灯りを消して

06

いざとなったら部長モード。それしか対抗手段はない。

「お、ご主人、すいませんねえ」

だが、どうにもこめかみあたりがヒクつくのはなぜだろう。

初っ端からふざけはじめた望月の頭を軽く叩いて、江神は降り立ったばかりのバス停に戻った。まだ松の内であるが、前日が一般的に仕事始めである今日はバスの運行も平常どおりだ。そう時間を置かずに次のバスが来るだろう。

「あのう、江神さん、僕は反対しましたからね」
「何の事や」
「いえその、あれ」

アリスが言い辛そうに指差した先は、望月と織田の手にある大き目のナイロン製のバッグ。いわゆるエコバッグというやつだ。織田が2つに望月が1つ。表面の凹凸を見るに、どうやら中身は缶やペットボトルなどであるらしかった。持ち手が重みで伸びきっている。

「あれ、全部酒なんですよ」

瞬間、江神は髪が逆立つのを覚えた。後輩の女の子であり先輩の彼女でもあるの家での新年会を許可しただけでも寛容だと思っていたのに、アルコール大量持参とは。だが、2回生コンビは悪びれずに言う。

「だって江神さんアルコール禁止とは言うてないですもん」

江神は背中を丸めるほどに肩を落としながら、アリスに「お前は飲むなよ」と呟いて盛大にため息をついた。

乗り込んだバスの中で、2回生コンビは江神の予想通りちくちくと突付き回し始めた。予防線として江神は2人掛けのシートに座りアリスを横に置いたのだが、不運にも客のほとんどいない車内では席が別れる事もなく、2回生コンビはすぐ後ろのシートに陣取って畳み掛ける。

「人の恋路を邪魔する輩はなんとやらですよ」
「邪魔? 邪魔なんぞしとらんやろ」
「そうや。むしろ全面的に応援したいと思てるよなあ」

アリスのストッパーも殆ど役に立たない。

「いえね、江神さんが女にモテるゆうのはよく解るんですわ」
「しかしがそうかと言うと……いうわけやな」
「いや、が不細工やとか言うてるわけやないですよ」

2人の言わんとしている事は解らなくもないが、それにしたってそのを選んだ江神の前で堂々と言ってしまうあたり、今日の2回生コンビはよくよく恐れを知らない。それにはもちろん後輩思いである江神が大人しく黙っているせいもあるのだが。

「でもモチさん信長さん、EMCにもっと女子部員がおったら、こういう事も、もっとあったんやないですか?」
「それはまったく別の話や。どんな女の子がおるかにもよるやろ」
「そうですよねえ、お2人ともまったく相手にされなかったかもしれませんしねえ」

わざと意地の悪い言い方をしたアリスだったが、2人はめげない。

「そうや。他にたくさん女子部員がおったんなら、もどうなってたか判らん」
「他にもぞろぞろ江神さん好き言うてる女がいてる状況で、果たして選んでもらえるか」

こんな風に、とても失礼な議論を繰り広げているのを耳にしていながら、江神もアリスも、不思議と怒りは湧いてこなかった。こんな軽口、普段のEMCなら当たり前の事だからだ。先輩3人はもちろん、同期のアリスにも到底届かないほどの些細なミステリの知識しか持たないままEMCに飛び込んだ。それでも、従順で元気で明るい可愛いは、からかってこその紅一点だ。

が本気で落ち込んだり、泣き出したりしないと判っているから、ついいつも調子に乗ってしまう。時には上手い切り返しで先輩をやり込めて、満足げにふんぞり返ったりする。そんなが、江神の腕の中に入ってしまって、気軽に後輩として接する事が出来なくなってしまう。それがつまらない、寂しい。

だから、江神は先輩としてそれを咎めない。その代わりに、の恋人として釘を刺す。

……それでもが同じ事をしたら俺はあいつを選ぶよ。お前らのそういう軽口も〝可愛がり〟やと思うから何も言わん。けど、口が過ぎないように気を付けろよ。を泣かすような事があったら、許さんからな」

