迷い猫探偵

06

飯を振舞われた茶トラは、礼のつもりか俺へのあてつけか、が満足するまで逆らいもせずに身体を触らせ、抱かれ、終いには顔面いたるところにキスをされても暴れなかった。むしろそんな事はなんでもないという風な余裕を持って可愛らしく鳴いてみたりもする。

猫じゃらしが飛び出た時のはしゃぎようといったら、少し胡散臭いくらいやった。

人間に可愛がられるコツとでもいうものを熟知しているらしく、そうやって散々遊ばれると、絶妙なタイミングで窓を引っかいて外へ出たがった。時間は21時になろうかという頃。そつがなさ過ぎて逆に不自然やと思うのは俺だけか。ベランダは危ないからと、ドアを開けてくれたに擦り寄ってから帰るという徹底ぶり。

「あの不思議君、いい子だねえ。名前なんていうのかなあ」

そんなの言葉すらも、俺へのあてつけのように聞こえてしまう。に対しての、感謝と申し訳なさと、それとは少し離れた場所にある俺自身の思い。それらがぐちゃぐちゃに混ざってしもうて、俺は疲れてもいたし気分も悪かった。

「ニャロー、今日はいっぱい遊んだもんね、疲れたでしょ」

ニコニコ顔でそんな風に勘違いをしてくれるにまた感謝しつつ、俺は疲れただけのふりをしてそのまま眠った。訳のわからない異常事態に、茶トラの謎、の想い、そんな面倒事から逃れられるのは、眠っている時だけやった。俺はまさに現実逃避として、深い睡眠の中に落ちていった。

面倒事の1つが突然動き出したのは、翌日の事やった。

その日も俺は茶トラと共に近所をうろつき、茶トラの「勘」とやらに付き合っていた。だが、その茶トラの「勘」が頼りないと来てる。猫2匹がうろついたところで、何も変わらんのは無理もない。実りのない探索を終えた俺たちは、のマンションの前で一休みしていた。

「ニャロー! ただいま」

振り返ると、が猛ダッシュで近付いてきていた。何しろ猫の身、これは少し怖い。

「ニャア……
「不思議君も一緒だったの。今日はどこで遊んできたの?」

はしゃがみ込んで、俺と茶トラの頭を交互に撫でている。その時、マンションの方から突然声がした。

「あら? その子、あなたの猫?」

の顔が強張った。どうもマンションの1階に住んでいるという大家らしい。ペット可とはされていないこのマンション、迂闊に「はいそうです」とは言えない。だが、その声の主――50代くらいの女性――は、俺を完全にスルーして茶トラを凝視している。茶トラなら、の飼い猫ではない。

「い、いいえ、野良、だと思うんですけど」
「そうなん? あまり見かけん子やね」

さすがに猫を6匹飼っているというだけはある。猫の見分けは完璧なのだとでも言いたげだ。

「そうかもしれません。私も先週初めて見ました」
「最近流れてきたんやろか……ううん、でも――
「見覚えがあるんですか?」

大家の興味が茶トラと解って、はひとまず安堵したようだ。何やら考え込む大家に首を傾げて見せた。

「ああ、いやね、そんな事はありえないと思うんやけどねえ、でも――

どうにも言いにくい様子で、大家の女性はしきりに首を撫で回している。俺は、と大家のおばちゃんと茶トラを順繰りに見ながら、言葉を待った。「そんな事はありえない」と大家は言うが、もうありえない事に驚くような俺ではない。そのはずやった。

「私の義理の母がね、この子にそっくりな猫飼ってたのよ。今でも写真を大事にしてて――

大家がそう言い終わらないうちに、茶トラは飛び上がってその場を走り去った。おいおいおい、どういう事や!

「あら、どうしたんやろか?」
「あの、すみません、そのお義母さまって、もしや東京の出身でいらっしゃいませんか?」
「あんた、何でそんな事知っとるの。確かに東京生まれやけど、子供の頃にこっちに――
「あの、どこにお住まいなんですか?」

に詰め寄られた大家は、怪訝そうな顔をしていたが、それでも近所の住所をぼそりと呟いた。それを耳にした俺は、に向かって大きく一声鳴き、彼女が気付いたのを確認すると走り出した。近所とはいえ、には解りづらいかもしれん。着いて来い、

「ちょ、ちょっと! あんた、なんやの!」
「ごめんなさい! 訳は後で!」

が着いてこられるだけの速度で、俺は走った。も教科書やらノートやらが目一杯詰まったバッグを担いだまま走った。可哀想に、今日のは細いヒールの靴を履いていた。その靴音がカンカンと甲高い音を立てている。こりゃ、足を痛めてしまうかもしれんな。猫の手でよければマッサージしてやるから。

大家の義理の母が住むという辺りにやって来た俺たちは、茶トラの姿を見つけてまた走った。

「ここなの? 不思議君、ここなの?」

充分に老朽化した平屋の一戸建て。低い板塀に、錆びて少し歪んだ鉄の門扉、その前に茶トラが座り込んでいた。が声をかけても、ぴくりとも動かない。板塀にしろ門扉にしろ、茶トラには越えられない高さではない。こいつ、ここにきてビビってしもうたんやろうか。

「ニャロー、不思議君、いくよ」

今日のはずいぶん頼もしい。キリッとした表情で門扉をこじ開け、2歩ほど踏み込むと、引き戸を叩いた。

「こんにちは、ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか」

そのノックと声に遅れる事たっぷり3分は間があったろう。ガラガラと引き戸が開き、中から細面の老人男性が現れた。あの大家の夫の父親、という事になるんやろうか。彼はに向かって、先ほどの大家と同じように、怪訝そうな顔をした。まあ、無理もない。

