灯りを消して

09

のアパートからコンビニまでは、のんびり歩いても15分程度。夜になると途端に人通りの少なくなる住宅街だが、連なる窓には明かりが灯り、1人歩きでも不安がない。時折犬の散歩をしている人と行き交うが、夜9時をとっくに回っている路地はひっそりと静まり返っていた。

江神がの手を取り、はその繋いだ手をゆらゆらと振っていた。お母さんのお迎えにウキウキの幼稚園児のようだ。あれほど不安に思っていた新年会も、今のところ順調で、考えていたよりもずっと楽しい。EMCの輪の中を、江神と離れてはそう思った。

「ねえ江神さん、私たち、認めてもらえたんでしょうか」
「認める?」
「何があったのか知りたい……という事だったんでしょうけど、私はみんなに――特にモチさんと信長さんですけど、『部長をこんな事に巻き込みやがって』って思われてないか、心配だったんですよ」
「そんな事はないやろう」
「そうですか? 私が暴走しなかったら、ずっと以前のままのEMCだったんですよ」

色恋沙汰を持ち込んでEMCを壊した。そんな風に思われたらどうしよう。にはそんな思いもあった。

「仕事やないんやから、そんな事でブツクサ言う方がおかしないか」
「そうかなあ」
「極端な話、男だけ女だけだったとしても、あり得ない話やない」
「そうかもしれませんけど、でも、私は認めて欲しかったんです」

江神とが付き合っているという事実を、EMCの中にまで持ち込ませてもらいたい。アリスはもちろん、2回生コンビにも。EMCの中に、カップルが1組いてもいいよ、とそう言って欲しかった。欲を言えば、EMCの事を何も知らない人物にはを指して「ああ、これは部長の彼女ですから」などと言ってもらいたい。

中禅寺千鶴子よろしく、EMCに於いてはどう考えても探偵役のポジションである江神の傍らに控えてみたい。自分は探偵役はもちろんの事、ワトソン役すら到底務まらないと判っているから、せめて内助の功という役につけないものか。事件には関係のない事をぽつりと漏らし、それを聞いた江神が突然走り出す。その後をわけもわからずアリスあたりが追いかけて行き、1人残されたは「夕飯までには帰って下さいよ」などと言うのだ。

突飛な飛躍を見せたが、約2日ぶりの妄想である。は、安易な探偵夫婦を想像して、楽しくなっていた。

江神さんが探偵で私がその奥さん。アリスはワトソン役。じゃあ、モチさんと信長さんは警察かな。モチさんが新米刑事で、信長さんが鑑識というのはどうだろう。逆に、信長さんが新米刑事で、モチさんが監察医でもいいかもしれない。捜査に行き詰って、モチさんと信長さんはいつも先輩である江神さんに頼ってきちゃうわけですよ。いいな、それ。なんで2人とも経済学部なのよ。

の妄想は貧相ながらも日々逞しく成長を続けている。日本に限っては、「司法解剖を専門とする監察医」という職業が稀である事など知る由もない。スーツや鑑識の制服、白衣の2回生コンビを想像してはにやにやしている。

「それで、お前は認めてもろたと感じたわけか?」
「どうでしょう。アリスはそう思ってくれてると思うんですが」

何やらにやにやと頬を緩ませているに訝りながらも、江神はふんふんと頷いた。間違っても2回生コンビへの不確かな仮説など口にする事は出来ない。アリスにも解ってしまった事なのだから、の勘がもう少し機敏に働けば、あるいは気付いたかもしれないが、生憎そんな便利には出来ていなかった。

に気付かせたいわけではない。2回生コンビへの江神とアリスの仮説が万に一つ事実だったとしても、それをわざわざ知らせてやる必要はどこにもない。それでも江神は口を切る。

「しかし、もしこれが俺やのうて、他の誰かやったとしたら、もっと簡単やったかもしれん」
「他の、なんて、やめて下さいよ。私は絶対……
「そういう事を言うてるんやないよ。女の子がお前でなかったとしても絶対や言うつもりか?」
「いえまあ……そうですよね」
「どうしたって、考えてしまうやろうな。今のところお前が紅一点やけども、その紅一点がお前やなかったら、紅一点どころか、何人もいてたら。なんで部長となんやろう、なんで自分やないのやろう」

