灯りを消して

07

下品なプレゼントでネタとした望月と織田だったが、江神の完全に明後日な方向からの逆襲で撃沈した。江神以外の全員があんぐりと口をあけて固まったが、ほんの数秒後には、笑いが漏れ出し、江神も含めた5人は隣人に怒鳴り込まれない程度にひとしきり笑った。

当然はそんな江神の器の大きさに酔い、アリスもまた感心しきりだった。

それを潮に、は再度鍋の準備のためキッチンに立ち、アリスはその手伝いのために後を追った。それを江神は気にする風でもなく、望月、織田と何やらミステリ作品について話し始めた。

ほとばしる水音と食器のガチャガチャという音が、キッチンと部屋とを切り離している。しかも、おそらくは江神が始めたミステリ作品の話題も、キッチンから2回生コンビの意識を切り離すためのものなのだろう。2回生コンビはあっという間に話に食いつき、以降江神がほとんど口を挟まないにも関わらず、楽しそうに喋っている。

それを背後に聞きながら、アリスはこっそりとに声を掛ける。

、大丈夫やったか、さっきの……
「ほんとにびっくりしたよ……どうしようかと思った」

眉尻を下げて苦笑しているが、は思ったより平気なようだ。アリスは安心して手にしたトレイに小鉢やら箸やらを受けている。江神の方は、実際あんな事くらいではどうにかなるものではない。だが、も同じというわけにはいくまい。

「ごめんな、僕はあれ、知らんかったから」
「なんでアリスが謝るの。ちょっと引いたけど……気にしてないよ」

のその言葉を聞きながら、アリスは「も変わったな」と思っていた。江神の変化は今日駅で会ってからすぐに気が付いたが、も同時に変わってしまっていた。本質的には何も変わっていないのだろうが、アリスは少しだけ置いていかれたような気がして寂しくなった。

先日の電話でに言われた「アリスっていう友達も大事なんだよ」という言葉を思い返す。きっと、その〝変化〟に戸惑っているのは、アリスや2回生コンビだけではないんだろう。当のや江神だって、毎日少しずつ、でも確実に起こる変化に戸惑っているんだろう。

望月や織田が提案――というよりはゴリ押し――した新年会だが、それを黙って受け入れてくれた江神とに、アリスは頭を垂れる思いだった。それを、やれ「なんでもっと早く言わなかった」だの、「無理強いさせられてるなら言え」だのと言った自分が恥ずかしかった。

「今日は江神さんが2人をお守りしてくれるって言うから、アリスは楽しんでね」

早くも火にかけられた鍋の湯気を目の端に留めながら、アリスはこっくりと頷いた。江神さんがと2人でスーパーに買出しをしに行くくらいだ、きっとは本当に料理上手なんだろう。食材を放り込むだけの鍋だが、何やらキッチンの様子はそれだけではなさそうだし、自分は楽しませてもらおう。アリスはそう決めた。

「おっ、待ってました!」

食器が並べられ、既に窮屈になっているこたつの上に、鍋が運ばれてきた。大きなミトンで大きな煮えたぎる鍋を抱えようとしたは江神に軽いげんこつを食らい、軽々と鍋を抱える江神の後から、ポン酢と大皿をもって着いて来る。織田がそれを拍手で迎えた。

鍋が到着するなり、キッチンに立つ事が多いだろうという理由でアリスは席をに譲り、自分は江神と織田の間に入ってソファに寄りかかった。アリスと織田は少し窮屈だが、ソファに寄りかかれるぶん、座っていても楽だ。江神との場所も広げてやれる。

「あとこれ、締めは麺にするのでよかったら」

の持っていた大皿には、山のようにお握りが盛られていた。丁寧に香の物まで付けてある。一同は歓声を上げてそれも迎えた。こたつの上には乗らない大皿に次々と手が伸び、あらかた行き渡ると、望月と織田は缶チューハイを取り出した。

「アルコールなんて聞いてませんよ!?」
「まあまあ、固い事言いなさんな。アリスとは呑まんかったらええんやから」
「江神さんも呑むんですか!?」
「いや今日は……
「いやいや、コップ一杯だけでええから付き合うて下さいよ!」

江神と同じく、エコバッグ3袋分の酒に面食らったは、なんとか止めようとしたのだが、江神は乾杯の一杯だけは付き合えという2回生コンビに押し切られてしまった。もちろんアリスとはノンアルコール、本日はウーロン茶である。

「これだけやぞ」
「わかってますって」

が用意した、彼女の家の中でも1番小さいグラスに、缶チューハイがなみなみと注がれる。江神は困った顔をしていたが、どことなく楽しそうだった。そんな江神を見ていると、もうそれ以上は文句を言う気にもなれなくて、は黙った。

仮にも単身者向けのアパートであるから、乾杯は小さく静かに行く事と決め、普段なら江神が取るはずの乾杯の音頭は望月が請け負った。江神、、アリスはそれを嫌な予感と受け取ったが、果たしてそれは正しいものだった。

「輝けるEMCの未来と、EMCカップル第一号の更なる進展を祈って!」

軽くグラスを掲げていたはウーロン茶を零し、アリスは吹き出し、江神はカクンと頭を落とした。それでも、もうこんな望月の冗談にはたじろがない。すぐに全員笑い出し、無事に乾杯を済ませた。

