灯りを消して

08

話は不自然に飛んで、初詣はどこに行ったのかだの、の料理のレパートリーだのの話題に切り替わっていった。やっとも会話に参加できるようになり、少しずつ言葉を挟み始めていた。だがその間でアリスは1人、食事に集中するように装いながら自身の仮説に囚われ続けていた。

江神という堅牢な守りはの猛攻により落城したが、それは自分でもよかった事なのではないか。2回生コンビの心にはそんな茫漠とした思いがあるのではないだろうか。そんな暴力的な仮説だが、アリスは決して的外れな推測ではないと思っている。

なんとなれば、2回生コンビはやや冗談が過ぎるとはいえを可愛がっていたし、深い意味でを悪く思っていないのは純然たる事実だ。外見や性格への好み、こだわりはそれぞれにあるだろう。だが、学生生活の中で決して短くない時間を共に過ごしていられたという、「慣れ」の部分では既に許容範囲の中だ。

もちろん、1人の男としての力量や質が江神と比べた際にどうであるかという事は置いておく。江神はがコロリと恋に落ちて盲目になってしまうに足る人物だが、それは決められていた事ではないし、その点に関しては惚れる方の問題だ。

例えばがスレンダーな眼鏡が好みだったとしたら、望月だったのかもしれない。素朴で安定感があるのが好みだったなら、織田だったかもしれない。それだけは、単純な計算では済まない。とはいえ、仮に2人にそういう思いがあったとして、それを言わないのは、やはり相手が江神だからなのだろう。

自分でもよかったけど、相手が江神さんじゃあ、仕方ない。

なんだかとても切ない結論だが、1番説得力はある。仮説に過ぎないが、つかえていたものがすうっと腑に落ちたような気がして、アリスは顔を上げた。途端にぎくりと手を止める。きゃんきゃんと料理の腕について騒いでいると2回生コンビを他所に、江神が自分の方を見つめていたからだ。

「あ、あの……
「何や一生懸命考えてたようやな」
「いえその……大した事ではないです」

無意識にちらちらと2回生コンビの方を見てしまったのだろう、江神もアリスの視線を追うようにして目を滑らせる。それに気付いて目を逸らすが、いまさら無意味だ。江神の何もかもを透視してしまうような視線に、アリスは寒気を覚える。

「お前が考えてる事、判るような気がする。たぶん同じ結論に至ってる」
「な、何を言うて……
「それを絶対とは思わん。けど、遠からず、やろうと思うよ」

アリスは怖くなって来た。だが、自分でも気付けるような事を江神が見抜けないはずもないとも思う。

「俺が、当たりを引いてしもうたんや」

江神は、さりげなくかじりかけのお握りを手にしている。なぜか鮭を「当たり」としていた江神だが、それをカムフラージュにするつもりらしい。や2回生コンビの耳を引かない程度のゆったりした声が、アリスの耳朶には重く響く。何やらまたからかうような事を言いながら、の肩を突付いている望月の笑顔が、痛々しい気さえしてくる。

「あいつらには悪いが、今は、大当たりやったと思うてるよ」

その言葉を、アリスは大事にしまっておこうと思った。

「1人さっさと春が来たような顔しやがって、腹立つわ」

何の話からそんな言葉が出たのかは判らなかったが、江神の呟きに気を取られていたアリスは望月の声で我に返った。見れば、にやにや笑いの織田と、してやったり顔のに挟まれて、望月は口を尖らせてむくれていた。一体何の話だったのだろう。

「そんなの私のせいじゃありませんよ」
「というか、今思い出したんやけど、お前、なんかいてたやろ、ほら、本貸してた」

のあかんべえに歯を剥いている望月に、織田がさらりと言う。何やらまったく新しい話の種が蒔かれたらしい。その言葉に江神とアリスも身を乗り出した。

「なんや、モチさん彼女候補いてたんですか。人の事言えませんねえ」
「いやいやいや、彼女候補て。違う違う」

眉間に皺を寄せながら望月はブンブンと手を振る。

「ミステリ読んでみたい言うから本貸しただけや。しかもえらい注文が多うて……

それで話を切ろうとしていたようだが、全員に注視されているのに気付くと肩をすくめて萎縮した。アリスや、織田だけでなく、江神の顔も「詳細を話せ」と言っているように見える。人に恋話を強要したのだ、当然逃げられるわけがない。