当然は江神以外のEMCのメンバーと等という事は考えられない。でももし、自分ではなかったら……

「逆も、ありますもんね」
「そうやろうな。内容が違うてくるだけで、子供でもあり得る話や」

コンビニの煌々とした明かりが近づいてくる。は繋いだ手をキュッと締め付ける。

「私、みんなに好きな人とか彼女が出来たら、超応援する事にします」

突付きまわす言うてたのはどの口や。そう言いながらの唇を引っ張りたい衝動に駆られつつも、江神は立ち止まっての頭を撫でてやる。考えなしの猪突猛進な上にムラの多い女だが、素直で善い心根を持っている。それを汲み取って褒めてやるのは、大事な事だと思いながら。

コンビニで煙草とウーロン茶を買い足した2人は、アパートを出てから40分以上が過ぎていたが、それでもゆっくりと帰路についた。途中、2度ほどこっそりキスを交わしつつ、気のいい仲間の元に帰ろうと元気にアパートまで歩き、笑顔でドアを開けた。

部屋の中は、静まり返っていた。玄関からは半分しか見えない奥の部屋、その入り口あたりになぜか腕が1本伸びている。その深いグリーンの袖は、確か望月のものだ。そしてその先には、おそらく空であるチューハイの缶が転がっている。まるで殺害現場だ。

江神もも、自分の血の気がさあっと引いていく音を確かに聞いた。

ジャンパーを脱ぐのも忘れて江神が駆け込む。その後を追ったは、思わず呻き声を漏らした。

「何やってるんですかあ!?」

現場は凄惨な様相を呈していた。被害者と思われるアリスはソファの上でピクリともせずにうつ伏せているし、ほぼ間違いなく加害者であろうと思われる望月と織田はそれぞれに真っ赤な顔をしてひっくり返っている。なぜか握りつぶされたりしてはいるが、ざっと見渡しただけでも缶が20本近く、焼酎のビンやら日本酒のカップもごろごろ転がっている。よく見ると、箸やお握りの皿まであちこちに転がっている。

江神探偵が推理するまでもない、望月と織田は短時間の間にアリスに酒を飲ませて沈めてしまったのだ。当然、未成年に飲酒を強要した上に、の部屋を荒らした2回生コンビに江神は容赦ない。

「おいコラ、モチ、起きろ! 何やってんのやお前は!」

1番手前に転がっていた望月の襟元を掴むと、引き起こしてがくがくと揺すった。望月はずれた眼鏡の向こうで薄っすらと目を開け、ソファのへりを背に寝ていた織田も気付いて顔を上げる。だが、アリスは動かない。が望月を跨いでアリスに駆け寄った。

「あー、江神さーん、おかえりなさい」
「おかえりなさいやあるかド阿呆、アリスに酒飲ましたんか!?」
「そらもう心から語り合いましたよう」
「ええ加減にせえよ、急性アル中にでもなったらどうする!」

推理小説研究会が新年会で急性アルコール中毒など冗談にもならない。珍しくそんな発想に至ったらしいが「無人島で合宿なんて嫌ですからね」と言ったが、江神は返事をしなかった。しかし、どの程度の分量を3人で分け合ったのか、酒に強いらしい織田すらも完全に酔っている。

「アリス、アリス大丈夫? 聞こえる?」

も優しくアリスの背中を揺すってみたが、真っ赤な顔で深い眠りに落ちていた。

「どうや、アリス大丈夫そうか」
「寝てるだけみたいです。揺すると反応するので大丈夫かと……

実際のところ、比較的短時間である事から、アリスの摂取したアルコールの量はそう多くないはずだ。飲み慣れないものを一気に飲んだせいで酔っ払って寝てしまっただけだろう。2回生コンビはともかく、アリスに問題がなさそうな事に安堵した江神とはため息をついて肩を落とし、床に両手をついた。

「どうしましょう、これ」
「ちょっと待ってくれ、俺もどうしたらええか判らん」

落胆激しい2人をあざ笑うかのように、織田のいびきが響いた。

江神とが外に出ていたのは、どんなに長く見積もっても1時間だった。その間に何があったのかは判らないが、3人は酔っ払って気持ちよさそうに眠ってしまっている。改めて見渡せば、食い散らかした鍋に転がる食器、空の缶にビン、そして潰れる男3人。