「うん、うまいな。これは梅か?」
「お、ええな、俺は明太子や」
「僕はごま昆布や。江神さんは?」
「当たりやな。鮭や」

お握りの中身は全ての実家からの備蓄用食材だ。鍋を取り分けるのはに任せて、男性陣はお握りに噛り付いている。さすがは男の口というか、が鍋と格闘している間に、1人あたり2つばかりのお握りは見る間に消えていこうとしている。

「そんなに慌てて食べないで下さいよ、鍋と一緒にどうぞ」
「大丈夫、鍋は鍋でちゃんと食べるから」

アリスはいそいそと箸を手にした。取り分けられた具材が小鉢に盛られ、全員に配られる。水菜と鶏の、やや安上がりなはりはり鍋だ。

「それじゃ聞かせて下さいよ、簡単でいいですから」
「何がや」
「何て、忘年会の後の事に決まってるやないですか」

来たな、という顔でグラスを傾けた江神の横で、再びはウーロン茶を零した。布巾はウーロン茶を吸いまくって、茶色くなっている。もちろんそう切り出されるのは覚悟の上だが、いざとなったらあまりにも恥ずかしい。茶色い布巾を洗わねばならないのをいい事に、は後を江神に任せて一旦逃げた。

江神が話のレールを作ってさえくれれば、後はそれに沿っていけばいい。に話せと促された事だけは余計な言葉を挟まず答えればいい。それ以外の事は江神の判断に任せて間違いはない。

「本当に簡単でええんやな?」
「う、そ、そうですね、簡単にというか、出来れば簡単に、というか」

江神はにやにやしていたが、これは先日のの言葉を思い出しての事だ。が暴走して江神が折れたというだけの、実に簡単な真実。さて、それで満足できるか? そんな意味も込めての〝にやにや〟だったろう。江神は、それでも真面目な口振りで、そっと、傷口に触れるような慎重さで話し始めた。

「先に言うておくが、はこれを公開裁判やと言うたよ。俺もまあ、ある意味ではそうやと思う。お前らは仲間やが家族ではないし、説明する義務は本来これっぽっちもない。しかも、俺だけならまだしも、一応女の子であるにはきつい事やいうのは解るな?
けど、たかがサークルとは言うても俺ももそれを大事に思うてる。だから照れくさいのを堪えて話すんやからな。そこはよく肝に銘じとけよ」

煙草を1本取り出して江神は火を点け、一息吐いたところで付け加えた。

「そんなわけで、お前らにも同じような事があったら、は地獄の果てまで追いかけてでも突付き回すそうや。覚悟しとけよ」

これを聞いてはキッチンで洗いかけの布巾を取り落とした。

「地獄の果てまでなんて言ってません!」
「突付き回すのは否定しないそうや」

内容はともかく、これで場は十分に解れた。

「しかし……江神さんにしてはずいぶん簡単に折れましたね」

一通り説明を終えての、最初の感想が織田のこの言葉だった。アリスはに申し訳ないと思いつつも、大きく頷いた。実際のところ、江神とて簡単に折れたつもりはないのだが、時間の短さや説明が感情的な部分を排除したものだっただけに、風に吹かれてぽっきり折れてしまったような印象がある事は否めない。

「そうやなあ。江神さんて難攻不落の堅牢な城みたいなもんですからねえ」
「どういう例えや」

望月の言葉に江神は笑っていたが、「そこがのすごいところなんや」という言葉を飲み込んだ。様々な意味を込めての「すごい」なのだが、そう言ってしまうとを単に持ち上げるだけになってしまう。それは2回生コンビを助長させるだけだし、も困らせる。

「悪い意味ではないんやが……それはもう相当な剣幕やったからな」
「それは見ものやったでしょうねえ」

今となってはな、と江神は小さく結んだ。江神が話している間中ろくに箸もあげず、は俯いたままだった。恥ずかしいという思いと、否が応にも思い返される星空の下でのやり取り。その間では成す術がなかった。

「そうかあ、そうやったんですかあ」

既に2本目の缶チューハイが空いている望月と織田は、そこでふいに黙った。殆ど同時にちらりとに一瞥をくれると、めいめい缶を煽った。その様子に、は気付いていない。江神は静かな目で眺めている。そして、アリスは唐突にある仮説に行き当たる。

モチさんも信長さんも、でよかったんやないか?

アリスはその仮説に思い当たり、少しだけ身体が熱くなった。安直に2人がを好きだったとか、そういう意味ではない。だが万が一、江神と同じようにが暴走して来たのなら、この2人も受け入れられると思ったのではないか? もし、が恋焦がれていたのが、江神でなくて、自分だったら――

今までは、単に可愛いだけの後輩だった――それは当の江神も同じだ。そこに全力のが想いをぶつけ、壁を切り崩して入り込んでくる。刹那、可愛い後輩は愛しい女になってしまう。どう頑張っても受け入れ難いようなであったならまた話は別だが、これまでの彼女はそんな人物ではない。これは、江神が選ばざるを得なかったルートそのままだ。

思い返してみると、EMCの共有財産だった事になる「可愛い」は、江神を選んだ。望月でも、織田でも、それこそアリスでもよかったのに、江神を選んだ。ただそれだけの事だったのだ。果敢にもは1番難関である江神に向かったわけだが、これが2回生コンビのどちらかであったなら、もっと簡単に落ちていたような気もする。の片想い時代を考えると、アリスは余計そんな気がしてきた。

俺を好きになってくれてもよかったのに。なら、俺だってOKしたのに。

表現としてはかなり乱暴だが、そういう事なのではないか――

でも、江神さんを選んだんだな。それだけはよく解る。アリスは1人、心から納得した。