灯りを消して

04

ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく夕日を浴びながら、2人はたっぷり10分程も抱き合っていた。何も言葉は交わさない、キスもしない。でも、離れられなかった。吹き付ける風が冷たくても、ぴたりと合わされた身体を引き剥がしてしまったら、心まで離れていってしまいそうな気がしたのだ。

だが、夕日が完全に落ちてしまうと、屋上庭園の気温は急降下、それまでの寒さなど寒いうちに入らないほどに冷えた。そんな場所で風の吹き上がる方に背を向けていた江神がくしゃみをした。いつかの光景が蘇ったのか、が吹き出した。

「私、今日マフラーして来なかったんです」
「き、気にすんな、そんな事」

照れくさそうに言う江神の鼻は、赤くなっていた。大泣きしたせいで真っ赤になっていた目を細めて、は思わず笑った。その赤くなった鼻にキスしたい、そう思ったがやめておいた。

名残惜しそうに離れた2人は、ごうごうと吹き付ける風に背を丸めながら、屋上庭園を出た。

屋上庭園は閑散としていたが、一歩ビルの中に入ってしまえば、一転喧騒の中。早速お年玉をばら撒きに来た子供連れだらけだ。それを目にした途端、のみならず、江神も一気に現実に引き戻されて、無言のまま慌てた。どう見ても2人はカップルだが、女の子の方は真っ赤な目と鼻をし、頬には隠しきれない涙の筋。

ちょっとそこでケンカして、彼氏の方がキツい事言って、彼女の方がワンワン泣いてきました。

の顔はそう物語っている。もちろんそれは事実なのだけれども、2人はそれを放置しておけるほどの興奮状態からはすっかり覚めていた。色々込みで猛烈に恥ずかしい。

結果、は化粧室に駆け込んで10分ほど潜り、江神はそれを待ちながら1人で自身の照れと戦っていた。

なにしろ、勢いというものがある。その波に乗ってしまった事は否定できない。だが、江神は、という年の離れた恋人と接するあまり、年甲斐をすっかりなくしてしまっていたのだ。が、本当に江神なのかと耳と目を疑ったように、当の本人ですら自分自身の言動を思い返すと顔から火が出そうだった。

これがと同じような年頃の事だったなら、ここまで気落ちはしなかっただろう。けれど、の若さに中てられて、ずいぶんと青春してしまった。もちろん江神だってまだ20代、年寄りとは言い難いが、生来の気性も相まって、こんな青臭い事には頭の方が着いていかない。

昨夜は昨夜で、今にも手が出てしまいそうなほどに気持ちが昂ぶってしまったり、やはり調子を狂わされている。こんなのは自分らしくない、こんな自分は見た事がない、そうは思っても、後悔先に立たずである。

今日はまだ時間も早い。バスで帰らせよう。送るのは、やめよう。明日、2人で買出しに行くのだから、その時までには出来るだけ自分をリセットしておこう。そう言い聞かせるしかなかった。

「あの、ええと、さっきの事なんですけど」

を送っていかないと決めた江神は、ビル内のレストランに逃げ込むようにして入った。

注文が済んで、がそう切り出すと、江神は傾けていたグラスをよろめかせて水を零した。ただでさえ照れくさい上に、あんな青春劇を演じてしまった事を蒸し返されるとは思っていなかった。

「いや、あの事は」
「そうでなくて……敬語と名前は当分そのままではいけませんか」

言ってしまわねばと決めていたのだろう、は強引に押し切った。

「ああ、その事か」
「私がおっちょこちょいなのは江神さんもご存知でしょう。明後日、絶対ボロが出ます」

は、少々うろたえている江神に構わず続けた。江神は〝勢いの波に乗って〟言ってしまったに過ぎないが、には、今日明日の内に決着をつけておかねばならない重要事項だったわけだ。

「外では江神さんとか部長と呼んで、2人の時は、なんて使い分けられる自信が……

は難題を抱えたように口元を両手で覆った。がころころと言い間違いをする光景がありありと目に浮かぶ。それにはもちろん呆れてため息をつく江神もセットだ。

「まあ、そうやろうな。それはええよ、俺もああは言うたけど、そこまで気にしてない」

さらりと言った江神だったが、それは今日一番の偽らざる本心だった。

食事を終え、翌日の買出しの段取りを決めてしまうと、江神は早々にをバス停まで連れて行った。すっかり気恥ずかしさが取れてしまったらしいは、帰りたくない様子だった。江神に対して等身大の「彼女」であろうという自覚に目覚めたのはいいが、少し始末が悪い。

「今日もうちでご飯でもよかったんですよ」

そう言ってつまらなそうに口を尖らせたの前に、無情にもバスが滑り込んでくる。はそれでもいいだろうが、江神はそうはいかない。昨日の今日で、しかもべったべたの恋愛劇の後だ。狼が出る。

……やめておけ。襲ってしまうかもしれん」

そう言うなり、江神はの背中を押してバスに乗車させてしまった。振り返って目を見開き、信じられない事を耳にした衝撃でヨタつくと江神を遮り、バスのドアは閉まった。

この日の夜、が自宅で大暴れしたのは言うまでもない。

明けて翌日、1月4日である。

は興奮してなかなか寝付かれなかったが、それでも定時には目覚めて、入念に支度をして家を出た。どんな顔をして江神に会えばいいのか判らなかったが、昨夜の事はひとまず心に封印し、新年会に集中すべく、気合を入れた。