「ここをどこやと思うてるんやこいつらは……

2人は、が座っていたあたりに腰を下ろしてうな垂れていた。静かな松の内の夜に、織田のいびきと望月のむにゃむにゃ言う声が耳障りだ。しかしそうやって困り果てている間にも時間は過ぎていく。

「江神さん大変、アリス、もう電車ないです」

携帯をいじくっていたが情けない顔をして言うなり、江神は片手で顔を覆って仰け反った。アリスがのアパートから自宅に帰るためには、途中何度か乗換えを必要とする。ここから1番近い最寄の駅ならもちろんまだ電車は運行しているが、乗り換えながら乗車している間に最後に乗る路線は終電を送り出してしまう。

例え際限なく電車が走っていたとしても、今すぐに叩き起こして追い出すには3人とも酔いが過ぎている。タクシーを呼んでもいいのだが、それぞれがしっかり目覚めなければそれも適わない。さらに、被害者アリスの場合は金額がとんでもない事になってしまう。

「全員……泊めるんですかあ……?」

は今にも泣き出しそうだ。無理もない。江神は心を決めた。

「可哀想やがどうにもならん…俺も泊まるよ」
「でも……全員分の布団なんてないんですよ」

江神がの部屋で一晩明かす、という事について動揺する余裕もない。変わり果てた自分の部屋を見回しては眩暈を覚えた。これが夏なら適当に転がしておいても構わないのだろうが、今は冬だ。

「それについては後にしよう。まずは片付けやな。今日は手伝わせてくれよ」

やや涙目にも見えるの肩を抱き寄せて、江神は諭すように揺すった。肩に置かれた手に、もしっかりと頷く。大丈夫、江神がいるのだから、何も怖い事はない。そう自分に言い聞かせて。

それからしばしの間、江神とは宴の残骸を片付けるためにくるくると立ち働いた。鍋や食器を洗い、散乱した缶やビンを拾い集め、それぞれが適当に放り出している私物やコートも一緒に玄関に纏めて積み上げた。全てがきれいに片付き、部屋には酔っ払いが転がるだけになると、もう11時を過ぎていた。2回生コンビだけなら叩き起こせば帰せるが、深夜に騒ぎは起こしたくない。全員お泊り確定だ。

、糸あるか」
「糸? 何するんですか」
「トラップ」

時計を見ながら改めて落胆していたは、わけもわからず糸を引っ張り出した。空になった缶ビンを置いてある玄関にしゃがみこんでいる江神に糸を手渡すと、肩越しに江神の手元を覗き込む。

「トラップ?」
「万が一夜中に目が覚めても黙って逃げられんようにしとく」

江神は2回生コンビのバッグそれぞれに糸を結び付けた。結び目は肩掛けを被せるなどして隠し、細い白糸2本をそのまま長く伸ばして両の先端に輪ゴムを括り付けた。その2つの輪ゴムを空き缶の1つにはめて床に置き、その缶を囲むようにピラミッド状に残りの缶を積む。幸い玄関口あたりは照明をつけなければ薄暗い。これに気付かずバッグを引き上げれば、空き缶が全て崩れ、大きな音を立てるというわけだ。

「うわあ……
「もっとも、夜中にトンズラしなかったとしても明日は説教や」

江神さん怖い、と言いながらもは楽しそうに笑った。その声に、江神は背中を見せたまま言う。

……、すまんかったな、本当に」
「またですか、江神さんが謝る事じゃないですよ」

が彼女でもなんでもなく、ここがの家でなかったとしても、江神は謝っただろう。最年長であり、しかも現役を数年オーバーしている年齢であれば自責の念に駆られても仕方のない事だ。

はトラップの仕上げをしている江神の背中にそっと寄りかかった。

「寝る準備、しましょう」
……そうやな」

これが2人きりの会話であったなら、どんなにかよかっただろう。

寝る準備をしよう、そんな台詞をいびきとむにゃむにゃの中で言って言われて、うっかりしているとまたやるせなくなってしまう。どうにかして、この目も当てられない状況の中でやすらぐ方法を考えなければ。

江神は、の手を引いて立ち上がった。