迷い猫探偵

07

まるで童謡の中に迷い込んだような夕焼けの空の下、俺はに抱かれて帰路についていた。

もちろん地面に降ろされても、ちゃんとの後を着いていくが、本人は心配なんやろう。俺は暴れたりせずに、大人しく抱かれたままになっていた。俺も気が抜けてしもうて疲れていたし、何よりが俺をギュッと抱いたまま、まだ泣いていたから。

ちょうど夕食の準備の頃、という事やろうか。住宅街は人気がなく、猫を抱いたままポロポロと涙を零しているという、一見して危険そうなは誰ともすれ違う事もないままマンションへと向かって歩いている。

「ねえ、ニャロー」

洟をすすりながらそう言ったに、俺は一声鳴いてみせる。

「ニャローはさ、もしトラくんみたいになったら、ちゃんと可愛がってくれる人、見つけるんだよ。私を探してあんな風にならないでね。またどこかで誰かに懐いて、ちゃんと守ってもらうんだよ」

言いながらはまたヒイヒイ泣き始めた。

本体が人間である俺には、それはとても不義理な行いと思える。だが、猫は人間と同じようにはいかない。野良に身を転じるのは易しいが、どこにどんな危険が待っているとも限らないわけやし――俺はそれを身をもって知っている――、それならいっそ他の誰かに飼われていてくれた方が。

でもなあ、俺は〝生まれつきの〟猫やないからなあ、

もしお前がお姫様やなかったとしても――なかったとしたら、どうするんや、俺は?

マンションに辿りついたを待っていたのは、険しい顔をして仁王立ちになっている大家だった。慌てて俺を地面に降ろそうとしただったが、大家は小走りに近寄ってくると、「話は聞いた」と言って俺の頭を撫で始めた。あのじいさん、電話で連絡しておいてくれたらしい。

そもそもは猫6匹と生活している大家だ。不思議だが大変心温まる猫エピソードに、大家のおばちゃんはいたく感心したらしく、俺を「飼ってない」と嘘をついたに、「飼ってやりなさい」と言い切った。おかげで俺は大家公認の飼い猫となったわけだが、この日は俺ももヘトヘトで、食事も面倒なくらいに眠かった。

泣きつかれて真っ赤な目をしたに抱きかかえられたまま、俺はベッドの中に引きずり込まれた。抵抗する気力がなかったと言えば、それはそうなのやが、この日ばかりは拒みたいとも思わんかった。やがて眠りに落ち、俺を抱くの手が緩んでも、俺は寄り添ったままで眠った。

誰かを、何かを思う心に、人間も猫もない。それが真摯なものでありさえすれば。――そう思いながら。

と、そこまではよかった。翌朝、つい習慣で外に出てしまった俺は、ふらふらと辺りを散歩していたのやが、トラはもうおらんのやから出かける必要がない事に気付いた。しかしはちゃんと大学へ行っている。部屋には戻れない。そうして時間を持て余した俺は、なんと野良猫に絡まれてしまった。

俺ほどではないにせよ、ずいぶんと体格がよく、任侠ものの映画から抜け出してきたような凶悪な顔をしていた猫。俺の何に不満を持ったのかも解らない。しかも、俺は猫と話が出来んようになっていた。――まあ、やはりトラが特殊やったという事で不思議はないわけやが。つまり、俺には成す術がない。

体格で言えば俺の方が勝っているとは言うても、相手は生まれつきの野良のようで、隙はまったくない。軽く反撃を試みても、それは火に油を注ぐだけやった。さて困った。こんな風に冷静に状況など説明してはいるが、実際はかなり焦っていた。の部屋には入れへんし、自宅へ逃げ帰るには距離がありすぎる。

こんな時に限って大家のおばちゃんは外に出て来ない。孤軍奮闘する俺は、午前中いっぱいのマンション付近を逃げ回っては隠れ、見つかってはまた逃げ、を繰り返した。朝飯はちゃんと作ってもろたが、だいぶ消耗している。噛み付かれたり引っかかれたりしても、反撃して勝てる自信はない。

まさかそんな事はないやろうとは思うが、生きてこの状況から逃げられる気がしなかった。そうか、大学生やのうて猫のままなのか――等と下らない事を考えてしまったりもする。

猫になるなどという珍奇な状況に陥ってからというもの、俺は人間だった頃のように、理路整然とした思考と言うものが苦手になっていた。気にならないものが気になり、こだわって然るべき事にこだわらない。言葉は悪いが、本能のまま感情のまま、生物としてあまりにシンプルになっている。

そんなわけで、この時の俺は思ったわけや。

、すまん。こんな事なら、もっとお前の想いに応えてやればよかった、と。

「こらあー!!」
「ニャァァァァ!」

切羽詰っていた俺には、幻聴に等しいその声が最後の――というわけではもちろんない。驚くのと嬉しいのと、どちらも目一杯になりながら俺は鳴いた。が帰って来た。という事は、もう昼過ぎという事でもある。俺が野良数匹に絡まれているのを見て、すっ飛んで来たらしい。、助かった!