「ちょ、江神さんまで何か勘違いしてません? 本当に何もあらへんのですよ」
「何もなくてもええよ。ただ詳しく聞きたいだけやから」

江神以下、全員が示し合わせたようにうんうんと頷く。きっと江神は顔に出さないだけで、思い切りにやにやしてやりたい事だろう。アリスもほんの少しだけならそう思っている。

「ええと、ですからァ、同じ学部の子で、ミステリ読みたい言うので……貸したわけですよ。去年の秋頃に」
「モチさんの事だから、やっぱりエラリー・クイーンですか」
「そう。ネームバリューがある方がええかと思うて、『Xの悲劇』を」
「まあ、妥当ですよね。基本やし」

にやつきたいのを忘れ、アリスは真面目な顔で合いの手を入れた。

「そしたら! 外国人は名前が覚えられん言うてつっ返された」

日常的に本を読む習慣があっても、翻訳ものが苦手だという人はいる。だが、人物把握も出来ないとなると、ミステリなど絶対に楽しめない。クイーンに心酔する望月はさぞがっかりした事だろう。

「しゃあない……てんで、次は『犬神家の一族』を持っていった。有名なタイトルやし、今度は日本人や」

しかしこの流れで行けばこれも返されてしまったんだろうという事は簡単に予想がつく。

「ダメやったんですね」
「テレビで見たとか言い出した」

と、これだけを聞けばとても発展の望めるような話ではない。だが、まだ話には続きがあるらしい。

「しかしそれ以降も何か貸してくれ、何かいいの探してくれ言うてしつこいんや。正直面倒やってんけど、詳しいんやろう言われるとどうもカチンと来て……。苦労したんやぞ。
『葉桜の頃に~』は、冒頭の所読んでムカついた言うて却下。
『殺戮にいたる病』はグロい言うてこれも却下。
軽めのがええのかもしれん、と『ドッペルゲンガー宮』にしたら、分厚くて嫌やとか抜かしよる。
よく俺も耐えたと思うよ」

望月は大きくため息をついてこたつの上にゴンと額を打ち付けた。

「モチさん……『殺戮にいたる病』をいきなり女の子に貸すのはどうかと……
「結局まだ一冊も完読してもろてないわけか?」
「いや、『十角館』でどうにか落ち着いた。読むのも遅いから『時計館』まで纏めて貸したところ」

アリスの突っ込みをスルーしつつ、やれやれ、と両手をわざとらしく掲げているが、要は最終的にOKが出た「館シリーズ」を順に貸しているらしい。これをきっかけにして、望月の「彼女候補?」についての話はうやむやになってしまい、EMCらしく初心者に勧めるのに最適な一冊は何かという議論になっていってしまった。

あれこれとタイトルを出してはああでもないこうでもないと盛り上がる4人には口を挟まず、聞き入っている振りをしながらはふと思う。モチさんは気付いてないんだろうけど、その人、モチさんが好きなんだきっと。先ほどのアリスと同様、乱暴な仮説といってしまえばそれまでだが、有体に言えばこれはの女の勘だ。

EMCの末席に加わってから、江神にどんなものを読んだらいいかとしつこく尋ねた自分と重なる。もっとも、の場合は薦められるもの全て、面白くても面白くなくても読破したわけだが、きっとその「彼女候補?」さんは本を手渡されるたび、この上なく楽しそうな望月の薀蓄に耳を傾けるのが好きなんだろう。

何よ、モチさんにだって春は来るんじゃない。

肝心の望月本人の意思は遠くへ放り投げて、はそう自己完結した。

いまいち着いて行けないはともかく、男性陣はひとしきり「初心者向けミステリ」で盛り上がっていたのだが、その途中で江神があっと声を上げた。見ると、煙草を口に銜えて空になったキャビンを握りつぶしている。

「なくなってしもうた」

苦々しい表情でパッケージを握りつぶすと、江神はぽいとこたつの上に投げ捨ててしまった。駅まで迎えに行った時に補充しておけばよかったのだろうが、すっかり忘れていたらしい。喫煙者にとって、気がついた時は最後の1本だった――しかも1箱ストックがあると思い込んでいた場合が多い――というのは、とんでもなく苦しい。

