灯りを消して

03

付き合う意味がない。には、その〝付き合う意味〟すら解らない。

黒い影に覆われたの視界が、徐々に晴れてゆく。けれど、江神の真剣な顔はそのままだった。付き合う意味がないと言ったきり、また口を閉ざしている。は、悲しいとか悔しいとかいうよりも、ただ絶望感で一杯になっていて、何も反論できなかった。

たっぷり間を置いて、江神はまた煙草を取り出し火を点けた。今度は軽く吸い込んではすいすいと吐き出している。西日が容赦なく照りつけるベンチに、冷たい風が吹き抜ける。

「意味が、解らんか」

静かにそう言う江神の言葉に、茫然自失のはふらりと頷いた。

「俺に何も言わず、1人着々と明後日の準備をして、何もかもすっかり万端整いましたいうようにするつもりなんやろうけど、、お前、俺の嫁か? 俺に養のうてもろてるのか?」

何言ってるの、この人。は、江神に対して初めて不信感を持った。がいくら短慮なのだとしても、今回ばかりはまるで関係のない視点から勝手に不機嫌になられているような気がして、苛立った。

「違うやろう? さて、じゃあ今回の新年会騒動、これは何の集まりや。EMCか? 確かに面子はEMCやけど、どうも様子が違うな? モチや信長は何を目的にあんな事を言い出した?
もちろんそれは色々込みで俺らの事が気になって仕方ないからやな?
そしたら、かなり意味合いが違うてくるやろう。これがEMCの集まりで、俺らの事はこれっぽっちも関係ないなら、下っ端のお前が駆けずり回って準備するいう事もあるやろうが…」

江神の言葉を聞いているうちに、はどうにもこんがらがってきた。むくむくと湧いて出た苛立ちの上に雲が差し、自分の置かれている状況が解らなくなってきた。ええと、私は一体?

「言い方は悪いかもしらんが、モチや信長はいきなり付き合いだした俺らが目的なわけやな。アリスはそのとばっちりや。……まあ、興味はあるやろうけど。
EMCいう集団を隠れ蓑にして好奇心を満たしたい、突然くっついてしもうた俺らの中にちょっと足を入れてみたい、そういうのが見え隠れしとる。それを受けて立ってしもうたのは、何や? EMCの部長と下っ端か? それとも、俺が働いて稼いでお前が家を守っとるいうような夫婦か?」

ますますわけが解らなくなって、は眩暈がしてきた。

「なんですかそれ、わけわかんないです」
「解らんのやったら解るまで黙って聞いとけ」

何の抑揚もない言葉が、どんな怒声よりもの耳を抉る。江神は吸いさしを捨てて、また話し始めた。

「部長と下っ端、夫婦でもない。そんなら、何や。どう考えても、付き合うてる事を内緒にしよういうてこそこそしとったカップルやなあ。
そしたら、そんな風に仲間と向き合わんといかんカップルの、男の方は、何もせずに女に細々した事を丸投げして、当日になってぶらぶらとやって来てふんぞり返っておればええんか?
部長と下っ端? 年の差がある? それが何や。俺とお前は夫婦でもなければ、小さいながらも組織の中の序列に沿うだけの間柄やないやろう。
ええか、。これは、俺と、お前が、2人で背負い込まないといかん事やないのか?
それを1人でホイホイと背負い込みやがって。
俺は、お前の何なんや。お前の亭主でも何でもないぞ。まだ付き合うて日の浅い、駆け出しの相方やないか。どうして一言言わない。どうしても1人で買出しに行く必要があるなら俺は止めん。お前の部屋を使うんやから、どんなものを買っても構わん。昨日も、明後日の事に前向きに対処していこういうお前の姿勢は本当に偉いと思うたよ。実際、なんて健気でええ子なんやろうと思うたよ。けどな、、なあ」

一度言葉を切ると、江神はベンチにもたれかかってずるりと体勢を崩し、片手で額を覆った。

「俺が、どんなにお前に近づきたいと思うても、お前がそうさせてくれん」

くぐもった、喉から搾り出したような声で江神は呻いた。

「確かにまだほんの数日いうくらいの付き合いや。けど、お前はどうも部長と下っ端のまま、まるでご主人様と召使いや。付き合ういうのは、そういう事やったかな? 俺とお前が付き合うだの何だのいう事に、先輩も後輩も関係ないと思うてたのは、俺だけか?
EMCの下っ端、年下の後輩、そういうしか、俺は知らん。
ガッチガチの敬語に、主従関係みたいになってもうてる、それは彼女なんか?
いくら慣れない言うても、名前で呼んでもくれん、そんな状態、付き合うてる意味があるのか?
……、俺を、遠くに置かんでくれよ」

江神の言葉はずっと静かに、穏やかに、淡々としていた。ただ、最後の言葉だけが悲痛な色を帯びていた。

……まだ、意味が解らんか? こんな風に、こんなキツい事、俺も言いたくない」

江神が言葉を切る。ほんの少しの間を残して、は声を上げて泣き出した。

人気のない、ただ寒いだけの空中庭園。ビルの壁を滑って風が吹き上がる。暮れゆく空は、目に痛いほど鮮烈な色を放っている。ぎらぎらと射す夕日に長い影を落とすベンチに座って、は子供のようにしゃくりあげていた。頬を擦りあげる指に涙が伝い、手首を流れていく。江神は、そんなに言葉もかけず、手も差し伸べなかった。

