迷い猫探偵

08

悠々自適な猫生活を送っていた俺は、曜日や日付の感覚まで失いかけていた。

そもそもいつ猫になってしまったのかも、もうぼんやりとして思い出せない。猫になって1週間やそこらではない、という事は解るが、それが人間の俺にとって異常事態であるとは考えられなくなっていた。

当然――というか、は不安に負けて、俺の前でもため息をつく事が多くなった。

だが、そこは人間らしさを失いかけていた俺の事、俺はここにおるやないか――に届かぬ声で語りかけたりもした。身体を擦り付け、甘えた声で鳴き、人間の俺がいない事への不安で一杯になっているに、少し嫉妬したりもした。俺が一緒にいてるのやから、ええやろ、そんな事は。

の顔に始終不安の色が浮かぶようになった頃。俺は身体の異変に気付いた。

最初に感じたのは、わけもなく纏わりついて離れない倦怠感やった。とにかくだるい。人間で言えば、微熱が取れないしつこい風邪のようなだるさ。眠っている時間も増え、食欲もなくなってきたような気がする。

まあ、猫にだって体調不良はあるやろう。じっとしとれば治るさ。そう軽く考えてだらだら過ごしていたのやが、治るどころか倦怠感は増すばかりで、回復の兆しすら見せない。さすがに異変に気付いたがトイレを引っ掻き回していたが、そこに変調は見られなかったらしい。

心配性のは、またネットで何やら調べていたが、何度もため息をついては首を振り、そして諦めたように俺を抱いて眠るのだった。

トラの消失を目撃してから何日目の事やったか、定かではない。とうとう俺は起き上がれないほどに病んでしまったようで、ぐったりとのベッドに横たわったまま、浅い眠りと覚醒を繰り返していた。

夕方になって帰宅し、慌てたは、かすかに差し込む夕日で橙色になった部屋で、また泣き出した。

「ごめんね、ごめんね、病院に連れて行くお金がないの」

それは仕方あるまい。動物は基本的に保険が利かない。最近ではペットの健康保険なるサービスもあるようやが、人間より適用範囲が狭い。具合が悪いです、ただの疲れでしょう栄養剤処方しておきますね――等という、人間のような診療に保険は利かない。

学生であるに、いくら取られるか概算も出来ない動物病院へ連れて行けとは、俺も思っていない。

気にするなと言いたくて、俺は鳴いてみた。小さくて、頼りなくて、か細い鳴き声やった。当然これは逆効果。どれだけ俺が弱っているのかを目の当たりにしたは、嗚咽を漏らしだした。

この時のの心理状態は想像に難くない。

中身が俺という事は知らんのやし、懐いてきた野良猫を軽い気持ちで飼い始め、変調にも気付かず、病院にすら連れて行ってやれない――無責任な飼い主。そう考えて自責の念に苛まれているのやろう。たかが猫1匹とはいえ、命を預かるというのはどれだけ責任を伴う事なのか、それを嫌というほど感じているやろう。

もちろんそれは間違いではない。動物のものやとしても、命はおもちゃやアクセサリーではないのやから、それ相応の責任を負う覚悟で預からねばならんものには違いない。軽率な管理であればあるほど危険は増え、結果として命を失わせる羽目にもなりかねない。

しかし、俺は元々人間やからなあ。

俺は、そんな風に自分を責めているであろうに、言ってやりたかった。俺は普通の猫と違うのやから、そんな事気にせんでええ。お前は充分善くしてくれた。むしろ何も返せなかった俺の方が詫びたいくらいや。

泣きじゃくるの頭を撫で、抱きしめてやりたかった。背中を擦って、何遍でも褒めてやりたかった。

なあ、それでも俺は、今ここにお前がいてくれて、それだけで充分なんや。

だから、もうそんな風に泣かんでくれよ。

「ニャロー、しっかりして。お願いだから、置いていかないで」

は俺の頭を震える手で撫でながら、涙をぼろぼろと零している。俺も置いていきたくない。できるならずっと傍にいてやりたい。でももう、前足を上げる事も出来ないんや。

……あのね、江神さんもずっと連絡ないの。帰ってこないの」

心の中で、俺は笑う。すまんなあ、。たぶんもう2度と戻らんぞ。

「でもね、それはいいの。元気でいてくれるなら、それでいいの。私が江神さんの事好きだっただけで、江神さんはそうじゃなかったから、それはいいの。だけど、だけど、ニャローはそれじゃいやだ……!」

――……

「ねえニャロー、ニャローがいなくなったら私どうしたらいい? 江神さんはいなくなってしまっても、仕方ないって諦められる。ニャローがいてくれたら、それでもいい。だけど、江神さんもいなくなっちゃって、ニャローもいなくなっちゃったら、私、どうしたらいいの! 私、そんなの耐えられないよ」

嬉しいような、悲しいような、何とも複雑な台詞やなあ、

……それでも、考えようによっては、や。どちらにせよは猫であろうが人間であろうが、俺を本当に想っていてくれて、必要としてくれていて、意味は違えど大事にしてくれていたわけやな。

ありがとう。可愛い俺のお姫様、。猫になっても愛してくれて、ありがとう。

俺の身体はこんな小さな猫になってしもうたけど、それでもお前を愛してるよ。

薄れる意識の中で、涙に濡れたの唇が、そっと降りてきた。なんと甘い、心に響くキスやろうか。朦朧としながら、俺はそのキスに身体中で酔う。お姫様のキスというものは、まったくとんでもない威力があるものなんやな。霞む視界にぼやけるを見つめながら、俺は目を閉じた。

俺の愛しいお姫様、さようなら――

――――――っておい、気持ち悪!

