激動の1月2日を乗り切り、普段より朝寝坊をしただったが、昼頃になってかかってきた電話によって洗濯と掃除を中断した。電話は、少々混乱気味のアリスからだった。望月か織田に江神との事を早速聞かされたのだろう。この分では昼食は取れそうにない。
「なんでもっと早く言わんかったんや」
アリスの棘のある声が耳に痛い。そこは取り繕わずに事の経緯をゆっくりと説明したのだが、それでもしこりが残るのだろう、アリスは気のない返事しかしてくれなかった。本当は言いたかったんだよ、と何度も繰り返したが、やはりアリスは面白くないようだ。
2人分のプライベートな事情であるのだから、本来ならアリスがこんな風にむくれる筋合いはない。しかし今回の場合、アリスはの片思いの全容をつぶさに知り、かつ、僅かながらも助力を惜しまなかったただ1人の人物である。報告が欲しかったとへそを曲げられても仕方あるまい。
「それにしても、電光石火やったなあ。江神さん、本当は気があったんやないの?」
「いや、それはないと思う……本人もそう言ってたし」
「言うてたんか。正直な人やな」
やっとの事で聞こえて来たアリスの笑い声に、はホッと胸を撫で下ろす。気が楽になったところで、は新年会の話まで一気に説明した。アリスは新年会をやる、としか聞いていないらしい。
「の部屋て、またそんな無茶を……」
「でもねえ、江神さんは『あいつらも寂しいんや』って言ってたよ」
「寂しい、ねえ」
の勝手な想像ではあるが、江神の言う「寂しい」について、きっとアリスも心当たりがあるのだと、そう思った。特に、2回生コンビと出来立てカップルに対して、アリスは1人だ。江神との関係を秘密にしておくと決めた理由の中に、このアリスについての憂慮が含まれていたのは事実。それを説明されたアリスは無反応だったが、無理に肩書きをつけるなら〝1回生コンビ〟である事をは大事にしたかった。
「でもさ、私はアリスっていう友達も大事なんだよ」
「何を突然。そんな事軽はずみに言うたら江神さんの雷が落ちるぞ」
落ちたっていいもん、とは切り捨てた。来たる新年会において、2回生コンビをお守りするのが江神なら、アリスを気遣うのは自分の役目だとは思っていた。もちろん、アリスは疎外感を感じる事なく過ごせるだろうが、なりのアリスへの思いやりだった。
「しかし……実際2人が付きおうてるなんて言われても、いまいちピンと来ないな」
「大丈夫、たぶん全員ピンと来てないよ。私もまだよく解らない気がする」
「なんやそれ、どうにもならんな」
アリスは電話の向こうでへらへらと声を立てて笑ったが、江神との関係に全員ピンと来ていないのは仕方ない事だ。当の江神やですら手探り状態で、日常の些細な事にも躓きうろたえての繰り返し。それをアリスや2回生コンビにするっと飲み込めと言う方が無理なのだ。
「でも、そうだな、アリスには全部聞いてもらおうかな」
新年会当日になって2回生コンビの猛攻の中で説明するより、予め解っていてもらえるならそれに越した事はない。それに、2回生コンビには濁しておきたくても、アリスには言える事がある。星のきれいな夜空の下で、江神とが迷い、混乱しながらも辿り着いた結論。その一部始終を。
「おお、なんや、緊張するな。ノロケは挟まんでええから解りやすいように言うてくれよ」
ここに来てアリスは楽しそうに声を弾ませた。男女問わず、この手の話を聞くのは楽しいものだ。
だが、しばらくして、アリスは間延びした声で不満を漏らした。
「、お前それゴリ押しやんか。江神さん押し切られただけやないのか?」
「……それは本人に確認してよ。ゴリ押ししたのかもしれないけど決めたのは向こうだもん」
「江神さんも解らん人やな……」
「なんかすっごいムカつくな、その言い方」
は、江神が昨日話してくれた内容については一言も漏らさなかった。あの時後ろから江神に抱っこされた状態で聞かされた話はとても大切なもので、自分の記憶の中だけに大事にしまっておくつもりだった。いくらアリスでも、有難い江神の説法を又聞きさせてやるわけにはいかない。知りたかったら、自分であの難攻不落の砦を切り崩してみればいいのだ。新兵が古兵の牙城を攻略できるか、見ものだ。
アリスは話し始めた頃に比べるとずいぶんと機嫌がよくなったようだ。あれこれと2人の関係について突っ込みはしたが、が濁せば深追いはしなかったし、あまりにも事の深遠を覗くような事は言わなかった。そんなこんなで結局2人は2時間半も喋り、新年会についてをきちんと確認すると、通話を終えた。
話し終わったところで、の腹は空腹が我慢できないとでも言うようにぐぅと鳴った。だが、日課であるはずの自炊も気乗りがせず、昨夜の残りを突付くとそのままは1人、街に繰り出した。食器がどう考えても足りないのである。
両手に大荷物を抱えて帰宅すると、はベッドに身を投げ出して深呼吸した。アリスや2回生コンビ用には全て100円ショップで食器を見繕い、江神専用には別の店で食器を買い足し、他にも入用と思われるものをあれこれと揃えてきた。昨夜江神に使わせた食器は家族が泊まりに来た時のためのもので、それはこっそり片付けてしまい、新たに江神専用になった食器類を家族のものと言い訳するつもりだ。
いくら広めの1DKとはいっても、収納には限りがあるし、たまにしか使わないものを目立つところに置いておきたくはない。100円ショップで買ってきた間に合わせの食器などは、新年会が終わってしまったら、ビニールトートにでも詰め込んでしまってベランダ行きだ。の部屋のベランダは、半面にベランダカーテンが掛けてある。その影にでも入れてしまえば雨でずぶ濡れという事もない。