「昨日、連絡入れておいた」

食器にも鍋の用意にも抜けがあったの買い物の穴を埋めつつ、江神はそう切り出した。望月と織田、そしてアリスに明日の件で連絡を入れておいたというのだ。

「時間は昨日決めた通り、4時に駅集合。迎えは俺が行く。飲み物は各自持参で参加費2000円、全員朝風呂に入る事、洗ってない服――特に靴下は不可、カメラ持ち込み禁止、強制的に貸すつもりの本も持ち込み禁止、部屋に入って席に着いたらトイレ以外では席を外すの禁止」

江神がずらずらと述べる禁止事項とやらを聞いて、は口元を押さえて大笑いした。参加費云々のくだり以降は、江神独自の新年会参加要項だ。

「それでもええんなら来い言うておいた」

江神がそう言っただけにとどめておいたという事は、誰も恐れをなして不参加を申し出なかったという事だろう。そんな厳しいルールを出した江神も江神だが、さすがにEMCのメンバーも負けていない。だが、確かに朝風呂令と清潔な衣服強制はにとっては有難かった。

「モチさんと信長さん、文句言いませんでした?」
「言い出す前に切った」

とアリスの間では事前説明のある事だが、2回生コンビはまだ何も知らない状態だ。電話を長引かせれば、それだけ多く突付かれるに決まっている。ここ2日ばかりの混迷状態から抜け出したらしい江神は、2回生コンビには部長モード全開であたったようだ。

……しかし、アリスには参ったな」
「何か言われたんですか」
に無理強いさせられてるなら言うて下さい、とか言い出した」

あの野郎毒殺してやる。は固く心に決めた。

「そうやないと説明したら納得してくれたけどな。そしたら今度はコロリと態度を変えやがった。の事何よりも大事にしたって下さい、だそうだ。まったく余計なお世話やな」

前言撤回、アリス毒殺計画はただ今を持って中止といたします。

だが、は江神もまたアリスには多少の事前説明を施していたのだな、と深く頷いた。もちろん特別に2回生コンビが疎ましいわけではないのだが、今回の江神との件に関しては、アリスの方が事情をよく知っているし、はるかに落ち着いてもいる。多少の優待はあって然るべきだろう。

そして、余計なお世話だという江神は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。そんな江神がなぜか可愛らしく思えて、はするりと腕を組んだ。アリスに言われなくてもそのつもりだ。そんな事を考えている、そう勝手に解釈をして。

「ええー。今日もですか?」
「文句言うな。今のところ毎日会ってるんやからそれでよしとしとけ」

やはり江神は今日もの部屋には足を踏み入れないつもりらしい。食材も買い込んだから荷物だけは運ぶが、お茶もせずに帰ると言い出し、はむくれた。江神の言うとおり、12月31日から2人は毎日顔を合わせている事になるのだが、にしてみれば、それとこれとは話が別だった。

「だって……明日は2人じゃないじゃないですか」

明日はもう、新年会当日だ。もちろんその新年会さえ終わってしまえば、いくらでも2人きりでゆっくりできるはずなのだが、は気に入らないようだ。そこに、江神の事情というものを考えてやる余裕はない。一晩挟んでいくらか冷静さを取り戻したとはいえ、このままの部屋に上がりこんでしまったら元の木阿弥、全て台無しだ。明日の新年会どころではなくなってしまう。

そんな江神の内に秘めた葛藤を知ってか知らずか、は追い討ちをかける。

……江神さん、我慢は身体によくないですよ」
「阿呆、誰が我慢してる言うた」

叱り飛ばしはしたが、は昨日の江神の言葉をしっかりと心に刻んでいるのだろう、それは手に取るように解った。押し並べて昨今の10代は早熟なのだろうが、どうもそれには当てはまらないらしいの変化、それはもちろん喜ばしい事に違いない。だが、何も平均の中に納まる必要はない。自身の感情はさておき、江神は今がその時ではないとしている。

その時ではないといっても、付き合い始めて日が浅い事自体は、それほど気にしていなかった。それよりも、2人の心の距離がまだ遠いと感じていたからだ。猛スピードで迷い、焦り、何度も想いを新たにしながら数日間を過ごしてきてはいるが、それでもまだ足りない。その距離が完全になくなってしまうのにあとどれだけかかるかは判らない。早ければ1日かもしれないし、1ヶ月かも1年かもしれない。それでも、今ではないのだ。

江神だけではない、にしても、本能のままに繋がってしまってはいずれ綻びが出る。の方はそんな所まで思い至らないだろうが、江神がどれだけ考えても、2人はそういう組み合わせだった。身体を重ねる事でより絡み合う心もあれば、そうでない心もあるという事だ。

そんな理屈の裏にほんの少し、吹けば飛ぶ程度にではあるが、江神の照れくささがある。可愛いを自分のものにしてしまうという事に、抗えない漠然とした恐怖感。が慣れないと言って緊張を解けない事に散々お説教をしていながら、同じ緊張を抱いている。

でもそれは、が知らなくてもいい事だ。

……そしたら、明日は少し早く行くから」
「じゃあ、お昼一緒に食べましょうね」

頭から音符が出てきそうなは、知らなくてもいい。

……いつまでもつかな」

そんな、消え入りそうな江神の呟きを。