後部の2回生コンビはウッと声を漏らして黙り、アリスは江神の変貌振りに目を剥いた。

「同じ事」の意味を知らない2回生コンビは、その意味を突っ込むのも忘れて、黙っていた。バスは、夕日の中をすいすいと進み、降車するバス停へと迫りつつあった。

「ところでお前ら、靴下は匂わんやろうな」
「はーい」

そろそろのアパートが見えてくる頃になって、江神は渋い顔で問いただした。3人は同時に靴を履いた片足をひょいと挙げて、よく出来たお返事をした。

「一応女の子の部屋ですからね、新しいのをおろしました」
「靴が半端なく匂ってたら意味ないぞ」
「それも……大丈夫やと思います」

張り切って言ったアリスは自信なさ気に声を潜めた。正直、そこまでは確かめなかった。

「まあええ、もし匂うたら外で洗ってもらうぞ。もちろん水でな」

江神のにやついた顔は、それが本気である事を示していた。冬真っ盛りの外で水。それはぞっとしない。

の部屋に到着すると、それまでうるさかった2回生コンビもアリスも急に静かになった。見慣れないドアの向こうにいるのは見慣れただと判っているが、いや、判っているからこそ妙な緊張が走る。ドアの上に付いている換気口からは、なにやらいい香りが漂ってきている。鍋の準備をしているようだ。

から預かった鍵で江神がドアを開ける。これまでのはしゃぎようなら、早合点してもう合鍵かと突っ込まれるところだが、アリスはもちろん、望月も織田も何も言わない。それどころか、慣れた手つきでの部屋だというドアを開ける江神が知らない人のように見えていた。

「おかえりなさい」

乾いたドアの外に漏れる、温かく湿気を含んだ甘い香り。そしてそこから聞こえてくるのは、まるで母親か嫁かというくらいの優しい声。もちろんそれは駅まで往復してきた江神に対してのものであり、やって来たばかりの3人へ向けられたものではない……という事には考えが至らない。アリスですら、ほんわかした気分になっている。

「寒かったでしょう、さあどうぞ」

これは、3人に向けられた言葉だ。3人は我に返って居住まいを直す。初めて訪れるからといって、あまりきょろきょろと観察するのも失礼だ。望月、織田、アリスの順に大人しく部屋に入る。キッチンにへばりついているもまた、初対面の、「によく似た女性」のような気がしてくる。

「あ、皆さん手洗ってうがいして下さいね」

が促した方向では、江神がすでに手を洗い、口をゆすいでいる音が聞こえてきている。ああ江神さん、あなたはもう勝手に洗面所で手を洗ってうがいしてしまうほどこの部屋に慣れてるんですね。3人は同じ事を考えながら江神が出て来るのを待った。

その最後尾にいたアリスが、弾かれたように手にしていた荷物を掲げた。

「あ、、これおみやげ」
「えっ、なあに……あ、オアフのシュークリームだ!」

は歓声を上げた。京都は西陣に本店を構えるオアフのシュークリームは、たっぷりのクリームを挟みながらも、しつこくない優しい味が評判だ。はここのシュークリームが大好物だとよく言っていた。箱の大きさからして、アリスはどうやらきちんと人数分を買ってきたらしい。

「おお、アリス気が利くな」
「アリスありがとう! 江神さん甘いもの大丈夫ですか」

シュークリームの箱を手に、満面の笑みで江神に向かってはしゃぐ。それを慈愛に満ちた眼差しで見下ろす江神。みやげを手渡したアリスをはじめ、手を洗っている望月も、順番を待っている織田も、今この瞬間になって初めて、この新年会に来た事を少し後悔した。

出来たてカップルを突付き回して楽しむはずだったのに、出来たてカップルに中てられてやるせなくなってしまった。さらに、順々に手を洗い通された部屋には、まるで主のように落ち着き払ってこたつに座る江神の姿。あまりに不似合いなピンクの灰皿に煙草を傾け、の淹れたコーヒーをすすっている。もちろん3人の分も用意してあるが、江神とのカップだけデザインが違う。3人に用意されたカップはいかにも来客用といったような同じデザインだ。しかも、なんとなく哀愁漂う鼠色だった。