100円ショップでの買い物よりも、江神専用食器の出費が思いのほか多くなってしまい、はベッドに寝転がりながら小さく唸った。江神が徴収する予定の新年会費用はどう考えても余りが出るが、その分を充てさせてもらう事になりそうだ。お茶しに行きたかったのに、なんなのもう。もちろんそれは自業自得だ。
無駄な散財に軽く後悔していただったが、江神からの着信である事を告げるメロディにがばと跳ね起きた。バッグに入ったままの携帯がなかなか取り出せなくて焦る。しっかり開けなかったファスナーで手の甲に引っかき傷を作りながら、は受話ボタンを弾いた。
「はい、お待たせしました! なんでしょう!」
「……お前はコールセンターの新人バイトか」
そう言われては「ふぇ」と情けない声を出した。電話の向こうは静かで、江神の声も落ち着き払っている。
「明後日の準備とか、どうする?」
「あ、食器は今日買ってきました」
買い忘れがあるといけないからと、は今日買ってきた物を1つずつ言っていたのだが、しんと静まり返っている電話の向こうで、昨日聞いたばかりの不機嫌そうなため息が再び響く。それに遮られて言葉を止めた。
「あのう……今度はなんでしょう」
「クレーマーに当たったみたいに言うな。何で一声かけんのや」
また始まった。確か、恋焦がれて思いを募らせるばかりなのはの方だったはずなのだが、これではまるで江神の方がを追い掛け回しているように聞こえてくる。進んで雑務をこなし、少しでも江神の手を煩わせないようにという気遣いも含めて、1人で買い物に出かけた。にはそういう自負があった。だが、その点については評価してもらえないらしい。
「だって……買い物くらい1人で出来ますから、わざわざ、その、迷惑を」
「阿呆、またそんな事言うてんのか!」
雷が落ちてしまった。
「、今からちょっと出て来い。この間のカフェで待ってる」
そう言うなり、通話は切れた。この間のカフェというと最寄り駅の店しか思い当たらない。
「なんで怒られなきゃいけないのよ」
はツーツーと無機質な音を返すばかりの携帯に毒づいた。しかし、呼び出しとあらば出向かないわけにもいかない。雷が落ちた事には納得がいかないのだが、その真意を確かめる必要もある。それに、こんな事で逆切れをして仲違いするなどとんでもない話だ。
ベッドにひっくり返ったままで、着替えもしていなかったは、髪を手早く整えるとコートを引っ掴んで部屋を飛び出した。まだ時間は早い。バスがあるはずだ。ポケットに入っているパスケースを握り締めながら、バス停までの道を走り出した。
が少しだけ息を切らせながら駅前の小さなカフェに小走りで近づいていくと、表に面したガラスの向こうに江神が見えた。江神の方でもに気付いたのだが、店内に入ろうとするを片手を挙げて止め、さっさと店から出てきた。
「江神さん……私」
何でもいいからといった風には口を開いたのだが、江神はそのの腕を掴んでぐいと引っ張り、スタスタと歩き始めてしまった。そんな荒っぽい動作ではあったが、特に激怒しているような表情でもなく、は黙って腕を引かれるまま着いて行った。
無言の江神がを引きずって行った先は、駅に隣接する複合商業施設の屋上庭園だった。この時期は気温が低いためにあまり利用されない、人気のないスポットだ。だが、隅の方には喫煙コーナーがあり、ベンチもあり、自販機もいくつか置いてある。
「人前でするような話やないからな」
江神はそう言ってベンチに腰を下ろした。確かに、先ほどの剣幕の続きを話そうというのに駅前のカフェは不向きだ。は、また怒られないように出来るだけ間隔を詰めて江神の隣に座ると、背筋を伸ばしてきっぱりと言った。
「江神さん、私、そんなにまずい事したんでしょうか」
煙草を取り出して火を点けていた江神は、一息深く吸い込んでから、風に煙を吐き出し、頷いた。
「したな」
「私、解りません。江神さんの手を煩わせる事もなく、明後日の準備、したんですよ」
膝に手を突っ張り、はたどたどしいながらも一生懸命そう主張し、無音の圧力に抗った。だが、江神は先ほどの雷は何かの間違いかというくらいに普段の温厚さを取り戻している。ふうと煙を吐き、吸殻入れに灰を落とすと、低い声で話し始めた。
「、よーく考えてみたか? 本当にきちんと考えてみたか?」
「……どういう意味ですか?」
やれやれ、とでも言いたげにかぶりを振って、江神は吸いさしをひねり潰した。
「どうもお前は解っとらんようやな。俺は、お前の、何や」
彼氏! そう元気よく手を挙げて答えられたらどんなに気が楽だろう。だが、とてもそんな風に返せるような雰囲気ではない。EMCの部長、などと答えようものなら一発はたかれてしまうかもしれないから、は短時間の間にぐるぐると頭を回転させた。
「大事な人です」
「阿呆、そういう事やない」
いい返しだと思ってさらりと言っただったが、不合格の鐘が鳴るが如くぴしゃりと言われてしまった。少し不満そうに口を尖らせるの方に少しだけ顔を傾けると、江神は真剣な顔つきで言った。
「、これじゃあ付き合う意味がないな」
西に沈み行く太陽が茜に染まり、屋上に差し込む。その日を浴びながら、は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。眠りに落ちるように、目の前が暗転してゆく。
付き合う、意味がない? それは、別れようっていう事?
私たち、もう、別れちゃうの?