迷い猫探偵

05

人間に戻る方法に未だ手が届かない事はもちろん、茶トラの奇妙な首輪だのの俺へのアレだの、とにかく事態がちっとも進展しない事に俺は焦れていたのやと思う。焦っても仕方ない、ゆっくり構えて好機を待つ、なんていう余裕がないわけだ。今の俺には。

そうカリカリせんと、のんびりしてったらええやんか、と無責任な事は言わないでもらいたい。猫やぞ猫。しかも、自分で蒔いた種とはいえ、どうも俺を好いているらしいの家に世話になってしもうてるという、ダブルパンチ。どうにかしたいがどうにもならない、しかもそれが猫の身であるからというけったいな理由で。焦らせろ。

そういうわけで、俺は茶トラ騒ぎのあった日の夜、半ばやけくそでの布団の中に潜り込んだ。

「なーに、ニャロー、今日は一緒に寝るの?」

茶トラに焼餅を焼いたとでも思うたか。は布団をめくり上げて上機嫌、既にデレデレだ。俺は、もしや、が俺を想うてるという事が、彼女をお姫様に昇華しないやろうか、と考えたわけや。正直言うて、この時の俺は相当に必死で、その仮定にすがる思いやった。

俺は、頬やら喉やらをくすぐっているの唇に、ちょこんとキスしてみた。

「いやーん、ニャロー! チューしてくれるの?」

はい、そんなに上手くいくわけありません。俺は途端にテンションが下がって自己嫌悪まっしぐら。逆にはテンションアップ、打ちひしがれた俺の顔を掴んでチューチューやりやがった。なんやろう、この複雑極まりないキスの嵐は……

せめてもの救いは、猫と人間であるせいで、人間同士の距離感からはかけ離れた感覚であった事くらいか。

しばらくして、は満足そうに眠りに落ちた。その傍らでため息をつく俺。色々虚しくなってしもうて、なかなか寝つかれなかった俺やが、眠くなったらベッドに戻ろうと考えていたところを、に突き落とされた。単なる人間の寝返りも、猫の身体には堪えるもので……、痛いやないかこら!

まさに踏んだり蹴ったりや。俺はベッドで丸くなると、ようやく静かな眠りへと落ちていった。

翌朝。俺はの枕元で鳴る目覚ましの音でバッチリ目覚めた。もう閉じ込められるわけにもいかんし、茶トラの件もある。が妨害してくるやろうとは思うが、負けるわけにはいかん。茶トラの件も片付け、自分が元に戻る方法も探さにゃならん。忙しいな、まったく。

が身支度を終える頃、俺はわざとらしく甘えた声でしきりに鳴き、窓に身体を擦り付けたり、玄関のドアを引っかいたりしてみた。頼む、俺を信用してくれ。人間に戻らない限りここに帰るから。

「遊びに行きたいの?」

俺をじっと見つめながら、はそう言って首を傾げた。人間の言葉にいちいち鳴いて反応するのもどうかと思うた俺は、鳴く代わりにの手に鼻面を擦り付ける。俺なりの、おねだりや。

しばらく何事か考え込んでいたは、突然身を翻すと机の辺りをごそごそやり、机の上でまたごそごそやって戻ってきた。手には小さくて銀色の何かをぶら下げている。どうも俺の目にはキーホルダーか何かについているパーツにしか見えんのやが、どうするつもりや

はその銀色の何かを俺の首輪に引っ掛けている。ちょうどバックルのあたりでカチリと音がした。

「よし、いいよニャロー。これで迷子になっても帰って来られるからね」

アリスの買うてくれた首輪に、は何かぶら下げたらしい。それ自体あまり大きくない代物である上に、俺の長毛が相まって、何がぶら下がっているのかは見えないが、十中八九迷子札やろう。そんなんなくともちゃんと帰ってくるから、と言うてあげられないのがもどかしい。

俺はと一緒に部屋を出た。突然走り出してを驚かせてはいけないから、が鍵をかけている間など、後ろ足で耳を掻いたりしつつ、後を追ってマンションを出た。マンションといっても、外観からすると全てワンルームらしい。猫が6匹もいるという1階部分のみ、造りが違うてるだけ。