「なんですか、あんた。どちらさん?」
「あの、突然申し訳ありません、私はこの先のですね」

あなたの娘さんが住んでおられるマンションの住人で、とでも言おうとしたの目の前で、すっと視線を外したじいさんは、茶トラに目をとめると、顎が外れそうなほど口をパックリと開いた。

「そんな、そんなまさか、お前、トラなんか」
「トラ?」

老人の驚愕の表情にたじろいでいたが復唱した瞬間、茶トラは一声高らかに鳴くと、まるで宙を浮いているかと思うほどのスピードで家の中に飛び込んでしまった。遠慮がちにの足元まで歩み寄った俺の頭上で、じいさんの足がカタカタと震えていた。

「ああ、そんな……と、ともかくあんたも入んなさい。そっちのデカいのも一緒に、さあ」
「え、は、はい、お邪魔します」

まだ足が震えているじいさんに袖を引かれて、は慌てて俺を抱き上げると、焦るばかりでうまく歩けないじいさんを追って家の中に入った。

狭い平屋やった。玄関から短い廊下が伸びていて、右手前に台所と、脱衣所もない風呂場がある。その奥がトイレらしい。左に二間あって、手前は茶の間らしい。飲みかけの茶碗と急須からまだ湯気が出ている。茶の間に飛び込んだじいさんを追うと、布団が1枚敷かれている奥の部屋が見えた。

「お前、お前、それ、トラやろう、トラが帰って来たんかあ」

そう言うじいさんは半泣きや。膝から崩れるようにしてすがりついた布団には、1人の老女が静かに横たわっていた。パッと見ただけでも、具合はあまりよろしくないように見える。いわゆる、老老介護という状態なのか。

ばあさんの枕元で、茶トラは2度、鳴いた。その鳴き声はあまりに大きく、よく通り、茶トラがやはり普通の猫ではないと確信するのには充分やった。俺を抱くの手にも、自然と力がこもる。茶トラとその首輪の謎の輪郭が見えてきた。そんな超常現象めいた事も、今この時にあっては現実やった。

「トラ、なの?」

布団の中から弱々しく伸ばされた手が、茶トラの喉に触れる。茶トラはその伸ばされた手に身体を摺り寄せ、そのままばあさんの頬に突っ込んでいった。顔だけやのうて、全身で擦り寄る茶トラをばあさんは弱々しい手でしっかり受け止めた。

その時、俺は鼻先に何かがポツンと当たるのを感じて顔を上げた。が、泣いている。

この時ほど、俺は猫になってしまった自分が恨めしくてならなかった。何で俺は猫なんやろう。何で泣いているに抱っこされてるんやろう。もし俺が人間やったら、もっとしてあげられる事があったはずやのに。そんな無力感に襲われていた俺の目の前で、茶トラに変化が起こり始めた。

「トラ、ちゃんと帰って来たのね。あなたはいい子ね。あなたの事、ずっと思ってたわ。ありがとう」

ばあさんがそう言いながら撫でている茶トラ――トラ、でいいのか――の身体が透け始めた。今までの事を考えれば、トラが消えてしまうのも不思議ではない。そして、向こうが見えるくらいに透けたトラは、すっと顔を上げると俺に声をかけてきた。

「ジローさん、ありがとうございました。彼女が僕のお姫様です。やっと会えました。本当にありがとう。人間に戻れたら、さんにもよろしくお伝えください。ジローさん、さんはとても素敵な女性ですよ」

なんと返せばいいのか、俺は答えに詰まる。今にも消えそうなトラに、何を言えばいいやろう。

「大丈夫、ジローさん。ちゃんと人間に戻れますよ。さんを大事にしてあげてくださいね」
……解ってる。ありがとう」

それだけしか、言えなかった。

そうして、俺たちが見守る中で、トラはばあさんの枕元で完全に消失した。

トラが帰って来た事など、まるでなかった事のようにすやすやと眠るばあさんを部屋に残し、俺とは茶の間でじいさんと差し向かいになっていた。じいさんはようやく落ち着きを取り戻して、お茶をすすっている。

「あれは……最近ではほとんど寝たきりでしてね」
「どこかお悪いのですか」
「いやいや、年ですよ。私もあれも、もう80をとっくに過ぎてます」

じいさんは茶碗をちゃぶ台に置くと、大きく息を吐いて顔をぺろりと撫でた。

「どういう巡り合せなんやろうか、まったく不思議な事や。あれは、家内が子供の頃に飼ってた猫ですわ」

その辺の事情はもう察しがついていたが、も黙って聞いている。

「家内は東京生まれですが、親がこっちの出でしてね、戦火を逃れて戻って来たんですわ。当時は今よりも山の方におりましたし、本家がようけ畑を持っていたとかで。その時にトラいう猫を連れてきたらしいんですが、知らない土地で驚いたんでしょう、いなくなってしもうたそうで」

じいさんは部屋の奥にある覆いのかかった鏡台の引き出しから、写真立てを取り出してに差し出した。

「古い写真ですが、間違いなく、あの猫でしょう。そうは言うても戦時中の事ですわ、疎開のような引越しに猫連れてくるいうのも普通の事ではなかったはずです。よっぽど可愛がってたんでしょうね」

は、写真立てをそっと戻して、深く頷いた。

「何十年も、ずっと探していたんですね――
「私が元々大阪の出ですから、一時期はそっちにおったりもして……時間がかかってしもうたんやろうなあ」
「この子が、この子が連れてきたんです。この子も元は野良なんですが、この子に着いてきて」

の手が、そっと俺の頭を撫でる。の言葉に、じいさんはにっこりと笑った。

「そうですか、えらい名探偵やなあ。煮干でもやろか?」