事や」

望月を気遣ったつもりのだったが、望月は雑巾についた黄土色の汚れに苦い顔をし、江神はにやにやしながらその汚れの原因である煙草をふかしている。

「ええなあ。人が働いてるのを見ながらのんびりするというのは」
「江神さん意地悪」
「僕だけお咎めなしってのも辛い」

もアリスも口々に反論を試みるのだが、江神は絶対に取り合わなかった。

掃除が終わり、2回生コンビがコンビニで朝食を買い込んでくると、一同は再び食卓を囲んだ。江神の制止にも耳を貸さず、が用意した玉子焼きと味噌汁つきだ。もうこの頃になると、江神のお説教モードはすっかり解けていて、朝食の席は昨晩の騒動が嘘のように和気藹々としていた。

遅い朝食が済んでしまうと、江神を含めた全員が暇を告げて帰り支度を始めた。としては、江神には残ってもらいたいと思っていたのだが、もちろん口には出せなかった。それと同時に、には言っておきたい事があった。この場にいる全員に、昨晩身体を満たした想いを少しだけ知っていてもらいたくて。

「また、遊びに来て下さいね」

ぴくりと江神が反応したが、の表情を見て開きかけた唇を閉じた。軽はずみに社交辞令をしたのではなくて、本音で言っている。EMCの中にあってこその自分と江神なのだろうという風には思い始めていた。おそらく、全員が正しくその言葉の意味を感じ取った。それぞれに申し出を快諾した。

順番に狭い玄関で靴を履いて部屋を出る。最後尾にいた江神は、寂しそうなに、小さく耳打ちをした。

「都合がつけばいつでも来るから」

声は出さずにぶんぶんと頷いたに、江神はもう一言付け加える。

……男同士の話っていうのもあるんや」

意味は判らないが、の単純な思考回路にはその言葉がとても艶かしく響いて、顔を赤くした。女の子のいるところでは出来ないような話をするつもりなんですか江神さん。まさか私が話のタネになるんじゃないでしょうね? それが猥談に直結してしまうあたり、もまだまだ幼い。

が赤くなっておろおろしていると、江神を残して突然ドアがバタンと閉まってしまった。ドアを隔てた向こうから、アリスのくぐもった声が聞こえてくる。

「江神さん、2分、待ちます!」

ただでさえ余計な事を考えてうろたえていたは、今度はすぐにその意味に気付いた。その一方で江神は冷静に腕時計を持ち上げて時間を確かめた。2分、意外と長い。

よく気の回る後輩たちに与えられた2分間で、江神はを抱き寄せたっぷりキスをすると、ドアの向こうに聞こえないよう小声で何やらに言葉をかけ、そのまま振り返って外へ出た。先に出ていた3人とは再び顔を合わせる事もなく、波乱の新年会は幕を閉じた。

「まだ時間残ってましたよ、江神さん。よかったんですか」

足早にアパートを出てしまった江神を追いながら、アリスが尋ねた。

「ああ、これが最後というわけやあるまいし。それよりお前たち時間、あるか」

それぞれがこくりと頷くと、江神はにっこりと笑って言った。

「お前たち、聞きたい事まだあるんやろう。俺が話す。には、言うなよ」

言うなり振り返って先を行く江神。長い髪が翻り、ファーのついたフードが歩みに合わせて揺れている。それはとても〝格好いい〟後姿だった。後輩3人組はちらりと顔を見合わせると、先を争ってその後姿を追いかけた。

「江神さーん、待って下さーい!」

END