「何やってのんよあんたたち!」

は例によって重いバッグを振り回して、野良たちに突進していった。さしもの極道猫たちも、鈍器に等しい凶器を振り回した人間相手では敵うわけがない。ぜいぜい言いながらも、は野良たちを追っ払ってくれた。そして、俺はそんなの広げた腕の中に、迷う事なく飛び込んだ。

「やだ、怪我してるじゃない」
「ニャン」

はそう言って俺の耳にそっと触れた。それはもう、全身いたるところが痛むさ。疲れたし、腹も減ったし、眠いし、痛いし――けれどそんな事はどうでもええ事や。本当にどうでもええ。俺は痛む耳が折れ曲がるのも厭わずに、の顎に頭を擦り付けた。

この時、俺はトラの言うてた事が解るような気がしていた。

は、俺の――正しくはニャローやが――ために、一体どれだけの事をしてくれた?

ペット可かどうかも解らんのに連れ帰ってくれた。キャットフードを嫌がる俺に、毎食手作りの飯を作ってくれた。俺がいるせいで、EMCにも顔を出さず、どこかへ遊びに行くわけでもなく、毎晩俺と一緒にいる。そして今日は、身の危険からも救ってもろた。

そういうの行動が、単に猫が、動物が好きやから、そして、人間の方の俺が姿をくらましているからやと結論付けるのが最も論理的やという事は解ってる。

だからといって、当事者である俺がそんな風に感じるかと言うたら、それは、違う。

トラの声が、フラッシュバックのように耳に蘇る。

さんは……可愛くて、優しくて、あなたの事が大好きなのに、何が不満なんですか」
「とことんあなたに優しくしてくれるさんの気持ちに、向き合おうとなんて、思ってないでしょう」
「あなたを人間に戻してくれるかもしれない人ですよ。もっと大事になさい」

そう、そうやなトラ。人間になればお前にも解るやなんて偉そうな事を言うたが、猫に、動物になってみて解る事もあるな。人間のようにあれこれと難しい言葉を並べ立てて言い訳をする必要はないんやな。

は猫に対してはこんな風に全力で優しくて、人間に対してはそうではない? そんなわけあるか。

俺はもうとっくにそんな事は解っていたはずやのに。

きっと、がニャローにかけた言葉全て、人間の俺に言うたのやと思うても間違いはないんやろう。

そんな心に向き合う事も出来ないなら、トラ――猫以下や。あいつは軽く見積もっても70年以上、1人のお姫様だけを思い続けて、そして化け猫にまでなってしもうた。どこかで繋がっているという心だけを頼りに、飽きるほど長い年月をただひたすら費やした。

もちろんそれに倣う必要はないが、それが〝鍵〟なんやろう。

関心を寄せる事もなく、感謝は表面的で自分本位な基準、可能性に向き合う事は無意味なアクションで。

そんな俺のままなら、人間に戻る資格はない。そういう事なんやな、トラ。

「昨日、ああは言ったけど、いなくなったら嫌だよ」

そう言って俺を抱きしめたの鼻先を、ペロリと舐めた。

「生きてる間くらい、ずっと一緒にいてよ」

――――ああ、それでも俺はきっと、後悔しない。

その日から俺は、あくまでも飼い猫としてと過ごした。朝、目覚ましの音に共に覚醒し、朝食を取り、大学へ行くを送り出した後はのんびり過ごす。こっそりテレビをつけてみたり、窓越しに日光浴してみたり。昼頃やったり夕方やったり時間は不定やが、帰宅するを出迎え、2人で過ごしては共に眠る。

野良に襲撃されて以来、俺は外へ出ていなかったが、は休みになると俺を芝生のある公園へと連れ出してくれる。ぽいと放り投げても逐電する事のない俺は、――たまにマリアやアリスも――見守る中で身体を動かし、運動もちゃんと出来ている。

人間に出来て猫に出来ない事で不満があるとすれば、それは本と酒、そして好みの音楽というところやが、音楽に関してはアリスが来れば強制的に聞けるし、酒は身体が欲しなくなっている。あとは本やが、これは最近になって読む方法を手に入れた。本を突付いてみた俺に面白がってマリアが一冊進呈してくれたのだ。

「本当に読んでるみたい」

マリアはそう言うて笑い転げていたが、もちろん読んでいる。のいない隙にじっくり読み、読み終えると、おもちゃに飽きた風を装って足で突き返す。も面白がって別の本を引っ張り出してくれるので、飽きる事がない。再読になるものも多かったが、それでもないよりはいい。

の庇護の下、俺は何不自由なく暮らしていた。

もちろん、本来の姿である人間らしい精神活動が衰えていっている事は百も承知やった。日増しに獣化していっている事が、不本意である事は間違いないのやが、それでも日々変わらず注がれるの愛情は俺の中に蓄積していって、人間に戻るという大前提さえ、薄れていく。

このまま、猫のままでもええんやないのか。

時々そんな風に考えてしまうのは恐ろしかったが、それもと2人でおれば忘れてしまう。

この頃の俺は、限りなく猫そのものへと近づいていたに違いない。

人間の方の俺の事など、いつか忘れてしまうやろう。しばらくは後味が悪いやろうが、それも数年で充分に解消される。しかしそれでも俺にはがいてるし、そのに誰か知らん男が近寄ってきたとしても、俺との関係は保たれたまま、俺が死ぬまで揺らぐ事はない。ペットとはそういうものや。

、お前がいてくれたら、俺はそれでええよ――