は、もう、だめだと思った。自分が重くなったら言えと、確かにそう言った。だが、それがこんな早く訪れるものとは思わなかったし、実際に重いと言われているような言葉を投げつけられてしまうと、こんな悲しいものだったとは知らなかった。

江神を傷つけた。たぶん、江神はそんな表現を使わないだろうが、にはそう思えて仕方なかった。大好きな大好きな、きっと世界で一番好きな人なのに、傷つけてしまった。せっかくその広い心に隙間を作ってもらって、ちょこんと置いてもらったのに、ずたずたに傷つけてしまった。

そんな風に傷つける事しか出来ないのなら、苦しませるくらいなら。

「江神、さん、ごめんなさい、ごめんなさい、私、もう、いいです」

しゃくりあげるせいで、上手に話せない。それでもは上ずった声で続ける。

「私が、間違って、ました。でも、言い訳は、しません、江神さんが、もう嫌なら、別れます」
……俺がもう嫌や言うたら、はいそうですかて言うんか」
「だって、私には、それしか、ない、から、無理強いは、したくない、です」

苦しそうに喘ぐにちらと視線を投げかけたかと思うと、江神はすっと立ち上がった。ああ、このまま江神は立ち去ってしまうんだろう、私は1人取り残されてずっと泣いているんだろう。休みが明けても、EMCに顔を出す事もなくアリスにだけ辞めると言って、学館には近寄らないようにして学生生活を送るんだろう。はそう思って身を縮めた。

だが、江神はその場に立ったまま、ポケットに手を突っ込んですうと息を吸い込んだ。

「俺は、そんな事言わんぞ。ほんの数日付き合うて、もう別れるなんて嫌や」

悲痛な告白で全ての毒を出し切ったように、江神の言葉は晴れ晴れとしていた。誰もいない屋上庭園、そこにはすらもいないかのように、遠く茜色に染まる空に向かって、よく通る声で言う。

は俺を遠くに置いてしまうけど、俺はが大好きやからなあ。別れるのは嫌や」

強い風が長い髪を浚い、ひらひらとはためかせている。

の手料理がもっと食べたい。初詣とスーパーだけやのうて、別のとこにも行きたい。海もええな、山でもええ。もっと話したい、の、自身のもっと近くに行きたい。最初は俺もに愛想つかされたらはいそうですかて言うつもりやったけど、もう無理や。はすごいな、たった数日で俺をこんなに駄目にしてしもうた。遠くになんて、いたくない。ご主人様も嫌やな。横に並んでいたい」

静かなる独白は吹き上がる風に乗って、を突き刺し、そのままどこかへ飛んでいってしまう。少しずつしゃくりあげる間隔が長くなってきたの見上げる前で、江神は振り返り、片膝をつき、ベンチに座るに跪く格好で手を差し出した。その手は、淀みなくの両手へと滑り落ちる。

、どうも面倒な事ばかりやな。けど、俺は、嫌やぞ」

今にも微笑むのではないかというくらいに柔らかな表情の江神が、いきなり豹変した。

「お前と離れるんは、絶対に嫌や!」

普段から感情的では決してなく、気分にむらもなく、落ち着いていて寛容、温厚。そこに少々の茶目っ気があるというくらいの、凪いだ海のような江神は、を見上げて叫んだ。その声は、だけに向かって放たれ、孔を開けてしまうのではないかというほどの威力でを貫いた。

が、こんな風に変えてしまった。そこそこ年が離れていて子供じみた言動の多いが、絵に描いたような大人であるはずの、江神を。その重大さに、は背中が折れてしまうような気がした。これは、本当に江神さんかな。今自分の膝に向かって俯いて、とんでもなく感情的な事を叫んだのは、本当に江神さんかな。嘘だと思いたかった。そうでなければ、妙な夢なのだと。

だが、悲しいかな、これは紛れも無い現実だった。の一番深い所にある何かが怯えて、震えていた。それでもそうやって震えながら、小さな小さなは、やはり江神と同じ事を想っていた。現実は怖くて、悲しくて、辛い。そう弱音を吐く小さなはしかし、江神への想いがたくさん集まって象られている。

それがなくなってしまったら、粉々に飛び散って、消えてしまう。それは、嫌だ。

「私も、嫌、離れるのなんて、嫌。江神さんが、いないなんて、嫌……!」

ポタポタと涙を零しながら、それでもは言い切った。

「ごめんなさい、ごめんなさい江神さん、私、こんなだけど、でも……
「阿呆、そういうお前がいいて、言うてるのに、お前は本当に困った女やな」

立ち上がり、の腕を引いた江神はそのまますっぽりと包み込む。

「初詣の時、俺が何を願ったか聞いたな」

の背中を締め上げながら、江神はそっと囁いた。

がずっと俺の事を好きやと思うててくれますように。……そう、願ったよ」