甘く切ない臨終の瞬間を迎えるはずやった俺は、吐き気を覚えるほどの酩酊感に襲われて意識を取り戻した。

「ニャ、ロー、なに、これ」

いや、俺も解らん。とにかく凄まじく気持ち悪い。とにかく、俺だけやのうて、までもを襲ったその〝歪み〟はひどくなるばかりやった。ひどい眩暈を起こしたように視界が揺らぎ、捻れ、身体の全ての感覚がそれに引きずられていった。

まるで縦横無尽に捻じ曲がる細いパイプの中を、高速で無理矢理押し流されているような感覚。

目が回る頭が回る。世界そのものがぐにゃぐにゃとひん曲がってしまったようで、正常な感覚すらも奪い去られてしもうてる。目の前にいてるも歪んでいる。同じように目を回したが横様に倒れて見えなくなっても、世界は回り続けた。

今度はなんなんや! 猫の次はなんや! なんでもええがを巻き込むのはやめろ!

混濁する感覚と意識、それは突然のホワイトアウトのようにしてぷっつりと途切れた。突如として戻る秩序に満ちた安定ある世界。吐き気も眩暈も、もうどこかへ消えていた。とはいえ、突如として襲い掛かってきた歪みは、かつてないほどの疲労をもたらした。

の安否が気にかかりながら、俺は気持ちよく意識を失った。

さて、俺はどうしたんやったかな。

すうっと浮き上がるような感覚を覚えて覚醒した俺は、いまいち状況が飲み込めず、何度も瞬きを繰り返した。身体に痛みや不快感は、ない。ただのうたた寝から目覚めただけのような、いたって普通の感覚。今現在自分自身がどういう状況にあるのか、ぼんやりした頭で考えてみる。

ああ、そういえば。

するすると巻き戻っていく記憶を確かめた俺の心は、唐突に湧き上がる羞恥心で埋め尽くされた。

おおい、ちょっと待て。俺は何を言った? いや、人間の言葉にはならんのやから、正しくは言うてないわけやが、あれだけ強く思った事は言うたに等しいんやないのか。なんというこっ恥ずかしいことを言うたのか、俺は! なんやあの乙女チックポエムのような世界は! 愛してるとか言うたんは誰や!

――俺や! 死にたい!

恥ずかしさのあまり、ごろりと寝返りを打った俺は、ぴたりと止まる。寝返りを打った先に、見慣れないものが映っていた。の部屋である事は間違いがないし、今横たわっているベッドも確かにのものだ。だが、そのベッドの上には、人間の腕が伸びていた。

とても見覚えのある、その腕。手首には、これまた見慣れた腕時計と――ニャローの首輪。

人間に、戻った?

いつかのように、手のひらに力を込めてみる。肉球がキュッと縮んでいたはずの手のひらは、5本の指がしなり、そのまま握り締めると拳になった。尖った爪はなく、平たい爪の先はゆるいカーブを描いている。モサモサと体表を覆っていた白黒の毛はなく、猫に比べたら僅かな体毛があるだけ。

おそるおそる手を持ち上げ、顔の方に向かって引き寄せる。指先が、口元に触れた。毛がない、髭がない。歯も尖っていない、舌もざらざらしていない。鼻はちゃんと皮膚で覆われているし、何より眉毛が生えている。そのまま手を滑らせれば、耳がある。頭の上やのうて、横にある。髪の毛がある。

俺は、戻ったんやな、俺に!

嬉しさのあまり飛び起きた俺は、全身いたるところを自分で撫で回した。猫がどこかに残っていたらどうしようかと思ったせいもある。幸い尻尾が残留してるなどという事はなく、しかも、猫になる直前――つまり下宿で寝ていた時の服を着ていた。とは言うても、穴の開いたボロボロのジーンズにTシャツやったが。

しかも、腕時計したままで寝てしもうてたらしい。すっと左手を持ち上げると、見慣れた腕時計にニャローの首輪が絡まっていた。アリスが買うてくれた、黒の合皮に、鋲とターコイズが打たれた首輪。その首輪のバックルに、キラリと何かが揺れる。

なんやったかこれは――。そう、が付けた迷子札や。小さな銀のプレートをひっくり返すと、小さな文字で住所と携帯の番号が書いてある。と、そこでをすっかり忘れていた事に気付く。こっ恥ずかしい事を蒸し返すのは気が引けるが、とにかくあいつがお姫様やったのは間違いない。

確かにここはの部屋やが、肝心の家主が見当たらない。探してみようとベッドから足を下ろした俺は、何かを踏んづけた。やった。おおお、すまん……! 恩人やいうのに、足で踏んでしまうとは……

慌てて足を浮かせた俺やったが、異変に気付いてベッドを飛び降りた。そう、さっき――おそらくは俺が人間に戻る時に生じた、あの妙な空間の歪みに巻き込まれたに違いない。真っ青な顔をして意識を失っている。俺はの肩を掴んで抱き起こした。もちろん死んではおらんが、ぐったりしている。

、しっかりしろ」

ああ、人間の言葉が話せる……――って、そんな感慨に浸っている場合ちゃうわ!

、大丈夫か、おい、起きろ」

上半身を抱き起こされたまま揺さぶられたは、薄っすらと目を開いた。

「あ……え? 江神さん……?」

お姫様の覚醒や。ああそうや、久しぶりやな、