「じゃあね、ニャロー。私今日は夕方にならないと帰らないよ。昨日の不思議君と仲良くするのよ」

はそう言うて俺の頭を撫でると、心配そうに振り返りながら去って行った。

さて、今日は無事に外へ出られたわけやが、どうしたものか――と考えていた俺は、視界に飛び込んできた影に驚いて毛が逆立った。いつのまにかあの茶トラが、マンションの向かいにある家の塀の上にいたのだ。

「おはよう、ニャローさん」
「ニャローはやめろ」
「どっちなんですか、面倒な人だなあ」

俺が面倒にしたわけやない。

「お前、昨日からずっとこの辺りにいたんか」
「そうですよ。それというのもね、どうもこの辺りにいそうな気がするんですよね」

いそう? それはこの茶トラのお姫様――という事か?

「なんやそれは、お前何か超能力みたいなもんがあるとでも言うんか?」
「まあそう思って頂いても差し支えないかと。僕と彼女は心のどこかで繋がってるんですから」

ますます化け猫や。この茶トラには申し訳ないが、森羅万象遍く猫というものがこいつと同様だ等とは、俺は信じない。こいつがちょっと特殊なだけで、ついでに俺も特殊なケースなのであって、断じてこれが普通の猫の在り方だとは信じない。

「そういえばお前、はお姫様やなかったぞ」
「あれ、キスしてみたんですか。手の早い人なんですね」

キレるなよ、俺。ここでキレたり突っ込んだりしたら俺の負けや。

「でもそれは当たり前でしょう、僕は『相思相愛』になって、と言いましたよ。あのさん、ですか、彼女はあなたの事が大好きみたいですけど、あなたもそうですか? 今はそんなつもり全くないでしょうに」

返す言葉もない。茶トラの細く閉じた目がニヤニヤと笑っているように見える。まったくその通りや。

さんは……可愛くて、優しくて、あなたの事が大好きなのに、何が不満なんですか」
「1度、人間になってみろ。そんなに簡単な事やないって――解るよ、お前も」

猫には解らんやろう、こんな複雑な思いは。だが、そんな事に惑わされて考え込んでいる時間はない。

「というか、その超能力みたいなもんで探し当てられるんやないのか? お前のお姫様」
「それがそんなに簡単な話ではないんですよ。この辺りに来たのは昨日が初めてですし」
「何しに来たんや」
「そりゃあ、ジローさんがどうしてるか覗きに行こうと思って」

それはいい。それはいいが、お前、それはおかしい。

「なんで俺がここにいてると判ったんや」
「そんなもん、あちこちの猫に聞けば判る事ですよ」

そういうもんか? どうなってんのや猫の世界、いうのは。

「それにしても、どう探すんや。お前の勘の精度はアテに出来んのやろう?」
「そう、だから、その勘を頼りに足で探すわけですよ」
……役に立たん超能力やなあ、おい」

しかし、茶トラ本人がそう言うのやから、そうするしか他に手はない。かくして俺は、その日から毎日茶トラと出歩いては、茶トラのお姫様を探す事になった。当然すぐに見つかるわけもないから、俺は朝の部屋を出て茶トラと探索に勤しみ、が帰宅する頃になると帰る、というパターンを繰り返した。

その間に1度自分の下宿にも戻り、開きっぱなしの窓から侵入して、充電器に差したままの携帯でメールも打った。嘘をつく事になってあいつらには申し訳ないが、これくらいしか俺に出来る事はない。今度は中学の時の友人と会ったから、そいつの家に泊まってくる、とした。

俺が猫になって、早くも5日が経過していた。

ただいま――。人間の言葉が話せるなら、俺はそう口にしていたに違いない。が帰るのを玄関のドアの前で待ち、一緒に部屋の中へ入る。俺が毎日きちんと帰宅するので、は朝飯が終わると、ドアや窓を開けて外に出してくれるようになっていた。

この日は、俺が――人間の方の俺が行方知れずになって1週間目。昼には帰ると言い残していたに合わせて、早めに帰宅していた。そんな風に、飼い主が帰宅する時間を見計らって戻る猫に、不審を抱かないはすごい。

EMCの一員としては、その観察力のなさに呆れるところやが、今に限ってはその鈍感さが有り難い。

このところ、はEMCにも顔を出さずに帰宅しているらしい。先日マリアが顔を出したが、一昨日はそのマリアと共にアリスも来た。どうやら、俺が打ったメールの事でああだこうだと言いに来たらしい。あまり耳にしたくない話題には違いないので、俺はにせがんでベランダに出してもらった。