「あ、じゃあ私買ってきますよ」

話にも着いていけないし丁度いいと思ったのだろう、は元気よく手を挙げて立候補した。そのの脳天に江神の手が垂直に下りる。チョップだ。

「煙草を取り扱う店舗では、未成年者への販売は例え頼まれたものであってもいたしません」

火を点けるのがもったいないのか、江神は乾いた最後の1本を銜えたまま淡々と言う。20年ほど昔なら、子供がつり銭目当てに煙草のおつかいをするというのはありふれた光景だった。だが、現代にあってはそれも認められない。が20歳に見えないという事もないが、わざわざ買いに行かせる事はない。しかも、日はもうとっぷりと暮れている。江神は、煙草が切れたからと彼女1人夜道に放り出すような男ではない。

……そういや、ウーロン茶もないな」

アリスにだけは少々わざとらしく聞こえたのだが、江神はそう言って立ち上がり、キッチンの壁にかかるジャンパーを引っ掛けた。そして、くるりと振り返ると、ひょいひょいと手招きをした。

、お前も来い。お前ら、大人しくしてろよ」

その江神の言葉には、もう誰もちゃちゃを入れたりはしなかった。ただ慌ててコートと財布を引っ掴み、何も触るなと念を押して江神の後を追うの後姿をいってらっしゃい、と見送った。ガチャンと鍵の閉まる音が聞こえ、次いでのものらしいコンコンというヒールの音が遠ざかってしまうと、突然アリスは織田に首根っこを掴まれた。

……それではアリスくん、じっくりと語ろうではないですか」
……何をですか」
「お前、本当は色々知ってるんやろう。全部、吐いてもらうからな」

織田に捕獲されたアリスは、そのまま2人の間に移動させられてしまった。望月がアリスの目の前に、缶チューハイをドンと叩きつける。まだ開けてもいない500ml缶だ。アリスはまだ未成年だというのに、望月も織田も、真剣そのもの。アリスは、誰も助けてくれる者のないこの状況に、ただ顔を真っ青にして縮こまる他なかった。

「部屋の中、ちょっと暑かったな。涼しい」

を連れてアパートを出た江神は、白い息を吐き出しながら、大きく伸びをした。普段ならきっちり喉元まで締められているジャンパーのファスナーは全開しており、江神の動きに合わせて裾が上下している。

「あのう、私、残った方がよかったんでは……

は何度もアパートの方を振り返っては不安そうな顔をしている。アリス1人を残してきたとはいえ、1人暮らしの部屋に男3人を置いてきた事が心配でならないのだ。いざとなればアリスは身を挺してでもの隠された私生活を守ろうとしてくれるだろう。だが、そのアリスが2回生コンビに勝てるかどうかは怪しいものだ。

そんな不安で一杯になっていたから、は少し機嫌が悪かった。江神が1人で行ってくれれば、アリスと2人がかりできちんと目を光らせていられたのに。

だが、江神はの手を取ると、事も無げに言う。

「俺は大丈夫やろうと踏んでる。何かあったら全部俺が責任取るから、心配するな」

責任を取ってもらえればいいというものではない、とは口答えしたかったが、取り敢えず黙った。

……俺も迷った。部屋に野郎3人も残していくのと、その中にお前を置いてくるのと、どっちかええかとな」

具体的に例を出してもらえれば、はちゃんとその意味が判る。その2択で迷った結果、江神は後者を良しとしなかったのだ。嬉しい。些細な事だが、はすぐに機嫌が直る。

「江神さん……
「悪いな、。あの中にお前を置いてくるのは無理やった。それに」

言葉を切って、江神はをぐいと引き寄せた。

「そろそろ2人になりたいと思わんかったか?」

唇の端を吊り上げ、目を細めて江神は顔を寄せた。誰もいない住宅街の中で、そっと囁く。考えるまでもなく、それは煙草とを置いてこないための外出のおまけだ。だが、決して嘘ではない。

「思ってました」
「少しゆっくり行ってこよう」
「はい」

江神の袖を掴んで、は爪先立つ。街灯の明かりに遠く伸びる2人の影は、ゆっくりと1つに溶け合った。