「まだ早いのでお鍋はもう少ししてからでいいですよね?」

はそう言いながら、望月と織田を部屋に通す。こたつの一番奥の辺、ベランダ側には江神が既に腰を下ろしていて、ぼんやりと紫煙をくゆらせている。

「ぼけっとしとらんと、座り」

これではまるで亭主ではありませんか。そんな突っ込みも出来ずに、2人は腰を下ろした。ソファに面した辺――いつもの江神との定位置――に織田が座り、望月はキッチンへと続くドアに面した辺に座る。

「アリスもコーヒーどうぞ」
「あ、ありがとう」

そう言いながら、アリスも部屋に足を踏み入れる。これで全員足の匂いは基準値をクリアした事になるのだろう。残っているこたつの辺は残り1つ、ソファがある方とは反対側の、織田の正面だ。アリスはそそくさと足を突っ込んだ。そのアリスの後ろを、がひょいひょいと歩いて行き、何のためらいもなく江神の隣にすとんと落ち着いた。そう大きなこたつではないから、ややアリスの方にはみ出す形になるが、江神は腰を浮かせてスペースを作ってやっている。

今度こそ、望月と織田は今日のこの新年会を悔いた。

落ち着き十分包容力十二分の江神に寄り添う、若さ100パーセント初々しさ120パーセントの。なんだこれは。何か新手の拷問か。そんなものを見たかったのか俺たちは。なんだ、マゾか。マゾなのか?

言葉にならない疲労感が2人から滲み出し、アリスをも覆い尽くそうとする。だが、こんな事でめげていては、この後に控える鍋などとてもじゃないが耐えられそうにない。江神の逆鱗に触れない程度に芸人モードに突入してしまわなければ、再起不能になってしまう。

今やモチ、あれを使う時が来たようや。
あかん、あれは! リーサルウェポンは最後までとっとかないかんやろう!
そんな事言うてる場合か! このままではやられてしまう!

そんな目と目のやり取りがあった――かどうかは判らないが、2回生コンビは何かを振り払うように背筋を伸ばすと、きれいに包装された包みを2つ、引っ張り出した。そして、ピンク色のリボンがついた方をに、ブルーのリボンの方を江神に向けて差し出した。

には、お年玉」
「江神さんにはお年賀です」
「何や、そんな気を使わんでええのに」
「わーいお年玉」

済まなそうな江神に、にこにこ顔の。包みを開くと、中身がこたつの上に広がる。

「ヒィ!」

この変な声を漏らしたのはアリスだ。江神には真っ青になって固まっている。

「大したものやないですが……お泊りセットです!」

望月がやっと本来のペースを取り戻す。にやにやしながら、声高らかにそう宣言した。

の方の包みには、お揃いで色違いの歯ブラシとフェイスタオル、紅茶の缶。それはいい。お泊りセットと銘打たれてはいても、まったく問題がない。事によっては江神が半分持ち帰ってしまっても構わないような品だ。だが、江神の方にはとんでもないものが入っていた。

パッケージの男性モデルがいやに生々しい替え刃式のシェーバーと、トラベルサイズのマウスウォッシュ、そして極め付けが一見それとは見えないようなデザインの箱であるが、どう考えても避妊具だった。

2人は真っ青を通り越して真っ白になっている。その横で、アリスも白くなり始めた。贈り主の2人は笑いたいのを必死で堪え、肩を小刻みに震わせている。冗談にしてはあまりに品のないセレクトだが、望月と織田にしてみれば計画通りといったところか。

一方、アリスは今すぐにでもダッシュで逃げたい衝動に駆られていた。例えば今と同じ状況でからかわれているのが江神ではなくて、別の人物で、なおかつ自分やと同い年の、〝EMCの下っ端〟だったなら、全員で大笑いすれば済む事だ。だが、はともかく江神は部長で先輩であるわけで。逃げたい。僕は知りません。

しかし、江神はふうと小さく息を吐くと、2つのプレゼントを包みなおしての背中をポンポンと叩いた。

「モチ、信長、いくらなんでも冗談が過ぎるぞ」

アリスは自分が無関係である事を忘れてお説教を覚悟した。だが、雷は落ちない。

「それに、こういうもんは俺が用意するから意味があるんや!」

まったく別の方向から物言いが出た。今度は江神以外の全員がひっくり返る番だった。