日光浴をしている俺の背後で、3人はぼそぼそと話していた。聞き取れないくらいの小さな声。それでええやろう。そんな話には、俺は混ざるべきやない。ああ、早く元に戻りたい――

しかし俺は依然として猫のまま、が食べている昼飯に涎を垂らしてしまいそうになっている始末。

「あれ、おなかすいたの? 」

俺が転がり込んで来て以来、は手作りの猫ごはんとでもいうものの研究に余念がない。初日はササミとマグロ入りの野菜スープ、てなところやったが、モチの言うように肉食らしい猫の俺には、毎日微妙に変化のある肉料理が続いている。正直、味覚もずいぶん変化していて、どれも味付けがないのに、旨い。

1日に2度の食事で一応満足はしているのやが、目の前でええ匂いの飯など食われていると、うっかり涎が出そうになる。昨晩の残り物とおにぎりで慎ましい昼食を取っていたはしかし、1日2食のルールを破るつもりはないようで、煮干を5匹ばかりくれた。俺はそれに飛びつく。煮干、旨いぞ!

なんやろう、この虚しさは……

煮干をもぐもぐやりながら、ふと窓の外を見た俺は、あやうく人間のように煮干を吹き飛ばしてしまうところやった。いつのまにか、茶トラがベランダに入り込んでいた。今日はが早く帰るからまた明日、と言うておいたのに。あいつ、どういうつもりや。

「あれ、この間の不思議君。ニャロー、今日はあの子と遊ばなかったの?」

いや、遊んでない。やつのお姫さま探しに付き合うてただけや。

茶トラはに招き入れられると、開口一番、図々しい事を言いやがった。

「ジローさん、僕もおなか減ったあ」
「俺に言うな! に頼め」

餌目当てとは、知ってはいたが図太いやつやな。俺に軽くあしらわれた茶トラは、の昼飯に近寄って甘ったれた声で鳴いた。首輪の1件があるものの、どうも野良くさい茶トラに、は俺用の食事を振舞ってやっている。ほんまにすまん……

「いやあ、本当にさんていいお嬢さんですねえ」

満腹になったらしい茶トラは前足の肉球を舐めながら、あてつけがましく言う。

「あのなあ、そうは言うけどお前、それはあくまでも気持ちの問題なんやから、感謝イコール恋愛感情とはならんやろうが。むしろ、何とも思うてないのに、自分の都合だけで好きやと思い込むなんて――

これは正論、と油断していた俺は、茶トラの豹変にまた背筋を冷たくした。今度は何や。

「僕はそんな事言ってませんよ。僕は、ジローさんは自分の事だけで精一杯で、さんと向き合おうとか、さんのために何かをしてあげようとか、そういう気持ちがないんだなあ、と思っているだけです。お姫様の可能性を秘めていて、とことんあなたに優しくしてくれるさんの気持ちに、向き合おうとなんて、思ってないでしょう。さんは単なる家主ですか。食事の恩しかないんですか、あなたには」

腹を立てるというより、俺は悲しくなってきた。突然動物になってしもうて、元に戻る方法すら見つからない日が続いていて、それで自分の事で精一杯なのは、仕方ないやろう。絶句した俺のそんな考えを嗅ぎ取ったのか、茶トラは目を細めて言う。

「そりゃあ、ジローさんも大変でしょうねえ。だけどね、そんな自分本位の気持ちがあるままでは、お姫様と相思相愛でも人間になんて戻れませんよう。解りますか、僕の言いたい事」

正直、解りたくない。

ただでさえ何もかもが突然の事ばかりや。ずっと余裕なんてない。その中で、せめて衣食住ならぬ食住の心配がない事に関しては、にとても感謝をしている。金を出し合って色々買うてくれたマリアたちよりも、強く感謝している。しかし、確かに今はそれで精一杯なんや。毎日毎日しんどくなるばかりで、他人の事なんか――

「あなたを人間に戻してくれるかもしれない人ですよ。もっと大事になさい」

気持ちが潰されそうになっている俺に、茶トラはそう言って目をギョロリと剥いた。